墜落ではなく滑落に対処するべき」という私の問題定義に対して、知人に「墜落と滑落は同じでしょう」と返されました。え!と思い、ネットで調べてみると、滑落という語句は、登山に限定して使っていることに気が付かされました。
ついらく [墜落] | 〈スル〉 高所から落ちること |
---|---|
かつらく [滑落] | 〈スル〉 (登山で)すべり落ちること |
てんらく [転落] | 〈スル〉 ころげ落ちること |
私の山での「墜落」「転落」「滑落」のイメージは、下記のような表現になると思っていたのですが、
冬の富士山で滑落した | 斜面から滑り落ちること |
---|---|
登山道から転落した | 転倒等により斜面を転がり落ちること |
ロッククライミング中に墜落した | 高所から低所に空間を落下すること |
山岳事故の統計分類は、「転滑落」となっていて「墜落」と言う語句は使われていない一方、労働災害の統計では「墜落・転落」と分類されていて「滑落」という語句は使われていません。
山岳統計の分類 | 「転滑落」「滑落」 |
---|---|
労働災害の分類 | 「墜落」「転落」 |
冒頭に書いた、「墜落と滑落はおなじでしょう」というのは現状ではそのとうりで、山岳事故では「滑落」、労働災害では「墜落」と使い分けながら同義語として扱われているようです。そして、時々において補助的な意味合いで「転落」を使っています。。ですから、墜落と滑落を同義語として扱うのであれば、私が問題定義する「屋根上では滑落という事象で墜落に至る」という表現はピント外れとなりその時点で提案は却下されます。
しかし、冷静に考えてください。我々が行動するいろいろな局面において「墜落」「転落」「滑落」という事象は厳然として起きうるものであり、山岳統計の分類と労働災害の分類において「墜落」「転落」「滑落」があったりなかったりするのはおかしいとは思いませんか。
私の考案は、「墜落ではなく滑落に対処するべき」を基本として論理展開しているのですが、労働災害において「滑落」という語句がないとすれば、私の主張はまったく頓珍漢となります。「墜落」と「滑落」は同じでしょう」という知人の一言は、なぜ、私の問題定義が無視され、即排除となる理由がわかりました。
日本の労働災害の中に「滑落」という語句(漢字)がなければ、私の考案はまったく意味をなさないでしょう。「墜落」「転落」「滑落」と語句の用途を限定することで、その語句を利用して局面を表現するという行動を否定するならば、私たちは日本語という文化を捨てることを意味しませんでしょうか。
「みかんとりんごのどちらが好きですか」という問いに対して「バナナ」と答えるのと、重大な災害は起きないという前提に安全を培ってきた日本の原子力行政の論理展開は同じであり、情報の精度と情報量がきわめて高い漢字を、英語(ローマ字)に置き換えることで、表現力(詭弁)ばかりに重点を置いてしまい、漢字がもたらす想像力と理解力を失った結果です。
日本では漢字とひらがなが融合し、その文章表現力はきわめて高いものです。伝えたいイメージを極めて少ない語句で表現できる漢字は、伝えたい情報の精度と情報量がきわめて高いのです。この漢字とひらがなを組み合わせた日本語は、表現力とその伝達力は世界の言語の中で稀です。そして、これが日本文化を支え明治開花をもたらせ、戦後の廃墟から立ち直らせました。
しかし、戦後の日本の教育は、漢字文化を軽視し、国語教育は地に落ちました。結果、日本人の子供の学力は先進国の中でのランクは下がり続け、その子供たちの鏡である大人の論理力は、メディアの報道や記事、そして、国会の議論が証明しているように、詭弁も成立しないほどその論理力は低下しています。