経済ビジョンとデフレ経済政策

 経済ビジョンが、政権与党と同じであるのならば、自民党内の派閥争いでいいのであり、民主党が政権交代をする必要はありません。政権交代を国民に訴えるのならば、小泉政権の経済政策を批判する根拠となる、経済ビジョンを明確に持たなければなりません。?
 
 自民党政治による失われた10年は、ケインズ政策の結果であり、民主党は、均衡財政政策を主張するべきでしょう。そして、いまの経済環境において、グローバル経済と、反グローバリズムを検証することで、小泉政権の経済ビジョンを批判し、資本主義の原理主義者としての経済ビジョンを提示します。

 
一 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある
二 資本主義原理主義者としての経済ビジョン
三 国会議員は、経済政策のスタンスを明確にするべし
四 市場原理による企業の活性化の鍵はインターネット
五 担保主義に代わる融資制度の提言

一 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

(1) 会社更生法と民事再生法の違い

 従来の日本の企業再生の政策としては、会社更正法がありましたが、この制度では、会社は、経理上、開始決定によりそれまでの会社との関係はなくなり、新しい会社としてスタートすることになります。つまり、株主は株式を無くし、経営者は経営から排除され、市場からは一時的に去らなければなりませんでした。

 これに対して、民事再生法では、財産評定の制度で、会社更生法の財産評定が企業継続価値とするのに対して、民事再生法の財産評定は処分価格ですることが原則となっています。つまり、民事再生法では、会社は開始決定により事業年度が終わらないのであり、基本的に、株主は同じで、経営者は経営から排除されず、市場での存続が可能となります

 つまり、企業が持つ市場占有率を維持したまま、不良債権をオフバランス化することが主目的なのです。

(2) 産業再生法に求めるもの

 それでは、産業再生法は、会社更生法と民事再生法と、どのように違うのでしょうか。産業再生法は、バランスシートの問題よりも、生産性の向上を主目的にしたもので、多角経営に苦しむ企業や、過剰な生産設備を抱えた企業を助けるための制度です。だから、合併、営業・事業用資産の譲受、他社株式の取得、資本の相当程度の増資などの支援策が盛り込まれたのです。

 民事再生法は、「貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落」である、バランスシート型不況のデフレに対応する政策だということになりますが、これに対して、産業再生法は、生産性の向上を主目的としていて、事業者が営んでいる事業の中で生産性の低い分野からの撤退・縮小を進め、より生産性の高い分野に経営資源を重点的に投入する、「選択と集中」を促進するための政策なのです。

 つまり、産業再生法は、国内における多角経営の企業から、国際競争力のある企業の育成の政策であるということに注目するべきでしょう。

(3) 産業再生法の評価

 90年のバブル崩壊と、95年ぐらいからか、世界の工場となりつつある中国に代表される生産拠点のグローバル化は、消費大国のアメリカを基軸とする世界経済を確認する必要があるでしょう。民事再生法が、バブルの崩壊に対応した政策であるのに対して、産業再生法は、産業の空洞化に対応するために、国内産業の生産性の向上をリストラクチュアリングに求めたのは、経済状況からして理にかなっています

 しかし、日本が、生産性の向上に目を向けていたこの時期から、世界の工業製品の生産力は過剰気味となりつつあり、需要にたいして供給が上回るデフレーションが起きていました。

 日本は、下がりつづける物価に対して、1400兆の個人資産を背景に潜在需要はあるとして、供給側の問題はその視野には入れませんでした。財政出動とプライマリーバランスの矛盾を抱え、投資した財政は、官僚シンジケート団のピンハネ構造に食われ、ダム理論のダムの水はいつまでたっても、ダムから溢れなかったのです。

(4) 竹中経済相の企業再生に求めるもの

 竹中経済相の経済政策は、企業ビジネスの債権市場の原理を利用して、企業再生をはかる経済政策です。

 企業再生ビジネスとは、倒産した企業の不良債権を安値で購入し、その資産を基に企業を再生し、その企業が株式に上場することで、その株式資産の値上りによる利益、つまり、キャピタルゲインを求めることです。

 竹中経済相は、銀行を国有化してまでも、不良債権を債券市場にだして、債権市場原理によるリストラクチュアリングで、企業の再生をしようとしました。

 しかし、債権市場の市場原理を利用して企業を再生するというのは、求めるものがキャピタルゲインであることは明白であり、これで活気づく市場は、ウォール街を中心とする金融市場です。

 この市場は、為替の取引高が、貿易額の27倍である現実であきらかな実体経済とは異質の世界であることを理解しなければなりません。

(5) 企業再生法は、平成の徳政令だ

 これに対して、土地を含めた日本の資産を外資ファンドに支配させてはいけないと、この不良債権を政府が買い取ることを主目的にしたのが企業再生法です。つまり、企業再生ビジネスを官主導でやろうと言う訳です。これは言い換えれば、平成の徳政令です

 私は、「官の商法」は、道路公団をはじめ、第三セクターなど、「武士の商法」とは比較にならないほど、真っ青になるようなその経営実績は、犯罪でしかありません。霞ヶ関は犯罪者の巣窟なのです。官のやる企業再生ビジネスである企業再生法も、犯罪者にお金と企業を預けるようなものであり、犯罪を合法化する法案でしかありません。

 明確にしなければならないのは、特殊法人を頂点に、公需にぶらさがる企業と社会主義者の官僚と自民党を中心とする国会議員には、資本主義の概念は通用しないということです

(6) 何故、企業再生なのか

 それよりも、根本的な問題として、バブル崩壊以降、経済政策の中心は、企業再生を軸にしていたことに注視するべきです。企業を存続させ再生することで、雇用をまもり経済の活力を守るということが、はたして正しいのでしょうか。企業が成長することで、雇用の拡大することが、経済の活力を生むのでしょうか。

 不況の原因が、バブル崩壊後の、信用収縮から、生産性の低さによる企業競争の欠如。そして、いまの世界的な供給過剰によるデフレ不況と推移している状況で、利権しかみえない永田町は、いまだに、資産デフレを口にしていますが、日本の経済官僚は、民事再生法、産業再生法、そして、銀行の国営化による不良債権処理政策と、経済状況に即した経済政策をとっていると思います。つまり、現在の不況が、供給過剰が原因であることは経済官僚側も理解していると思います。

 ただ、私が問題とするのは、この政策の基軸となるのが、企業の再生であるということです。これは、企業の持つ市場のシェアの現状維持をスタートラインにしているのです。

 「経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。」という資本主義の原理からいえば、寡占化した資本のリセットを市場原理以外の権力で止めてしまうことは、新しい資本の寡占がはじまる動きを封印してしまうのではないかということです。

 市場をリセットすることで、資本が成長することが経済の活力を生み、寡占化していく過程こそが競争原理を生むのではないでしょうか。

(7) 資本主義の原理と基本に立ち返ろう

 目標とする市場(自動車等)があった時代や、需要が供給に追いつかない時代には、市場を、官がコントロールする統制経済も有効であったかもしれません。しかし、世界的に生産力が過剰である状況の中で、日本は、市場を自分たちで開拓しなければなりません。この市場を開拓するのに必要不可欠なのが、経済の活力でありモラルでありましょう。

 企業を再生するのではなく、企業の淘汰を受け入れ、市場をリセットすることで、新しい資本が生まれ、寡占化していく過程の中で、活力とモラルが生まれ、その活動が新しい市場を生み出すのではないでしょうか。

 いまは、資本主義の原理と基本に立ち返るできです。ケインズ主義者も、複雑な計算式で経済をあらわす近代経済学者も、いまは、資本主義の原理と基本に立ち返るべきではないでしょうか。

 資本のあり方と、その調達手段としての直接・間接金融機関の仕組み。そして、カルテル・トラスト・コンツェルンなどの意味するもの。インフレとデフレ。倒産と戦争。そしてワークシェアリング等々の概念を、資本主義の基本に照らして共有化し、議論するべきです。

(8) 日本経済のキーワードは、活力とモラルです

 日本社会は、社会主義経済と資本主義経済が混在していています。、いまの日本の閉塞感は、世襲政治の永田町と、官僚シンジケートを頂点とする公需の社会主義経済の国民と、民需の資本主義経済の下にいる国民との経済格差に原因があります。
 
 社会主義主義経済の側では、既得権益側に入るという競争原理が活力であり、その中に入れば、あとは組織を守ることがモラルなのです。資本主義経済では、資本が寡占化していく過程が活力を生むのであり、民主主義的な経済活動がモラルを生むのです。

 日本の掲示政策は、「企業の再生」に根本的な間違いがあるのであり、資本主義の原理と基本に立ち返り、経済の活力とモラルの再生をキーワードに政策を立て直すべきです。


二 資本主義原理主義者としての経済ビジョン

(1) アメリカンスタンダードとカジノ経済
 
 私は、均衡財政政策と官僚シンジケートに対峙する姿勢の小泉政権を支持しています。つまり、均衡財政論者であり、市場経済論者であります。この点では、古賀誠らの利権社会主義論者や、官僚シンジケートのケイジアンとは対立し、接点はありません。
 
 ただし、市場経済論者でも、アメリカンスタンダードといわれる金融市場論者と、資本主義の原理主義者の市場経済論者とでは、その主張は相容れるものではありません。小泉政権の経済政策は、均衡財政政策であり、脱利権社会主義でありますが、求める経済ビジョンは、アメリカンスタンダードです。
 
 アメリカンスタンダードとは、いわゆる「フリーライド(ただ乗り)論」を基本としています。それは、株式などの金融市場で世界中から資金を集め、アメリカがその資金で、消費大国となる経済システムです。カジノと化した金融市場は、実体経済の数十倍という通貨を動かしています。
 
(2) 「グローバル経済」と「反グローバリズム」
 
 ベルリンの壁の崩壊以降の、東欧や、東南アジア、中国の資本主義経済への参入は、アメリカの消費大国を歓迎しましたが、中国を筆頭に生産力の上昇は、需要に対して供給側の生産力が上回る事態となり、デフレは世界的な経済問題となっています。?
 
 世界的なデフレ傾向の中で、カジノ経済における通貨供給量を維持するために、いまの金融市場に参加する企業はリストラクチュアリングを競い合い、さらに、資本の寡占化への経済運動は、大企業どうしの業務提携や合併を突き動かしています。
 
 この経済行動が国境を越えて広がれば、いわゆる後進国は、先進国の企業を迎え入れるばかりで、その利潤は、現行のユダヤ資本や、アラブ資本、華僑資本などに吸い上げらます。その国の労働者は低賃金であり、雇用の枠はわずかです。この経済構造が、国境を越えて経済格差を生んでいるのです。このアメリカンスタンダードの「金融市場」が、国境を越えて普遍化することをグローバル経済としているのであり、この経済構造に対峙する勢力が反グローバリズムであるのです。?
 
(3) 資本主義経済のスタンダードはアメリカンスタンダードではない
 
 しかし、資本主義経済のスタンダードは、アメリカンスタンダードとは異なります。資本主義は、史的唯物論を否定することはできません。各国の資本主義の進化の違いが人類の悲劇の始まりではありますが、資本主義の唯物史観を否定することは、資本主義の抱える経済の矛盾を飛び越えて、絶望的な貧困を生み、そこから派生する憎悪は、人類を滅ぼすやもしれないのです。
 
 反グローバリズムの人々の主張する経済は、資本主義の原理に即した市場経済です。ベルリンの壁の崩壊で、社会主義は利権が制御できず、現実として階層化した社会が生まれ、非民主的な社会は、経済活動の活力とモラルが成立しないことが証明されました。民主主義と経済は、社会主義=統制経済を否定したのです。
 
 資本主義は、かつての資本階級と労働者階級という対立構造は、不労所得層と労働所得層に分類されることで、経済運動を妨げる要因は取り除かれました。そして、自由経済を基調とする市場経済こそが、民主主義が成立する経済であることがわかってきたのです。
 
(4) 日本経済に求められているのは、「活力」と「モラル」です
 
 資本の寡占化を歯止めする、カルテルやトラスト、コンツェルンなどを禁止するシステムや、事業のもとでとなる金である資本を間接的に調達する銀行システムや、直接的に調達することのできる株式のシステムなど、市場経済に市民が民主的に参加することのできる資本主義の原理が見直すべきです。
 
 この資本主義の原理主義の「市場経済」と、「金融市場」を中心とするカジノ経済とは、全く異なるものです。カジノ経済は、経済格差を前提とする経済で、「好景気と不景気の循環の法則」を無視した経済には、「活力」と「モラル」は成立しません。デフレの日本経済に必要なのは、「経済」の「活力」とモラルです。だから、資本主義の原理に即した市場経済が必要なのです。


三 国会議員は、経済政策のスタンスを明確にするべし

(1) 日本経済の現状把握の分類 

 経済政策を議論する時に、日本経済の現状把握をどのように捉えるかは重要です。永田町での日本経済の現状把握は下記のように分類できるでしょう。?
 
@ デフレは、信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回っているのであり、銀行の不良債権問題を解決したり、土地価格を引きあがれば、経済は再生する。
A デフレは、需要不足が原因であり需要を創出することが重要だ。需要の創出は、公共事業を中心とする財政出動か。企業の再生がある
B デフレは、需要にたいして供給が過剰なのであり、過去の10年間の経済政策で繰り返した公共事業の分野の供給能力は過剰である。従って、この公共事業の分野の企業の淘汰を受け入れて、他の成長産業に資本と人的資本を移管するべきである。
 
(2) 日本の経済政策の方向性の分類
 
 次に、日本の経済政策の方向性は、下記の4つに分類されます。
 
A 均衡財政と基本とし、企業再生による生産調整を受け入れ、現行の資本の枠組みを維持し、その枠内の企業の活力に日本経済の再生を委ねる。
B 均衡財政を基本とし、倒産という企業の淘汰による生産調整を受け入れ、「好景気と不景気の循環の法則」日本経済の再生を委ねる。
C 積極財政を基本とし、従来の公共事業への財政投資による需要創出政策
D 積極財政を基本とし、従来の公共事業の産業の生産調整を受け入れ、新しい分野の公共事業への財政投資による需要創出政策
 
(3) 日本の政治状況における政党と経済政策の色分け
 
 以上を踏まえて、日本の政治状況における経済政策の方向性を考えると、下記のようになるでしょう
 
○ 小泉政権は、日本経済の現状把握は、@とB 。そして、経済政策の方向性は、A
○ 自民党の抵抗勢力は、日本経済の現状把握は、@とA。そして、経済政策の方向性は、C
○ 民主党の日本経済の現状把握は、@とA。そして、経済政策の方向性は、D
 
(4) 問題点は、Bの経済政策をとる政党がいないことです

 ここでいえることは、自民党の抵抗勢力と民主党は。求める経済政策は違いますが、日本経済の現状把握は同じであるということです。つまり、自民党の抵抗勢力が既得権益を維持しようとしていることを裏返せば、民主党は、その既得権益層を交代させることになります。つまり、ともに既得権益層の代弁者としての政治的地位を求めていることになります。
 
 つまり、小泉政権は、従来の既得権益層に対しては、企業の再生という保護政策に出ていますが、この保護の対象となる既得権益者は大企業が中心であり、その数は限られています。自民党の抵抗勢力が、小泉政権と対立するのは、まさにこの部分であります。これに対して民主党は、既得権益層の総挿げ替えを要求したいるわけですから、小泉政権とも自民党の抵抗勢力とも意見は対立します。
 
 ただ、注視していただきたのが、Bの経済政策をとる政党がどこにもいないということです。経済政策のCとDは、ともに社会主義的な「統制経済」であり、Aの経済政策は、管轄下に大企業を政府を置く「統制経済」です。つまり、ともに、統制経済であり、従来のケインズ政策を基本としているのです。
 
 この日本のケインズ政策から脱却した、自由経済を基調とする市場経済のBの経済政策のスタンスの政党がない状態こそが、日本が社会主義国家である証拠ではないでしょうか。社会主義者の与党に対して、対立軸を示すのならば、野党は、資本主義の立場に立つべきでしょう。
 
 社会主義的な経済社会もよし、寡占化した大企業が支配する経済社会もいいでしょう。しかし、自由経済を基調とする市場経済の社会を国民に選択させる政党が、何故日本にないのでしょうか。
 
 古賀誠や菅直人らの社会主義者の統治を望まない国民や、アメリカの52番目の州としての日本を望まない国民もいるはずです。それなのに、何故、彼らの声を代弁する政党がいないのでしょうか。いわゆる無党派層の声を反映する政党が何故、日本にはないのでしょうか。
 
 国会議員は、いまの日本の経済状況で、現状把握とその対処としての経済政策のスタンスを、国会議員は各々明確にするべきではないでしょうか。
 

四 市場原理による企業の活性化の鍵は、インターネットにある
 
 不良債権処理の目的の第一は、過去の度重なる財政出動で供給過剰となった建設・土木などの産業の生産力調整であり、また、土地を担保とし、その資産バブルで生産力を増やしたダイエーなどの流通産業の生産調整です。その過程において、日本の金融システムを守るために、公的資金の注入は止む無しとしているのです。その意味において、不良債権処理は、「公的資金の注入ありきで」は断じてありません。
 
(1) 竹中経済・金融相がまとめた金融・産業再生策
 
@ 資産査定にたいしては、将来の収益によって戻る税金を資本に計算する「繰り延べ税金資産」を見直し、要管理先を中心とした不良債権に対し、米国流の資産査定であるディスカウント・キャッシュ・フロー(割引現在価値)を適用する?
A 公的資金の注入に関しては、過去に資本を注入した銀行が経営健全化計画を達成できない時など一定の条件を満たさない場合、企業統治(コーポレートガバナンス)を発揮させるため、優先株を普通株に転換して事実上国有化し、国が経営に直接関与できる体制をとる
B 主要銀行に必要に応じて公的資金による資本注入や国有化などの措置を実施。対象行は将来の売却を前提に不良債権を別勘定に分離、新経営陣は正常資産の「新勘定」を引き継いで再生を目指す。
C 公的資金の再投入や国有化などの「公的支援」を受けた銀行については、代表取締役を退職金なしで全員更迭する方針を明記する一方、年末までに自主的に退任した場合は責任を問わない。
 
(2) この政府案にたいして、与野党や銀行サイドが反対している理由
 
T 資産査定の基準の変更は、事実上の銀行の国有化であるということ
U 銀行経営に第三者がはいることは、不良債権の実態が公表することになり、市場が混乱する
V 公的資金を注入した不良債権を、売却目的で債券市場にだすことは、アメリカのファンドの支配される
W 正常資産の「新勘定」を引き継いで再生する銀行が、従来の担保主義で、正常は貸し出しが行われるか。
 
(3) 争点
 
 争点の一つは、銀行の国有化を受け入れるかです。銀行サイドとしては、不良債権の実態が公開されることになり、公的資金の注入を受け入れ年末までに退社してその経営責任から逃れても、国民の批判は避けられません。不良債権の責任を銀行が受け入れれば、政官業の癒着構造を明らかになり、このシンジケート団に関連する官僚や国会議員の犯罪行為が世間にでてしまいます
 
 二つめは、不良債権の売却であり、アメリカのファンドによる債権の買占めは、日本経済がアメリカファンドの支配下になることであり、これを日本国民が是とするかです。
 
 不良債権における銀行の責任が、犯罪に限りなく近い状況で、銀行が公的資金の注入を拒めば、不良債権処理は先送りになります。といって、公的資金の注入を受け、不良債権の処理をすれば、不良債権となった債権は、債権ファンドに買い占められ、日本経済の自立はなくなります。

(4) 銀行の国営化は必要
 
 私としては、「繰り延べ税金資産」などはの査定は詭弁であり、厳格な査定をすると考えます。そして、結果として銀行の自己資本比率がBIS基準を下回るようなときには、公的資金を注入し、国の管理下に置くべきです。
 
 ただし、不良債権を別勘定に分離し売却するというのは反対です。この別勘定の不良債権には、第三セクターの債権もあり、これは税金を投入したもので、いわば社会資本でもあるのです。このような債権を、バナナの叩き売りのように、アメリカの債権ファンドに売却することは、日本を売り渡す行為でしかありません。債権ファンドによる債権の買占めは、日本の経済的植民地化を意味するものです。
 
 経済的な植民地化を避けるには、不良債権の塩漬けしかありません。これには、まず、日本経済の再生を、企業の再生に求めないという基本政策の転換が必要です。
 
 日本の輸出産業の競争力はまだ後退はしておらず、今回の不良債権問題で、その対象となる企業は少ないはずです。競争力のある企業は、すでに資産デフレは克服して、いま直面している不況は、公需に寄りかかる産業の、供給過剰による生産調整の局面での景気後退であり、そのスパイラルがおきているデフレに対する経済政策でありましょう。
 
(5) 企業再生の経済政策を否定する
 
 いまのデフレに必要な経済政策とは、寡占化していない市場を求める政策ではないでしょうか。
 
 たとえば、現行の建設業など産業の場合には、供給側の過剰の現実を直視し、倒産を受け入れ資本の解体をするのです。そして、解放された市場の中で、中小零細企業の起業を促進し、その起業が、市場を寡占化していく経済運動を求めます。その経済運動の中で形成される、経済の活力とモラルが、日本経済の再生の原動力となのです。
 
 そして建設に限らず、あらゆる産業で規制を撤廃し、市場を解放し、起業を促進し、市場を寡占化する経済運動にデフレ克服を期待するという考えです。
 
 これは、いまの企業再生を中心とする経済政策とは、正反対の政策です。市場の占有率の高い企業を再生する政策は、起業を促進する政策と矛盾するものでありニ兎を追うことは詭弁以外なにものでもありません。また、不良債権を債券市場に売り出して、アメリカの債権ファンドに安く買い叩かれることは、日本経済が植民地化されることであり、絶対に避けねばなりません。
 
 そのためには、企業の再生という選択肢を放棄し、銀行の国有化等で、不良債権を国の管理下におき、不良債権を塩漬けにした方が有効ではないかという問題提議です。
 
(6) ダイエーの企業再生は必要か
 
 例をあげれば、ダイエーのように市場占有率の高い企業を再生するよりも、ダイエーが占有している市場を開放し、消費者のニーズが、起業を促進させ、その起業が、市場を寡占化していく経済運動に経済の活力とモラルが再生すると考えるのです。
 
 そして、ダイエーのような大型店舗による流通ではない、地域性のある小資本の流通産業の姿を求める時代が、インターネットの時代の流通産業ではないかと考えます。そこで、インターネット時代の流通産業を以下に検証します。
 
 流通産業の場合は、小売業が衰退していった過程は、流通構造の集中化と合理化にありました。輸入大国の日本の流通業界は、商社を通して問屋や市場に商品を集め各小売に卸していましたが、大手資本は、問屋や市場という中間をはぶいて、商社と流通大手とが直結することで、経費の削減などの合理化と、流通資本の寡占化に拍車を掛けました。そして、消費の動向の情報もまた、流通大手と商社に支配されていきます。
 
 つまり、大店舗の進出が地方の商店街に代表される小規模の小売業者を衰退させたのではなく、流通構造のラインからはずされたことにより、消費動向にたいする情報が得られず客足が遠のいたと考えるべきではないでしょうか。
 
 大店舗の進出時に既得権益を主張した商店街が、今回のそごうの撤退で、逆の行動をとった事例からみて、消費者の動きは活発であったのに、商店街のような小規模事業者は売れなかったのは情報が重要な要因だったのではないでしょうか。

(7)インターネット革命は、流行語ではない  
 
私は、インターネットというものは、情報伝達の距離と時間の壁を取り払い、かつて、人馬という動力ではなく、蒸気という動力を人類が手にした産業革命に匹敵する、革命であると考えています。?
 
 20世紀は、情報伝達の距離と時間の短縮を求める技術の競争と、そのインフラ整備を求める経済の成長ではなかったでしょうか。情報の伝達のインフラ整備の格差が、国家間の格差となったといっても過言ではないでしょう。?
 
 日本の高度成長は、新幹線と高速道路が支えたのであり、アメリカは、空港インフラの充実で、その繁栄は支えられています。この構図は、欧州でも同じです。?
 
 ここで重要なのは、まず重要視されたのは、まず、人間の移動であったということです。人間の移動の距離と時間の短縮が第一であるのです。だから、コンコルドは生まれたのです。コンコルドの利用者の大半は、ビジネスマンと言われる人々でありました。情報の媒介としての人間を運ぶ交通インフラの整備が、その国の経済力を決していたのです。?
 
 しかし、インターネットは、情報伝達の距離と時間の壁がなくなり、双方向の情報伝達が、極めて廉価な設備で、一般市民が使える状況をもたらしました。かつて、テレビに情報を発信する権利を独占され、情報を受信する自由しかなかった一般市民が、情報の受発信が、廉価な設備で持てるようになったのです。?
 
 これは、情報の伝達手段を競い合っていた20世紀の社会構造とは、決定的に違う社会を意味するものではないでしょうか。これは、かつて、人馬に頼っていた動力が、蒸気の登場で、はるかに強力で自由に使える動力を手に入れた産業革命に匹敵する社会革命であるのです。だから、インターネット革命なのです。?
 
 かつてテレビ広告に支配されてきた、巨大資本による広告宣伝の支配を、インターネットは否定することできます。そして、地方経済の活性化は、企業の誘致や観光ではなく、情報と求めて都市へ集まった人と物と金の流れを、地方に分散していく流れをつくることにあるのではないでしょうか。?
 
 また、 テレビメディアの広告宣伝の効果を求めて、市場占有率を資本力で制するビジネスモデルが支配する経済では、フランチャイズや、企業内起業の社会となるばかりで、そこでは、経験で得られる知識がないがしろにされ、経済の活力とモラルは、後退するばかりです。?
 
 私は、一零細企業の経営者でありますが、営業地域を限定した広告宣伝の費用対効果を考えると、原価に占める公告宣伝費がどうしても高くなり、価格競争に負けてしまいます。インターネットは、テレビに支配されていた、広告宣伝のあり方を根本的に変えると信じています。そして、経験で得られる知識が貨幣と等価交換される経済社会に、活力とモラルが生まれると考えています。?
 
 そのためには、20世紀の、テレビの発信する情報に受動的な人々=消費者ではなく、21世紀では、人々は、情報をもとめる行動を身に付けるべきであり、かつての消費行動は、受動的なものから能動的な消費スタイルとなるべきでしょう。?

  そして21世紀は、情報の収集に際して受動的な多数派の消費者や、その利便性や権威あるいはブランドにすがる消費者ではなく、情報を求める消費者となることが、カジノ経済による経済格差の広がりを止めることができると思います。?
 
 そのような意識改革が、地方経済の活性化につながり、物を消費していた経済から、労働力を消費する経済を実現するのではないでしょうか。また、なにより、メディアの暴力を制すると考えます。?
 
 私は、インターネットというものは、情報伝達の距離と時間の壁を取り払い、かつて、人馬という動力ではなく、蒸気という動力を人類が手にした産業革命に匹敵する、革命であると考えているのです。?
 
(8) インターネット時代のビジネスモデル
 
 それでは、インターネットは、この構造をどう変えるでしょうか。
 
 現在のインターネットビジネスモデルと捕らえられているのが、消費者と生産者を直接リンクすることによって、生産者側は在庫管理の問題や収益構造を改善し、消費者は家にいながらにして何でも揃う社会を近未来としています。
 
 しかし私は、消費者と生産者がリンクするのではなく、小売業者と生産者がリンクするべきと考えます。地方の小規模事業者でも、インターネット市場が形成されることによって、大手小売業者と対等に情報と商品を仕入れできるようになります。その情報と商品を、各地域で発信してそして提供すれば、人々は、情報をもとめて、大都市に行く必要もなくなり、地域ごとに、人が定着し活気のある市民社会が構築されるでしょう。
 
 それは、いまの情報を求めて成立する都市での経済中心の社会が、インターネットで、情報伝達の距離と時間がなくなることで人々の都市への移動が変化するということです。都市と地域との情報格差の解消は、地方経済の成立要件となるのではないかという問題提議です。
 
 具体的には、テレビメディアの広告を求めて、寡占化した流通業の広告宣伝は、WEB広告で地域限定の広告ができるようになり、テレビ広告による宣伝広告の寡占化の意味あいは薄れていくのではないでしょうか。低コストな宣伝広告が、小規模事業者ができるようになれば、限定した地域でもビジネスは成立します。そして小規模事業者の経営は、情報処理技術の発達で、計数的な経営ができるようになるでしょう
 
 つまり、インターネット時代の消費は、大資本が物と情報を支配し、物質的な消費を求める時代から、小資本の企業が、インターネットで物と情報を手にいて地域の消費を支える。ビジネスモデルは、キャッシュフローを基本とし、資本力で市場の占有率を追いかけるビジネスモデルは後退するという意見です。
 
 マニュアルで管理された知識ではなく、経験で得られる知識が付加価値を生むようなビジネスモデルは、テレビで独占されていた消費者の情報が、インターネットで解放されることで実現するのではないでしょうか。
 
 そうであれば、企業の再生ではなく、企業の淘汰を受け入れ、起業ができるような環境整備をするべきでありましょう。それが、デフレ対策となるでしょう。デフレ克服のキーワードは、活力とモラルの再生です。

五 担保主義に代わる金融システムの提言

(1) 有限責任の成立しない日本は、資本主義経済ではない

 日本の間接金融は、担保主義で銀行は貸し出しのリスクを負っていません。しかも、大企業の場合は、経営者は有限責任でありますが、中小零細企業の場合は、株式会社や有限会社であっても、経営者は、無限責任を背負っています。

 また、日本の信用保証システムは、個人保証が中心で、政府の信用保証会社である信用保証協会は、銀行の救済機関でしかありません。日本の信用保証システムは、代位弁済というシステムであり、求償債務の取立ての機関でしかありません。信用保証とは名ばかりであり、債権者は、さらに金利を上乗せした求償債務の全額を負うシステムであり、信用保証協会は、一切リスクを背負っていません。

 しかも、法律で制定された「中小企業金融安定化特別保証制度」は、無担保無保証人を謳っていますが、信用保証協会の個人保証を条件としています。信用保証協会の連帯保証人は、信用保証協会が代位弁済した後の求償債務の全額を求められることになっていて、とどのつまり、この制度は、個人保証を前提とした制度なのです。

 このような詭弁の制度を法律としている、日本は、なんという無法国家なのでしょうか。無担保無保証人を条件とする「中小企業金融安定化特別保証制度」で、信用保証協会の保証人を求めるという詭弁は犯罪でしかありません。さらに、違憲立法審査権を行しない最高裁判所の不作為も、犯罪行為でしょう。

 本来、銀行の間接金融や、株式などの直接金融は、事業のもとでとなる資本の調達手段としてあるものです。資本の持たない人が、経済社会のなかで資本を調達することが出来るような社会システムであり、資本主義経済社会の中で、起業する権利の平等が成立するシステムです。

 製品やサービスの責任は企業にあるもので、これが無責任となれば経済は成立しません。このように考えれば、銀行の利息には、経費や利潤とともに、リスクが含まれているものでしょう。もちろん銀行経営上、このリスクを減らすほど利潤は高くなるのであり、リスク軽減の企業行動は当然でしょう。

 しかし、そのリスクを担保や個人に転嫁することは、企業としての体を成していないのではないでしょうか。金を貸し出すことが業務である銀行が、リスクである貸し倒れの責任を担保や個人保証に転嫁するのは、企業の責任を放棄しています。

(2) 求める金融システムのビジョンを理解しているのか

 いま、不良債権処理が問題となっていますが、「日本の金融システムと金融行政に対する信頼の回復」や「世界から評価される金融市場を作る」ためとなっていますが、そのまえに、日本の求める金融システムのビジョンが問題ではないでしょうか。

 それは、現行の担保主義でいいのか、株式会社や有限会社でも、中小零細企業経営者は、無限の責任を負わされている社会でいいのかとうことです。もとめる金融システムのビジョンを持たずに、一体、永田町と国会は、何を議論しているのでしょうか。

 竹中平蔵は、多機能高層都市プログラムによる情報産業への転換こそが、経済再生の道だとして、金融業、コンサルティング業、ソフトウェア業が、都市型の労働集約型産業であるとしています。つまり、アメリカの金融市場で、勝ち組みとなれるような、金融業、コンサルティング業、ソフトウェア業が、21世紀を牽引する産業だといっているのです。

 この基本スタンスで、金融再生プログラムが出来ているのであり、米国を基準にした、自己資本比率の導入や、BIS基準の厳格化を求めるのは当然といえば当然です。また、企業再生などは、金融市場での勝ち組みになれる企業の育成の政策となるのは当然です。なぜなら、竹中平蔵は、日本企業というカードをもって、カジノであるアメリカの金融市場に参加することが、経済であると考えているのだからです。中小零細企業への配慮は、かれの眼中にはありません。

 これに対して、公需の産業の声を代弁する自民党は、過去10年の財政出動で膨張した建設・土木の産業を支えることだけしか眼中にはありません。彼らのいう中小零細企業とは、建設・土木産業の裾野を指していて、不良債権でこの産業の生産力調整が行われることは、その支持者を裏切る行為となり、政治生命をかけた叫びとなっています。ただ、その声は、国益というものが、その視野には入っておりません。

 一方、野党はというと、野党第一党の民主党は、その支持基盤である労働組合は、企業の存続を求めていて、供給側の企業淘汰には反対です。また、地方では、公需にたよる建設・土木などの産業に関与している議員も多いので、自民党と同じ立場で、反小泉政権であり、反竹中平蔵となっています。

(3) 需要にたいして供給過剰が引き起こすデフレの方が深刻

 私は、いまの日本のデフレは、バブルによる貨幣および信用供給の収縮によるデフレと、世界的な工業製品の生産力の向上による、供給過剰のデフレが混在していてデフレの定義が曖昧になっていると考えています。だから、経済政策が迷走していると考えています。いまのデフレの原因としては、中国を筆頭に、アジアでの工業製品の生産力の増大は、供給過剰を招いている世界状況を前提として考えるべきでしょう。

 そのうえで日本経済を考えると、日本はバブル崩壊後、貨幣および信用供給の収縮によって経済が落ち込みました。これに対して、政府は需要創出政策として、公需への財政出動をしますが、これが、公需によりかかる建設・土木などの生産力が肥大し、この産業でも供給過剰のデフレを引き起こしていると考えます。

 つまり、貨幣および信用供給の収縮によるデフレを克服しようとしている間に、世界は、工業製品の生産力の向上による、供給過剰のデフレが起きてしまったのです。そして、公需の需要創出政策をずるずると引きずることで、公需の産業が供給過剰となるデフレを引き起こしたと考えるのです。いまの日本経済の直面する問題点は、貨幣および信用供給の収縮によるデフレよりも、需要にたいして供給過剰が引き起こすデフレの方が深刻ではないでしょうか。

 デフレの原因を供給側の過剰にあるとすれば、建設・土木などの産業の企業淘汰は進めるべきであり、企業再生は必要はありません。また、現在の日本の産業構造では、需要に対しては供給はいっぱいであり、新しい需要を牽引する産業の創出と育成が、消費を喚起し、起業を牽引することが、デフレ脱却の道しるべでしょう。

 国会議員は、この新しい需要を、官主導で作るのか、規制緩和等で市場に託すのかというスタンスの違いを明確にするべきでしょう。その上で、前者であれば、従来の公共事業でいいかどうかという議論になるし、後者であれば、規制緩和による、起業の促進などの経済の活力とモラルの再生に、新しい需要を期待するということになるでしょう。

 そして、金融政策では、カジノである金融市場に対応する金融機関を育成するのか、内需の促進に、デフレ脱却の道を求めるとすれば、規制緩和を中心に起業を促進する金融政策となるでしょう。後者の場合は、従来の担保主義ではなく、貸して側の責任を明確にし、株式会社や有限会社の経営者の有限責任という資本主義の基本ルールを確立しなければなりません。

(4) 事業のもとでとなる資本の調達手段としての金融システムの提言

 そこで、以下に、事業のもとでとなる資本の調達手段としての金融制度を意見します。

 事業のもとでとなる金の内訳は、固定資本を調達する金、つまり設備投資と、流動資本を調達する金、つまり運転資金に大別できるでしょう。従来の融資は、この設備投資資金と運転資金を一括で貸し出していて、そのあとの金融機関と企業の関係は、返済がされているかされていないかでありました。

 この構図では、企業は、貸し出し先の貸し倒れのリスクに対しては、なんら無策であり、彼らの仕事は、返済が滞ったあとの、債務の回収が主業務となります。だから、担保や保証人が必要なのであり、銀行は、債権の掃除屋にしかすぎないのです。

 カジノである金融市場に参入する日本の銀行に対して、事業のもとでとなる資本の調達機能を求めるのは無理があります。といって、企業の再生だけに政策を集中すれば、起業による経済の活力は生まれようもなく、中小零細企業の保護政策は、公需に関わる建設・土木の産業を対象となるばかりでしょう。

 そこで、事業のもとでとなる資本の調達機能としての金融機関を国営銀行に求め、その、貸し倒れのリスクを回避するような金融機関の企業行動を提案したいのです。

● 第一に、設備投資に関しては、ファイナンスリースを導入し、その所有を金融機関がもつということです。貸し倒れの時には、その設備を、再リースしたり、売却したりして債券を回収することで、リスクの軽減を図ります。

● 第二は、運転資金は、毎月の貸し出しとすることです。決済時に、決めた運転資金を利用することで、その企業の経営内容を把握することで、貸し倒れのリスクの傷を深くしないようにします。

 貸し出し金融機関は国営とし、金融機関と企業との間を取り持つ専任者をおきます。国営銀行の貸し出し金利に、運用管理の専任者の手数料をを載せた返済額を、企業は国営銀行に支払うことになります。そして、国営銀行は、運用管理専任者の手数料を支払います。

 運用専任者は、実績に応じて、貸し出し限度額を増やしたり減らしたりすることとします。貸し倒れのときは、不良債権の損失は、国営銀行がもちますが、その損失の額に見合った分を貸し出し限度額から差し引きます。

 また、一件あたりの貸し出し金額の上限を決めます。上限を、5000万ぐらいにして、その以上の貸出先は、銀行に任せます。つまり、銀行の相手にしない中小零細企業を対象にする制度とします。そして、貸し出しの総額の上限を決めて、運用管理の専任者の業務量を制限して、運用管理者を管理するようにします。

 この運用管理者は、従来の金融機関の営業マンを歩合制にすると考えても結構です。