蛤御門の変の原因は睦仁

京都で尊王攘夷の声が高まる中、1862年、会津藩の松平容保が京都守護職に就任します。。これは、長州などの急進的な尊王派から孝明天皇を守護するのはもちろんですが、家定(男)と和宮(女)の公武合体制政策が成就できなかったので、孝明天皇(女)と容保(男)を結ばせて天皇家の世継ぎとなる男の子を作ろうとしました。孝明天皇(女)は31歳、容保(男)は26歳です。

長州藩は、孝明天皇と容保との公武合体政策に猛然と反対します。孝明天皇は反乱を恐れて、会津・薩摩・淀藩兵により御所を封鎖。長州藩主の毛利敬親・定広父子や、三条実美らの参内を禁止し、京都からの退去を命じます。これが、1863年の8月17日の政変です。

1863年、孝明天皇(女)と容保(男)の間に男子の睦仁が生まれます。睦仁の誕生に、長州藩は再度挙兵し、御所を守る会津、薩摩藩とぶつかりました。蛤御門の変です。

長州軍は薩摩軍には兵を向けないという密約があり、乾門をを守る西郷隆盛は戦況を傍観していましたが、会津軍が善戦するのを見て、薩摩軍に謀反の嫌疑がかかると判断します。西郷隆盛は、筑前藩が守る中立売門に兵を回します。

中立売門に姿を現した薩摩郡をみて、長州軍の幹部は薩摩が裏切ったと思い撤退しました。来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは御所内で自害します。

薩摩は、1560年の挙兵で謀反の疑いが掛けられていて、当時、薩摩の挙兵に長州が参加しなかったときの思いもあったでしょう。西郷隆盛は、会津が勝ったときに、薩摩に謀反の疑いがかけられない保険として、中立売門に兵を回し、上京によっては、薩摩と合流して、中立売門を破って一気に形成を逆転するつもりだったのかもしれません。

しかし、薩摩と長州は、これで互いに憎悪する関係になったわけではありません。両藩の士族ではそのような感情がなかったとは言いませんが、田布施村と高麗町の両班派閥は、これ以降、藩内クーデターに力点を移します。

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