第一章 原理資本主義

(1) 資本主義経済とは

 経済とは、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の過程」です。産業革命以前の生産では、「生産→市場→消費」という経済システムでありましたが、この経済では、生産に使われる動力は、牛馬や風という自然動力でした。

 これに対して、燃料を加工して得る動力の出現は、産業革命によって、「生産市場(原材料)→生産→消費市場→消費」という経済システムを生みます。資本主義とは、産業革命における生産において、設備投資である「生産市場(原材料)→生産」の過程に、金融システムを取り入れたものです。

生産市場(原材料)→生産→消費市場→消費
          ↓
金融市場(資本の調達手段として)

 金融システムは、生産のための設備や原材料や運転資金など、事業の元手となる資金=資本を調達することを目的として、直接金融と間接金融とに大別されます。

 資本を投じ消費市場から消費という過程で得られる利潤は、生産に携わった人々に分配されなければなりません。この意味で、マルクスは、利潤を、生産過程で労働力の搾取によって生み出される剰余価値の転化したものとして、これを搾取としましたが、これは間違っていると思います。

 また、資本を富と置き換えて資本家階級とするのも間違いでしょう。なぜなら、利潤は、投資家と経営者、そして雇用者の3者で生み出されるのであり、経済の全過程で利潤は生み出されているからです。

(2) 社会主義経済とは

 利潤=搾取、資本=富が、経済的・社会的諸矛盾を引き起こすとし、生産手段および財産を共有し、計画的な生産と平等な分配を行うとしたのが社会主義経済です。先に、利潤=搾取、資本=富は間違っているとしましたが、マルクスの言うように、資本主義社会では、経済的な矛盾や社会的な矛盾は現実に発生しています。

 生産手段および財産を共同管理することで、資本主義の矛盾を乗り越えようとした社会主義は、既得権益が台頭して、世襲制や閨閥で固定化することで、階級社会が形成され民主主義は否定されました。そして、社会モラルの崩壊は、経済活力を減衰させ経済は破綻しました。1989年の、ベルリンの壁の崩壊です。

 しかし、経済的な矛盾と社会的矛盾は確かに関連しています。資本主義では、これをどのように説明すればいいのでしょうか。

 この答えは「労働市場」というものにあると考えます。資本主義の市場を、生産市場、消費市場、金融市場、そして、これに労働市場というものを加えることで、経済的矛盾と社会的矛盾の関連を説明すればいいのではないでしょうか。これを図にすると、下記のようになります。

労働市場(労働力と労働者
          ↑
生産市場(原材料)→生産→消費市場→消費
          ↓
金融市場(資本の調達手段として)

 この考えを基本とすると、需要側を労働力、供給側を労働者という労働市場のバランスが、消費市場を左右します。労働市場の不安定は、消費市場を通して経済に影響を与えるのと同時に、労働市場の供給力の過剰は、雇用不安を招き社会不安につながることを意味します。経済的矛盾と社会的矛盾を結びつけるのは、労働市場の存在であるのです。

 社会主義経済は、生産手段および財産を共有化することで、労働市場の需要と供給の関係を否定しました。しかし、生産手段および財産の共有化は既得権益を生み出し、労働者のモラルと活力は失われていきます。

 社会主義経済の崩壊は、既得権益の暴走と既得権益が生み出す階級社会が、民主主義を否定し、経済の活力が失われ、経済は破綻したのです。

(3) カジノ資本主義とは

 資本主義での金融は、資本の調達手段でありますが、直接金融としての株式は、「生産市場(原材料)→生産→消費市場→消費」という経済過程の枠外に、「投資家→株式市場→投資家」という金融市場を形成しました。

労働市場(労働力と労働者)
          ↑
生産市場(原材料)→生産→消費市場→消費
          ↓
金融市場「投資家→株式市場→投資家」

 金融市場は、「投資家→株式市場→投資家」と循環する過程であり、しかも消費と生産を伴わない経済過程です。貨幣が循環する、この金融市場は錬金術でしかありません。金融市場=カジノ経済であるのです。

 通貨を金とリンクすることで金融市場の通貨供給量を制限した金本位制から、変動相場制に移行した金融市場は、「価値」の対象を、株式、特許、土地などに対象を広げながら、通貨供給量を急激に伸ばしていきます。そして、「投資家→株式市場→投資家」と行き来する貨幣は、消費という出口に向かうことなく、この市場を循環し膨張していきます。

 金本位制の時代には、金と貨幣がリンクすることで、実体経済とつながっていたので、金融市場の膨張は、暴落とういう形で止まりましたが、変動相場制では、投資資金が逃げること(通貨危機)があっても暴落は起きません。この金融市場は、実体経済と乖離しているからです。

 金融市場における価値を求めるがために、実体経済での生産性の向上が求められ、リストラという言葉が一人歩きを始めます。そして、生産性や合理性を無視した人員整理で、バランスシートの維持を求めた結果、労働市場において供給は過剰となります。そして、労働強化と相まって労働者の賃金格差を広げています。

 労働市場での需要側である労働力の賃金格差の広がりは、いわゆる中間階級層を崩壊させていきます。カジノ資本主義では、競争主義を盾にこの経済格差を肯定していますが、労働市場の歪みは、消費市場に連動するものであり、これが世界的なデフレにつながっていきます。

 経済的矛盾は社会的矛盾につながります。今の反グローバリズムの動きはこれが原点です。また、実体経済で使われる通貨供給量をはるかに上回る金融市場と実体経済の乖離は、絶望的な貧困層を生み出しています。この絶望的な経済格差の対極にいる人々の階級闘争がテロなのです。

(4) カジノ資本主義から原理資本主義へ

 原理資本主義とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義を基本として、富の分配による統制経済の「公需」と、自由経済を基調とする「民需」を両輪とする経済をいいます。民主主義国家での資本主義経済は、富の分配機能としての税によって社会資本が蓄積されていきます。税収入は国力でもあるので、税を資本とする「公需」の占める割合は、資本主義の成熟度に比例して大きくなるはずです。

かつての社会主義国は、この社会資本の成長過程を経ずに、社会資本と私有財産を共有化しました。結果、富の分配機能は機能せず、競争という経済活力は否定されました。この社会主義経済の中で、競争主義が取り入れられたのは裁量権を求める行動でした。そして、この裁量権は既得権益となり、世襲制と閨閥で階級社会となり民主主義を否定していったのです。

 主権者が国民であるとする民主主義の経済は、自由経済であるべきで、統制経済は民主主義を否定するものであることを、人々は歴史から学びました。民主主義における資本主義経済は、富の分配機能である税による、社会資本の蓄積を行動原理とする「公需」の経済と、利潤を求める民間資本の「民需」が混在する経済であるのです。そして、資本主義の成長とともに「公需」の割合が大きくなっていきます。富の分配は、統制経済の意味合いの強い「公需」という経済を形成し、社会資本の蓄積は、国民の豊かさとなるのです。

一方の「民需」を原理資本主義で考えると、利潤は、資本家と経営者、そして雇用者の3者に分配するものとし、利潤を求める行動を是としています。マルクスは、資本家階級と労働者階級は対立するものだとしましたが、原理資本主義では、不労所得層と労働所得層に分類します。不労所得というのは、利子や地代、株の取引などの所得をいい、労働所得は、経営者と雇用者の所得をいいます。原理資本主義では、報酬と賃金は、対立するものではありません。

 自由経済では労働市場に歪みが生じますが、これを否定したのが社会主義で、労働力=労働者としました。しかし、生産手段および財産の共有は、金融市場を否定しましたが、事業の元手となる資本は否定できませんでした。社会主義では、資本=国税となり、それが、分配する権利=既得権益となって、一部の特権階級が支配する階級社会となっているのです。

 原理資本主義は、労働市場の歪みを受け入れて、その是正機能を、統制経済である「公需」と自由経済である「民需」のバランスに求めています。そしてそのバランスを支えるものが民主主義であるとしています。そして原理資本主義では、「投資家→株式市場→投資家」という金融市場を認めません。なぜなら消費と生産を伴わない経済はありえないからです。経済とは、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の過程」でなくてはならず、生産と消費という帰結がなくては、経済は成立しません。あくまでも、金融市場というものは、資本の調達システムであり、財の形成システムであり、経済を補完するべきものなのです。

 資本主義も民主主義も、人間と同じように成長していくものであり、成熟期の資本主義は、統制経済と自由経済の混合経済となり、政治がそのバランスを取ります。そしてその政治を支えるものが民主主義であるのです。そして、いわゆる経済の後進国には、成熟した資本主義社会を押し付けるのではなく、資本主義と民主主義の成長を見守る姿勢が必要でしょう。先進国は、生産をするための消費ばかりを追い求めず、商品を消費する市場の育成という視野に立つことが必要ではないでしょうか。

 原理資本主義は、社会主義経済の失敗を教訓とし、カジノ資本主義に変わる経済を提案しています。これは、資本主義の基本に立ち返ることで、自由経済を基調とした経済と、それを支える民主主義の基本概念を提議しています。

(5) 原理資本主義を構成する基本概念

1 資本主義と社会主義は相対関係ではない

まず、資本主義と社会主義についてですが、第二次世界大戦以後、世界は米ソに分かれ、資本主義と社会主義とに分けられました。しかし、両陣営とも、経済上は、資本主義経済のなかで、自由経済と統制経済の対決だったと考えます。

 結果として統制経済は破綻しましたが、それは、統制経済で生まれる既得権益を制御できなかったからであり、利潤ではなく、資本(財政投資)を求める経済は成立しないことが立証されたのです。これは、経済システムは、貨幣経済である限り資本主義経済であるということを立証するものでありましょう。

 つまり、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするのです。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではありません。

2 階層間移動(資本家階層と労働者階層の行き来)
 
 次にマルクス経済学では、生産手段をもっている資本家階級が、労働者階級の賃金から搾取したものが利潤であるとし、搾取する側と搾取される側とに分けていますが、民主主義はこのような階級制度を認めていません。資本家と労働者の階級は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働者階層の行き来)が自由なものであるはずです。

 利潤は「生産過程で労働力の「搾取」によって生み出される」という従来の「搾取」という概念が、資本家と労働者が対立する構造を作り出してきましたが、そうではなく「不労所得」と「労働所得」とに分けて考えるべきでしょう。資本の所有と経営が分離している企業では、経営側も労働者であり、役職のあるかないかで労働者を分類し、労働者としての様々な権利を制限するのはおかしいのです。

 株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで得る不労所得者と、労働によって所得を得る労働所得者に分類することが重要です。そして、所得や資産を再分配する税で、不労所得者を優遇すれば、資本の寡占化が進み、労働所得者層を優遇すれば、資本の再配分が進むのであり、これを決定するのが政治の役割なのです。

 つまり、資本主義において、労働者は資本家に搾取されるという関係ではなく、不労所得者層と労働所得者層の相関関係が基本であり、この関係が固定化し階級化しないために税システムがあるのです。資本家階級と労働者階級は、階層間移動(資本家階層と労働者階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家となるでしょう。

3 原理資本主義

 経済は資本が寡占化していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まります。寡占が成長していく過程に規制や認可などで、統制経済が強まりますが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要です。経済の需要と供給のバランスは、資本の寡占化とその解体を交互に起こして技術も発達してきました。経済は、自由経済と統制経済を繰り返すことで成長するのです。
 
 また、統制経済で生まれる利権は、市場経済の自由を奪っていきますが、その利権をリセットするのが民主主義です。民主主義は、統制経済と自由経済のバランスを担う役目を持ちます。そして、資本主義の成長とともに、民主主義も成長するのです。高度に成長した資本主義と民主主義は、社会資本による経済の「公需」と民間資本の経済である「民需」が両輪となって、その国の経済を牽引していきます。

「公需」の割合が高い社会は、いわゆる社会主義経済であり、「統制経済」の側面が強く、中央集権的な国家システムを構成します。また、民需の割合が高い社会は自由経済で、福祉や年金という社会保障制度も自己責任の割合の強い市場経済の社会となります。

この、統制経済と自由経済、そして、公需と民需のバランスが政治であり、それを支えるのが民主主義なのです。貨幣経済である限り、経済は資本主義が基本であり、その資本主義を支えるのが民主主義なのです。逆説的にいえば、民主主義でない社会では、資本主義は成立しないのです。

4 利潤と賃金

 資本主義では、利潤は、「労働力の搾取によって生み出される剰余価値の転化したもの」という考えがありますが、この考え方では、現代の労使関係を合理的に説明できません。利潤に対する新しい概念が必要です。
 従来、一般会計では利潤とは、総収入から生産のための費用、つまり、賃金・地代・利子・減価償却費などを差し引いた残りとしていますが、私は、「賃金」と地代・利子・減価償却費などの経費を別にするべきだと考えます。これは、今の付加価値額という定義とほぼ同じですが、私は、総生産額から原材料費と機械設備などの減価償却分を差し引いた、人件費・役員報酬費・株主への配当金を利潤とするべきだと考えます。
 
 経済活動で生み出される労働力の対価として受け取る報酬や、役員報酬、そして、株主の配当金は、消費活動や投資活動として経済を循環します。企業活動における報酬がなければ、税金も集められず消費もできません。
 このように、人件費・役員報酬費・株主への配当金を仮に、「利潤」と定義したとして、今度は、その報酬の分配が問題になります。企業活動で生まれる利潤は、その労働力を提供する労働者と、経営陣、そして、資本を提供する株主があって初めて生まれるものであり、どれか一方が欠けても利潤は生み出されません。

 利潤の配分で、賃金を低く抑えれば、労働者の労働意欲や企業への忠誠心がなくなり、経営は不安定になるでしょうし、役員報酬が不当に高かったり、株主への配当金の配分が高ければ、経済格差が広がり、社会不安が増すでしょう。利潤の額は、企業努力で格差があるのは当然であり、厳しい市場原理が経済の活力とモラルを維持するのです。企業ごとの人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率は、消費や投資を左右する経済の重要な要因となります。
 
 私は、この人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率を、労使協議とするべきであり、その承認を得る場が、株主総会であるべきだと考えます。従来の賃金闘争ではなく、人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率を、経営側と労働組合で協議するべきであり、ベースアップの金額ではなく、分配率を争点とするべきでしょう。
 
 そのためにも、一般会計で、利潤の定義を、人件費・役員報酬費・株主への配当金を差し引いた経費の残りと定義するべきです。収入から、人件費・役員報酬費・株主への配当金を差し引いた経費の残りを「利潤」と定義して、その分配率を労使で協議し、その承認を株主総会に委ねるのです。

5 労働を商品として捉えるべし
 
 マルクス経済学では、消費市場の商品の価値は労働量で決まるという労働価値説を説いています。しかし、原理資本主義では、労働自体が消費市場の中の商品であるとします。労働することで商品の付加価値がつくのではなく、商品の付加価値は経済活動によって決まるとする考えです。

 マルクス経済における労働の概念は「人間が道具を利用して自然物の生産や加工で財貨を生み出す活動」となっていますが、倫理的な問題は別として、売春も経済活動であり、生産的な行為でなく財貨を生み出す活動は、歌・踊りなどの芸人など多様な活動が経済を構成しています。

 さらに、マルクス経済では、消費市場の商品の価値は労働量で決まるという労働価値説を説いています。経済は消費を求める行動であるのですから、経済社会を継続するには商品を供給し続けなければなりません。しかし、それでは資源が有限であることは資本主義の決定的な矛盾となります。

 原理資本主義では利潤は賃金の搾取ではないとしていますので、労働が貨幣と交換される行為は、労働形態によって報酬であったり賃金であると区別します。労働から搾取という概念を棄てて商品とすることで、階級意識を取り払うことが必要です。

 このように労働を商品とすれば、いわゆるサービス業を合理的に説明できます。また。労働力は再生産されるもので有限の資源ではありませんから、消費を求めるという資本主義の運動に矛盾が生じません。厳密には人類の繁栄は約束されていないのですが、人類がいなければ経済活動もありません。

 20世紀は地球資源を消費していた消費行動の経済でしたが、21世紀の経済は、労働という商品を消費する経済活動が主となるでしょう。そのためには、従来の労働価値説を否定し、労働を商品とする論理が必要となります。

 労働が商品の価値を作るのではなく、労働を商品として捉え、労働に価値を求めて、労働の価値が貨幣と交換されることが賃金を捉えるべきでしょう。

6 資本と経営の分離

 資本主義と民主主義が成長していく過程で、社会資本も成長していきます。水、電気、ガスなどのライフラインは国民の生活を豊かにしていきますし、鉄道、電波、道路などの情報・交通などのインフラは、民間産業の経済行動を下支えして国の経済水準を維持します。

 しかし、同時に社会資本は、利権を育み、競争原理を壊してモラルを破壊していきます。これは、民間資本が、カルテルやトラストというように権益を既得権益として主張する行動と同じなのです。経済の競争力とモラルを破壊していくのは既得権益であり、これは資本主義社会でも社会主義社会でも同じです。

 この利権と既得権益はなくすことはできません。法律で縛ることも中々難しいのは歴史が証明しています。私はこの命題に、システムで対抗するべきではないかと考えています。それは、権力の分立の概念を用いることです。つまり、資本と経営を分離して、資本は利潤を経営に求め、経営は資本から独立し、民法に従い行動するのです。資本と経営が独立して、民法でその権力の抑制と均衡を図るという考え方です。

 これは、社会資本は、国民にいわゆる株主としての権利があり、その運営は、行政でなくとも民間でいいという考えです。むしろ、行政は、その運営を評価する機関であり、経営には参加するべきではないでしょう。株主である国民は、社会資本から生まれる利潤を均等に受け取る権利があり、また、求める権利があります。国民から評価を委託された行政は、効率のよい経営を民間企業に委託すればいいのです。

7 社会資本と民間資本の区別

 問題なのは、社会資本に民間資本が入らないようにすることです。水、電気、ガスなどのライフラインや、鉄道、電波、道路などの情報・交通などのインフラを社会資本と定義し、それ以外の民間資本と明確に区別しなければなりません。

 その意味では、JRなどの民営化は間違っていると思います。JRの設備などの固定資本は国民のものであり、国民一人一人に株主としての権利を与えるべきなのです。その上で、経営を民間企業に委託して、その利潤を国民一人一人が享受する社会であるべきです。

 これは、電波についても同じで、テレビ電波を受け取る権利は、少ない設備投資で国民が享受することができますが、電波を発信する権利は、国民一人一人に平等ではありません。これは、放送するチャンネル数が限られているということと、ニュースキャスターやタレントという芸能関係の人々など、限定した人々にしかその権利は与えられていません。電波という社会資本を発信する権利は国民には平等ではないのです。現実として、電波を発信する側、つまり供給側が小さいのですから、その価値が高くなり、ニュースキャスターやプロスポーツ選手などの電波を発信する側と、受け取る側の人間の経済格差は極端になっています。

 本来、資本主義では資本を投下して収益を上げるのですが、電波を利用して収益を上げる人々は、電波という社会資本を無償で利用しているのです。そして、その権利が国民に平等でないとすれば、それは不当であると言えるでしょう。社会資本で収益を上げるのならば、社会資本の所有者に使用料を支払うべきです。当然、この使用料は、社会資本の所有者である国民の一人一人に還元されます。

 この考え方に立てば、開発途上国の、水、電気、ガスなどの社会資本整備に、多国籍企業が介入することは、その国の経済的自立を失うことを意味していて、とても危険といえるでしょう。

8 企業における三権分立の概念

 原理資本主義では、利潤を求める経済行動を是とし、その利益配分のバランスが労使問題だとしています。従って、従来の利潤を賃金の搾取とする考えは間違いであるとしています。そして、資本主義で民主主義が成立するには、資本と経営の分離が必要であるとしています。

 これらの概念を基本に株式会社というものを考えると、まず、株主の利益を主張する「執行役員」と、経営上の実務・運営権を持つ取締役、そして雇用者の利益を主張する労働組合という三者の合議を経営とするべきだと考えます。

 これは、株主の利益を主張する「執行役員」は、経営上の意思決定において最高の責任を持ち、経営上の実務・運営権を持つ「取締役」は、経営上の実務・運営において最高の責任を持つ。そして、「労働組合」は、三者の利益配分を監視し、雇用者の賃金と雇用環境を守ることが職務となります。
 
 執行役員の力量のない企業は、新商品の開発や新しい市場開拓ができないでしょうし、経営の実務・運営権を持つ「取締役」の力量のない企業は、利益率や市場占有率で競争に負けてしまうでしょう。また、労働者の利益配分の少ない企業はモラルと活力が低下し、生産力の低下を招くでしょう。
 企業が利潤を上げるには、三者のバランスが重要であり、そのバランスが民主主義を形成するのです。
 
企 業  = 利潤を求めることがその基本行動
 執行役員 = 株主の利益を主張する
 取締役  = 経営上の実務・運営権を持つ。
 労働組合 = 雇用者の利益(賃金)を守る。労使関係とは、「執行役員」「取締役」「労働組合」の権益のバランスをいう。

9 企業は「財」を求めてはならない

原理資本主義では、企業は利潤を求めることを至上命題とし、その利潤は、株主、労働者(管理部門を含む)とに分配されるものだとしています。

 これに対して、現在の株式会社の利潤や株式を発行して得た資本は、有価証券や子会社株式に投資され、また、利益剰余金そして退職金積立金などの名目で企業内に留まっています。1997年に日本は持株会社を解禁しましたが、企業内に留まる利益が増大し、企業による企業の支配が強まり、資本の寡占化が進んでいます。

 従来、資本の寡占化の形態であるコンツェルンやトラストなどは、「市場の独占」を生みインフレを招くものであるとし、健全な市場が阻害されるとして、独占禁止法などの法律で規制されてきました。しかし、株を錬金術の対象とする金融市場を中心とするカジノ経済は、「市場の独占」ではなく「企業の支配」を求めて、資本の寡占化を推し進め、市場の独占を規制する独占禁止法をかわしています。

 マルクスは、労働者階級をプロレタリアート、資本家階級をブルジョアジーと呼び、労働者が資本家から剰余価値を搾取されていると考えましたが、原理資本主義では、企業が剰余価値を求めるのを是とし、その分配の構造に、株主と労働者(経営者を含む)がいると主張しています。

 これに対してカジノ経済では、企業による企業の支配は「生産性の向上」による株主への利潤の還元が最優先されています。そして、競争主義の名の元に、労働者の権利は棚上げされ、市場価格の吊上げではなく、労働単価の引き下げによる利潤追求が正当化されているのです。

 カジノ経済における経済格差の広がりは、単に資本家による賃金の搾取というものではなく、また、好景気と不景気の循環による、勝者と敗者による経済格差の広がりでもありません。それは、生産性の向上を求めることで株価の価値を引き上げるという、実体経済とかけ離れた通貨供給量の中で行われるカジノ経済での富の集積と、実体経済の中で労働単価の引き下げによる経済格差の広がりなのです。

 カジノ経済では、企業の利潤が、株主と労働者(経営者を含む)との間で分配されず、利潤が株に投資されることで、株が実体経済を無視して貨幣を吸収していきます。そして、利息にあたる配当金よりも、株価の価値の上昇による財の形成に主眼が置かれるのです。

株価の上昇が、持株会社制度の中で、極少数の株主に財の形成が集中する一方、株価の価値を引き上げるための対価として、労働単価の引き下げがおきて、絶対的な経済格差を引き起こしているのです。
 問題は、企業が利潤を内部留保することにあるのですが、基本的には、流動負債に充てるための利潤の内部留保はあるべきですが、有価証券などの、いわゆる「財」の形成は認めるべきではなく、投資としての株保有も認めるべきではないでしょう。

 なぜなら、企業は「利潤」を求めるものであり「財」を求めるものではないからです。そして、「投資という利潤」を求めるのは、金融という企業形態の分野であり、金融が企業を支配するのは、自由経済の活力を封印するものであるということを理解しなければなりません。

10 市民の定義

今の政治のキーワードは市民と既得権益です。かつての資本家対労働者という対立構造では、市民という概念を説明できない時代に入っています。

 現代の社会構造では、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類を基本とするべきでしょう(いわゆる肖像権で収入を得ている芸能関係者は、前者の「不労所得者」に分類されます)その上で、後者の労働所得の階層を市民と定義するべきでしょう。
 
 そして、市民を労働所得者層と定義したとして、今度は、その市民の中で既得権益者か非既得権益者かに大別する必要があるでしょう。なぜなら、現代は、公需と民需で成立する経済社会だからです。

 そして、この政治構造の中で、基本的な階層対立である、「不労所得者」と「労働所得者」の対立は、税体系を軸にその均衡は保たれるのです。それが税の中立を意味します。そして、その緊張が健全な民主主義を支えます。

11 「自由と責任」、「権利と義務」
 
 自由とは基本的人権の行使を指し、権利とは国家と国民の契約です。生存権や言論・思想、そして宗教などは、人間が持って生まれた権利である基本的人権であり、この行使を自由といいます。

 この基本的人権は、国家によって国民に与えられるものであり、国家の形態により、基本的人権の範囲はまちまちです。すべての基本的人権が認められるのは権力者であり、その意味で、主権が国民にある民主主義国家では自由の裁量が大きいと言えます。

 これに対して権利とは国家と国民との契約であり、国家を運営・維持するために国民に与えるもので、そのために定めた約束事です。権利とは、教育を受ける権利や、社会保障などの権利、また、民主国家場合には参政権などがあり、基本的人権と明確に区別しなければなりません。また、権利には義務が付帯し、国家の運営維持のために、提供する義務は、納税、懲役などがあります。権利と義務の関係は、権力と国民との関係で権利よりも義務が多くなったりします。君主国家では国民の義務が多くなりますし、主権が国民にある民主主義国家では権利が多くなります。

 そして、自由には責任が、権利には義務が相関関係として成立します。基本的人権の行使である自由には、他人の基本的人権を侵害した場合には刑罰という責任を取らなくてはなりませんし、国家と国民との契約である権利には、国民が国家の運営のために提供する義務(納税・兵役等)が生じます。この意味で、自由には義務はありませんし、権利には責任を伴いません。  たとえば、生存権を侵害された場合に、加害者は刑罰という責任を取らされます。この刑事責任というものは、国に対する責任であり、加害者の基本的人権を制約した上で、国民として義務を履行できる国民としての更生を目的としています。つまり、刑事事件は、国家と国民の契約上の問題なのであり、そこには加害者の姿はありません。

 これに対して、加害者が被害者に対する償いは、経済社会である以上賠償責任でなければなりません。これは、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」という民法709条で書かれています。

 このように考えれば、刑事事件の場合には民事訴訟も並行して行うべきです。そもそも、懲役とは「監獄に拘置して所定の作業を科す刑罰」なのですから、加害者を、監獄に拘置することで加害者の基本的人権を制約し、社会の秩序と安定を保ち、作業を科すことで、経済社会に強制参加させて、被害者に対する賠償責任を強制させるべきでしょう。

戦後の日本では、自由と権利の違いを理解せず、責任という概念を捨て去りました。犯罪に対する抑制機能は刑罰という責任なのですが、日本では、懲役などの刑罰を義務としてしまっているのです。

 ちなみに、資本主義社会では、経済的社会領域に関して国家の介入を受けないとしていて、これを「市民社会」と呼んでいますが、この市民社会での権利の得喪関係が、民事事件の領域となります。

 繰り返しますが、基本的人権の行使を自由といい、他の人の基本的人権を侵害した場合には刑罰という責任を取らなくてはなりません。また、国家と国民との契約である権利には、国民が国家に与える義務が生じ、義務の不履行には権利の得喪や制限とい罰を受けなければなりません。

貨幣の価値と株式市場について

1 貨幣に価値はあるのか

 値打ちとか有用性を「価値」と言いますが、この価値を貨幣と置き換えて交換および流通の手段とする経済様式が貨幣経済です。資本主義も社会主義も貨幣経済を基本として成立する経済であり、貨幣とは、価値を置き換えられるものとして、流通の手段に留まらず財としての機能もあわせ持ちました。

 重要なのは、貨幣に価値があるのではなく、価値を客観的に表す道具であるということです。貨幣の蓄積は財を形成しますが、価値と交換することで財は力を持つのであり、貨幣に価値があるのではありません。

 現在の経済(カジノ資本主義)では、貨幣そのものに価値があると定義しています。これは、貨幣と利子の関係から導くもので、プラス利息を前提とした金銭の時間的価値とか割引現在価値の概念で論理付けられています。これとは正反対に、経済格差の元凶は利子の増殖にあるとして、カジノ資本主義を否定する論理として、通貨そのものの価値は時間とともに減っていくという「マイナス利子」を前提とした地域通貨など概念があります。

 貨幣は価値と交換する道具であり、貨幣自体に価値はありません。現在の経済においては、貨幣に価値を求める根拠は利子であり、貨幣自体に価値があるのではなく、利子に価値を求めていることがわかります。

 資本主義経済では、貨幣を資本と置き換えて投資という経済行動をしますが、この行為において、利子や配当という概念が生まれました。この経済行動は資本主義では、金融と呼ばれ、利息を支払うことでお金を集め、その運用利回りとの差益を利潤としました。

 マルクス経済学では、利潤は「生産過程で労働力の「搾取」によって生み出される」として資本家と労働者の階層化を主張していましたが、原理資本主義では、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで得る不労所得者と、労働によって所得を得る労働所得者と分類しています。ここでは、利息や配当で得られる所得と、経済活動の報酬や労働者の賃金などの所得とを区別していません。

 これを別の角度から考えると、不労所得者の利息や配当も、労働所得の報酬や賃金も、貨幣で客観的に表されているわけで、商品の価値を貨幣という道具で表されていることと同じであることに気が付きます。

 これから言えることは、貨幣経済では貨幣は価値を客観的に表す道具であり、資本主義経済では、投資という経済行動の道具としての役割を担います。共通するのは道具としての貨幣であり、不労所得から生まれる利息や配当も労働所得で生まれる利益も、貨幣で客観的に評価される物と同じで、貨幣という道具で置き換えられているに過ぎません。

 カジノ資本主義は、利子に価値を求めることによって金融をゲーム化していますが、いつのまにか利子ではなく、貨幣自体に価値を求めて、実体経済と金融市場との乖離を生み出し、物と連動しない貨幣の存在は、金融市場と実体経済の通貨供給量との差を天文学的にしました。

 貨幣そのものに価値があるというのはカジノ資本主義の詭弁以外であり、また、貨幣の価値は時間とともに減っていくという地域通貨の論者の考えでは、カジノ資本主義を否定する論理にはなりません。そうではなくて、貨幣そのものに価値はないのです。物の価値も投資という経済行動でもとめる利子も、貨幣によって客観的に置き換えられるだけであり、貨幣そのものに価値はないのです。

2 株価は配当と連動する

 資本を投資するというのは、工場を建てるとかの事業を起すために資金を調達することを指し、これには銀行から調達する間接金融と、株式や社債などで調達する直接金融があります。

 間接金融の場合には、銀行は企業から利息という利益を得るかわりに、預金者に対しても利息を支払います。この両者の利息の差が銀行の収益となるわけです。

 これに対して、株式などで資本を直接調達する場合、投資家は、一株あたりの配当という形式で利益を得ることができます。この株式に対して、企業は返済の義務がないのですが、その代わりに、株式市場での株の売り買いができるようになっています。

 株式市場では、株は商品として供給されます。商品である株は、株価という価格で表されますが、この株価の価値の求めかたが問題なのです。

 株主は、会社の利益から配当を得る権利をもっていて、この権利を行使するために、株主総会を通して経営に関与することができます。つまり、株主にとって企業価値というのは配当を指すのであり、株価と配当は連動するものといえるでしょう。

 この配当とは、事業活動によって生み出すキャッシュフローでしかあり得ないのですが、カジノ資本主義では、このキャッシュフローに割引現在価値や事業外資産など勘案して企業価値をもとめ株価に反映させるDCF法(Discounted Cash Flow)などという評価方で株価を決めています。

 割引現在価値はあくまで主観で判断されるものであり、事業外資産は、本業のキャッシュフローを隠す側面があります。管理通貨制度下では、キャッシュフローと連動しない株式市場は、実体経済とかけ離れた通貨供給量を招くことになります。

 資本主義経済では、株の価値は、事業活動によって生み出すキャッシュフローで決まるのであり、それが株価として売り買いされるのが株式市場です。キャッシュフローと株価が連動することで、株式市場は実体経済とするのです。

 健全な株式市場は、株価は配当と連動するもので、配当は、キャッシュフローと連動するというルールを基本に形成される市場でなくてはなりません。

3 資本主義の株式市場

 企業の価値は、事業活動によって生み出すキャッシュフローを原資とする一株あたりの配当で決まります。この配当金額を基本として、株価と配当率が連動し形成されるのが株式市場です。

 一株あたりの配当金額を基本に、株価と配当率が連動する株式市場では、実体経済を反映した市場が形成されます。

 たとえば、A社の場合、一株1000円で配当金を100円、B社の場合には、一株1000円で配当金を50円。C社の場合は、一株1000円で、配当金を80円とします。この場合の株式市場の動きは下記のようになります。

 この場合、A社の株価は、100円の配当を変えずに配当率を変えると、下記の表のような株価のようになります。この場合に、B株を1000円で売り、1090円でA株を購入すると、配当は百円ですから10円の利益がでます。A株を売った人は、C社の株を1050円で購入すると、売り買いの差額が40円と80円の配当金なので、120円の収入となり、差し引き20円の利益が出ます。

 また、新規に株式を発行する場合には、投資事業の概要と予定配当金額を発表することとし、配当金がでるまで、期間があるときは、その株は、譲渡はできても売り買いはできないとするようなルールが必要です。

 基本として、企業は1000円の場合の配当金を設定することを約束事とします。この配当金を基本に、株価と配当率が連動するのですが、企業の業績がよければ、配当金は大きくなるので、企業の動向で、配当率を狙って利益を求めることもありますし、上記のように転売で利益を出すこともできます。

 企業は配当金額の最低額を設定し、その額を下回るようなことが出たときには、市場は、株の売り買いをストップしたり、新規株の発行するときは、事業内容と調達金額、予想配当額を発表するようなルールが必要となります。

 株は資金調達の手段であり、株の価値は配当額で決まります。利益を得るために資金を投じることを投資といいますが、その利益は、配当に連動するものでなくてはいけません。
 変動相場制では、株の価値を株価に直結してしまうと、配当額を無視した株価の設定が行われ、株式市場は、実体経済と乖離したものとならざるを得なくなります。株価を配当と連動させることが必要です。

第一章 原理資本主義

第二章 時代が加速している21世紀

第三章 ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方

第四章 日本経済を考える

第五章 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

第六章 新日本列島改造論

第七章 担保主義に代わる金融システムの提言

第八章 経済の元凶である退職金と年金制度

第九章 政権交代の主役は国民である

第十章 永田町に競争主義の導入を

第十一章 政策提言

第十ニ章 CDS債が核のボタンであるという意味

著者からのメッセージ

Since 2004.05.10 total