一 民主主義と政治
大辞林では、政治とは「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動」また、広義には、「諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合すること」と書いてある。
国家の主権が限定した国民にある国家では、政治とは「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動」という説明はとても理解しやすい。 また、権力に関わり合いのある人間の織り成す行動や活動は、国家、地方自治体、企業など、組織の大小にかかわらず、その組織内の人間関係はすべて政治といえるであろう。
それでは、主権が国民にある民主主義の政治ではどうであろうか。権力作用に関わる政治家が「諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合すること」を政治というのであろうか。
権力で争う利害とは権益のことである。民主主義では権利は、国民に等しく与えられているが、権益は社会の諸活動で生まれる。この権益をめぐる利害の対立を調整・統合するのもまた政治であるのだ。つまり、権利を持つ既得権益者ともたざる非既得権益者の対立が民主主義での政治の基本構造といえるだろう。
従来の資本家と労働者階級という対立ではベルリンの壁の崩壊は説明できないが、既得権益者と非既得権益者の対立と考えれば、論理は成立する。また、この対立は、資本主義社会でも社会主義社会でも通用するだろう。
二 「多数決」と「権利と権益」
権益をめぐる対立の最終決着は多数決である。この多数決で、少数意見を切り捨てればそれは「弾圧」であり、逆に、少数派が、多数派の意見を切り捨てればそれは「独裁」となる。
また、既得権益者側が多数であるときに、非既得権益者の声を無視するのは「差別」であり、少数の既得権益者が、多数の非既得権益者に既得権益を奪われることを「革命」という。「弾圧」、「独裁」、「差別」、「革命」は、基本的に権益をめぐる得喪関係で起こるものであり、思想や信条、宗教はその「動機」にすぎない。
政治における「議論」とは、権益をもとめて論じ合うことであり、権益の妥協と統合を求めることは重要だが、それはともに既得権益の側の話である場合に成立する論理だ。
これとは対照的に、非既得権益者側が政治に求めるのは「自由と権利」だ。既得権益は経済を成長させ安定させるが、既得権益は「利権」となり、経済の活力をなくしモラルを失い経済を蝕む。既得権益のリセットは、経済にとって不可欠であり、民主主義はこれを求める。既得権益は「自由と権利」と対立するからだ。このリセットをいかにするかが現代の政治に求められている。
非既得権益者側が多数になった時の政治は、権益の調整や統合ではなく、多数決による既得権益のリセットしかない。既得権益者側が成長する段階では、既得権益側と非既得権益側の利害は調整できるが、両者の格差が広がり、階級として固定化されたときには、どちらかの権益を排除せざるを得ないのだ。
三 政治における議論とは
権益をめぐる得喪関係が政治だ。そして、それを限られた人々によって決められるのが独裁国家であり、主権在民を基本とする議会制民主主義で、その得喪関係が決定されるのを民主国家といえる。
そして、多数決が民主主義の基本にあるならば、多数決の結果は優先されるべきものであり、少数派の意見は、議論のなかで利害や権益の調整と統合を求めるべきである。重要なのは、利害や権益の調整と統合を求める議論が、多数決より優先しないことである。少数が多数の意見を抑えることは弾圧であり、非民主主義となるからである。
そして、議論には、意見の調整と統合の手段でもあるが、基本的なイデオロギーに関しては、その争点を明確にしなければならない。この議論は、論理で相手を負かすものでもないし、主張することでもない。争点を明確にして、自分の政治・経済のスタンスを明らかにして、国民に選挙でその審判を仰ぐために議論をするべきなのである。
いうなれば、権益と向き合う時は、調整や統合を目的とした議論であり、イデオロギーという政治の基本スタンスを明確にするために議論をするのは、有権者に向けた議論といえるであろう。
四 原理資本主義
経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれるが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要だ。経済の需要と供給のバランスは、資本の寡占化とその解体を交互に起して技術も発達してきた。経済は、自由経済と統制経済を繰り返すことで成長する。
また、統制経済では利権を生み、市場経済の自由は奪われていくが、その利権をリセットするのが民主主義だ。民主主義は、統制経済と自由経済のバランスを担う役目を持ち、資本主義の成長とともに、民主主義も成長する。
高度に成長した資本主義と民主主義は、社会資本による経済の「公需」と民間資本の経済である「民需」という二つの経済を持つ。「公需」の割合が高い社会は、いわゆる社会主義経済であり「統制経済」の側面が強く、民需の割合が高い社会は自由経済で、福祉や年金という社会保障制度も自己責任の割合の強い市場経済の社会となる。
統制経済と自由刑経済と、公需と民需のバランスが政治であり、国民は、自分自身がどの層にいるかを認識することが必要であり、それぞれの立場で自己の権益を主張する場が政治である。そして、国会議員は、どの層の国民の権益を代弁するのかを明確にしなければならず、それが政治家のスタンスとなる。そして、その求める権益を主張する均衡とバランスを、民主主義の原理原則に求めなければならない。
五 既得権益のリセットに必要な民主主義
資本主義の矛盾を解放する経済のリセットは、既得権益のリセットでもあると言える。そして、統制経済と既得権益を否定するのは政治であり、これを民主主義的に決定するのが多数決であるということだ。
自由経済から統制経済に移行するとき時代の政治は、「権益の調整や統合」となるが、非既得権益者側の国民が多数を占めるようになったとき、既得権益はリセットされなければならない。
統制経済を支えるイデオロギーは社会主義経済であり、自由経済を支えるイデオロギーは資本主義経済だ。この既得権益のリセットは、社会主義経済論者と資本主義論者の議論は噛み合うことはないだろう。
重要なのは議論することで、双方の争点を明確にすることだ。争点が明確になれば、それを克服する諸政策を双方が打ち出せばいいのであり、それが政治を選択する権利として主権者である国民に委任されるのである。そして、この議論を支えるものがイデオロギーであり、この時代の政治家にとってイデオロギーは必要不可欠となる。
権益と向き合う時の政治では、調整や統合を目的とした議論や政治でもいいだろうが、既得権益をリセットする時代には、議論することで「イデオロギー」を明確にして、として、既得権益者か非既得権益者のどちらの側に立つのか、政治の基本スタンスを明確して、その選択肢を国民に提示することが政治となる。政治の基本原則は多数決なのだ。
国民一人一人が、既得権益側にいるのか、非既得権益側にいるのかを認識して、自分達の権益を代弁してくれる政治家を求める行動が選挙だ。この時代の選挙は、二者択一の政治でなくてはならず、明快な政治スタンスの違いを政治家は国民に示さなければならない。
権益と向き合う政治ではなくて、有権者に顔を向けた政治をしなければならず、資本主義の矛盾が、恐慌や戦争を繰り返すのと同じように、民主主義では、二者択一の政治の時代が巡ってくるのである。
この時代に、既得権益側が民主主義を封印すれば「暴力」でリセットされ、成長した民主主義国家では、選挙によるリセットが可能であり、また、それを求めなければならない。そして、そのためにも、権益に向き合う政治から、有権者と向き合う政治への転換が必要であり、それを支えるイデオロギーが必要となる。
六 原理資本主義の政治
原理資本主義では、既得権益を否定しているのではない。ただ経済の流れの中で、既得権益のリセットが必要ではないのかと問題提議している。そして、「公需」と「民需」の経済があり、前者では統制経済を認めている。ただ、この両者の棲み分けが必要であり、既得権益の制御は、社会の活力とモラルに深くかかわるとしている。
「公需」と「民需」のバランス。統制経済と自由経済のバランスが政治であり、これは、権益の調整や統合というものではなく、多数決によってバランスを保つものだと言っている。
したがって、「公需」にバランスが傾いていると国民が思えば、「民需」にシフトする政策を求める声が多くなり、「公需」の既得権益がリセットされる。逆に、「民需」にバランスが傾いていれば、「民需」の既得権益がリセットされる。この政治を基本に、国家としての権益を求める外交という国際政治があるのではないだろうか。
とすれば、政治家は、国会で議論するのは、相手を論理的に負かすのではなく、争点を明確にし、その政治スタンスを国民に明示することが政治ではないのか。そうであれば、その意見は、国会議員一人一人が発信するものであり、党議拘束などで、国会内での発言や表決の自由を奪う非民主主義の制度や行為は許されるものではない。
政治家は、政治問題にたいして、自分自身の考えを言うべきだし、その基となる政治・経済のスタンスを明確にしなければならない。インターネットは、それを周知させることを可能にしているし、また、政治・経済の基本スタンスがわからないようであれば政治をするべきではない。
政党の駒としての満足している国会議員は、その存在自体が民主主義を冒涜しているということを認識するべきだ。