要点のまとめ

1 日本古来の社会は、女性の棟梁を中心に形成される社会で一妻多夫制の社会。
2 1世紀?ごろ、ユダヤのガド族が日本に渡来。ガド族も女性の棟梁を中心とする一妻多夫制の社会。このガド族の棟梁のシャーマンが卑弥呼。彼女を中心とする部族の連合体が邪馬台国。
3 卑弥呼と入れ替わりに、キリスト教徒(景教)の部族が日本に渡来。彼らは、男性を棟梁とし、他の男性を支配し女性を奴隷としていたて。彼らがヤマトと呼ばれる部族。
4 ヤマトは、日本の部族を次々と武力で制圧し、卑弥呼が死んだあとに邪馬台国の棟梁となっていた物部氏の部族と戦い勝利。邪馬台国は、大和と呼び名をかえ、大和朝廷といわれるようになる。
5 邪馬台国の大和朝廷の犬と呼ばれたのが武士。武士の棟梁は女性。
6 平家は朝廷に倣い男性の清盛を棟梁とし朝廷内で太政大臣まで出世、権勢をふるう。
7 清盛は、公家と源氏によって滅ぼされる。
8 関東を支配していたのは北条時子(女性)。朝廷は男性の頼朝を征夷大将軍とし、弟である義経と鎌倉を統治させようとした。
9 鎌倉武士は、頼朝の棟梁を認めず、頼朝は弟義経を追討し、時子が死んで、関東武士の棟梁となった尊氏(女性は京に幕府を開くと上京。武力で足利幕府を築いた。
10 尊氏(女性)は、朝廷も女性の王を押し付けた。これ以降、朝廷は王家ではなく、天皇家と呼ばれる。 王=男性 皇=女性
11 しかし、公家の策略で男性天皇が擁立され、以後、朝廷は女系と男系交互に天皇となる南北朝時代となる。
12 織田信長は女性棟梁で優れたシャーマンであり、周辺諸国を平定し、京へ上洛。
13 織田信長は、自信をマホメットとし、伊勢に聖地の建設を計画するが、これに激怒したイエズス会によって暗殺される。これが、本能寺の変。
14 信長の夢は、男性の家来である秀吉、家康によって成就。家康は江戸幕府を開き、伊勢に豊受大御神宮を建設し、お陰参りという巡礼を定着させる。
15 そして、3代将軍から女将軍とし大奥をつくる。大奥とは女将軍と御三家の嫡男との一妻多夫制を管理する場である。
16 大奥は、一代抱えという世襲制を認められない武士で管理されていた。彼らの高官は宦官であったかもしれない。
17 幕府は朝廷にも女系天皇を強要し、ここの南北朝時代は終わる。
18 幕末の孝明天皇は女性。
19 徳川幕府は、13代将軍家定から男性将軍。朝廷から女性の和宮を向か入れ、男性天皇の擁立を図る。これが公武合体政策。
20 家定と和宮の間には子が生まれず、孝明天皇(女性)を守護するという名目で会津藩の松平容保(男性)を京に送り込む。
21 孝明天皇は、松平容保の睦仁を産む。
22 長州の田布施村とは、平家の落人と大内氏の子孫が暮らす部落。
23 島津氏が、朝鮮出兵で連れて帰った李王家の家臣団を城下に住まわせたのが薩摩の高麗町。
24 田布施村と高麗町は独自のネットワークを持ち、倒幕という共通の目標をもつ。
25 尊王とは、開国間近の日本で男系社会の欧米列強との交渉には、男性天皇や男性将軍が必要とする水戸藩の論から始まる。
26 しかし、長州は、女系天皇の朝廷を倒して男系の王による統治の意味で尊王論を掲げる。
27 1560年の薩摩、1564年の長州の蛤御門の変と朝廷への挙兵に失敗すると、倒幕へと方針を切り替える。
28 1567年1月、三条実美、西郷隆盛は、伊藤博文らに孝明天皇暗殺を指示。
29 1567年11月、徳川慶喜、大政奉還。
29 慶喜と容保が孝明天皇の嫡男睦仁を保護しているにもかかわらず、明治天皇の名前で1568年1月王制復古を宣言。
30 鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗走。徳川家の存続と引き換えに江戸城を開城。 松平容保は、睦仁を松平家の嫡男としてお家の存続を約束に降伏。

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