国権の最高機関で、国の唯一の立法機関である国会に、本来、国会が定めた法を執行し、その管理をする行政側の官僚が、国会の立法業務に関与しています。さらに、司法は、国会で制定された法律に対して、違憲立法審査権は一度も使われていません。つまり、日本の権力構造は、三権分立は成立していないのです。
国家権力を、立法・行政・司法のそれぞれ独立した機関に担当させ、相互に抑制・均衡をはかることによって、権力の乱用を防ぎ、国民の権利・自由を確保しようとする三権分立のシステムは、何故、日本では形骸化されたのでしょうか。
私は、この根本原因は、論理の成立しない日本国憲法にあると考えます。さらに、国家最高の法規範である憲法が、行動や判断の基準となる規範として成立していないということは、「上位法は下位法に優先する」という近代法の原則の不成立を意味していて、これは、英国のマグナカルタのように、一部の特権階級が権力を支配する慣習法が、日本の法体系を支配しているのではないでしょうか。
一 増改築を繰り返す霞ヶ関の構造物
議員立法の数が、国会議員の評価とする風潮がありますが、日本の法律は、増築を繰り返す旅館のように、迷路のような廊下で構成される複雑怪奇な構造物の霞ヶ関を作り出していて、その各部屋に法律があるようなものです。
そして、国会議員が構造物の法律を取り出そうとしても、構造物に精通している官僚がいなければ、その法律がどこにあるのかもわからないのです。現実として、トイレに行くにも官僚の案内がないと行けない国会議員があまりにも多いいのは驚愕です。
総理大臣を中心とする内閣の面々は、霞ヶ関という奇怪な旅館の宿泊客(大臣)となることを目標に、党内の人間関係を築き上げることを政治としているのです。彼らは、霞ヶ関という旅館の中で、ただ寝て、食べて、トイレに行くだけであり、することといえば、サイン(花押)をすることだけです。
二 主権在民と相容れない慣習法
法律は、憲法という国家最高の法規範の上位法と、条約、法律、政令、省令などの下位法に分類されます。日本国憲法は、国の行動の行動や判断の基準となる規範として上位法に位置しますが、憲法9条を筆頭に、この憲法は矛盾だらけで、とても、国の行動の行動や判断の基準となる規範として成立しません。
論理の成立しないことをデタラメといいますが、デタラメな成文法である日本国憲法が、解釈などで権力者の都合のいいように運用される日本の法体系の中心は、慣習法が支配しているのです。
かつてイギリスの貴族が、「国王といえども慣習には従う」という取り決めを王に認めさせた、慣習法であるマグナカルタは、国王の専横を制限するために考えられたものです。行動の規範となる法律を、膨大な歴史のなかに埋め込み、その歴史を紐解かないと運用のできないようにすることで、国王の専横を規制したのです。
これはいいかえれば、権力を構成する貴族たちの都合のいいように法律を運用できることを意味しているのです。
三 下位法が上位法に優先している日本の法体系
本来、民主主義のもとでは、主権者である国民の行動規範として、憲法のような上位法は成文法でなくてはいけないのに、歴史のいたずらか、敗戦で日本はアメリカから論理の整合しない憲法を押し付けられました。
「上位法は下位法に優先する」という近代法の原則は、論理の整合する成文法があって初めて成立するのであり、論理の整合しない日本国憲法を持つ日本は、下位法が優先する国となりました。
日本において、その主体である法律は、下位法を構成する慣習法となります。そしてその慣習法は、戦後、官僚が、霞ヶ関という建物を次から次へと増改築をして、法律を押し込みました。複雑に絡み合った法律は、責任の所在を曖昧にし、既得権益を次々に作り出していきました。
迷路のような建物の中を自在に歩きまわれる官僚は、法律を支配し、国権の最高機関である国会をも制します。故に、国家権力を、立法・行政・司法のそれぞれ独立した機関に担当させ、相互に抑制・均衡をはかることによって、権力の乱用を防ぎ、国民の権利・自由を確保しようとする三権分立のシステムは、形骸化することになったのです。
四 霞ヶ関の官僚が宦官である理由
いまさら、議員立法を国会議員が主導でしたとしても、しょせん霞ヶ関という構造物の歴史を知らなれば、一人で建物内を歩き回ることは出来ず、建物の構造や歴史を一生をかけて、勉強しそして憶えた官僚らに牛耳られるしかありません。
彼らは、知識の量で選別され、霞ヶ関に入って、その複雑怪奇な迷宮のような建物内に精通し、各部屋の法律を管理します。大事なのは、その法律がどこの部屋にあるかであり、その法律のできたバックグランドに精通することです。何か政策をたてるときに、関係する法律をいかに集めるか官僚の能力として評価されるのです。
この、霞ヶ関の中で、その法律のバックグランドを勉強し、その法律を自在に操れることが権力とする行動様式は、まさに、清朝を支えた紫禁城の宦官と同じです。日本破綻のメルトダウンが聞こえる現代では、その行動様式は、映画ラストエンペラーに描かれる宦官の行動様式で学ぶことができます。
五 成文法の憲法制定が、官僚型の社会構造を変える
日本の権力構造は、英国の貴族社会のような法体系にその問題点をもとめ、その根本原因を、論理の整合しない、いわゆるデタラメな日本国憲法にその根本原因を求めざるをえません。
主権は国民にあるとするならば、迷路のような構造物に収めた法律を管理することで、自在に法律を操ることで権力の中枢に居座るのが官僚です。彼ら官僚から、権力をとりあげるには、国家の行動の規範として成文法である憲法を制定し、上位法は下位法に優先する」という重大な近代法の原則を成立させなくては行けません。
そのためには、継ぎ足しだらけの構造物である霞ヶ関を少しずつでも解体する作業が必要です。つまり、今は、国会は立法業務ではなく、法律を整理し破棄する仕事を切り替えるべきではないのでしょうか。
現行の慣習法である法律は、権利だけ明記していて、義務や罰則の規定は曖昧です。このような法律を破棄しても、すでに行動規範のない日本では、これ以上の社会不安は起きないでしょう。国会での法律の整理と廃合の作業をすすめると同時に、論理の整合性のある日本国憲法の制定に着手するべきです。
ただ、やみくもに憲法改正を唱えたり、官僚政治を批判しても、何も事態は変わりません。
六 論理が軽視され、権威だけが一人歩きしている
議員立法の数が、学会の論文のような感じで、国会議員の評価とする風潮を見直す時期に来ています。官僚主導政治を批判したり否定するのは簡単ですが、どうやってこの官僚主導政治を打破するのか、また、霞ヶ関の権力構造をいかなる手段をもって、権力を国会に取り戻すのか。
話はそれますが、在庫管理の世界では、設計変更などで、型番が頻繁に変更され、データーベース上に旧型番が載っていたりすると、部品の発注が少なくなり、ラインが止まったり、発注が多くて在庫がたまったりします。日本の在庫管理は、このデーターベースの管理よりも、部品が少なくなると、納入業者に泣きついたり脅したりし、在庫で倉庫が悲鳴をあげると、社内営業に走り回ります。結局、いくらコンピューター管理になっても、システムを理解していなければ、する仕事の内容も頓珍漢な方向となってしまいます。
これと照らし合わせると。国会も、立法作業ばかりで法律の整理を業務としないから、官僚たちの売国奴の行為が蔓延ったのではないでしょうか。論理の成立しない憲法を、解釈などという行為で運用するなど、論理で行動する人間には、その行為は馬鹿以外なにものでもありません。
成文法や慣習法、そして憲法や、上位法と下位法などの言葉の概念の定義を共有しなければ議論など成立しません。あの人がこういっていたとか、この人はこうだの議論をしているから、結局論理が軽視され、権威だけが一人歩きしているのではないでしょうか。
国語辞典を片手に、論理を優先し、問題の根本原因を求め、その対処を、日本語を組み立てることで、結論を導いていただきたい。法律を整理することをしない国会に、日本の政治体質があるのであり、ここから改善するべきではないでしょうか。