第四章 日本経済を考える
(1) 日本経済は公需と民需の混合経済
市場経済では、経済は、好景気と不景気を繰り返すものであることは異論がないでしょう。統制経済であり計画経済である社会主義はこの景気の波をなくそうとしました。
しかし、社会主義国の統制経済は、ベルリンの壁の崩壊とともに否定されました。原因は、統制経済は既得権益を生み出し、それを制御できなかったからです。そして、既得権益に蝕まれる社会は、経済の活力とモラルが失われ、結果として経済は破綻したのです。そして既得権益がはびこる社会主義は、民主主義と対立し専制主義になりました。
日本の経済の現状は、自由市場経済での民間企業の成長と、国税を原資とする統制経済の両輪で急成長した経済です。自由市場経済での企業の経済活動は、勤勉で培った技術を持つ零細企業が支えました。その勤勉な国民を前提とした源泉徴収のシステムや、道路特定財源などの税収を原資とする「公共投資」は、公共投資として投資され、この経済は、官僚によってコントロールされて統制経済が成立しました。日本は、自由経済市場である「民需」と、国税を原資とする統制経済の「公需」が両翼のエンジンとなり、高度成長を実現したのです。
つまり、日本は、資本主義と社会主義経済の混在する経済であったのです。その意味で、日本経済を牽引してきたのは、自動車と家電とする従来の説は、市場経済での牽引役であり、日本経済全体を指す言葉として不適当でしょう。
日本の高度成長をもたらした要因は、土地本位制による銀行の護送船団方式の間接金融システムです。それは、土地という打ち出の小槌を振って通貨供給量を増やし、それを、市場経済と統制経済に持続的に供給しました。日本の企業は、株式という直接金融による資本の供給を受けずにきわめて安定した経営ができたのです。
(2) 世界経済から見る日本の高度経済成長
資本主義社会では、経済の好景気と不景気は、供給と需要の関係のバランスから生じるものです。そして、そのアンバランスからくる不況を、人々にはアダム・スミスの「見えざる神の手」よりも、政治的な解決を求めました。それが、ケインズの「有効需要の原理」であり、財政出動や金融政策で求める雇用=有効需要であり、そして、究極の需要創出である戦争でした。
第二次世界大戦前は、アメリカは需要創出政策として減税をしましたが、不況を脱出できず、ドイツは、雇用を公需=軍需に求め、まず雇用問題を解決し経済を回復させました。結果として、アメリカは、財政や金融政策による需要創出に失敗し、雇用を優先したドイツの経済は回復したのです。ただ、その雇用形態を軍需で吸収したため、経済運動として究極の消費である戦争に走るのは当然といえば当然でした。
日本は、経済の活路を、市場拡大策として、それを満州に求めましたが、アメリカによる経済封鎖で行き詰まり、経済原則を無視して、国内の経済の低迷による不満を、全体主義のはけ口に置き換え、それを、アメリカに向けました。結果は、日本は負けました。戦争は精神力ではなく経済力で戦うものなのです。
資本主義経済の矛盾を戦争でしか解決できないとするこの命題は、資本主義社会が背負う十字架です。第二次世界大戦後の、冷戦時代は、アメリカをはじめ西側の諸国はこの命題に取り組まざるをえませんでした。しかし、現実には、冷戦時代の、景気の波に悩むアメリカは、経済の矛盾を戦争に求め、朝鮮戦争やベトナム戦争など、戦争による需要創出政策を繰り返します。そして、欧州は、社会主義の影響を強く受けながらも、ドル本位制によるアメリカの経済支配を警戒し、ユーロの構想を地道に進めます。
日本はというと、アメリカの、軍事力の傘の下で、市場経済で得た資本を公共投資にまわし、公需による統制経済の比率を高めていきます。日本の安全保障をアメリカに押し付けた日米安保条約は、政策的に日本の高度成長を側面から強力に支援したのです。東西冷戦の時代に、資本主義社会側のアメリカが、戦争による需要創出政策をしていたその傘の下で、日本ほど露骨に自己の繁栄のみを選択した国家はないでしょう。
その傘の下にいた日本が高度経済成長を果たし、その経済力がアメリカ経済を脅かす存在になることを、アメリカが快く思うはずがありません。しかし、日本の高度成長は、アメリカを悩ませた景気の波がなく、世界恐慌を引き起こした株式の暴落もないことを、アメリカは認めざるを得ませんでした。
(3) アメリカの金融政策は、日本の土地本位制から生まれた
1970年代に、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国まで成長しました。この時、経済不振にあえぐアメリカは日本経済を研究しました。彼らは、日本人の勤勉に着目し、年功序列と終身雇用制を研究します。しかし、それ以上に、注目したのが地価の上昇であり、土地を担保とする土地本位制とでもいうべき、金融システムではなかったでしょうか。
なぜなら、土地担保自体の価値が年月とともに上昇し、同じ担保で融資の上乗せができるからです。日本の企業は、株式による資金調達をせずとも、間接金融による資本調達で十分だったのです。その間接金融で成長する市場経済と公需を求める統制経済市場の企業は、護送船団方式の銀行団からの安定した資金調達が得られ、持続的な経済成長が実現していました。
アメリカが、資本主義経済圏の日本経済が、護送船団方式の銀行団を操る霞ヶ関の官僚が実効支配する、統制経済の実態に気がつかないはずがありません。日本は、市場経済と公需を求める統制経済の混合経済であり、マルクスも予測していない社会主義経済をアメリカは発見していたのです。
そして、この画期的な経済システムを持つ日本自身が、これに気がつかず、明治以来政策である先進国に「追いつき追い越せ」で、今でもアメリカの背中を見続けているのは、なんというパラドックスでしょうか。
日本経済を研究したアメリカは、まず、日本企業の高い技術力で支えられた生産性の高さに対して、間接労働者の合理化で対抗しました。リストラ=事業の再構築です。1970年代それを支えたのが、巨人といわれるIBMであり、80年代には、あのマイクロソフトの出現で、その合理化は加速します。アメリカは生産性で日本を抜き返しました(このリストラの解釈をいまだにできない日本人がいるのは、残念であり、リストラが教科書に載る日まで待たなければならないでしょう)
そして、日本の土地本位制による資産の増殖システム(バブル)を株式に求め、その価値を差別化するために、特許を奨励しました。産学共同のシステムは、技術力を高めるためではなく、米国企業の株式の価値を決定するためのものです。現実に、アップルコンピューターは、ガレージから生まれ、ビル・ゲイツは大学研究者でもエリートでもありません。
ドル本位制による資金調達は、株式と米国債を操り、株式を直接金融としての機能から、株式自体の価値を高めることによる資金増殖のシステムにしました。必要な資本を調達するために株式を発行し、それを貨幣と等価交換し、必要な資本を調達する株式のシステムから、キャピタルゲインを求める株式のシステムを構築しました。アメリカは、それを市場経済として、規制緩和とともに世界に押し付けます。
日本の地価による資産の増幅によるマネーサプライの増幅を、アメリカは、株式に置き換えたのであり、株式は、資本を調達するシステムではなく、キャピタルゲインを求めるためのシステムとして金融市場を構築しました。エンジェルファンドの存在を見れば、彼らが、起業家に、直接資本の役目を果たしていて、投資家は、その事業が成功し株式市場でのキャピタルゲインを求めています。つまり、直接金融は、エンジェルファンドが引き受けているのであり、株式市場は、キャピタルゲインを求める場所となったのです。
これは、株式市場に参加する企業だけが、株式市場のキャピタルゲインで得た資本を、新しい投資にまわすことができるのであり、株式市場は、本来の投資の目的から離れて、投資のための資本を形成するものになっていることに気がつかなければなりません。今の、株式市場は、市場経済から資金を吸い上げる機関であり、企業も、増幅する資本を運用と称して金融市場に再投資しているのです。
アメリカのいう市場経済と規制緩和は、資本の参入の規制を撤廃し、このドル本位制による金融システムに世界が参加することを強要するものでした。キャピタルゲインを求めるこのシステムは、資本の寡占化を押し進めます。これは、産業が成熟して、その成熟した産業の実が落ちて、新しい産業が成長するという経済の運動ではなく、資本自体が際限なく膨張するシステムであり、それは、資本の寡占化を求めるものであります。その膨張した資本による消費を担うのが、アメリカであり、限られた先進国であるのです。
(4) グローバリズムと反グローバリズム
いまの経済の市場とは金融市場を指すといって過言ではないでしょう。ウォール街という金融システムを中心とする経済は、アメリカンスタンダードであり、日本経済はその影響下にあります。
アメリカンスタンダードとは、いわゆる「フリーライド(ただ乗り)論」を基本としています。それは、株式などの金融市場で世界中から資金を集め、アメリカがその資金で、消費大国となる経済システムです。カジノと化した金融市場は、実体経済の数十倍という通貨を動かしています。
ベルリンの壁の崩壊以降、東欧や、東南アジア、中国の資本主義経済への参入は、アメリカの消費大国を歓迎しましたが、中国を筆頭に生産力の上昇は、需要に対して供給側の生産力が上回る事態となり、デフレは世界的な傾向となっています。世界的なデフレ傾向の中で、カジノ経済における通貨供給量を維持するために、今の金融市場に参加する企業はリストラクチャリングを競い合い、さらに、資本の寡占化への経済運動は、大企業どうしの業務提携や合併を突き動かしています。
この経済行動が国境を越えて広がれば、いわゆる後進国は、先進国の企業を迎え入れるばかりで、その利潤は、現行のユダヤ資本や、アラブ資本、華僑資本などに吸い上げられます。
その国の労働者は低賃金であり雇用の枠はわずかです。この経済構造が、国境を越えて経済格差を生んでいるのです。このアメリカンスタンダードの「金融市場」が、国境を越えて普遍化することをグローバル経済としているのであり、この経済構造に対峙する勢力が反グローバリズムであるのです。
しかし、資本主義経済のスタンダードは、アメリカンスタンダードとは異なります。資本主義は史的唯物論を否定することはできません。各国の、資本主義の進化の違いが人類の悲劇の始まりではありますが、資本主義の唯物史観を否定することは、資本主義の抱える経済の矛盾を飛び越えて、絶望的な貧困を生み、そこから派生する憎悪は、人類を滅ぼすかもしれないのです。
反グローバリズムの人々の主張する経済は、資本主義の原理に即した市場経済です。ベルリンの壁の崩壊で、社会主義は既得権益を制御できず、現実として階層化した社会が生まれ、非民主的な社会は、経済活動の活力とモラルが成立しないことが証明されました。民主主義と自由経済は、社会主義=統制経済を否定したのです。
原理資本主義は、かつての資本家階級と労働者階級という対立構造を、不労所得層と労働所得層に分類することで、資本主義を悪とする概念は現代にはありません。ベルリンの壁の崩壊以降、自由経済を基調とする市場経済こそが、民主主義が成立する経済であり、資本主義の原理に立ち返ることが求められています。
(5) 日本経済の現状認識
ここで、日本経済に話を戻しますが、デフレを脱却する政策として、「インフレターゲット論」が政府や自民党からあがっています。これは、インフレ目標を掲げて、日銀が資金を潤沢に出せば、インフレになり、消費や設備投資が増えるとしています。この論の根拠は、今の経済状況は消費が回復しないからであり、デフレの脱却は消費の回復次第としています。
しかし、日本人は1400兆円もの個人資産を持ち、その半分を現金として保有しているのに、一向に消費が回復しないのは何故でしょうか。土地資産の下落で、消費マインドが落ちたからだとか、国の借金である赤字国債の天文学的な数字が、将来の増税につながるから、消費が鈍いのだとかいわれていたのは、ついこの間のことなのに、さらなる金融緩和をするとはどういうことでしょうか。
この個人資産が、バブル崩壊以降右肩あがりを続けていることに、私はかねてから疑問を抱いていますが、ここにきて、マネーサプライを増やし、インフレを誘発するという政策は、1400兆円の個人資産を論拠とした日本経済の不沈艦の論理と矛盾するものではないでしょうか。日銀は、年初からお金はだぶついているとしているのに、何故、貨幣の価値は落ちずに、物価は下落したのでしょうか。何故、だいぶついた資金が投資に回らなかったのでしょうか。
まず現状認識として共有化しなければならない概念は、供給と需要の関係です。はたして、潜在需要は供給を上回っているのでしょうか。それとも、供給が過剰なのでしょうか。企業の生産調整は何を意味しているのでしょうか。また、供給が過剰であるから、物価が下がっているのではないでしょうか。竹中金融・経済財政担当相も無責任なエコノミストも、この点を明確にしてから経済論をいうものは誰もいません。はたして、供給は適正水準であり、潜在需要がマインドの影響で落ち込んでいるのか。そうであるから、消費刺激策による景気回復策をとるべきなのでしょうか。
経済は、好景気と不景気が交互に繰り返される運動体です。そして、その運動は、産業が成長し、それが成熟したときその産業は淘汰され、新しい産業が生まれ成長するという運動の連鎖でありましょう。これを基本に考えれば、日本経済は、公需を求める統制経済の産業が成熟しているのに、その産業を公的資金の投入で延命させている現実があります。つまり、自由経済市場の経済が不景気の底であるのに、日本経済は、公需を市場とする統制経済で経済を牽引しているので、いつまでたっても景気の波の底に達することができないのです。つまり、景気が反転することができないのです。
そして、その統制経済の構図は、特殊法人を頂点とする官僚シンジケートを組織していて、既得権益が支配しているのです。この既得権益が支配する社会は、民主主義と対立し、経済の活力とモラルが後退し経済と社会が破綻するのは、ベルリンの壁の崩壊が証明しています。
(6) 供給と需要の状況をまず認識するべき
好景気と不景気を判断する基準は、供給と需要の関係であり、今の日本経済において供給が需要を上回っている現実を認識するべきでしょう。その上で、過剰な供給に合わせて需要を押し上げるのか、供給の生産調整を待って新しい需要の創出を期待するのか。まず、この選択を議論するべきでありましょう。
これを、まず市場経済の面からみると、パソコンの登場で、情報処理技術による間接労働者層の合理化で企業は生産性を上げたこと、そして、ホワイトカラーの労働者層が過剰になったこと。そして、かつての社会主義諸国が、市場経済への参入により、世界の工業製品の生産性が急激に上昇し、供給が過剰であること。そして、安い労働力を求めたため、国内の産業の空洞化は、直接労働者層の過剰を生み出していること。それらを考えれば、供給は需要に対して過剰であり、労働者も供給が過剰であるのが現実です。
そして、公需を市場とする統制経済からみれば、土地本位制がバブルではじけて、土地という「打ち出の小槌」がなくなり、投資するべき原資がなくなった時点で、統制経済側の産業は生産調整をしなくてはならないはずでした。しかし、法律で守られた生産計画、つまり、高速道路の建設やダム建設は止めることができませんでした。
90年代から始まる赤字国債は、このような背景から生まれたのです。政府は、景気回復により税収が増えれば国債の償還ができるのだからと、景気回復を旗印に赤字国債を発行し続けました。
公需の経済は、土地本位制による、マネーサプライの増幅と市場経済の税収とで支えていたのであり、バブルで膨れ上がったのは、土地の価格だけでなく、公需を支える供給力も膨れ上がっていたのです。従って、公需の市場で生きる産業は、生産調整をすることは当然であったのです。
しかし、公需の既得権益にしがみつく政官業の官僚シンジケートは、公共事業の計画を見直さず、赤字国債で供給能力を維持し続けた結果が、700兆円を超える国債残高を残したのです。
(7) 日本経済の問題の原因
日本経済は、公需の市場での需要と供給のバランスは、バブルがはじけてからは、需要創出のために投資する資本の原資が、赤字国債に依存していること、そして、情報処理技術の進歩、そして、社会主義経済が崩壊しそれらの国が市場経済に流れ込んだこと、そして、グローバリズム経済の波及で、工業製品の生産性が上がり、市場経済でも、供給が過剰になっていることなどから、供給過多であることを認識するべきです。
その上で、過剰な供給に需要を合わせて行くのか、供給の生産調整による需要のバランスを取るのか、この選択が、第一にあるのであり、財政出動による需要創出策と、供給の生産調整とでは、取るべき政策が全く異なってきます。
第三章で、第二次世界大戦前の、アメリカとドイツの経済政策を例に出したように、需要創出政策は、財政出動や消費刺激策として減税を行います。それに対して、供給の生産調整を見守るとすれば、それによって溢れる失業者の対策が、経済政策のメインとなります。
日本の経済政策は、まず、供給と需要のバランスシートを、どのように改善させるかを議論するべきで、これをしないで、不可能な政策をぶつけ合っても意味がありません。供給側と需要側のどちらを改善するのか、問題の根本となる原因を特定しなければ、問題の解決には至りません。問題の原因を特定する議論では、いわゆるグレーゾーンを認めてはなりません。この問題は、多数決で二者択一の選択をしなければなりません。
日本経済混迷の原因の一つは、公需を市場とする統制経済を支えた土地本位制=バブルが崩壊したにもかかわらず、計画経済の見直しをしなかったことです。計画経済は、既得権益に蝕まれていて、その既得権益の頂点にいる霞ヶ関の官僚は、赤字国債を原資に、計画経済を消化させていきました。公需の市場は、バブルで膨れ上がった供給過剰の体質を、赤字国債で支えたのです。
そして、社会主義経済の崩壊で自由市場経済は急激に膨張し、情報処理技術の進歩は、工業製品の生産力を底上げして、世界の工業製品の供給は過剰となりました。日本経済は、統制経済と自由市場経済の混合経済でありますが、ともに、供給が過剰であり、デフレーションを起こしているのです。現在のデフレの原因は、供給が需要を上回っているからなのです。
そして、問題点は、公需の市場で生まれた既得権益であり、特殊法人を頂点とする官僚シンジケートの弊害です。彼らの存在は、供給が過剰であるにもかかわらず、企業の淘汰を拒否して、赤字国債という麻薬に頼ってまでも、現在の生産力を維持しようとしています。この状況は、自由市場経済の企業の活力とモラルを失わせるものでしかありません。
また、自由市場経済では、源泉徴収を基本とする日本の税制は、雇用者の促進を推し進め、かつて、日本再生の原動力となった零細企業や自営業の淘汰を進めました。それは、日本の高い技術力や活力を減退させ、間違ったリストラの概念は、終身雇用と年功序列を否定し、経験と知識で培われる技術を否定しました。日本の競争力はこうして失われたのです。
日本経済の問題点は、経済の好景気と不景気の波が、供給と需要のバランスを修正するものであるのに、統制経済と自由経済の混合経済である日本は、公需の市場での利権を求める官僚シンジケートである統制経済側が、赤字国債によって供給の生産調整をせず、いつまでたっても、景気の波の底に到達することができず、景気は上昇に転ずることができないのです。
(8) 不良債権は処理するものであり問題の原因ではない
これを、資産デフレとか、バランスシート不況だとか言う人がいますが、冗談ではありません。土地価格は、需要と供給の関係で決まるのであり、これは土地本位制の負の遺産です。つまり、不良債権自体は結果であり原因ではないのです。
不良債権は、日本経済の足枷であるのは事実ですが、あくまでも、これは処理するべきものです。つまり、不良債権の問題は、日本経済の混迷する問題がもたらした結果であり、原因ではないということです。これは、日本が直面している日本社会の構造を変えるという構造改革と同列に論議されるべきものではありません。財政も特殊法人も、年金も、そして不良債権も、糞も味噌も一緒にしてはいけません。不良債権は、処理であり、これは、テクニカルな問題なのです。
私は、不良債権問題は、民主党の一時国有化の政策を支持します。金融政策には、与野党の枠にこだわらず民間からも専門家を入れて、対策チームを作るべきです。そして、官僚を制御するために法曹をメンバーに入れるべきです。不良債権の問題に、財務官僚が深く関わっていることは明白であり、自己保身のための行動をさせないためにも、法曹をメンバーに入れて、官僚の自己保身の行動を阻止するべきです。
そして、この対策チームの責任者は国会議員を配置するべきです。ここだけは、判断業務から官僚を外すべきであり、それだけ緊迫した問題であり、無責任や責任転嫁で済まされる状況ではありません。
不良債権の問題は、処理するべき問題であり、構造改革のための手段ではありません。不良債権処理の問題の動向にかかわらず、特殊法人と供給側の生産調整は進めるべきでしょう。この点をはっきりさせないと、小泉内閣が不良債権処理に失敗して、その責任を取らざるを得なくなったとき、その後の政局は混乱するばかりとなるでしょう。
(9) インフレターゲット論
デフレを脱却する政策として、「インフレターゲット論」が政府や自民党からあがっています。これを後押しするのが竹中金融・経済財政担当相ですが、インフレ目標を掲げて、日銀が資金を潤沢に出せば、インフレになり、消費や設備投資が増えるとしています。また、円安による、輸入品の価格上昇によるインフレ誘導もあります。
インフレによる、国や企業のバランスシートの改善は魅力的でありますが、供給が需要を上回る状況ではインフレは成立しません。これは、労働者の供給も同じであり、労働者が過剰であるときに、お金がだぶつけば、ハイパーインフレが起きます。
マネーサプライを増やして貨幣の価値を下げても、物価の下落が止まらなければ、信用不安による円安が起きて、自給率の低い日本では、農産物の輸入品価格が上昇するでしょう。購買能力があれば、物価は上昇しても混乱はありませんが、購買能力がなければ、信用不安が起きて円安が加速し、国内の供給不足を引き起こしインフレが加速するでしょう。いわゆる、ハイパーインフレです。
インフレが成立する要件として、需要が供給を上回っていなければなりません。供給過剰の状態では、マネーサプライを増やしても消費は伸びません。 竹中金融・経済財政担当相は、「ファンダメンタルズ(経済の基礎的諸条件)から大きく離れていなければインフレはコントロールできる」と言いますが、これは、1400兆円の個人資産を論拠にしての発言でしょう。政府も、メディアもエコノミストも、消費が回復しないのは、財布の紐が硬いからだと、1400兆円もの個人資産を持つ日本の国民に、その責任を押し付けてきました。しかし、本当にそうなのでしょうか。日本人の財布には、紙幣は入っているのでしょうか。
戦後の記録を更新し続ける企業の倒産件数と負債金額、そして個人破産の急増に、地価の下落。このようなファンダメンタルズで、何故、個人資産は右肩あがりなのでしょう。本当に、日本の消費が回復しないのは、消費マインドが落ち込んでいるからでしょうか。1400兆円の個人資産が本当であれば、そしてこの数字の平均値が国民の多数を占めていれば、インフレをコントロールすることができましょうが、いまの日本では、産業の空洞化とリストラの進行で、労働力はだぶついています。彼らは、1400兆円の個人資産を形成する平均的な日本人なのでしょうか。
インフレターゲットを、国や特定の企業の、バランスシートの改善を求めるために行うのであれば、金融政策でその方向に持っていくのは論理が通ります。しかし、1400兆円の個人資産の平均額が、日本人の平均的な資産と一致しなければ、物価の上昇に国民は耐えることができません。そうなると、信用不安による農産物の供給不足が起きて社会不安は増大し、持たざる側の国民は悲惨な生活を強いられることは確かです。そうなれば、大人しく自殺をしてくれる日本国民ばかりではなくなります。アルゼンチンの経済不安による市民の行動は、決して他人事ではありません。
物の供給と需要の関係も、労働力の供給と需要の関係も、供給が過剰なのです。意図的に円安に持っていっても、株価の上がる企業は限定されていて、物価の上昇による消費者の不安が増大するのは必至です。ハイパーインフレで喜ぶのは、国と赤字国債を蝕む官僚や公務員、そして銀行と一部の企業だけであります。
(10) デフレという不況を受け入れよう
公需を市場とする統制経済は、赤字国債という借金を原資にしていて、このような経済は成立せず、必ず破綻するということは、ベルリンの壁の崩壊という歴史事実が証明しています。そして、統制経済が生み出す既得権益は、KSD事件や、外務官僚の不祥事、そして、「業際都市開発研究所」の事業形態や自治労の裏金の実態など、特殊法人を頂点とする官僚シンジケートの存在を浮き彫りにしています。
今は、デフレであることを認識し、供給過剰を認め、成熟した産業の淘汰を進め、民需による新しい産業の出現を待つべきです。そして、官僚シンジケートの犯罪に立ち向かわなければなりません。
したがって、取るべき政策は、まず特殊法人を頂点とする官僚シンジケートを解体し、統制経済時代の計画経済を白紙に戻すことです。この点では、小泉内閣の道路公団の切り込みは的を得ています。
そして、生産調整に伴う労働力の過剰は、公務員をワークシェアリングすることで吸収するべきです。これにより、官業のリストラ=事業の再構築をはじめ、官民格差を解消することで、民間の活力とモラルを回復させます。
また、統制経済の利権は、源泉徴収の税制度にあることを認識するべきです。源泉徴収税収のシステムは、国民を労働者とすることで成立する制度であり、資本の寡占化を推し進めるものでしかありません。資本主義のなかで、資本家階級と労働者階級は、階層間移動(資本家階層と労働者階層の行き来)が自由なものでなくてはならず、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、経済の活力がなく、硬直した非民主主義的な社会となるのです。
このような、労働者からの税収システムである源泉徴収は、社会主義経済での税体系であり、自由経済の社会では弊害でしかありません。自由市場経済のなかで、資本家階層と労働者階層の行き来が自由である社会にこそ、経済の活力が生まれるのであり、戦後の高度成長を支えたのが、零細企業の町工場の技術であったことを思い出すべきです。
デフレという不況を受け止めて、成熟した産業の淘汰を推し進め、ワークシェアリングで雇用を確保し、次の基幹となる産業の出現を待つべきです。そして、それを阻害する、特殊法人を解体することで、規制をなくし、利権で阻害された経済の活力とモラルを回復するべきです。
そして、自由市場経済で活躍する、資本家階層と労働者階層の階層間移動が活発でなくてはならず、その阻害要因である、源泉徴収の税体系を廃止し、誰でもが参加できるシンプルな税体系を作るべきでありましょう。
(11) 世界は二度目の経済恐慌の危機にある
*インフレ目標値とインフレ参照値の違い
現在のインフレーションとデフレーションには、実体経済における需要と供給の面と、金融市場における需要と供給の面と、別々に事象を考えていかなければなりません。
実体経済における需要と供給の関係は、生産力と消費力の関係です。供給が需要を上回れば物価は下がり、需要が上回れば物価は上がります。つまり、デフレとインフレです。
これに対して、国債や株価などの信用供給の収縮によって貨幣供給量が下回るのと、逆に、信用供給の膨張によって貨幣供給量が上回る、デフレとインフレがあります。
金本位制の時代には、通貨供給量が一定だったので、株式などの金融市場と実体経済は連動していました。1929年10月24日の「世界経済恐慌」のように、投機熱によってお金が金融市場に流れ込み、株価の暴落に連動して、実体経済の生産力と消費力が瞬時に落ち込むという「経済恐慌」が起きました。
変動相場制に移行した現在は、量的緩和政策によって、実体経済と金融市場の通貨供給量は連動しませんから、「世界経済恐慌」のような恐慌は起きません。ただし、金融市場と実体経済の通貨供給量の格差は、天文学的な経済格差を生み出し、その対極にいる人々の不満が、世界の安定と秩序を脅かしています。
1999年のユーロの登場で、欧州はドル本位制を拒絶しました。ユーロは、ドルに並ぶ基軸通貨として登場したのです。そして、今世界で、このドルとユーロの通貨価値の基準となるのは石油です。石油の取引価格が、通貨価値の基軸になっている石油本位制の時代なのです。アメリカが、石油を求めてイラクに軍事侵攻したのも、リビアがこの石油本位制の市場に参加するために核を放棄したのも、すべて、石油本位制の経済原則によるものです。
問題は、変動相場制で、実体経済と金融市場の通貨供給量がリンクしていなかったのに、石油本位制ではこれが連動することです。投機の意味で、石油との対ドルや対ユーロの価格を吊り上げれば、実体経済での生産原価も引き上がり、インフレを引き起こします。金本位制から変動相場制へ、そして石油本位制へと変遷する時代の状況をきちんと見定めなければなりません。
この状況で、政府が、「インフレ目標値」から「インフレ参照値」と言葉を変えてきたことに注視しなければなりません。つまり、90年代前半のデフレは、バブルの崩壊による信用収縮によるデフレでありましたが、95年以降のデフレは、かつての社会主義国が資本主義経済に参加することで、生産力が上がり供給過多を原因とするデフレの時代なのです。
この状況では、いわゆる量的緩和政策などの金融政策では対応できないため、政府は実体経済の需要をてこ入れする政策を取りました。それが、インフレターゲット(インフレ目標値)です。
しかし、世界の基軸通貨制度が石油本位制となっている状況で、石油が投機に傾いている現在は、需要に対して生産力が過剰の状態で、原価の上昇による製品価格が上がるという、スタグフレーションの懸念が出てきています。だから、政府は、インフレ参照値に注視するのであり、これは、スタグフレーションを警戒しているのです。
現実に、輸出関連企業の好業績が日本経済を引っ張っていますが、経済格差の広がりで国内の消費は低迷しています。この状況で、世界的に石油などの原材料費の高騰で製品単価が引き上がれば、消費はドンと引き下がるでしょう。スタグフレーションです。実体経済と金融市場の通貨供給量のギャップは、世界経済を大混乱に陥らせることは必定で、世界は二度目の経済恐慌を経験することになります。