原理資本主義を基本に考える司法制度改革

一 主張したいこと
二 日本の検察制度は民主主義と相反する
三 検察の職務を明確に
四 弁護士と裁判官の役割
五 事実関係を確定するのは専門家による陪審員制度で
六 刑務所は基本的人権を制約する場所
七 政府の司法制度改革の目的は、法曹の責任回避だ
八 裁判員制度について
九 検察審査会制度について 

はじめに

 犯罪被害者の支援については、平成8年、警察庁では被害者対策要綱を制定して全国警察が組織的な取り組みを開始したのをはじめ、民間においても、ボランティア団体を核としてネットワーク化が進められています。

 しかし、そもそも裁判が誰のためにあるのかどうかという根本的な問題に目を向けなければいけないのではないでしょうか。この議論をないがしろにしては、何にも問題解決にはなりません。

 戦後の日本人は、社会システム自体に問題点があるとする議論を封印しました。それは、1970年代の学生運動の後遺症なのでしょうか。問題の原因を議論せず、封印したり、またはその責任を先送りする体質がいまの日本の政治・経済の低迷の原因であるのです。

 裁判は誰のためにあるのか、そして、何をするところなのかという根本的な問題を考察していきたいとおもいます。そこで、まず、主張したいことを箇条書きにした上で、各論に入りたいと思います。

一 主張したいこと

○ 主権在民の民主主義国家では、社会権や参政権、物件、債権、人格権などのすべての権利侵害にたいして、自力救済を禁じるかわりに、その救済機関として司法制度があり、その中で、裁判所は、権利の得喪関係を判断する機関である。

○ 加害者(原告)や被害者(被告)は、裁判所で、ともに自分の権利を主張する自由を与えられるかわりに、相手の権利を尊重しなければならない。したがって、裁判の弁護とは、代理人=弁護士は、相手の権利を否定することではない。主張する権利を否定するのは裁判官だけである。

○ 権利侵害をされた側は、相手が特定できれば、刑法の適用や賠償責任を請求できる権利がある。また、特定できる事実関係がありながら、その請求を否定することはできない。つまり、無責任ということはあり得ない。

○ 犯罪などの、事実関係の、誤り・不正の有無などを調べるのが検察の仕事であり、それを決定するのが、各専門家による陪審員とするべき。

○ 裁判官は、原告被告の権利の主張と、陪審員の確定した事実をもとに、法に準じて請求の有無とその範囲を確定するのが職務であるべき。

○ 刑務所は、基本的人権を制約する場であり被害者に対する賠償責任を果たすために労働するのであり、更正のための労働は資本主義では認められない。


二 日本の検察制度は民主主義と相反する

 まず、日本の裁判制度は、刑事事件と民事事件に分類されています。「大辞林 第二版」では下記のように説明されています。

○ 刑事事件
犯罪事実の有無を調べ、有罪・無罪などを判断する裁判。

○ 民事事件
私人間の生活関係に関する事件。私法の適用を受け、民事訴訟の対象となる。

 この分類はよしとして、問題は日本の検察制度です。日本の刑事裁判では、加害者は、検察庁から裁判所に起訴されて裁判にかけられます。検察庁が起訴するわけですから、原告は検事となります。これは、検事は被害者の代理として原告席に座るのではなく、法律とその背景である国家を代表しているということです。

 つまり、裁判所が、犯罪事実の有無を調べ、有罪・無罪などを判断するのは、控訴人と国家との争いであり、被害者は関係がないということです。これに対して、犯罪被害者が、主体的に裁判を起こせるのは民事裁判となりますが、ここでの争点は過失責任による損害賠償が争点となります。

 民法では、物件の権利侵害にたいして自力救済が禁じられています。侵害された権利を回復したりと、応分の損害請求を行使するのを国家が代行するとし裁判所があり、その判断基準のルールとして民法があると規定しています。

 それでは、刑法ではどうでしょうか。刑法では、「犯罪をしたら懲らしめるべしとする、復讐心と見せしめを目的とする刑罰。」である広報思想と、「犯罪をしたら、施設にいれて隔離するとともに、改善されるまで教育するべきだ。」とする社会防衛思想がその根底にあります。つまり、権利侵害に対する思想はないのです。

 日本国では主権者は国民であり、国民は基本的人権である、思想・表現の自由などの自由権、生存権などの社会権、参政権、国・公共団体に対する賠償請求権などの受益権は国民に平等に与えられています。問題は、この社会権や参政権の主体は、国家との契約であり刑事事件の範疇とし、物件の主体は、国民間の契約として民事事件の範疇と分けてしまっていることです。

 つまり、民法でいう物件や債権の権利は、自力救済を禁じる代わりに、国家がその権利を保護したり回復させますとしていながら、国家との関係である社会権などの権利侵害は、国民は不在という論理なのです。しかし、主権が国民であるのに、社会権の権利侵害に国民が排除されるのは論理の整合性はありません。主権は国民にあるのに、刑事事件は、国家と加害者との争いであるなど、憲法の全文を否定しているのは明白です。

 そうではなくて、主権在民の民主主義国家では、社会権や参政権、物件、債権、人格権などのすべての権利侵害にたいして、自力救済を禁じるかわりに、その救済機関として司法制度があり、その中で、裁判所は、権利の得喪関係を判断する機関とするべきではないでしょうか。 

三 検察の職務を明確に

 検察という語句を辞書で調べると、「誤り・不正の有無などを調べること。細かく調べること。」と書いてありますが、検察官という語句を調べると「犯罪を捜査し、公訴を提起して、裁判の執行を監督し、また公益の代表者として法律によって与えられた権限を行使する国家機関」と書かれています。

 本来の検察の意味は、「誤り・不正の有無などを調べること」であるのに、検察官となると、「公訴を提起して、裁判の執行を監督する」という意味が入るのは何故でしょうか。というのは「公訴を提起して」ということは、捜査の段階で、犯罪者であるかどうか検察が判断するとしているからです。つまり、起訴するかしないかは、検察官の判断であるとすれば、検察官=裁判官となるのではないかという疑問です。

 もちろん、不起訴を不服とする場合に、申立てする制度はありますが、本来、その審議は、裁判所でするべきであり、検察は、中立の立場で捜査した内容を、裁判所に提出すればいいのではないのかと思うのです。

 また、検事は、刑事事件で、国家の代表として原告側として裁判に参加してはいけないと考えます。なぜならば、主権在民の民主主義国家では、社会権や参政権、物件、債権、人格権などのすべての権利侵害にたいして、自力救済を禁じるかわりに、その救済機関として司法制度があるとすれば、現状の刑事事件も、原告は加害者であるべきであり、その代理人として弁護士がつくのが当然だと考えるからです。

 いわゆる犯罪は、被害者側からの請求で裁判が起こされるものであるのではないでしょうか。そして、被害者、加害者側はともに、自身の権利を主張するために弁護すればいいのであり、その代理人が弁護士であるべきでしょう。

 つまり、検察は、犯罪などの事実関係に対して、誤り・不正の有無などを調べるこという本来の職務に徹するべきであり、その後処理は、裁判所が行うべきではないでしょうか。

四 弁護士と裁判官の役割

 事実関係の有無は、各専門家で構成される陪審員で確定し、それを基準に、権利の得喪関係を、裁判官が法というルールに従い判断するべきでしょう。裁判官は、いわゆる審判という職務に徹するべきであり、その判決が法的に整合性があるかないかの専門性が必要なのです、つまり、ゼネラリストではなく、法曹としてのスペシャリストであるべきです。

 そして、弁護士は、依頼された人の権利を主張するのが職務であり、相手の不法行為を立証し、白黒つくまで戦うなどいうのは、小説やドラマの世界の話であることを自覚するべきです。原告の無実を立証するのが弁護士の職務ではなく、原告の権利を主張するのが弁護であるのです。裁判は、勝つか負けるかのゲームではありません。法というルールの中で、権利の得喪関係を決するのが裁判であるのです。

 このように考えれば、精神喪失で責任能力があるかないかなどというゲームのような裁判は起きるはずはありません。精神病であろうとなかろうと、加害者としての事実関係が立証されるかぎり、その責任から逃れることは出来ないからです。

なぜなら、権利侵害をされた側に自力救済が禁じられている限り、国は、その請求先を特定し、請求を履行させる義務があるからです。対抗関係が確定していながら、被告側の請求先が不在などということはあり得ないのです。この基本を否定するならば日本は法治国家ではなくなります。


五 事実関係を確定するのは専門家による陪審員制度で

 検察という語句を辞書で調べると、「誤り・不正の有無などを調べること。細かく調べること。」と書いてありますが、検察官という語句を調べると「犯罪を捜査し、公訴を提起して、裁判の執行を監督し、また公益の代表者として法律によって与えられた権限を行使する国家機関」と書かれています。

 本来の検察の意味は、「誤り・不正の有無などを調べること」であるのに、検察官となると、「公訴を提起して、裁判の執行を監督する」という意味が入るのは何故でしょうか。というのは「公訴を提起して」ということは、捜査の段階で、犯罪者であるかどうか検察が判断するとしているからです。つまり、起訴するかしないかは、検察官の判断であるとすれば、検察官=裁判官となるのではないかという疑問です。

 もちろん、不起訴を不服とする場合に、申立てする制度はありますが、本来、その審議は、裁判所でするべきであり、検察は、中立の立場で捜査した内容を、裁判所に提出すればいいのではないのかと思うのです。

 また、検事は、刑事事件で、国家の代表として原告側として裁判に参加してはいけないと考えます。なぜならば、主権在民の民主主義国家では、社会権や参政権、物件、債権、人格権などのすべての権利侵害にたいして、自力救済を禁じるかわりに、その救済機関として司法制度があるとすれば、現状の刑事事件も、原告は加害者であるべきであり、その代理人として弁護士がつくのが当然だと考えるからです。

 いわゆる犯罪は、被害者側からの請求で裁判が起こされるものであるのではないでしょうか。そして、被害者、加害者側はともに、自身の権利を主張するために弁護すればいいのであり、その代理人が弁護士であるべきでしょう。

 つまり、検察は、犯罪などの事実関係に対して、誤り・不正の有無などを調べるこという本来の職務に徹するべきであり、その後処理は、裁判所が行うべきではないでしょうか。


六 刑務所は基本的人権を制約する場所

 この権利の得喪関係で、基本人権を喪失させることが刑務所にいれるなどの懲罰であり、本来損害賠償などは、基本的人権の制約を受けながら労働することで返していくべきです。つまり、社会防衛思想を基本とするよりも、基本的人権を制約することが懲罰であり、犯罪に対して被害者の賠償責任を履行する労働の場としての服役を基本とするべきです。

 もっとも社会主義経済の国家では、社会防衛思想の面が強く出るのは仕方がありません。したがって、社会主義経済の日本では、社会防衛思想の概念や、立憲君主国家に見られる前近代的は検察制度が正当化されてしまいます。しかし、資本主義と民主主義を基本に考えれば、この社会防衛思想や検察制度が、民主主義と資本主義といかに整合性のないナンセンスな制度であるか明確です。

 従来の広報思想や社会防衛思想は、国家と国民の関係を無視した議論であり、また、懲罰という概念から、他人の権利侵害にたいする賠償責任と、従来の広報思想や社会防衛思想を具現化する基本的人権の制約と考えれば、犯罪にたいする責任能力のあるなしなどの無駄な議論もなくなるでしょう。

 なぜなら、懲罰としての刑罰から、権利侵害に対する賠償責任とすれば、加害者が責任能力がないからといって、被害者の請求の行き先がないとなれば、権利そのものの存在が否定されるからです。権利という存在は絶対であり、その権利侵害に対する請求先が、主権者の国民の中にないということはあってはならないのです。


七 政府の司法制度改革の目的は、法曹の責任回避だ

 司法制度改革では、刑事裁判のうち重大と思われる事件についてのみ、一般市民から選ばれた裁判員が、裁判官とともに評議・評決を行うという「裁判員制度」の導入が検討されています。また、犯罪の被害にあった人や犯罪を告訴・告発した人から、検察官の不起訴処分を不服として検察審査会に申立てがあったときに審査をする「検察審査会制度」の導入も検討されています。

 しかし、「裁判員制度」も「検察審査会制度」も、ともに、法曹人側の視点から提案されていて、国民の側からの視点にたった改革案ではありません。司法制度審議会の改革案は、裁判の迅速化や、判決の責任転嫁などが目的であります。裁判の迅速化については、国民の側によっても利点がありますが、裁判官の判決の責任を、一般国民に押し付ける裁判員制度や、「検察審査会制度」には異議を唱えます。

 日本の裁判所と国民の乖離は、冤罪事件やずさんな警察の捜査、論理の展開がない判決など、権力側との癒着などが原因ではないでしょうか。私は、「裁判員制度」や「検察審査会制度」の設置については同意するものですが、その内容については、違う意見をもっています。以下に、「裁判員制度」や「検察審査会制度」についての意見をします。

八 裁判員制度について

 まず、裁判員制度ですが、これは「刑事訴訟手続において、広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度」と説明されています。選挙人名簿から無作為の選ばれた一般市民が、裁判官の仕事を行うというもので、有罪か無罪か・刑はどうするか・損害賠償額はいくらかなどの判断を下し制度の陪審員制度との違いは、刑事裁判のうち重大と思われる事件についてのみ採用される事が予定されていることといわれています。

 問題はこの重大と思われる事件というところです。重大と判断する基準はなんのでしょう。また、国家が重大と思われる事件についてのみ、裁判員制度で裁判に国民を参加させる。この意味はなんなのでしょうか。

 日本の司法と国民との信頼関係の乖離は、戦後の復興期に起きた帝銀事件や、1974年、兵庫県西宮市の精神薄弱児の収容施設、「甲山学園」で起きた二人の園児の死亡事件に端を発したいわゆる「甲山事件」甲山事件、最近では、仙台市の北陵クリニックでおきた筋弛緩剤点滴混入事件など、冤罪を争う事件が原因でしょう。つまり、司法制度に対する国民の重大な関心事は、冤罪という公権力の犯罪なのです。

 このような冤罪という公権力の犯罪は、犯罪を捜査し、公訴を提起して、裁判の執行を監督するという検察制度にあることは先のも述べましたが、司法権力が考える司法制度改革には、法曹人の既得権益を中心にしたものであることを国民は理解するべきでしょう。

 法曹人の既得権益を念頭におけば、日本の裁判員制度は、判決などにたいする裁判官の責任を回避するのが目的であり、責任を裁判員になった国民に押し付ける行為でしかありません。しかも、司法制度改革審議会は、「刑事訴訟手続において、広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度」と、堂々と裁判官の責任転嫁を意見書に入れていてます。

 法曹側からではなく、国民の視点にたった裁判員制度を主張するならば、裁判員制度の導入理由である、「裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映される」という点を争わなければならない。なぜなら、犯罪の有無をきめるのは、常識ではなく、それを証明する事実であり、社会が多様化する中で、交通事故や、医療事故、そして、DNA鑑定などの科学捜査など、それぞれの分野での、専門家としての議論や結論が必要であり、裁判官は専門的な分野について意見をしたり、判断することは不要なのである。

 殺人事件でも、状況証拠で、犯人であると確定するのは裁判官ではなく、それぞれの分野での専門家のよる協議の結果を受け入れて、それを法律に照らしあわせて判決をすればいいのです。裁判官の判断する裁量は、法律に順守した範囲であり、多様化する社会で、それぞれの分野に精通することを求めてはいないし、それが無理であることは常識なのです。それなのに、閻魔大王様のなったつもりで、いろいろな分野での証拠にたいする判断をするという行為が、国民には非常識となるのです。

 むしろ、論理の展開の整合性を国語辞典に求め、判決の正当性と整合性を六法全書に求めるという姿勢が重要でしょう。特に前者の、論理の展開の整合性を国語辞典に求めると言う点は、日本の裁判官の論理力は、中学生のレベル以下でしょう。


九 検察審査会制度について

 冤罪事件とは逆ですが、本来犯罪であるのに、犯罪でないとする警察と検察の事件隠蔽の問題も、クローズアップしています。これは、神奈川県警戸部署で取り調べ中の男性が拳銃の発砲で死亡した民事裁判で、横浜地裁が「警察官の誤射」と認定したのを受けて、神奈川県が『自殺』として控訴をしている「戸部署容疑者銃殺疑惑」や、交通事故と主張する徳島県警にたいして、殺人事件だと訴える家族の「徳島の元自衛官不審死事件」などです。

 このような事件に対して、検察官の不起訴処分を不服として検察審査会に申立てがあったときに審査をする「検察審査会制度」は当然あってしかるべきと思いますが、問題は、これも、選挙権を有する国民の中から選ばれた11人の検察審査員が、一般の国民を代表して、検察官が被疑者に対する不起訴を審査するということです。

 「犯罪を捜査し、公訴を提起して、裁判の執行を監督し、また公益の代表者として法律によって与えられた権限を行使する国家機関」である検察に、一般市民の検察審査員が、自由に発言したり、意見をいうことがきでるでしょうか。

 私は、司法という公権力の圧力に対抗するには、立法府であるべきと思います。つまり、司法権力の抑制する立法府(国会議員)に「訴追権」を与えて、検察の不起訴に異議を唱える国民の陳情を受けて、国会議員が情報公開制度などを駆使して事件を検察し、訴追できるようにするのです。犯罪であるのか、また違法であるのかは裁判所に任せればいいのです。たいいち、検察の段階で不正の有無を判断するのならば、裁判所はいりません。

 司法に対する抑制機能として、裁判官には「弾劾裁判権」を、警察と検察官には「訴追権」を、立法府である国会議員に付与するのです。国民の陳情は、利権ばかりではないのです。自力救済を禁じる法治国家では、失われた権利の回復を「法」で求めなければなりません。その「法」をつかさどる司法権力の抑制機能を、間接民主主義の中で、国会議員がその役割を果たすのは当然です。

2003/11/21  改訂