自由とは基本的人権の行使を指し、権利とは国家と国民の契約です。生存権や言論・思想、そして宗教などは、人間が持って生まれた権利である基本的人権であり、この行使を自由といいます。 この基本的人権は、国家によって国民に与えられるものであり、国家の形態により、基本的人権の範囲はまちまちです。すべての基本的人権が認められるのは権力者であり、その意味で、主権が国民にある民主主義国家では自由の裁量が大きいと言えます。
これに対して権利とは国家と国民との契約であり、国家を運営・維持するために国民に与えるもので、そのために定めた約束事です。権利とは、教育を受ける権利や、社会保障などの権利、また、民主国家場合には参政権などがあり、基本的人権と明確に区別しなければなりません。また、権利には義務が付帯し、国家の運営維持のために、提供する義務は、納税、懲役などがあります。権利と義務の関係は、権力と国民との関係で権利よりも義務が多くなったりします。君主国家では国民の義務が多くなりますし、主権が国民にある民主主義国家では権利が多くなります。
そして、自由には責任が、権利には義務が相関関係として成立します。基本的人権の行使である自由には、他人の基本的人権を侵害した場合には刑罰という責任を取らなくてはなりませんし、国家と国民との契約である権利には、国民が国家の運営のために提供する義務(納税・兵役等)が生じます。この意味で、自由には義務はありませんし、権利には責任を伴いません。
たとえば、生存権を侵害された場合に、加害者は刑罰という責任を取らされます。この刑事責任というものは、国に対する責任であり、加害者の基本的人権を制約した上で、国民として義務を履行できる国民としての更生を目的としています。つまり、刑事事件は、国家と国民の契約上の問題なのであり、そこには加害者の姿はありません。
これに対して、加害者が被害者に対する償いは、経済社会である以上賠償責任でなければなりません。これは、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」という民法709条で書かれています。
このように考えれば、刑事事件の場合には民事訴訟も並行して行うべきです。そもそも、懲役とは「監獄に拘置して所定の作業を科す刑罰」なのですから、加害者を、監獄に拘置することで加害者の基本的人権を制約し、社会の秩序と安定を保ち、作業を科すことで、経済社会に強制参加させて、被害者に対する賠償責任を強制させるべきでしょう。
戦後の日本では、自由と権利の違いを理解せず、責任という概念を捨て去りました。犯罪に対する抑制機能は刑罰という責任なのですが、日本では、懲役などの刑罰を義務としてしまっているのです。
ちなみに、資本主義社会では、経済的社会領域に関して国家の介入を受けないとしていて、これを「市民社会」と呼んでいますが、この市民社会での権利の得喪関係が、民事事件の領域となります。
繰り返しますが、基本的人権の行使を自由といい、他の人の基本的人権を侵害した場合には刑罰という責任を取らなくてはなりません。また、国家と国民との契約である権利には、国民が国家に与える義務が生じ、義務の不履行には権利の得喪や制限とい罰を受けなければなりません。