本能寺の変の真実
室町幕府末期は、天変地異による不作と疫病の流行で社会制度が崩れ、地方の武士が領地を求めて争う戦乱の時代でした。
女系である武家社会にも、朝廷との結びつきを強めて男系の武家の登場する武家が現われます。今川義元や武田晴信(信玄)は男性であったと思われます。
武士の棟梁はシャーマンとして、戦の日時や段取りを祈祷を通して決定していました。 越後の長尾影虎は、男性シャーマンであり、朝廷と臣下として信任があり、朝廷から妻を嫁がせていた武田晴信は男性であったはずです。
影虎と晴信の違いは、影虎は戦で使われるシャーマニズムの力が男性であるのに強かったのに対して、晴信はシャーマンとしての能力がなかったのでしょう。晴信はシャーマニズムの力を求めて諏訪頼重を攻めて、女性シャーマンを奪います。彼女は、実名が不詳であるとされる諏訪御料人であり、武田家の家督を継ぐ勝頼の母です。彼女は男性である晴信の下で、武田家のシャーマンの役割をはたしていて武田の女武者は彼女ではなかったでしょうか。
織田信長は女性シャーマンであり、彼女は、今川義元を桶狭間で打ち破ることで、織田家の棟梁としての地位を確立したのでしょう。彼女のシャーマンとしての洞察力、統率力は群を抜いていて、後の秀吉や家康など多くの男性武士が彼女に使えます。また、信長は、男性家臣の妻と密接に交流をもち、信長の家臣団は強い絆を作ります。
信長は、鉄砲の伝来とともに上陸したイエズス会が、日本人の祖であるユダヤ人を追っていることを見抜き、また、彼らの布教あとに、キリスト教徒の軍隊がやってくることも洞察していました。
天下布武のために、イエズス会の布教を認めてはいましたが、同時に、キリスト教(景教)の流れを組む比叡山や本願寺、そして一向一揆は弾圧します。
信長は琵琶湖を拠点とした都市計画を進め安土城を中心に城下町をつくります。そして、宣教師が連れてきた黒人の弥助を臣下とし、彼から得たイスラムの世界を学び、イスラム教の聖地であるメッカを日本にもつくることを計画します。信長自らを預言者とし、人々に巡礼させることで人々を統治しようと考えたのでしょう。
信長は、1582年に、織田信雄の領地である南伊勢に伊勢外宮(豊受大神宮)建立の造営費用3000貫を用立てし、伊勢神宮の建設に着手します。
この信長の行動を、イエズス会のルイスが本国に報告すると、信長がイスラム教に傾倒していると考え、イエズス会は信長の暗殺をルイスに指示します。
ルイスは、延暦寺を中心に反信長の武士を集めて、本能寺を急襲して信長を暗殺します。本能寺の近くにいた明智光秀は、信長を救出できず、やはり数名の伴をつれて上京していた家康と合流し、家康を警護しながら江戸に逃げます。
毛利攻めをしていた秀吉は、毛利と和解し、信長の家臣団としていち早く軍勢とともに京に戻り、都を制圧します。信長を暗殺したルイスらは信長の暗殺が目的で権力には関心がなかったので、いち早く京都に戻った秀吉が信長の後継者となりました。家康とともに江戸に逃げた明智光秀は、後の天海であり、江戸の都市づくりに貢献します。
これが本能寺の変の真実です。現代の歴史では、明智光秀の謀反となっていますが、明智光秀と天海は同一人物であることは事実であり誰も否定することができないのに、現代の歴史学者は天海の存在から目をそらせ無視しています。
信長は、自分たちがユダヤを祖とする民であること。武家が女系社会であることがその証拠であること、キリストの男系社会は攻撃的で侵略的であること、伊勢に祖先であるユダヤ人の聖地をつくり巡礼する慣習をつくるなど、日本という国家の政策ビジョンを秀吉や家康などの家臣に話していて、彼らは信長の意思を継ぎます。
信長のビジョンは、江戸幕府という形で実現し、鎖国でキリスト教徒の侵略を防ぎ、伊勢神宮を完成させて、お陰参りを定着させ、大奥をつくることで女系将軍の世襲制度を確立します。つまり大奥は女性将軍と大勢の男性武士の世界であり、一代抱えの武士とは宦官であったと考えられます。
そして、足利尊氏と同様に、徳川幕府も朝廷に女性天皇の世襲制を求め、女性と男性が交互に天皇となる南北朝の時代は終わります。
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