原理資本主義で考える日本経済

はじめに

 日本経済が迷走して十数年経ちますが、いまだにそのビジョンは見えてきません。エコノミストや経済学者が他人の論の受け売りを中心とする百家争鳴の議論はうんざりです。

 問題の解決は、原因を特定することが重要であり、この原因を取り除く対策や処方箋は試行錯誤が許される。逆にいうと、特定する原因がまちがっていれば、対策や処方箋はなんの役にもたちません。原因を特定する作業に人的及び知力を結集しなければならず、この議論の過程に、妥協や歩みよりをしてはいけないのです。原因の特定は、限りなく限定的であり、消去法の議論にて原因を集約しなければならないないずです。

 これを前提に考えると、日本経済を語る政治家やエコノミストや学者は、この原因を特定する議論をせず、対策や処方箋を主張することばかりではないですか。本来、人的資源と知力を集めて議論するべき原因の特定をせず、欧米の受け売りである経済政策を披露することに夢中となっている日本の政治は、まさに百家争鳴の議論でしかありません。

 私は、現在のデフレの原因を、戦後半世紀の経済の歴史を振り返り検証することで特定してみたいと思います。なぜならば、原因を特定すれば、何をするべきかが見えてくるし、私の持論である資本主義の基本に立ち返る「原理資本主義」に結びつくと考えるからです。
 1 高度成長について
 2 レーガノミックス
 3 ベルリンの壁の崩壊
 4 カジノ資本主義
 5 日本経済混迷の原因
 6 原理資本主義
 7 原理資本主義を基本とした諸政策
 8 「地域通貨」と「原理資本主義」
 9 金融市場経済と実体経済の分離

1 高度成長について

 戦後日本の高度経済成長の要因は、政治的には、日米安保によって防衛費へ財政支出を公共事業に回せたという意見もその要因として大きいでしょうが、私は、戦後のインフレに注目してみたいと思います。

 インフレを考えるにはデフレと対比するとわかりやすい。インフレとデフレを引き起こす要因は二つあります。一つは、需要と供給の関係。もう一つは、貨幣及び信用供給のバランスです。この二つの要因が、交差しながら景気の波は繰り返されるのであり、経済状況を考える時この要因に着目するのは当然でありましょう。

 インフレとデフレの定義は下記のとおりです。

● インフレの定義
@ 供給が有効需要に対して不足することによる一般的物価水準の上昇
A 貨幣および信用供給の引き上げによって、貨幣供給量が流通に必要な量を上回ることから派生する一般的物価水準の上昇のこと

● デフレの定義
@ 有効需要が供給に対して不足することによる一般物価水準の下落
A 貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落のこと。

 これを基本に日本の高度成長を考えるのですが、従来の、持続的な高度成長を支えたのは「輸出」であるとする意見ではなく、国内消費だとする意見であります。以下は、ビル・トッテン氏の論からの引用です。

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 グローバル化を始めとする、経済学に関する妄言に洗脳された読者は、上記の数字を見て日本の純輸出(輸出−輸入)が過去45年間を通してGDP全体のわずか1%に過ぎないことに驚かれるかもしれない。しかし、1955年以来、日本は国内総生産の99%を国内で消費している。日本の経済成長とともに輸出が増えたことは間違いないが、それと同時に輸入も増えているからである。?

 日本の生産が過剰だからといって、それを輸出で売りさばくことはできない。なぜなら輸出を増やせば、その分
輸入増を求める海外からの圧力が高まるからである。例えば乗用車の輸出を増やせば自動車部品の輸入増を、またテレビゲームの輸出を増やせばりんごや米の輸入増を求められるといった具合だ。?

 上記GDPの内訳にある民間資本形成の目的は、製品やサービスの生産能力を増大させることにある。企業が資本形成を行うのは、それによって増えた生産能力で作られる物がすべて売れると考えられる時だけである。生産能力増大のための民間資本形成は、厳密には民間消費、社会消費および輸出向けの3つに分けられる。したがって民間資本形成の中から民間消費分だけを割出すには以下のような数式になる。そして、個人消費60%に、民間資本形成のうち個人消費に使われた26%を加算した合計86%が、日本のGDPの中で個人消費に向けられた分であるといえる。?

                60%(個人消費)?
30%(民間資本形成)X  ------------------             =26%?
                60%(個人消費)+10%(社会消費+輸出)

(ビル・トッテンからのレター:No.469 日本のデフレの原因から引用)
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 戦後の高度成長を支えたのは輸出であるとする意見を否定するこの意見は、拒絶反応を起こす人も多いいでしょうが、拒絶反応を示す前に、この意見を横において、下記の意見を読んでいただきたい。

 インフレの定義は、「供給が有効需要に対して不足することによる一般的物価水準の上昇」そして「貨幣および信用供給の引き上げによって、貨幣供給量が流通に必要な量を上回ることから派生する一般的物価水準の上昇」と先に定義しましたが、これを基本に高度成長を論理付けすると、

 まず、戦後の物不足からアメリカを目標に社会生活の向上を求めた日本国民の消費意欲は旺盛であり、その旺盛な消費意欲をささえたのが、物真似と揶揄された「技術力」であり、生産性の向上を可能にした「勤勉」だったと考えます。つまり、有効需要を支えるのは、明確な社会ビジョンが必要であり、その有効需要を支える供給能力を支えるものは、技術革新と生産性の向上だということです。

 高度成長を支えたのは、中小零細企業の町工場であり、彼らの経験で得られる知識を基とする技術力は勤勉で支えられていたということに異論を挟む人はいないでしょう。そして、アメリカ社会という目標は、日本国民の消費意欲を支えたのです。

 以上は、需要と供給の面からのインフレの側面をみましたが、貨幣や信用供給の面ではどうでしょうか。これは、戦後の土地価格がバブル崩壊まで一貫して右肩上がりであったことに注目するべきです。土地という信用供給の右肩上がりの上昇は通貨供給量を拡大させました。インフレは賃金の上昇をともない、日本国民は貯蓄に励み、借金をして不動産(持ち家)を購入しました。

 貯蓄は、土地を担保とする資金需要を支え、財政投資を通じて行われる公共事業の資金は、高速道路を延ばしました。また、この不動産購入は、自動車や家電という戦後の日本経済を牽引する産業を支えます。

 日本の高度成長は、この土地という信用供給の引き上げによる通貨供給量の拡大と、先行投資や消費という資金需要が、拡大した通貨供給量を吸収するというように、先行投資や消費と通貨供給量が、歯車のように噛み合ってできた現象であり、世界の経済史のなかでも画期的なことだったと考えるのです。

 ここで、ビル・トッテン氏の、「戦後の高度成長を支えたのは輸出ではなく国内消費だ」とする意見に対してですが、逆説的ではありますが、土地バブルと持ち家制度以外で、高度成長を説明することはできるでしょうか。輸出を中心に、高度成長を論理付けすることができるかということです。

 「戦後の高度成長を支えたのは輸出ではなく国内消費だ」とするビル・トッテン氏の指摘は正しいと思うし、その方が、経済の歴史を合理的に説明できると思います。



2 レーガノミックス

 1980年代、インフレ、失業、双子の赤字で苦しむアメリカは、日本の高度成長に注目した。高度経済を支えたのは、日本国民の勤勉と技術力だとする評価は、日本国民は鼻高々となり、NHKのプロジェクトXなどの番組は、絶頂期の日本の時代を忘れられない日本人の心情が手をとるようにわかる現象であり、そこに、明日の日本の道を探し求めている。

 しかし、アメリカが日本の高度成長を客観的に調査しているときでも、日本はアメリカをお手本としていて、当時の経済学者やエコにミスは、レーガン大統領が打ち出す「レーガノミックス」を日本のそのまま紹介した。相手チームの戦略研究したものを、そのまま公開するはずがありえないのに、盲目的にアメリカに追従する日本人のエリートは、終身雇用や年功序列を否定した。先のプロジェクトXとは対照的に、日本国の権益を失わせた汚点であることに気が付かなければならない。

 アメリカが日本の高度成長から学んだことは、信用供給の引き上げによる通貨供給量の拡大と、それを吸収する貯蓄と財政投資のシステム。そして、高い生産性を支える日本国民の勤勉だったはずだ。

@ 土地という信用供給の引き上げによる通貨供給量の拡大
A 高い生産性を支える日本国民の勤勉性
B 貯蓄と財政投資という資金還流システム

 この@からBまでの日本経済の特色を取り組んだのが、レーガノミックスです。日本では、財政支出の大幅削減、減税、規制緩和、マネーサプライのコントロールというように紹介されていますが、ポイントは、従来のケインジアンの政策とマネタリストとの融合政策であり、これを支えたのが、通貨供給量の拡大と財政投資による資金の還流システムだったと思うのです。

 そこで、個別に比較していきたいと思いますが、まず、@の信用供給の引き上げの対象は、日本では土地でしたが、当時のアメリカは、特許に焦点を絞りました。特許を支配することで、株式という信用供給の引き上げを目論んだとする意見です。当時のアメリカは、世界中から研究者を集め、国内の教育の改革にも力を入れました。当時、日本では、OSとして期待されたトロンや、光りファイバー計画など、アメリカの圧力で押しつぶされ、特許や知的財産権にたいするアメリカの執着はすさまじいものがありました。

 つぎに、生産性の問題ですが、アメリカは、コンピューターの開発にこの活路を求めました。販売費などの間接労働の合理化で生産性を引き上げようとしたのです。これは1985年以降の、WINDOWSとMACの競合で、パソコンによる合理化が進み、1990年代で生産性のおいて日本を抜き返すことになります。これは、間接労働者の合理化でありましたが、日本では、単なる首切りとして直接労働者もその対象になりました。

 この件に関して、下記の「年功序列賃金体系の功罪」という私の論をお読みください。

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(年功序列賃金体系の功罪)

 日本の高度成長経済が、73年のオイルショックでその伸びが鈍化しだしたころ、低成長時代の経済構造への転換として、80年代から、年功序列・終身雇用の賃金体系を、欧米型の能力主義の賃金体系に切り替えてきた。

 経営側からの、年功序列や終身雇用のデメリットは、アメリカ経済の賃金体系と比較して論ぜられ、生産性向上を能力主義に求めた日本の学識者と、当時の財政赤字に苦しむアメリカが、この年功序列と終身雇用のメリットを学んでいたのと、正反対の行動であった。

 年功序列・終身雇用の賃金体系が、日本の高度成長を支えた事実を認識せず、欧米の賃金体系を盲目的に論ずることが日本の学識経験者の愚かさに悔やむことは、今からでも遅くはない。

 年功序列や終身雇用の賃金体系が求めていたのは、会社への忠誠心や、帰属意識の高さばかり論ぜられてきたが、経営側が、この賃金体系で求める労働者とは、経験で得られる知識を蓄積した労働者であり、その生産性の高さではなかったのではないだろうか。

 戦後の日本の教育では、知識は与えられるものであり覚えるものであった。その知識は、社会人としての、労働者の階層化の数値でしかなく、高いレベルの労働者層に入ることで、その生涯賃金が保証されたのが終身雇用であろう。

 しかし、経営側が求める労働者とは生産性の高さであり、マニュアルを完璧に覚えることが、生産性を上げるものでないことに気が付く経営者も昨今、増えてきたのではないだろうか。

 労働者の生産性の高さを測る基準は、覚える知識ではなく、経験で得られる知識であり、その判断基準は、勤続年数や、その職長の判断であり、決してペーパーで測るものではないのだ。

 ラインでの単純作業の中に、経験で得られる知識があり、現場で繰り返される作業の中に習熟がある。この経験で得られる知識や習熟が"技術"であり、これが、日本経済を支えてきた。技術は机上で育つものではない。

 安い労働力を求めて、生産ラインを海外に移転したことは、その蓄積した知識や技術を捨てたのであり、再度、そのラインを日本に持ってきても、元の技術水準に戻るには年月を積み重ねるしかない。

 まして、単能工から多能工へとラインの構成が変化している今、経験で得られる知識を評価する賃金体系を求めることが、経営側と労働者側の双方が求めなければならない。

 年功序列と終身雇用の弊害は、「学歴と資格で生涯賃金が決まる社会」で起きるのであり、その社会のレールのパスポートを手に入れたあとは、人間関係だけに執着する社会では、年功序列と終身雇用は、既得権益の温床としかならず、その社会の頂点にたつのが霞ヶ関である。

 ただ、欧米の意見を紹介したりすることが、学識と考えている日本のエリートには、現状把握の重要性も、問題の原因を突き止める重要性を理解することはできないだろう。答えを教科書から見つける訓練しかしていない日本のエリートは、アメリカが押し付ける教科書を求め右往左往しているだけではないか。

 戦後の日本を、しっかり見つめなおし、その中に明日の日本のあるべき姿を求めるべきだ。アメリカに押し付けられた価値観を見直して、経済構造、賃金体系、政治構造、など問題と原因、そして長所と短所を客観的に論じ合うべきだ。イギリスがどうだ、アメリカはこうだとかいう口上は時間の浪費に過ぎない。
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 次に、貯蓄と財政投資という資金の還流システムですが、貯蓄にかわるものが、クレジットという与信制度の普及でした。株式投資を原資に借金をして消費をするシステムを取り入れ、財政投資の役割は、エンロンなどの民間企業に任せ、401Kなどの年金制度を構築する。

 アメリカは、日本の高度成長経済を研究し、そのシステムを自国にあわせて開発したのであり、この経済は、インフレターゲット論を基調とした経済であり統制経済です。日本の識者は「大きな政府」「小さな政府」という概念の踊らされ、ケイジアンかマネタリストかという対立ばかり目が向けますが、そうではなくて、「統制経済」か「「自由経済」かという選択であり、アメリカは、金融市場を核とする統制経済に走ったのです。

 このことは、第四章の「カジノ資本主義」で述べますが、エンロンの破綻で、カジノ資本主義が機能しなくなった時点で、戦争による消費行動にすんなり動けたのも、アメリカが統制経済であることの証明であり、アメリカの自由と民主主義の本質を見誤ってはいけません。

3 ベルリンの壁の崩壊

 「戦後の高度成長を支えたのは輸出ではなく国内消費だ」ということに、一早く理解しこれを政治に応用したのが田中角栄であり、彼の「日本列島改造論」は、この経済の流れを中央集権システムで運用する政治システムとして、霞ヶ関と自民党による一党独裁の社会主義経済を確立しました。これは、日本の高度成長のスピードを上げた側面とともに、ベルリンの壁の崩壊以降、社会主義が、経済や民主主義から否定された歴史の中で、日本の社会主義だけが取り残される結果ともなっています。

(1) 崩壊した社会主義経済は反面教師

 経済とは、労働という行為を、商品やサービスにかえて、消費する過程であり、その中で営まれる社会的諸関係をいいます。

 資本主義は、資本を投じて、商品やサービスを生み出す環境を整え消費による利潤を求めます。この資本を個人で投じるのが、所謂資本家という人々です。これに対して、社会主義とは、その資本を投じて作られた商品やサービスを生み出す環境=固定資本を国家の所有としました。そして、生産手段および財産の共有・共同管理、計画的な生産と平等な分配を目指しました。

 一九八九年ベルリンの壁の崩壊で社会主義は否定されました。これが意味するものは、資本家と労働者の対立を否定した社会主義は、社会資本を中央集権で管理する官僚が、資本家に取って代わっただけであるのが現実だったのではないでしょうか。そして、統制経済の矛盾と、それを制御する官僚と市民の階層化は、経済的な格差と貧困、そしてなによりも民主主義と対立したのではないでしょうか。

 社会主義では、計画経済による経済を目指し、資本の投入も決められた生産能力に基づいて国が決定しました。結果、人々は投入される資本や固定資本の「利権」を求めることを経済と思い込みます。それは、既得権益となり固定化していきました。社会主義経済は、経済で求めるべき消費や利潤ではなく、既得権益を求めた為、経済は破綻して、社会主義国家は内部崩壊したのです。

 既得権益の横行する経済には、機会の平等はなく経済の活力とモラルは後退します。生活を向上するための労働意欲が、既得権益で決まる社会では、労働市場の競争原理は働きません。社会主義経済は、経済の原理原則を見失い、経済と思想を混在してしまったところに大きな落とし穴がありました。

 利潤を求める行動を搾取と否定するのではなく、利権を求める行為が不平等な社会をつくりだすのであり、それが既得権益として固定化し階級社会を構成するのではないでしょうか。経済は、消費を求める社会の営みであり、利潤を追求する力は社会の活力です。利潤を求めず利権を求める社会では、経済は停滞し、国力は落ち、民主主義は封印されるのです。
 
(2) 既得権益を制御できない社会は崩壊する

 問題は統制経済で生まれる既得権益です。既得権益は経済法則では除外できません。既得権益は権力であり、この権力を制御するのが政治となります。既得権益を権力が制御できず、権力の交代が出来ない世界は独裁国家となり、経済も民主主義もその発展は望めません。また資本家や既得権益層と労働者や非既得権益層の階層間移動が、権力や企業の世襲制などで硬直した社会もまた、経済は硬直しその既得権益は民主主義と対立いたします。

 自由経済が発達すると、産業別にカルテルが生まれ、トラスト、コンツェルンと資本の寡占化が進みます。これを制御するのが政治であり、これらの経済運動を法律で寡占化する資本を制御ようとして、経済学が発達しました。

 それでも、資本主義経済は好景気と不景気を繰り返し、その度に、資本の寡占化と解体が繰り返されてきました。これは、既得権益が寡占化しまた解体することとも意味していました。そして、既得権益の声が政治であり、その声を後押しするのも制御するのも政治です。好景気のときには、資本の寡占化は既得権益を生み出し、不況時の倒産などの、資本の解体の時には、既得権益が政治力でそれを阻止する。この経済運動と政治が絡み合うのが資本主義なのです。

 崩壊したソビエトを中心とする社会主義国は、既得権益が経済の活力とモラルを失わせ、経済は混迷し国民の貧困と不満は増大していきました。社会主義経済では資本の解体は想定しておらず、市場経済を導入しようとしたゴルバチョフのペレストロイカは、その矛盾を鮮明にしていきます。結果、経済の困窮とソビエト共産党の既得権益層への反発は、ベルリンの壁を打ち砕いたのです。

 自由主義経済の国家では、統制経済と自由経済は、交互に繰り返していて、これが、所謂「景気の波」といわれ、好景気のときは資本の寡占化が進み、不況のときは倒産等で資本が解体されます。この時、抑制と均衡が保たれている民主主義の社会では、既得権益は制御されますが、抑制と均衡が保たれない社会は、既得権益が暴走して、資本の解体を阻止して資本主義は否定されます。資本主義が否定された国家は、すでに独裁国家となっていて民主主義は存在しません。

 このように考えると、資本主義と民主主義は同体であると私は考えるのです。経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするものです。そして、統制経済から自由経済の転換期には、民主主義が既得権益を制御することが必要であり、この時に既得権益が制御できない国家は、民主主義が否定され経済も破綻すると考えるのです。

 経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするのです。経済活動は、消費と利潤を求めるべきで、既得権益を求めてはいけません。そして、その既得権益を制御するのが民主主義であり政治でありましょう。

 この「原理資本主義」の考えは、金融市場を中心とするカジノ資本主義ともいえる経済と対峙する経済概念として、五章の「原理資本主義」で論をまとめたいと思います。


4 カジノ資本主義

 革命とは「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革。」または、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」です。前者は、フランス革命や、ロシア革命、最近ではイランのイスラム革命などがあります。後者では、産業や文化にたいするもので、一番に思い当たるのは、産業革命でしょう。

 産業革命は、人が、牛馬ではなく、蒸気という動力を手に入れたことから、地球の中での、人間の優位性を決定的にし、それは、国家間の圧倒的な格差を生みました。これは、「北半球を主とする先進工業国と、低緯度地帯および南半球にある発展途上国との貧富の格差がもたらす政治的・経済的諸問題」の南北問題として、殖民地の時代を経て、半世紀前まで続きました。

 南北問題は、「東側(旧ソ連を中心とする社会主義諸国)と西側(アメリカを中心とする資本主義諸国)との間の政治・軍事的対立を基調とする諸問題」である東西問題とともに、世界を二分していましたが、ソビエトの崩壊で新しい枠組みがおきます。

 それは、自由経済の名のもとに、株式市場によるキャピタルゲインをコントロールすることで、世界の経済を支配下におくアメリカの経済支配です。アジアや中国の産業の発達を容認し、自国の産業の空洞化がおきても、株式市場でのキャピタルゲインが国民所得を押し上げ、消費力を保っていく。アメリカは世界経済の消費を支えているという構図は、世界各国の産業の利潤を吸い上げるシステムの上に成立するものです。これをカジノ資本主義といいます。

 資本の調達システムとしての株式の制度は、本来の役目を、エンジェルファンドにゆずり、そのエンジェルファンドも、株式市場でのキャピタルゲインを求めています。資本の調達システムの目的をはずれ、キャピタルゲインを求める株式市場は、資本の寡占化を押しすすめ、資本は国境を越えて、経済を支配していきます。その経済は、資本と雇用者の構図が確立され、経済格差は、加速度的に広がっています。この株式市場による金融システムは、中央集権的な経済システムであることを理解することが必要です。

 このグローバリズム経済は、世界の工業力の均衡化を推し進めながらも、資本(石油・土地・資本)を持つものはさらに富んで、資本を持たざるものは、この経済システムに隷属されていきます。今は、国家間の経済格差というよりも、ウォール街を中心とする株式市場というカジノに参加するものと、しないものとの経済格差が開いています。それは企業も指すものであり、そこに参加する資本は寡占化を推し進め、新しい資本の投下は、限定した資本家の管理下に置かれています。

 この資本の寡占化を、カジノである株式市場は、勝手にルールをつくり、世界経済の、安定の名のもとに保護政策にはいります。アメリカは、自由経済の謳いながら、現実は統制経済に入っています。経済格差は固定化して、アメリカという国家の中でも、欧州、そして、日本でも、所得の格差は広がっていて、この対立が、反グローバリズムを生んでいるといえるでしょう。

 この株式市場のシステムを確立したのは、情報処理技術と情報伝達技術の進歩でありました。株式市場というマネーゲームは、そのゲームとしての性格を強め、その攻略法は、ノーベル賞まで動かしました。(その結果は、笑うしかありませんでしたが)。株式市場というのは、資本主義の資本の調達システムとして存在するものであり、その投機性を資本主義は否定していませんが、資本の調達手段としての機能をなくした株式市場を中心とする金融市場は、カジノ以外のなにものでもありません。

 アメリカは、金融市場で集めた資本で、世界の消費を担うことを公言し、それが、東欧や中国の旧社会主義経済国の経済発展を押し上げたのも事実です。じかし、経済格差を前提としや金融市場で行われるカジノ資本主義は、絶対的な経済格差を生み、それは、アメリカ国内での起きています。

5 日本経済混迷の原因

(1) 日本経済は、市場経済と官需を求める統制経済の混合経済

 市場経済では、経済は、好景気と不景気を繰り返しすものであることは異論がないでしょう。この波をなくすことを目標としたのが、社会主義であり、統制経済と呼ばれるものです。

 社会主義国の統制経済は、ベルリンの壁の崩壊とともに否定されました。原因は、統制経済は利権を生み出し、その利権を制御できなかったからです。そして、利権に蝕まれる社会からは、経済の活力とモラルが減退するばかりであり、結果として経済は破綻しました。そして利権がはびこる社会主義は、民主主義と対立し、専制主義になりました。

 日本の経済の現状は、自由市場経済での民間企業の成長と、官需で成立する統制経済市場の企業の成長は、ともに緩衝しあって急成長しました。自由市場経済での企業の経済活動は、勤勉で培った技術を持つ零細企業が支えました。その勤勉な国民を前提とした源泉徴収のシステムによる税や、道路特定財源などの税収を原資とする「公共投資」は、官需として投資され、この官需は官僚によってコントロールされて統制経済が成立しました。日本は、自由経済市場と、官需を市場とする統制経済が高度成長を実現したのです。

 つまり、日本は、資本主義と社会主義経済の混在する経済であるのです。その意味で、日本経済を牽引してきたのを、自動車と家電とする従来の説は、市場経済での牽引役であり、日本経済全体を指す言葉として不適当でしょう。

 そしてこの自由市場経済と官需を市場とする統制経済を支えたのが、護送船団方式といわれる銀行団でした。土地を担保としてその地価の上昇で、マネーサプライを増幅するというシステムの土地本位制は、日本の企業に、資金の安定した、持続的な供給を実現し、そして、急速な経済成長をもたらしました。

 日本の高度成長をもたらした要因は、市場経済と官需を市場とする統制経済が噛み合うことで、資本主義経済の命題である景気の波を、やわらげかつ、土地本位制による、銀行の護送船団方式の間接金融システムは、土地をいう打ち出の小槌を振って、マネーサプライを増やし、それを、市場経済と統制経済に持続的に供給することができたからではないでしょうか。日本の企業は、株式という直接金融による資本の供給を受けず、きわめて安定した経営ができたのです。

(2) 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

@ 会社更生法と民事再生法の違い

 従来の日本の企業再生の政策としては、会社更正法がありましたが、この制度では、会社は、経理上、開始決定によりそれまでの会社との関係はなくなり、新しい会社としてスタートすることになります。つまり、株主は株式を無くし、経営者は経営から排除され、市場からは一時的に去らなければなりませんでした。

 これに対して、民事再生法では、財産評定の制度で、会社更生法の財産評定が企業継続価値とするのに対して、民事再生法の財産評定は処分価格ですることが原則となっています。つまり、民事再生法では、会社は開始決定により事業年度が終わらないのであり、基本的に、株主は同じで、経営者は経営から排除されず、市場での存続が可能となります

 つまり、企業が持つ市場占有率を維持したまま、不良債権をオフバランス化することが主目的なのです。

A 産業再生法に求めるもの

 それでは、産業再生法は、会社更生法と民事再生法と、どのように違うのでしょうか。産業再生法は、バランスシートの問題よりも、生産性の向上を主目的にしたもので、多角経営に苦しむ企業や、過剰な生産設備を抱えた企業を助けるための制度です。だから、合併、営業・事業用資産の譲受、他社株式の取得、資本に対する相当程度の増資などの支援策が盛り込まれたのです。

 民事再生法は、「貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落」である、バランスシート型不況のデフレに対応する政策だということになりますが、これに対して、産業再生法は、生産性の向上を主目的としていて、事業者が営んでいる事業の中で生産性の低い分野からの撤退・縮小を進め、より生産性の高い分野に経営資源を重点的に投入する、「選択と集中」を促進するための政策なのです。

 つまり、産業再生法は、国内における多角経営の企業から、国際競争力のある企業の育成の政策であるということに注目するべきでしょう。

B 産業再生法の評価

 90年のバブル崩壊と、95年ぐらいからか、世界の工場となりつつある中国に代表される生産拠点のグローバル化は、消費大国のアメリカを基軸とする世界経済を確認する必要があるでしょう。民事再生法が、バブルの崩壊に対応した政策であるのに対して、産業再生法は、産業の空洞化に対応するために、国内産業の生産性の向上をリストラクチュアリングに求めたのは、経済状況からして理にかなっています

 しかし、日本が、生産性の向上に目を向けていたこの時期から、世界の工業製品の生産力は過剰気味となりつつあり、需要にたいして供給が上回るデフレーションが起きていました。

 日本は、下がりつづける物価に対して、1400兆の個人資産を背景に潜在需要はあるとして、供給側の問題はその視野には入れませんでした。財政出動とプライマリーバランスの矛盾を抱え、投資した財政は、官僚シンジケート団のピンハネ構造に食われ、ダム理論のダムの水はいつまでたっても、ダムから溢れなかったのです。

C 竹中経済相の企業再生に求めるもの

 竹中経済相の経済政策は、企業ビジネスの債権市場の原理を利用して、企業再生をはかる経済政策です。

 企業再生ビジネスとは、倒産した企業の不良債権を安値で購入し、その資産を基に企業を再生し、その企業が株式に上場することで、その株式資産の値上りによる利益、つまり、キャピタルゲインを求めることです。

 竹中経済相は、銀行を国有化してまでも、不良債権を債券市場にだして、債権市場原理によるリストラクチュアリングで、企業の再生をしようとしました。

 しかし、債権市場の市場原理を利用して企業を再生するというのは、求めるものがキャピタルゲインであることは明白であり、これで活気づく市場は、ウォール街を中心とする金融市場です。

 この市場は、為替の取引高が、貿易額の27倍である現実であきらかな実体経済とは異質の世界であることを理解しなければなりません。

D 企業再生法は、平成の徳政令だ

 これに対して、土地を含めた日本の資産を外資ファンドに支配させてはいけないと、この不良債権を政府が買い取ることを主目的にしたのが企業再生法です。つまり、企業再生ビジネスを官主導でやろうと言う訳です。これは言い換えれば、平成の徳政令です

 私は、「官の商法」は、道路公団をはじめ、第三セクターなど、「武士の商法」とは比較にならないほど、真っ青になるようなその経営実績は、犯罪でしかありません。霞ヶ関は犯罪者の巣窟なのです。官のやる企業再生ビジネスである企業再生法も、犯罪者にお金と企業を預けるようなものであり、犯罪を合法化する法案でしかありません。

 明確にしなければならないのは、特殊法人を頂点に、公需にぶらさがる企業と社会主義者の官僚と自民党を中心とする国会議員には、資本主義の概念は通用しないということです

E 何故、企業再生なのか

 それよりも、根本的な問題として、バブル崩壊以降、経済政策の中心は、企業再生を軸にしていたことに注視するべきです。企業を存続させ再生することで、雇用をまもり経済の活力を守るということが、はたして正しいのでしょうか。企業が成長することで、雇用の拡大することが、経済の活力を生むのでしょうか。

 不況の原因が、バブル崩壊後の、信用収縮から、生産性の低さによる企業競争の欠如。そして、いまの世界的な供給過剰によるデフレ不況と推移している状況で、利権しかみえない永田町は、いまだに、資産デフレを口にしていますが、日本の経済官僚は、民事再生法、産業再生法、そして、銀行の国営化による不良債権処理政策と、経済状況に即した経済政策をとっていると思います。つまり、現在の不況が、供給過剰が原因であることは経済官僚側も理解していると思います。

 ただ、私が問題とするのは、この政策の基軸となるのが、企業の再生であるということです。これは、企業の持つ市場のシェアの現状維持をスタートラインにしているのです。

 「経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。」という資本主義の原理からいえば、寡占化した資本のリセットを市場原理以外の権力で止めてしまうことは、新しい資本の寡占がはじまる動きを封印してしまうのではないかということです。

 市場をリセットすることで、資本が成長することが経済の活力を生み、寡占化していく過程こそが競争原理を生むのではないでしょうか。

(3) 供給と需要の状況をまず認識するべき

 好景気と不景気を判断する基準は、供給と需要の関係であり、いまの日本経済において供給は需要を上回っている現実を認識するべきでしょう。その上で、過剰な供給にあわせて、需要を押し上げるのか、供給の生産調整をまって、あたらしい需要の創出を期待するか。まず、この選択を議論するべきでありましょう。

 この点は、まず市場経済の面から見ると、パソコンの登場で、情報処理技術による間接労働者層の合理化で、企業は生産性をあげたこと、そして、ホワイトカラーの労働者層が過剰になったこと。そして、かつての社会主義諸国が、市場経済への参入により、世界の工業製品の生産性が急激に上昇し、供給が過剰であること。そして、安い労働力を求めたための国内の産業の空洞化は、直接労働者層の過剰を生み出していること。等々を考えれば、供給は需要にたいして過剰であり、労働者も供給が過剰であるといわざるを得ないのではないでしょうか。


 そして、官需を市場とする統制経済からみれば、土地本位制がバブルではじけて、土地という、打ち出の小槌がなくなり、投資するべき資本が調達できなくなった時点で、統制経済側の、生産調整をしなくてはいけないはずでした。しかし、統制経済は、計画経済であり、法律で守られた官需による生産計画、つまり、道路建設やダム建設は止めることができませんでした。

 90年代から始まる赤字国債は、このような背景から生まれたのです。政府は、景気回復により税収が増えれば、国債の償還ができるのだからと、景気回復を旗印に赤字国債を発行し続けますが、官需の市場の原資は、土地本位制による、マネーサプライの増幅と市場経済の税収とで支えていたのであり、バブルで膨れ上がったのは、土地の価格だけでなく、官需を支える供給力も膨れ上がっていたのです。したがって、官需の市場で生きる企業は、生産調整をすることは当然であったのです。しかし、利権の侵された官僚シンジケートは、統制経済における計画経済を見直さず、赤字国債で、供給能力を維持しつづけた結果が、700兆を超える国債残高であるのです。

(4)混迷する経済政策論争

 現在の状況では、需要に対して供給が過剰であるデフレであるというのは事実です。バブル崩壊時の信用供給の収縮によるデフレには、財政支出による需要創出政策も有効だが、供給が過剰なときの経済政策は、供給サイドの構造改革であり、次世代を牽引する産業や企業を創出することが必要となる。

 その意味では、竹中平蔵の方向性は正しい。しかし、問題は、彼の経済ビジョンが、アメリカのカジノ資本主義であることが問題なのだ。カジノ資本主義は統制経済であり、統制経済は民主主義と対立するからです。

 つまり、ケイジアンとマネタリストとの対立と、統制経済と自由経済との対立が混在しているのが現状であり、霞ヶ関と族議員も、竹中平蔵を中心とするマネタリストもともに統制経済であることを認識するべきです。

 その意味で、自由経済を基調とした資本主義経済論者が必要であり、統制経済が民主主義と対立することを踏まえて、資本主義と民主主義こそが共存できるということ主張し選択肢として日本国民に提示しなければなりません。

 私は、資本主義の基本に立ち返るべきとし、過去の利潤と搾取を言う概念を否定した、資本主義経済を主張しています。


6 原理資本主義

(1) 資本の定義からみる経済のあるべき姿と未来
 
 その前に、資本についてですが、資本とは、「事業のもとでとなる金」であり、その調達方法に、自己資本や他人資本があります。他人資本とは、株式や社債をいい、自己資本とは、金融資本や自己資金があります。そして、資本は、資金と固定資本、そして、流動資本に分けられます。

@ 事業のもとでとなる金 「資金」
A 過去の生産活動が生み出した生産手段である「固定資本」
B 原材料・仕掛品・出荷前の製品などの「流動資本」

 しかし、これらの資本の概念と機能は、実際の経済の中で機能しているのでしょうか。

 崩壊した社会主義から、学ぶべき点は、まず、資本の中の資金が、国有化されたことでしょう。つまり、資金の民主主義的な調達方法がなくなったことに注目します。資金の調達方法の中で、株式は、資本家と労働者の階層間移動を活性化するものですが、資金の国有化は、経済の活力を奪い既得権益を生み出すばかりでした。資本の調達のシステムは、資本家と労働者の階層間移動を活発にするものであり、そこに、経済の活力が生まれるのですが。社会主義では、この活力は生まれません。

 しかし、市場経済を基調とする資本主義でも、資本の調達システムは、その本来の機能を見失い、資本の移動が利潤を生み出し、それを経済とする、ゆがんだ資本主義が形成されました。いわゆる「カジノ資本主義」です。

 経済活動の目的は消費にあります。基本的には、人間は、生命を維持するために食べるという消費を行い、その消費行動に付随する道具や、設備を作り出し、それを分業することで、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」が経済です。しかし、情報技術の進歩した金融システムは、資本の移動を目的とした活動に終始し、本来の資本の調達システムは機能していません。

 その結果、資本が、特定の階層にしか集まらず、資本の移動で利潤が出る社会では、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」である経済の原理原則から離れ、その行為は錬金術となり、既得権益層をディラーとするカジノが経済の中心に居座りました。市場経済での株式を中心とした金融システムは、経済の資本の定義から逸脱し、ゆがんだ資本主義を形成し、それは、資本の寡占化を進め、既得権益層と非既得権益層の階層化を押しすすめ、この経済は統制経済へと変貌していきます。

 つぎに、生産手段である「固定資本」でありますが、資本が求めるものは、消費と利潤ですが、固定資本を国有化は、生産手段の共有・共同管理が目的となっているといえるでしょう。消費と利潤の分配を平等に分ける発想は、消費を求めず、競争意欲を減衰させ、経済の活力は後退させるのは人間の浅はかさなのでしょうか。
 資本を国有化することで、利潤ではなく、資金を求める既得権益をもとめる構図ができあがり、固定資本の国有化は、消費を求めず、社会の活力をモラルは後退するばかりでした。

 いまは、経済における資本のありかたを、原理原則に基づいて運用し、ゆがんだ資本主義を立て直さなければなりません。需要と供給できまる市場経済において、株式や債券を、需要と供給の関係に求めてはいけません。資金の移動による利潤の発生システムは、究極の錬金術でありカジノでしかないことを認識するべきでしょう。

@ 事業のもとでとなる金 「資金」

 資金では、その調達方法がポイントで、株式による資金調達よりも、借入による資本調達、つまり、金融調達の改善を推し進めていくべきであると考えます。日本の銀行が貸付をする際の基準は、担保があるかどうか、保証人がいるかどうかです。企画書や、企業のバランスシートは関係ありません。従って、担保のある人達への貸付しかしませんから、資本の寡占化が進みました。

資本の寡占化は、既得権益を生み、資本家と労働者の階層間移動が硬直しました。権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立いたします。いまの日本経済の閉塞は、資本の寡占化により、資本家と労働者の階層間移動が硬直したからです。この対策として、証券市場を解放しようとしていますが、日本の貯蓄率を長所と考えて、この高い貯蓄を活用して経済再生を図ることも大切でしょう。特に経済の活力である、中小や零細企業によって、他人資本による調達手段は重要です。

A 「固定資本」=「社会資本」

 「固定資本」は、社会資本とおきかえ、民間資本と区別するべきでしょう。そして、民間企業でも、資本と経営は分離するべきものですから、社会資本も経営を分離して、民間に経営をまかせて、競争原理を導入して、そこからの利潤を追求しなければなりません。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではありません。そうではなく、自由経済における競争原理に基づく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味としてほしい。

 そして、社会資本の株主は、主権者のものであり、日本国では国民が株主です。従って配当は、公平に分けられるものでしょう。経済の発展は、社会資本の配当を上げていき、国民への還元も大きくなるような社会構造をめざすべきではないでしょうか。

B 「流動資本」に、循環型社会の価値を求めよ

 最後に、「流動資本」に、循環型社会の必然性を求めます。いままでの経済活動で、消費されてきたのは、膨大な、地球資源の「流動資本」であり、これは、ゴミとして社会を破壊しています。いま、環境というニーズのもとに、ゴミをリサイクルするという労働力の消費行動は、経済が求める消費として、経済構造の転換の基軸とするべきです。

 経済は、消費を求めて、そして、利潤を追求するものであれば、ゴミを「流動資本」にするという行為は「消費」であり、環境というニーズで求められる社会の要請です。割引現在価値をもとめる環境というニーズは、公共投資としての目的に合致するものです。環境破壊というリスクを金に換算すれば、割引現在価値を考えて、公共投資の対象として問題なないでしょう。

 そして、資本と経営を分離して、経営を民間に委託して、国は、バランスシートの改善を求めるべきです、そこからの利潤がでるようにするのは、民間の競争原理に委ね、その活力を国は公平に見守るべきです。国民はその利潤を共有して、豊かな国家を目指すべきでしょう。

(2) 経済の基本は資本主義
 
 私は、経済の基本は資本主義経済だと主張しています。資本の調達手段としての金融システムや、資本の寡占化を制御するカルテルやトラストなどの資本主義経済のシステムは、民主主義と共存できると考えています。

 しかし、アダム・スミスを中心とした古典派経済学の矛盾を、搾取や剰余価値説を中心に批判したマルクスの資本主義社会の生成・発展・死滅の経済的運動法則で解決することは出来ません。ただ、現実として、統制経済で生まれる利権を制御するシステムがなかったことが、共産主義と民主主義と相反するものにしたと言えるではないでしょうか。
 
 利権は、経済の活力とモラルを奪い、生産力と生産性の減退は貧困を生み、民主主義を否定する社会は、抑圧と弾圧の社会で国民の自由はありません。国民の貧困と自由への渇望は、一党独裁の権力に向かうのは当然だったのです。
 
 私は、マルクスの唯物史観的な経済運動法則は正しいと考えています。しかし、彼の求める理想社会は民主主義を否定し、社会主義経済では、経済の活力とモラルは、利権によって減退するばかりだったのです。マルクスは、何か間違っていたと考えるのは僭越でしょうか。?

 私は、マルクスが指摘した「搾取の概念」」と「剰余価値の概念」が間違っていたと考えています。つまり、資本家階級と労働者という対立構造と、利潤の概念が間違っていたと考えるのです。
 
 なぜなら、資本家階級と労働者という対立構造を前提にすれば、寡占化した資本が支配する社会を容認することとなり、また、資本の集合離散を基本とする資本主義経済と矛盾します。また、利潤が労働者の賃金の搾取とすれば、経済活動において利潤を求める経済行動を否定しなければならないからです。
 
(3) 原理資本主義の基本概念
 
 私は、資本主義と民主主義が成長した社会では、「公需」と「民需」の経済市場が生まれ、前者は統制経済の側面を持ち、後者は、自由経済を基本とする経済市場を形成すると考えます。
 
 そして、資本家階級と労働者という対立構造ではなく、労働所得者層と不労所得者層に分けるべきであり、既得権益側の国民と、非既得権益側の国民にその存在を認め、それぞれの階層で、階層間移動が自由であるべきと考えます。
 
 また、従来の生産のための費用から、人件費と役員報酬を差し引いたものを利益とするのではなく、労働者の賃金と役員報酬費、そして、株主への配当金を利益と定義することを主張します。つまり、利潤を資本家側=株主への配当金は、労働者の賃金から搾取されるものではなく、労働者の賃金も、役員報酬も利潤に組み込むことを提案します。そうすれば、利潤を求める経済行動に矛盾は生じませんし、その分配率を労使交渉の基軸とすることで、経済活動の活力とモラルは保たれると考えるからです。
 
 そこで、以下に「資本主義経済とは」「階層間移動の必要性」「市民の定義」「利潤の定義」「資本と経営の分離」「社会資本と民間資本の区別」をまとめてみました。
 
@ 資本主義経済とは
 
 経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれますが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要です。経済の需要と供給のバランスは、資本の寡占化とその解体を交互に起して技術も発達してきました。経済は、自由経済と統制経済を繰り返すことで成長するのです。
 
 また、統制経済では利権を生み、市場経済の自由は奪われていきますがが、その利権をリセットするのが民主主義でしょう。民主主義は、統制経済と自由経済のバランスを担う役目を持つもので、資本主義の成長とともに、民主主義も成長します。
 
 高度に成長した資本主義と民主主義は、社会資本による経済の「公需」と民間資本の経済である「民需」という二つの経済を持つようになります。「公需」の割合が高い社会は、いわゆる社会主義経済であり「統制経済」の側面が強く、民需の割合が高い社会は自由経済で、福祉や年金という社会保障制度も自己責任の割合の強い市場経済の社会となるでしょう。
 
 統制経済と自由刑経済と、公需と民需のバランスが政治であり、国民は、自分自身がどの層にいるかを認識することが必要です。そして、それぞれの立場で自己の権益を主張する場が政治といえるでしょう。そして、国会議員は、どの層の国民の権益を代弁するのかを明確にしなければならず、その求める権益を主張する均衡とバランスを、民主主義の原理原則に求めなければならないのです。
 
A 階層間移動の必要性
 
 次に資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段をもっている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしている点に異論があります。これは、資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側と分けるべきではないとする意見です。
 
 利潤は、生産過程で労働力の「搾取」によって生み出される、という従来の「搾取」という概念が、資本側と労働者の対立する構造を作り出してきたが、これは、不労所得と労働所得と分けて考えるべきでしょう。資本の所有と経営の分離している企業では、経営側も労働者であり、役職のあるかないかで労働者を分類し、労働者としての様々な権利を経営側が受け取れないのはおかしいのです。
 
 株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで得る不労所得者と、労働にて所得を得る労働所得者の分類こそが、資本主義の基本構造です。そして、所得や資産を再分配する税で、不労所得者を優遇すれば、資本の寡占化が進み、労働所得者層を優遇すれば、資本の再配分が進むでしょう。
 
 つまり、資本主義において、労働者は資本に搾取されるという関係ではなく、不労所得者層と労働所得者層の関係が基本であり、この関係が固定化し階級化しないために税システムがあります。資本家階級と労働者階級は、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害をしたり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家となるでしょう。
 
B 市民の定義
 
 いまの政治のキーワードは市民と既得権益です。かつての資本対労働者という対立構造では、市民という概念を説明できない時代に入っています。
 
 現代の社会構造は、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類を基本とするべきでしょう。(いわゆる肖像権で収入を得ている芸能関係者は、前者の「不労所得者」に分類されます。)その上で、後者の労働所得の階層を市民と定義するべきでしょう。
 
 市民を労働所得者層と定義したとして、今度は、その市民のなかの既得権益者か非既得権益者かに市民は大別されます。なぜなら、現代は、公需と民需で成立する経済社会であるからです。
 
 そして、この政治構造の中で、基本的な階層対立である、「不労所得者」と「労働所得者」の対立は、税体系を軸にその均衡は保たれるのです。それが税の中立を意味します。そして、その緊張が健全な民主主義を支えます。
 
C 利潤と賃金の定義
 
 従来、一般会計では、利潤とは、総収入から生産のための費用、つまり、賃金・地代・利子・減価償却費などを差し引いた残りとしていますが、私は、「賃金」と地代・利子・減価償却費などの経費を別にするべきであると考えます。これは、いまの付加価値額という定義とほぼ同じですが、総生産額から原材料費と機械設備などの減価償却分を差し引いたものを、人件費・役員報酬費・株主への配当金とする考えです。
 
 経済活動で生み出される、労働力の対価として受け取る報酬や、役員報酬、そして、株主の配当金は、消費活動や投資活動として、経済を循環します。この企業活動で生み出される報酬がなければ、税金も集められず、消費もできません。企業活動の経費と、人件費・役員報酬費・株主への配当金は別に計上するべきだというのです。
 
 このように、人件費・役員報酬費・株主への配当金を仮に、「利潤」と定義したとして、今度は、その報酬の分配が問題になります。企業活動で生まれる利潤は、その労働力を提供する労働者と、経営陣、そして、資本を提供する株主があって初めて生まれるものであり、どれか一方が欠けても利潤は生み出されません。とすれば、利潤を、人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率を決めるのは、三者の話し合いということになります。
 
 利潤の配分で、賃金を低く抑えれば、労働者の労働意欲や企業への忠誠心がなくなり、経営は不安定になるでしょうし、役員報酬が不当に高かったり、株主への配当金の配分が高ければ、経済格差がひろがり、社会不安がますでしょう。
 
 利潤の額は、企業努力でいろいろ格差があるのは当然で、厳しい市場原理が経済の活力とモラルを維持するのですが、企業ごとの人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配は、消費や投資を左右する経済の重要な要因となります。
 
D 資本と経営の分離
 
資本主義と民主主義が成長していく過程で、社会資本も成長していきます。水、電気、ガスなどのライフラインは国民の生活を豊かにしていきますし、鉄道、電波、道路などの情報・交通などのインフラは、民間産業の経済行動を下支えして国の経済水準を維持します。

 しかし、同時に社会資本は、利権を育み、競争原理を壊してモラルを破壊していきます。これは、民間資本が、カルテルやトラストというように権益を既得権益として主張する行動と同じなのです。資本主義は、社会資本では利権が、民間資本では既得権益が、経済の競争力とモラルを破壊していくのです。

 この利権と既得権益はなくすことはできません。法律で縛ることも中々難しいのは歴史が証明しています。私はこの命題に、システムで対抗するべきではないかと考えています。

 それは、権力の分立を概念として用いることです。つまり、資本と経営を分離して、資本は利潤を経営に求め、経営は資本から独立し、民法に従い行動するのです。資本と経営が独立して、民法でその権力の抑制と均衡を図るという考え方です。

 従って、社会資本は、国民にいわゆる株主としての権利があり、その運営は、行政でなくとも民間でいいという考えです。むしろ、行政は、その運営を評価する機関であり、経営には参加するべきではないでしょう。株主である国民は、社会資本から生まれる利潤を均等に受け取る権利があり、また、求める権利があります。国民から評価を委託された行政は、効率のよい経営を民間企業に委託すればいいのです。
 
E 社会資本と民間資本の区別
 
 原理資本主義では、社会資本と民間資本は明確に区別されます。水、電気、ガスなどのライフラインや、鉄道、電波、道路などの情報・交通などのインフラを社会資本と定義し、それ以外の民間資本と定義します。その上で、それぞれに資本の所有者は、その資本での利潤を求めます。

 その意味では、JRなどの民営化は間違っていると思います。JRの設備などの固定資本は国民のものであり、国民一人一人に株主としての権利を与えるべきなのです。その上で、経営を民間企業に委託して、その利潤を国民一人一人が享受する社会であるべきでしょう。

 これは、電波についても同じで、テレビ電波は受け取る権利は、少ない設備投資で国民が享受することができますが、電波を発信する権利は、国民一人一人に平等にはありません。これは、放送するチャンネル数が限られているということと、ニュースキャスターやタレントという芸能関係に人々など、限定した人々にしかその権利は与えられません。電波という社会資本は発信する権利は国民には平等ではないのです。

 現実として、電波を発信する側、つまり供給側が小さいのですから、その価値が高くなり、ニュースキャスターやプロスポーツ選手などの電波を発信する側と、受け取る側の人間の経済格差は極端になっています。

 本来、資本主義では資本を投下して収益をあげるのですが、電波を利用して収益をあげる人々は、電波という社会資本と無償で利用しているのです。そして、電波を発信するという権利が国民に平等にないとすれば、それは不当であると言えるのです。

 社会資本で収益をあげるのならば、社会資本の所有者に使用料を支払うべきでしょう。当然、電波を発信する権利に対する使用料は、社会資本の所有者である国民の一人一人に還元されなくてはいけません。

(4) カジノ資本主義に対峙する経済概念としての原理資本主義
 
 資本主義経済は、経済は、自由経済と統制経済を繰り返すことで成長し、高度に成長した資本主義経済では、統制経済の「公需」と、自由経済の「民需」の二つの経済圏の存在を認識するべきでしょう。そして、そのバランスが政治であるのです
 
 統制経済では利権によって既得権益が成長しますが、利権と既得権益は、経済の活力とモラルを破壊していきます。この利権と既得権益を制御するのが、民主主義であり、統制経済と自由経済のバランスであります。
 
 また、既得権益層と非既得権益層の存在を認め、相互にその存在を理解することが必要であり、お互いの相互の階層間移動が固定化しないようにすることが、利権の温床となる階級社会の形成を抑えることにつながりますし、健全な民主主義を保つことができるでしょう。
 
 そして、労働所得層と不労所得層を区分し、労働所得者層である経営側と労働者側は、不労労働所得層との三者の労働分配率を三者で決めるべきであり、この分配率に、政治や法律が介入することが、経済の活力とモラルを生み出し、そして、民主政治のバロメーターとなるでしょう。
 
 そして、厳しい市場経済をリタイアされた国民は、等しく生存権を与えられるのであり、現役時代の蓄積した富の格差はあっても、年金や医療などの福祉サービスの格差がない社会であるべきでしょう。

 原理資本主義とは、資本主義の原理原則に従う経済概念でありますが、これは、現在の金融市場を中心とするカジノ資本主義経済に対峙する経済概念となりうるものであると確信します。


8 原理資本主義を基本とした諸政策

 日本経済の混迷は、利権社会主義経済の既得権益の横行が、経済の活力とモラルを奪い、供給が過剰である産業の再構築が、既得権益者の抵抗で進まないことが原因です。しかし、竹中経済相のようなマネタリストの政策である、企業の再生だけでは、失業問題を克服できず、経済格差が広がり、消費が細りデフレスパイラルに陥るのは必定です。

 デフレ脱却のキーポイントは経済の活力とモラルの回復であり、それが、次世代を牽引する産業や企業を創出します。それは、頭で考えて作り出すものではなく、経済活動の中から生まれるものです。

 デフレ時の対策とは、この景気の下降点のときの国内の秩序の安定と、消費の下支えをすることで、基幹産業の存続を図ることでしょう。とすれば、政府の取るべき政策は、規制緩和を中心とする自由経済の環境整備と、消費を下支えするための雇用対策という政策に、政治力をつぎ込むべきです。

 以下は、消費の下支えを目的とした雇用政策と、社会保障制度のビジョン、そして、規制緩和について個別の政策を提言します。

(1)デフレ脱却に、NPOの育成とワークシェアリング

 いまの日本のデフレ経済は、需要に対して供給が上回っているから物価が下落しています。デフレ脱却には、過剰な供給の生産力調整をしつつ、新しい需要を満たす産業の育成に期待するしかありません。

 従って、肥大化した公需の分野の土木・建設業の産業は生産調整は避けられず、この失業者の受け皿となる産業の育成が急務です。この産業の育成を官主導で行うのか、市場原理に従うのかで、経済政策は分かれますが、前者の、過去10年間の財政支出によるケインズ政策は、完全に行き詰まっています。

 こうした中で、従来の公共事業に変わる産業としてNPOなどの準公的サービスの分野での産業が注目されています。高齢化の中で介護を中心とする高齢者向けサービスの需要や、環境保全のような分野や少子化に歯止めをかけるための育児・教育支援、女性の社会進出に伴う家事支援ビジネスなど、どうしてもマンパワーが必要な労働需要があります。

 準公的サービス業で注目されているのが、NPOと呼ばれる非営利組織です。しかし、日本では、非営利組織と言う形態では、資金が集まらない現実があります。非営利組織はサービス業であり、無報酬のボランティアではなく、寄付で成立する財団の概念が薄い日本で、欧州やアメリカのNPOの概念をそのまま導入するのは無理があります。

 本来、非営利による準公的サービスは行政の仕事ですが、行政では競争原理が働かず、既得権益ばかり先行している現実があります。そのように考えると、この分野に競争主義を持ち込むNPOの活動原資は、行政が負担してもおかしくはありません。

 私は、彼らを、労働市場の一翼として位置付けるのならば、収益に行政からの補助金や市民からの寄付金は必要不可欠だと考えます。つまり、準公的サービスのニーズを満たすのがNPOに科せられるのであり、これは行政事業のアウトソーシングと捉えているのです。

 NPOによる労働市場を形成するならば、公益法人を含む行政機構のリストラクチュアリング=事業の再構築をしなければ、準公的サービスに潜在するニーズは市場には出てこないでしょう。NPOの育成は、行政のリストラクチュアリングにかかってきます。

 私は、行政のリストラクチュアリングの戦略としては、行政に民間企業の労働者を入れることだと思います。民間企業でリストラクチュアリングを経験した民間の労働者を行政に入れるのです。彼らを軸に、市民のニーズに対応する行政組織に体質転換をして、準公的サービスのニーズの掘り起こしてもらうのです。

 そして、準公的サービスのニーズに対応する組織ができたとき、その組織を行政から切り離し、NPOとして独立させます。NPOは、収益事業ですから、ニーズに変化に対応しないものは淘汰されていくでしょう。淘汰される産業体質にこそ、活力とモラルが生まれるのです。

 この行政のリストラと失業問題を解決するのが、行政のワークシェアリングです。公務員の賃金を時間給に置き換えて、一人あたりの総労働時間を減らして、新規雇用を生む、ワークシェアリングを採用するべきです。

 一人あたりの総労働時間を減らすことは給与の減少になりますが、財政が破綻しているのに、民間企業の労働者と開きのある公務員の給与を考えれば、民意は通ると思います。もちろん公務員側は反発するでしょうが、民間の労働者の声が多ければ通るでしょう。二者択一の政治を恐れてはいけませんし、国民を信頼するべきでしょう。

 国と地方を合わせて450万人の公務員の総労働時間を15%、新規雇用にまわせば、約68万人の雇用が生まれます。雇用を下支えし、消費を下支えすることで、実体経済への波及効果も期待できます。そして、公的サービス部門を、NOPとして行政から切り離すことで、国民負担の少ない行政組織に生まれ変われるのです。

 アウトソーシングされたNPOは、市場原理にさらされ、競争主義と淘汰の原則が、この産業の活力とモラルを維持するでしょう。もちろん、NPOに対する税金投入は、国民の判断を反映するシステムが必要となりますが、「日本型の寄付金制度」を税体系に組み込むことは、現在のコンピューターの技術は可能でありましょう。

 この公務員を対象としたワークシェアリングで、失業問題を克服し、NPOを中心とした準公的サービス産業の育成の、デフレ脱却の道しるべとするべきです。

(2)日本再生の突破口は、退職金の年金化から

小泉内閣は、聖域ない構造改革を掲げて、道路公団や郵政民営化などの改革をしていますが、目にみえる改革の成果は出ていません。

 本来、霞ヶ関の官僚らによる国家社会主義が日本経済の足枷となっているとして、特殊法人改革が取上げられたのであり、官僚らの行動目的である特殊法人にメスを入れるということは、権力への挑戦であり、これは改革ではなくて革命であるべきなのです。

 国家社会主義の存続を望む国民と、いわゆる既得権益を持たない国民とが存在し、後者の国民の声が大きくなって、その声が小泉純一郎を支持したのです。非既得権益側の国民は革命を望んだのです。

 しかし、小泉純一郎は、改革を連呼するばかりでした。つまり、小泉純一郎は、霞ヶ関の国家社会主義体制を基本的には容認していて、彼等の権力を否定はしていないのです。ここに、小泉純一郎を支持した国民との乖離があると思います

 小泉政権で、霞ヶ関や永田町では大きく変わったこともあるでしょうが、これは、既得権益側の改革であり、非既得権益側の国民にとっては、権益がなくなるわけではなく、望んでいた既得権益の崩壊も、規制緩和もありません。

 これに対して野党第一党の民主党は、労働組合という既得権益側とつながり、非既得権益層の国民に顔を向けようとはしません。小泉純一郎は、既得権益層に対峙する姿勢を見せたのに、野党は政権交代に取り付かれ、非既得権益層に顔を向けないのです。

 私は、小泉内閣にあえて革命をしろとはいいません。しかし、霞ヶ関の権力構造を解体しなければ、小泉内閣も日本も破綻します。霞ヶ関の権力構造は、日本経済再生の足枷なのです。

 しかし、官僚的な方法である、特殊法人の改革や規制緩和などに取り組みのではなく、つまり、正攻法の戦法では霞ヶ関の牙城は崩せません。そうではなく、害虫を駆除するには、餌を断つべきであり、官僚の餌である官僚の行動目的にメスを入れるべきではないでしょうか。そのためには、官僚が何を求めて行動しているいのかを特定して、その目的をなくす方策をとればいいという意見です。

 官僚が行動する目的を絞り込んで、その一点に攻撃をかける。これならば、国民にも見える改革となり、日本社会を蝕む原因が取り除かれれば、あらゆる分野で改革が実現できるでしょう。

 聖域なき構造改革とは、日本経済を蝕む元凶を取り除いたあとにするものであり、小泉純一郎は、方法論で間違っているのです。

 以下に、日本を蝕む病巣を特殊法人シンジケートと規制とした上で、官僚の行動する目的を特定し、それを取り除く対処策を意見します。

@ 日本経済の病巣は、特殊法人シンジケートと規制

 日本経済を蝕む病巣は、特殊法人シンジケートと規制です。特殊法人シンジケートは、国の財政を蝕み、規制は、財政を蝕む利権構造を守っています。この特殊法人シンジケートと規制を既得権益としているのが、霞ヶ関の官僚と、永田町の国会議員です。

 今の政治は、特殊法人シンジケートの傘下の企業や労働者、そして、規制で守られたいわゆる既得権益側の国民の声が、政治に反映されていて、非既得権益者層は、蚊帳の外です。

 与野党ともに国民の声を乱発していますが、既得権益者側の権益と非既得権益者側の権益は、真っ向から対立するものでありながら、この対立軸を表明する政党や国会議員はいません。特殊法人改革にしても、談合にしても、その対策といえば規制を強化するばかりであり、既得権益である規制は、ますます強化されています。規制ではなく、特殊法人シンジケートを解体させ、規制を取り払う手段はないのでしょうか。

A 官僚は何を目的として行動しているのか

 私は、特殊法人シンジケートも規制も、官僚が作り守っているのだから、官僚が何を目的として行動しているのかを突き止めることが先決だと思います。官僚は何を目的として行動しているのでしょうか。

 私は、それは「退職金」だと考えます。官僚は退職金をもとめて、天下りをしているのであり、その天下り先を作るために、特殊法人シンジケートを拡大してきました。そして、特殊法人シンジケートを支えたのが「規制」です。規制があるからこそ、特殊法人の市場の独占化が可能になるのであり、この構造が、国の財政を蛭のように貪る官僚という売国奴を作りました。ということは、「退職金」をなくせば、官僚らは目的を失い、天下りや規制という既得権益にしがみつくことはないのではないでしょうか。官僚は、退職金を目的として行動しているのです。


B 退職金の概念と、積立式年金制度の弊害と矛盾

 そもそも退職金とは、年金の意味合いのものであり、年金制度という社会保障制度が立ち遅れていた時代に、生活保障の意味であったものであるはずです。社会保障制度が進歩し、年金の概念が定着した現代に、この退職金を説明できるものがいるでしょうか。退職金は、年金と位置付けするべきなのです。

 退職金を年金と位置付けしたとして、いまの年金制度を考えると、積立方式の基礎年金と厚生年金や企業年金の二階建て方式は、その運用自体が、特殊法人シンジケートを支えるシステムに組み込まれ、赤字財政となっているのは周知のとおりです。

 また、積立方式というのは、現役世代が常に年金受給者を上回る比率でなければ成立しないという制度であり、年金受給者の数が増えていく状況では成立しないません。この制度は、少子高齢化時代の、寸胴型の人口構成の社会では成立しないのです。将来の年金制度を考えるのならば、この積立方式を否定するところから始めるべきでしょう。

 以上のように考えると、日本の二階建ての年金制度や、積立方式の年金システム自体を見直すべきであり、年金の意味合いの退職金も、新しい年金制度のなかで考え直さなければならないと考えるのです。

 私は、積立式の年金制度にかわり、年金を全額国庫負担とし、単年度会計とするべきだと考えます。現役世代が、市場経済をリタイアした高齢者の生活費を負担するという義務と、高齢者の生存権は、国が補償するという権利を確立した上で、この権利と義務の相関関係を基軸に、年金は、国庫負担とし単年度会計とするのです。そして、その財源は、自由党の主張のように消費税をその財源とすればいいと考えています。

 厳しい市場経済をリタイアした国民は、平等に生存権を与えられ、年金の支給額に格差はあるべきではありません。市場経済での富の格差は、自由経済での競争を生み出すものであり否定はしませんが、リタイアした国民への年金の支給額には格差はあってはならないと言う考えです。

C 退職金を分割支給として年金へ

 この概念に立って、退職金を考えれば、現在の退職金の一括支給をあらため、分割支給とし、年金に組み込むべきでしょう。年金の最低支給額を引き上げて上限を決める。基礎年金と厚生年金、企業年金に、分割支給となる退職金の総額を年金支給額とし、法律で決められた年金の上限を限度とする。

 単年度ごとに経済状況をみて年金の予算を組み、リタイアした国民も、日本経済に連帯責任を負い、現役世代の活力とモラルに配慮すると同時に、日本の政治、経済にたいする責任と義務を負っていただく。

 このような年金制度にすれば、行政も企業も、退職金の原資が、予算や経営を圧迫せず、国民の将来の不安もなくなるのではないでしょうか。また、なにより、退職金を目的とする官僚の天下りの行動を牽制することにつながり、官僚の既得権益をなくし、公務員の官民格差の給与や待遇にメスを入れることは、民需の経済で働く国民の活力とモラルを取り戻すでしょう。

 特殊法人の問題や規制改革など、その問題の根本原因が霞ヶ関の官僚であるならば、彼等を駆除するのに、力で駆除するのか、餌を取上げるか、どちらが効率的かを議論するのが政治の役目です。少なくとも官僚的になっていない国会議員は、官僚の餌である退職金を断つことを基本に政策を考えるべきでしょう。

(3)政策のコントロールは、予算ではなく税で?

 小泉首相が、「カネ使わず知恵を絞れ」と各閣僚に激を飛ばしたようですが、そうではなくて、「官僚にカネを渡さず、民間の知恵を引き出せ」ではないのでしょうか。?

 日本の宦官官僚は、経済活動で得る利潤や賃金ではなく、予算を獲得し、その予算を消化することが、経済とする社会主義経済国家しかその脳裏には描けません。そんな宦官官僚らが、知恵を出したところで、結局は、いかに国税を蝕むかの、カラクリ作りに没頭するのみであり、資本主義経済とは決して、相容れるものではありません。日本の政策の舵取りを、予算編成に求めている限り、国税を蝕む官僚シンジケートによる、利権社会主義は駆除できないでしょう。?

 経済をコントロールするには、「馬の鼻に人参」ではありませんが、先にあげた「予算」も人参ではありますが、「税」という人参もあります。減税は即効性のある経済政策です。ただ、旧態然とした減税では、また利権にからむ官僚に蝕まれることになるでしょう。そうしないために、国が策定した、環境政策や雇用政策に、企業として参加した場合は、税の軽減措置を取ったらどうでしょうか。雇用にたいしても、補助金をばら撒くのではなく、結果として、税の軽減で評価するのです。?

 例をあげれば、環境問題では、ビルの屋上の緑化政策などは、旧態然とした補助金行政ではなく、緑化政策の費用を、税の控除対象にするとか、運送業界では、排ガス規制の適応の台数に応じて、税の比率を下げるとかです。政府の重点政策にたいして、民間がその政策にそった取り組みに対して、その結果で、税の軽減という特典を与えれば、政策の効果もあがるでしょうし、宦官官僚らが補助金行政に群がる事もないでしょう。?

 そのためにも、税の徴収を一本化をしなければなりません。私は、消費税を内税にした売上税を提唱していますが、所得税や雇用保険、社会保険、そして、福祉目的税や環境税の徴収を、企業では、消費税を内税にした売上税で徴収し、個人や雇用者は、収入に応じた税率で、一本化するべきだと考えます。そして、経済政策や国策の関与は、その税の構成する税のさじ加減で、政治の影響力を持てると考えます。?

 情報処理技術の発達は、一本化した税のデーターを加工するのはすでに、パソコンレベルでできる話であり、小泉メールマガジンの発刊で、一億八千万も使うような時代ではありません。幾十にも積み重なった税を徴収し、その税を振り分け、政策に応じて税率を修正するのは、ITの最も得意とするところでしょう。?

 経済政策を、旧態然とした、公共事業などの投資的経費や、補助金行政などでのコントロールではなく、民間の意思と活力を引き出し、競争力を引き出すための施策を考えるべきです。そのため、結果に対して、その成果を評価できる、税によるコントロールを政策に取り入れたらいかがでしょうか。


8 「地域通貨」と「原理資本主義」
 
(1)エンゲの遺言
 
 デフレの原因を、お金が循環しないことが原因であるとし、錬金術となっている金融市場での「法定通貨」ではなく、「地域通貨」を発行して、デフレ脱却をしようとする考えがあります。これは、NHKで1999年に放送した「エンデの遺言」で取り上げられたドイツの経済学者ゲゼルの思想を基本とするものです
 
 実体経済と乖離した金融市場でやり取りされるお金は「錬金術」であるということは、私の「原理資本主義」と同じですが、原理資本主義が、ベルリンの壁の崩壊で学んだことは「統制経済である社会主義経済は、利権の暴走が、経済の活力とモラルを失わせ、且つ、統制経済は、民主主義を否定したために、市民から否定されたという意見」とは異なる見解からその思想は出発している。
 
 エンゲは、「マルクスの最大の誤りは、資本主義を変えようとしなかったことです。マルクスは、国家に資本主義を任せようとしたのです。」とし、「マルクスは国家を唯一の企業家としただけであり、資本主義を変えたわけではなく、我々は「民間資本主義」と「国家資本主義」という二つの資本主義を持っていたにすぎない。」と断定し、「いまや、第三の道としての「地域通貨」に期待せざるを得ない。」といいます。
 
 この考え方は、これまでの通貨の機能で、利子や株式などの自己増殖が貧富の格差の元凶であるとし、このような貨幣の性格をなくすには、「時間とともに価値が下がるような通貨の概念」の導入が必要だとするのが基本のようです。つまり、「法定通貨ではどうしても貧富の差の拡大が起こってしまうが、地域通貨ではそのようなことがない 」として、この考えが、「消費至上主義」を否定する「脱物質主義」につながっています。
 
(2)地域通貨の概念と原理資本主義の対立点
 
 私はこの論理に対して、まず、貨幣は、利子で自己増殖したのではなく、むしろ利子を否定した経済行動に問題があったと問題提議します。日本の土地にしても、いまの金融市場の株式なども、その価値を引き上げることで、お金を自己増殖したのであり、利子を否定したのではないとする意見です。
 
 また、利子のつかない地域通貨ならば、資本の調達が容易になるとしています。この点に関しても、資本主義での間接金融システムや株式などは、本来資本の調達手段として出来たのであり、それは、誰でもが資本を調達するシステムを否定するのでしょうか。
 
 現状では、その基本システムが機能していないので、マネーゲームのような金融市場が経済で幅を利かせているのです。原理資本主義では、これを「カジノ資本主義」といって、統制経済に分類しています。いまの経済不況は、統制経済にバランスが傾いているのであり、民主主義も抑圧されていると主張しています。
 
 また、「時間とともに価値が下がるような通貨の概念」というのは示唆に富む意見であると思いますが、資本主義でも、お金の循環に関しては、累進課税や相続税というシステムがあります。お金が循環しないのは、既得権益が富の蓄積を保護しようとしているからだかであり、貨幣そのものに責任を押し付けては、木を見て森を見ずになるのではないでしょうか。
 
(3)地域通貨では、経済の活力は生まれない
 
 ベルリンの壁が崩壊したのは、統制経済では、既得権益と非既得権益とが階層化し、それが、経済の活力とモラルの低下を招き、生産性を引き下げ経済は破綻したのです。そして、統制経済は民主主義と対立したからこそ、国民は、社会主義を否定したのです。
 
 これに対して、いまのアメリアを中心とする経済は、お金を自己増殖することで、世界の消費をアメリカが担うという経済です。これは、カジノであり資本主義ではありません。この経済では、資本の調達手段である金融システムはなく、富の分配機能である税の概念も「自由」という言葉で捨て去られました。あるのは封建主義的な租税概念だけです。この経済は統制経済であり、封建主義なのです。
 
 また、エンゲの主張する「時間とともに価値が下がるような通貨の概念」は、お金の循環には効果があらわれますが、経済の活力という概念は生まれないでしょう。生産性の向上がない経済は、活力とモラルを失い経済は破綻します。また、「脱物質主義」とは、物を消費する時代から、サービスを消費することであり、労働力がサービスという商品に置き換わると考えるべきではないでしょうか。
 
(4)原理資本主義の基本概念
 

 原理資本主義では、市民の定義として、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類を基本とするべきとしています。そして、利潤を「労働力の搾取によって生み出される剰余価値」という概念から脱却するべきとしています。
 
 それは、従来、一般会計では、利潤とは、総収入から生産のための費用、つまり、賃金・地代・利子・減価償却費などを差し引いた残りとしていますが、私は、「賃金」と地代・利子・減価償却費などの経費を別にするべきと考えます。これは、いまの付加価値額という定義とほぼ同じですが、総生産額から原材料費と機械設備などの減価償却分を差し引いたものを、人件費・役員報酬費・株主への配当金とする考えです。
 
 経済活動で生み出される、労働力の対価として受け取る報酬や、役員報酬、そして、株主の配当金は、消費活動や投資活動として経済を循環します。この企業活動で生み出される報酬がなければ、税金も集められず、消費もできません。企業活動の経費と、人件費・役員報酬費・株主への配当金は別に計上するべきだというのです。

 この人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率を「労使協議」とするべきであり、その承認を得る場が、株主総会であるべきだとしています。従来の賃金闘争ではなく、人件費・役員報酬費・株主への配当金の分配率を、経営側と労働組合で協議するべきであり、ベースアップの金額ありきではなく、分配率を争点とするべきでなのです。
 
 このように考えれば、株主はこの利潤の配当を受け取る所得として、株価の購入には現金主義と短期の媒介の禁止を定めれば、株式はカジノとしての存在が薄れていくでしょう。
 
(5)地域通貨だけでは、資本主義を超える経済概念にならない
 
 ともに、地域通貨も、原理資本主義も、実体経済でのお金の循環が重要だということは一致しています。しかし、ゲゼルが否定する資本主義は、統制経済の面であり、自由経済で生まれる活力やモラルを軽視しています。
 
 また、ゲゼルは、唯物史観的な経済を否定していますが、富の蓄積は社会資本でも行われていて、それを支えるのが民主主義でありましょう。社会資本の富の蓄積を否定することはないのです。
 
 むしろ、この社会資本を有効利用するために民主主義が必要でしょう。そして、経済を牽引するのは、自由経済の「民需」であります。「民需」の経済の活力とモラルがその国に経済力を決めて、「公需」の経済力が、その国の豊かさを決定するでしょう。
 
 そして、「公需」と「民需」のバランスが経済政策であり、それを支えるのが民主主義だと言うのです。そしてこれが政治であり、二大政党を目指すのならば、この経済圏の違いで政治を分類するべきだと考えるのです。地域通貨だけでは、資本主義を超える経済概念になりません。

9 金融市場経済と実体経済の分離

(1) 日本のデフレの定義は間違っている

 デフレを辞書で引くと「貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落のこと」と書いてあるがこれは間違いである。

 私は、戦後教育を、GHQによる家畜教育として、今の大人社会はブタ社会であるといっている。家畜であるブタは、与えられた餌を食べて、自分で餌を求める術を知らない。いまの大人社会は、与えられた知識を披露することが知識人の職務としている。その意味で、デフレの原因を、需要サイドの問題とする日本のマネタリストの論は、古い教科書の中だけで論じていて空論でしかない。

 彼等の論の根本的な間違いは、デフレのモデルをブラックマンデーに置いていることだ。 1929年のウォール街での株式の大暴落は、株の投機熱が原因だ。これは、株や先物取引という投機に貨幣が集まりすぎたために、実態経済での貨幣供給量に不足が出て、相対的なデフレを引き起こし、失業率の増加などをともない、株式の信用不安を引き起こし株価は紙くずとなった。当時は金本位制であったために、貨幣との交換が停止して、その連鎖が欧州に飛び火して、需要と供給が同時に落ち込む世界恐慌となった。

 確かに、このときは、貨幣と貨幣の信用が収縮することで需要と供給が同時に落ちこんで、経済は破綻し恐慌となった。そして、この恐慌以降、貨幣の量的緩和政策のとれる変動相場制が求められ、ニクソン・ショックを経て、世界は変動相場制になる。

 問題は、この変動相場制が、実体経済と乖離した金融市場を生んだことである。資本の調達手段である株式に至っては,1975年には GDPの2%だった株の売買が、2002年にはGDPの106%にも達したにも関わらず、新規公開株のために売られた株は、株式取引額のわずか1%しかない。このような経済構造では、貨幣の量的緩和政策は、何の意味もなさない。

(2) 今のデフレは、供給サイドに問題がある

 日本の経済学者や評論家は、このカジノ資本主義を前提に話をしているから、この矛盾に気がつかない。しかも、実体経済では、ベルリンの壁の崩壊以降、東欧諸国やアジアの社会主義国が資本主義に流れ込み、ドルを基軸通貨とする通貨供給量の増大で、工業生産力が向上し、需要に対して供給が上回る事態となっているが、この歴史が経済の教科書に、間に合わない状況が悲劇を招いている。ブタ社会の経済評論家や学者は、1992年と現代を重ね合わせてしまうのだ。

 今のデフレは、供給過多による物価の下落であり、いまのデフレは、供給サイドの問題であり、需要サイドの問題ではない。いまのデフレは、経済活動の縮小はブラックマンデーのように急激には起こらず、緩やかに下降している。また、貨幣の量が多いいのに、貨幣の価値が下がらないのは、金融市場に貨幣が集中して、実態経済での貨幣の量は増えていないからである。

 この意味で、金融市場経済の貨幣と実体経済の貨幣を、分離して運用するのならば、政府貨幣による量的金融政策も一理あるが、カジノ資本主義を前提とするマネタリストは、株価の動向に一喜一憂し、金融市場経済と実態経済を分離して考えることはできない状況で、政府貨幣の増発は、政府債務を拡大することなく歳出を増やすことを可能にするが、政府貨幣を無制限に増発すれば、スタッグフレーションを引き起こすだけである。

 現実に、ドル安のアメリカでは、緩やかなインフレとなっているが、需要は伸びていない。アメリカは、スタッグフレーションに入っている。アメリカの経済格差は、消費という需要を殺している。デフレの経済政策は、実体経済を中心に考えるべきであり、金融市場経済に関しては、実態経への影響を遮断する政策が必要なのである。

(3) 金融市場と実体経済の分離

 私は、まず、東証やヘラクレスなどの株式市場をドル建てで行い、資本の調達手段としての株式とは分離するべきだと主張する。上場企業の株式は、資本の調達ではなく、資本の価値の問題であるからだ。これは、パチンコのコインが、市中に出回ったら金融が混乱するのと同じである。そうではなく、上場の企業の株式をドル建てとすることで、国内の実態経済の通貨供給量への影響を遮断するというものである。

 その上で、実体経済においては、需要を、消費と生産という2つに分けて、通貨供給量をコントロールするべきだろう。前者の消費に関しては、公務員のワークシェアリングで、消費の下支えをして、後者の生産に関しては、担保主義からの脱却と、資本の調達手段としての株式など直接金融を整備する。

 そして全体としては、税を原資とする統制経済の公需と、自由経済を基調とする民需が、経済の両輪であるという基本概念を共有して、このバランスを政治に求めるべきであるとしている。

 これが、原理資本主義だ。


平成15年5月11日 

平成16年2月28日 改稿