馬韓戦争と薩英戦争

1562年、島津久光は京都御所を制圧するために京に上洛しますが、長州藩との足並みが揃わず、挙兵の真意をごまかすために、朝廷の勅使を護衛するという名目で江戸に入り公武合体論を展開します。

島津久光が徳川幕府の公武合体政策に同調したことに立腹した、両班派閥の奈良原喜左衛門と海江田信義は、英国が日本へ戦争する口実を与えるために、島津久光の薩摩への帰路、生麦村でイギリス人を殺害します。

幕府は、英国へ繰り返し謝罪し、英国との戦争にならなかった。この事件は、翌年に薩摩と英国との軍事衝突で再現されるが、薩摩側の企ては未然に防がれます。

長州の両班派閥も、幕府と諸外国との戦争を企てて、1863年5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた。しかし、米仏軍艦は日本を侵略する行動には出ず、小規模は軍事衝突で終わりました。

長州は、馬関海峡を封鎖を継続し、米仏を揺さぶったが、米仏の報復は長州に限定され、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊にこれらを占拠・破壊されます。

長州はこの敗戦を契機として、軍隊の近代化に走ります。

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