小泉政権の経済政策の問題提議と争点

 小泉政権になんでも反対の姿勢ではなく、小泉政権の経済政策が示す経済ビジョンを明らかして、民主党として違うビジョンを提示することで、国民に選択枝を示すことが野党第一党の責務であり、それを求めるのが政治ではないでしょうか。

 
一 不良債権処理は、責任が争点だ
二 不良債権問題は、公需の生産調整を意味する
三 「企業の再生」か「規制緩和」か
四 失業対策は、公的部門のワークシェアリングで
五 ワークシェアリングの基本は、時間給の賃金体系
六 資本主義の原理に即した市場経済をビジョンに
 @ アメリカンスタンダードとカジノ経済
 A 「グローバル経済」と「反グローバリズム」
 B 資本主義経済=アメリカンスタンダードではない
 C 日本経済に求められる「活力」と「モラル」
七 特殊法人も年金の問題も、退職金がポイント   

一 不良債権処理は、責任が争点だ 

 不良債権処理が動き出しました。公的資金投入に反対していた柳沢氏が更迭され、竹中氏の指揮のもと、金融再生へ緊急対応チームが発足し、不良債権処理が加速しています。 

 不良債権は、官僚シンジケートと社会主義政党の自由民主党の国家的犯罪の負の遺産です。この問題にメスを入れるということは、国家的犯罪を公にすることとなり、民主主義を謳いながら、実は社会主義政党の自由民主党と官僚シンジケートとの利権にからむ国家的犯罪にメスを入れることなのです。

 問題は、利権の巣窟の番人にある自由民主党が、不良債権の問題で銀行幹部や、行政の官僚の責任を問えるかということです。自らも関わっている国家的犯罪をその張本人が認めるでしょうか。利権社会主義者の常識は、世界の非常識です。彼らの責任の取り方は、謝罪することであり、犯罪に対する償いは、国税で済ますのが彼らの常識なのです。 

 竹中氏は以前から、不良債権問題では、銀行サイドの責任を問わないと発言しています。柳沢氏が、公的資金の投入に反対していたのは、自身が国家的犯罪を公にすることの責任回避であったかもしれませんが、公的資金を投入しても、誰も責任を取らないのであれば、今の状態のほうが、国に対する責任を果たしていると考えたのかもしれません 

 市場経済主義者の私は、不良債権の処理は、資本主義経済の原理原則に基づいて粛々と処理をするべきであり、その責任と、そして犯罪的な行為であったならば、刑法を適用するべきと考えます。この責任を曖昧にすれば、荒廃した日本経済の活力とモラルは永久に蘇りません。 


二 不良債権問題は、公需の生産調整を意味する 

 利権社会主義体制の公需の依存度が高い、過剰となった建設や土木、そして流通などの産業の生産力は、不良債権の処理とともに、倒産等などで生産力調整が始まるでしょう。公需の比率が高い地方経済は、本格的な不況の嵐が襲い、失業者の増加は社会不安を引き起こすでしょう。公需の割合を落として、民需にウェイトを移すという経済政策の場合、民需の回復にタイムラグが発生するのは避けることができません。この時期をいかに乗り越えるかが、政治に託されるのです。 

 失われた10年では、公需の膨張と、民需の合理化による生産力の向上で、日本経済のレベルを維持してきました。結果、東京や大阪を中心とする民需中心の経済圏は不況となり、公需で支えられている地方経済は、不良債権が足枷となり、打ち出の小槌から振り出された金は、以前のように国民に行き渡りません。そして打ち出の小槌から生まれたお金は、国債として未来の子供たちが、借金として背負うことになります。

 不良債権の処理は地方経済を中心に、公需の分野での生産調整を意味しますから、失業者の増大は避けられません。そして、この10年間で、底辺の国民は、貯預金は底をついていて、来る本格的な不況に耐えること無理ではないでしょうか。


三 「企業の再生」か「規制緩和」か
 
 つぎに、日本経済の再生は民需にかかっていますが、その主体を、既存の資本体系(企業の再生)に託すのか、それとも、規制緩和を中心に中小零細企業の活力にかけるのか、その選択枝を国民に明示するべきです。 
 
 既存の資本体系、つまり企業の再生に日本経済の活力とモラルの再生を託すのか、規制緩和を中心に中小零細企業に、日本経済の活力とモラルの再生を託すのか、この二つは、政策的に相反するものであり、2兎を追うことは、詭弁以外の何ものでもありません。 
 
 企業の再生を軸とする政策では、不良債権を、RCCを通じて簿価で引取るという、いわゆる上場企業のオフバランスをはかり、その企業の再生に新規雇用を期待し日本経済再生を託す政策と、インフレを誘導し、オフバランスを図るというインフレターゲット論などの政策とに分かれています。つまり、RCCの不良債権を簿価で買い上げるという政策も、インフレターゲット論も、現在の資本形成をしている上場企業の保護政策であるということです。上場企業による新規投資や技術開発、そしてリストラで、新しく日本経済を牽引する産業に期待する政策なのです。
 
 これに対して、自由主義経済の原理に即した、市場経済の導入による競争社会の中に、次世代を牽引する企業や産業の出現を期待するという、規制緩和を軸とした経済政策があります。この場合の主役は、国民一人一人であり、彼らの経済活動を保証する、資本の調達機能である金融システムの整備が必要不可欠となり、前者の上場企業の保護政策のカジノ的な金融システムとは相反するものです。
 
 日本経済の再生を、上場企業の事業の再構築や再生に託すのか、誰でもが自由にそして平等に市場経済に参加できる経済システムを整備し、その中に、経済の活力とモラルの再生を託すのか、この二者択一の判断を国民に仰ぐことが政治に求められているのです。つまり、国民が経済社会に参加するということが、企業という船に乗ることしか選択肢がない社会なのか、それとも、小船でも経済社会の荒波に漕ぎ出せる社会かの違いで、これは、基本社会構造が決定的に違うものです。
 
 さらに、前者の、寡占化した資本による経済社会は、統制経済であり階層化した社会です。上場企業した企業に属する国民は、いわゆる既得権益層となり、上場企業に属さない国民は非既得権益層に分かれ階層化します。新規の資本の登場は、既存の資本の分社化が主体となりますから、株式や銀行の資本の調達機能は退化して、資本の増殖機能が金融システムの主体となるでしょう。カジノとなる金融システムでの浮き沈みが、消費動向を左右し、その消費を享受するのは、既得権益層が主体となるのです。
 
 後者の、規制緩和を軸として、自由経済を基本とする市場経済は、厳しい競争主義でありますが、だれでもが経済に参加できる自由な経済です。そして何よりもその経済は、活力とモラルの回復を期待できます。企業への忠誠を求められる労働者と、フランチャイズだらけの経済に、活力とモラルは生まれないでしょう。消費の主体は国民であり、既得権益層と非既得権益層の階層は固定ではなく、階層間移動の可能な社会です。

 しかし、なによりも経済の流れに身を任せる政策なので、経済の回復までタイムラグが発生します。この期間中の失業者の増加は、当然見込まれるものであり、この問題の取扱いを間違えれば、社会不安を引き起こし、社会秩序の崩壊は、経済の活力とモラルの崩壊を意味していて、日本という国のメルトダウンが始まります。

 いまの大企業中心の減税などは、前者の方針を踏襲したものであり、中小零細企業は逆に増税となり、その淘汰は資本の寡占化を押し進めるものです。経済の活力やモラルは、大企業の社員を対象に育成するものなのか、規制緩和を軸に中小零細企業の健全な経済活動に活力やモラルを期待するのか、その違いを明確にしてその選択枝を国民に提示するべきです。 

 竹中氏のように、資本の寡占化を容認し、既存の資本や企業を保護し、カジノ経済の金融システムを軸に経済成長を目指すのか。カジノ経済を否定し、資本の調達機能としての金融システムを軸に、規制緩和による市場経済の中で、経済の活力とモラルをよみがえらせて、日本再生を期待するのか。この選択枝を明確に示すことが政治に求められています。
 

四 失業対策は、公的部門のワークシェアリングで 

 小泉内閣が、国民に訴えた痛みはこれからであり、戦後教育で、平等と協調を叩き込まれた家畜のような国民は、大人しく電車に飛び込んでばかりだと思ったら大間違いです。自殺することもできない、物乞いも出来ない国民は、明日食える米がなくなれば、必ず暴れだすでしょう。社会不安は、さらに経済の活力とモラルを失わせます。不良債権処理に伴なう、失業者対策は待ったなしであり、従来の職業訓練などの施策などの子供だましでは済むものではなく、絶望からくる国民の怒りを馬鹿にしてはいけません。 
 
 あくまで次世代を牽引する産業や企業による経済回復までの雇用政策として、公需の分野で需要創出政策を基本とするケインズ政策に対して、民需に、経済の活力とモラルを期待する経済政策としては、ワークシェアリングがあります。
 
 ワークシェアリングは総労働時間を、新規雇用枠をいれて再配分する政策で、一人あたりの労働時間が少なくなり個別の賃金が下がり、新規雇用枠を増やす政策です。このワークシェアリングの対象は、賃金水準が高く、労働者総数の大きい組織となります。
 
 いまの日本経済でこの対象となるのは、行政などの公務員であることはいまさら説明するまでもないでしょう。また、民間では、インターネットを軸とする合理化が進みましたが、行政の分野での合理化はまったく手付かずの状態であり、情報のデジタル化に一時的なマンパワーは必要不可欠です。
 
 また、財政が破綻状況にもかかわらず、公務員の給与は最近まで右肩上がりで、民間労働者との給与の格差は開くばかりです。公務員が日本経済を牽引する訳でもなし、これでは、民間企業の経済活動において、活力やモラルを要求するほうがおかしいでしょう。

 行政で働く公務員の給与を時間給に置き換え、総労働時間の何割かを臨時雇用者の枠とすることは、失業対策はもちろん、行政業務の無駄を世間に公開することになり、業務のリストラに効果があります。また、高い公務員の給与を民間企業並に引き下げることは、民間企業ではたらく労働者の活力とモラルを回復させるでしょう。

 国家公務員と地方公務員合わせて450万人の公務員の支払い賃金を時間給に置きなおし、その10%をワークシェアリングすれば、45万人の雇用が確保できます。官民の賃金格差は20%以上あり、現実的には、総労働時間の15%ぐらいはワークシェアリングすることは可能でしょう。 

 従来の職業訓練や職業の斡旋業務などは、むしろこの業務への天下りの受け皿にしかすぎす、いい加減な雇用政策をこのままやらせていてはいけません。現実的な雇用拡大政策は、ケインズ的な政策を取らないのであれば、残るは、ワークシェアリングしかありません。


五 ワークシェアリングの基本は、時間給の賃金体系 

 問題は、ワークシェアリングの基本は時間給であるということです。総支払い賃金の総額を総労働時間で割って時間給を賃金体系の基本にしなければならないということです。民間では、正社員から人材派遣やパートの割合を高くしていて時間給の概念は底辺で拡大しています。

 閉鎖的な公務員の給与体系は、不正支給の温床となっていて、複雑な公務員の給与体系を時間給に置き換えることは相当の抵抗があるでしょうが、賃金体系の基本を時間給とすることは、ワークシェアリングだけでなく、産業別の熟練労働者の育成にも利点があります。仕事の能力を時間給で表わすことができるからです。

 ワークシェアリングの導入は、時間給の賃金体系が基本であり、この制度をなくしては導入はありえません。公務員の個人の一ヶ月の支払給与を、月の総労働時間で割り、一時間あたりの賃金=時間給をはじく。公務員の総労働時間を何割かをカットして、その分を雇用拡大にまわす。総労働時間と総支払い賃金はかわらないのがワークシェアリングの基本であり、変わるのは一人あたりの労働時間が減って、総労働者が増えることです。

 宦官官僚の巣窟の霞ヶ関にとって資本主義経済の論理は、ドラキュラが聖書を見るかのようにアレルギーを起こしますが、公務員の支払い賃金を時間給に置きなおし、総労働時間の再配分で新規雇用枠を確保するというワークシェアリングの導入は必要不可欠です。 

六 資本主義の原理に即した市場経済を日本経済のビジョンに
 
@ アメリカンスタンダードとカジノ経済
 
 私は、均衡財政政策と官僚シンジケートに対峙する姿勢の小泉政権を支持しています。つまり、均衡財政論者であり、市場経済論者であります。この点では、古賀誠らの利権社会主義論者や、官僚シンジケートのケイジアンとは対立し、接点はありません。
 
 ただし、市場経済論者でも、アメリカンスタンダードといわれる金融市場論者と、資本主義の原理主義者の市場経済論者とでは、その主張は相容れるものではありません。小泉政権の経済政策は、均衡財政政策であり、脱利権社会主義でありますが、求める経済ビジョンは、アメリカンスタンダードです。
 
 アメリカンスタンダードとは、いわゆる「フリーライド(ただ乗り)論」を基本としています。それは、株式などの金融市場で世界中から資金を集め、アメリカがその資金で、消費大国となる経済システムです。カジノと化した金融市場は、実体経済の数十倍という通貨を動かしています。
 
A 「グローバル経済」と「反グローバリズム」
 
 ベルリンの壁の崩壊以降の、東欧や、東南アジア、中国の資本主義経済への参入は、アメリカの消費大国を歓迎しましたが、中国を筆頭に生産力の上昇は、需要に対して供給側の生産力が上回る事態となり、デフレは世界的な経済問題となっています。
 
 世界的なデフレ傾向の中で、カジノ経済における通貨供給量を維持するために、いまの金融市場に参加する企業はリストラクチュアリングを競い合い、さらに、資本の寡占化への経済運動は、大企業どうしの業務提携や合併を突き動かしています。
 
 この経済行動が国境を越えて広がれば、いわゆる後進国は、先進国の企業を迎え入れるばかりで、その利潤は、現行のユダヤ資本や、アラブ資本、華僑資本などに吸い上げらます。その国の労働者は低賃金であり、雇用の枠はわずかです。この経済構造が、国境を越えて経済格差を生んでいるのです。このアメリカンスタンダードの「金融市場」が、国境を越えて普遍化することをグローバル経済としているのであり、この経済構造に対峙する勢力が反グローバリズムであるのです。
 
B 資本主義経済=アメリカンスタンダードではない
 
 しかし、資本主義経済のスタンダードは、アメリカンスタンダードとは異なります。資本主義は、史的唯物論を否定することはできません。各国の資本主義の進化の違いが人類の悲劇の始まりではありますが、資本主義の唯物史観を否定することは、資本主義の抱える経済の矛盾を飛び越えて、絶望的な貧困を生み、そこから派生する憎悪は、人類を滅ぼすやもしれないのです。
 
 反グローバリズムの人々の主張する経済は、資本主義の原理に即した市場経済です。ベルリンの壁の崩壊で、社会主義は利権が制御できず、現実として階層化した社会が生まれ、非民主的な社会は、経済活動の活力とモラルが成立しないことが証明されました。民主主義と経済は、社会主義=統制経済を否定したのです。
 
 資本主義は、かつての資本階級と労働者階級という対立構造は、不労所得層と労働所得層に分類されることで、経済運動を妨げる要因は取り除かれました。そして、自由経済を基調とする市場経済こそが、民主主義が成立する経済であることがわかってきたのです。
 
C 日本経済に求められる「活力」と「モラル」
 
 資本の寡占化を歯止めする、カルテルやトラスト、コンツェルンなどを禁止するシステムや、事業のもとでとなる金である資本を間接的に調達する銀行システムや、直接的に調達することのできる株式のシステムなど、市場経済に市民が民主的に参加することのできる資本主義の原理が見直すべきです。
 
 この資本主義の原理主義の「市場経済」と、「金融市場」を中心とするカジノ経済とは、全く異なるものです。カジノ経済は、経済格差を前提とする経済で、「好景気と不景気の循環の法則」を無視した経済には、「活力」と「モラル」は成立しません。デフレの日本経済に必要なのは、「経済」の「活力」とモラルです。だから、資本主義の原理に即した市場経済が必要なのです。 

七 特殊法人も年金の問題も、退職金がポイント

 日本経済を蝕む病巣は、特殊法人シンジケートと規制です。特殊法人シンジケートは、国の財政を蝕み、規制は、財政を蝕む利権構造を守っています。この特殊法人シンジケートと規制を既得権益としているのが、霞ヶ関の官僚と、永田町の国会議員です。

 今の政治は、特殊法人シンジケートの傘下の企業や労働者、そして、規制で守られたいわゆる既得権益側の国民の声が、政治に反映されていて、非既得権益者層は、蚊帳の外です。

 与野党ともに国民の声を乱発していますが、既得権益者側の権益と非既得権益者側の権益は、真っ向から対立するものでありながら、この対立軸を表明する政党や国会議員はいません。特殊法人改革にしても、談合にしても、その対策といえば規制を強化するばかりであり、既得権益である規制は、ますます強化されています。規制ではなく、特殊法人シンジケートを解体させ、規制を取り払う手段はないのでしょうか。

 私は、特殊法人シンジケートも規制も、官僚が作り守っているのだから、官僚が何を目的として行動しているのかを突き止めることが先決だと思います。官僚は何を目的として行動しているのでしょうか。

 私は、それは「退職金」だと考えます。官僚は退職金をもとめて、天下りをしているのであり、その天下り先を作るために、特殊法人シンジケートを拡大してきました。そして、特殊法人シンジケートを支えたのが「規制」です。規制があるからこそ、特殊法人の市場の独占化が可能になるのであり、この構造が、国の財政を蛭のように貪る官僚という売国奴を作りました。ということは、「退職金」をなくせば、官僚らは目的を失い、天下りや規制という既得権益にしがみつくことはないのではないでしょうか。官僚は、退職金を目的として行動しているのです。

 そもそも退職金とは、年金の意味合いのものであり、年金制度という社会保障制度が立ち遅れていた時代に、生活保障の意味であったものであるはずです。社会保障制度が進歩し、年金の概念が定着した現代に、この退職金を説明できるものがいるでしょうか。退職金は、年金と位置付けするべきなのです。

 退職金を年金と位置付けしたとして、いまの年金制度を考えると、積立方式の基礎年金と厚生年金や企業年金の二階建て方式は、その運用自体が、特殊法人シンジケートを支えるシステムに組み込まれ、赤字財政となっているのは周知のとおりです。

 また、積立方式というのは、現役世代が常に年金受給者を上回る比率でなければ成立しないという制度であり、年金受給者の数が増えていく状況では成立しない制度です。将来の年金制度を考えるのならば、この積立方式を否定するところから始めるべきでしょう。

 以上のように考えると、日本の二階建ての年金制度や、積立方式の年金システム自体を見直すべきであり、年金の意味合いの退職金も、新しい年金制度のなかで考え直さなければならないと考えるのです。

 私は、積立式の年金制度にかわり、年金を全額国庫負担とし、単年度会計とするべきだと考えます。現役世代が、市場経済をリタイヤした高齢者の生活費を負担するという義務と、高齢者の生存権は、国が補償するという権利を確立した上で、この権利と義務の相関関係を基軸に、年金は、国庫負担とし単年度会計とするのです。そして、その財源は、自由党の主張のように消費税をその財源とすればいいと考えています。

 厳しい市場経済をリタイヤした国民は、平等に生存権を与えられ、年金の支給額に格差はあるべきではありません。市場経済での富の格差は、自由経済での競争を生み出すものであり否定はしませんが、リタイアした国民への年金の支給額には格差はあってはならないと言う考えです。

 この概念に立って、退職金を考えれば、現在の退職金の一括支給をあらため、分割支給とし、年金に組み込むべきでしょう。年金の最低支給額を引き上げて上限を決める。基礎年金と厚生年金、企業年金に、分割支給となる退職金の総額を年金支給額とし、法律で決められた年金の上限を限度とする。

 単年度ごとに経済状況をみて年金の予算を組み、リタイアした国民も、日本経済に連帯責任を負い、現役世代の活力とモラルに配慮すると同時に、日本の政治、経済にたいする責任と義務を負っていただく。

 このような年金制度にすれば、行政も企業も、退職金の原資が、予算や経営を圧迫せず、国民の将来の不安もなくなるのではないでしょうか。また、なにより、退職金を目的とする官僚の天下りの行動を牽制することにつながり、官僚の既得権益をなくし、公務員の官民格差の給与や待遇にメスを入れることは、民需の経済で働く国民の活力とモラルを取り戻すでしょう。

 特殊法人の問題や規制改革など、その問題の根本原因が霞ヶ関の官僚であるならば、彼等を駆除するのに、力で駆除するのか、餌を取上げるか、どちらが効率的かを議論するのが政治の役目です。少なくとも官僚的になっていない国会議員は、官僚の餌である退職金を断つことを基本に政策を考えるべきでしょう。