戊辰戦争は睦仁の争奪戦
徳川慶喜は、睦仁の摂政として諸藩をまとめようとしていましたが、薩長らは倒幕を公言するようになり、軍事力を背景とする薩長の圧力に押されていました。
徳川慶喜は、この状況を打破するために、1867年11月9日、幕府政治を終わらせて政治権力を朝廷に返上する大政奉還を宣言します。つまり、正式に睦仁を天皇として、摂政としての徳川家の地位を宣言したのです。
しかし、薩長の反発は強く、睦仁の暗殺を恐れた徳川慶喜と松平容保は、12月20日、睦仁を連れて二条城から大阪城に移動します。そして、幕府軍艦開陽丸を大阪にまわし、海路で睦仁を江戸に連れて行く計画を立てます。東海道を陸路で江戸まで移動するには、5歳の睦仁では、薩長軍に捕まってしまうからです。
西郷隆盛が率いる薩摩郡は山陰道で京都に向かっていて、長州軍は、山陽道を途中で彦根藩と戦いながら上京する戦況で、幕府軍は、山陰道からくる薩摩軍に対して、大阪城を背に布陣を配します。
幕府軍艦開陽丸で、慶喜と睦仁が大阪を脱出するまでの時間稼ぎであり、山陽道の長州軍は無視したのです。会津藩は、いわゆるしんがり(殿)の役目をすることになります。
1568年1月3日 三条実美が、大室寅之助を替え玉に明治天皇の名で王制復古の発して、薩長軍と幕府軍が衝突します。
京都で薩摩軍と正面衝突した会津藩を主力とする幕府軍は、薩摩軍の圧倒的な火力の前に後退を重ねます。
西郷隆盛の進撃に耐えて1月6日、徳川慶喜と睦仁、そして睦仁の父親である松平容保が、軍艦開陽丸に乗り込み大阪を脱出します。同時に、会津藩は伊賀街道を使って江戸に向かい逃げます。
薩摩軍は、伊賀街道を敗走する会津軍を追いません。西郷は、道路整備が行き届いた東海道で大部隊を江戸に移動させることを優先したのです。山陽道回りで、空っぽの大阪城についた長州軍も、薩摩郡と合流して東海道で江戸に向かいます。
徳川慶喜が、薩長に追い込まれて軍艦開陽丸で江戸に逃げたとするのは、薩長の両班派閥の作り話です。幕府の公武合体政策は、孝明天皇と松平容保との睦仁の誕生で成功していて、慶喜は、睦仁というカードを持っていたにも関わらず、睦仁の替え玉を明治天皇とする薩長の子供じみた、いや狂気に近い行動で、慶喜はカオスに巻き込まれたのです。この動乱期に徳川慶喜の取った政策や行動は間違ってはいません。
1868年3月江戸に進軍した西郷隆盛は、勝海舟の徳川家の存続を条件とする江戸城を無血開場させます。松平容保は、睦仁を連れて会津に逃げました。
会津軍は、奥州路の防御を固めていましたが、薩摩と長州軍に突破されます。同年4月会津領内で戦闘がはじまり、松平容保は、睦仁を松平家の嫡男として家の存続をするという条件で会津城を開場します。
松平家の嫡男となった睦仁は「容大」と名を改め、いまの青森・岩手地方で3万石を与えられ斗南藩藩主となり、廃藩置県後、華族として明治の時代を生きますが、その生活は困窮を極めたといわれています。
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