永田町に競争主義の導入を

副題:個人献金を軸とした議員報酬制度を
 
一 政党は選挙のための組織でいいのか
二 市場経済は企業献金を認めない
三 個人献金の義務化
四 シンクタンクとしての政党
五 投票は義務とするべき
六 議員活動に企業会計の導入を
七 個人献金システムのあり方
八 投票の義務と棄権に対するペナルティーのありかた

一 政党は選挙のための組織でいいのか
 
 01年の政治資金収支報告書によると、政党・政治団体の総収入は00年に比べ0・6%減の1559億1千万円。総支出は7・0%減の1622億8700万円だったそうです。
 
 政党の収入の内訳は、政党助成金、党費・会費、企業献金、個人献金などで構成されています。この中で政党助成金は、選挙には金が必要ということを前提に、金権選挙の批判をかわすために作られた制度です。現職議員1人あたり年間4,000万円が支払われるという助成金は、ずばり選挙費用でしかありません。これは言い換えれば党運営というのは、選挙のための活動をする団体といえるでしょう。
 
 現実に、党の中での地位によって、この助成金の配分にさじ加減が加えられて、国会議員は、政党内での立身出世が次回の選挙の当選を約束されます。企業献金先の多い国会議員が党内で出世して、その国会議員に取巻くことで、その派閥が生まれ、その派閥の人間関係で政党の管理職に引き上げられることを期待している。かつて、日本のホワイトカラー(間接労働者)が、経済を牽引したきた時代の民間企業の競争形態と同じです。
 
 二年前のKSD事件では、村上正邦が比例名簿順位を架空の名簿で買い取るというような事件が公になり、非拘束名簿式が導入されました。しかし、自民党のほころびは広がり、自民党内の金権的は出世競争は、鈴木宗男の逮捕まで進みました。これで金権的な自民党に政治体質がかわるのでしょうか。いや変わることはないでしょう。政党が国会議員の上にいるかぎり、政治をないがしろにする永田町の論理は消えません。
 
 パソコンとインターネットの登場は、ホワイトカラー(間接労働者)の合理化を押し進めて、年功序列が崩壊し成果主義に変わりましたが、選挙が政治活動とする永田町の論理は変わってはいません。資金力を求めて、また資金を獲得できる能力が政治家の能力であり、政党の中での管理職となる条件なのです。そして、その権限が政治権力としています。
 
 確かに、多数の党員を国会に送り込むこと、つまり選挙に勝つことが「権力」を握ることではあるけれど、選挙に勝つために投資する資金力が、勝敗を決定する時代は終わりつつあり、また終わらせなければなりません。従来の組織型選挙は、金と縁故、そして産業別、業種別とそれぞれの業界の権益を「票」に変えてきました。しかし、バブル以降の10年間は、産業別そして業界別のカルテルは崩壊し、勝ち組みの権益の枠外の人々が増大しました。この状況で、組織に金をばら撒いても、集められる票は以前のようにはならない時代となってきたのです。
 
 この時代の変化の中で、政党が選挙をターゲットにその資金を運用する時代ではありません。縁故や組織に金をばら撒いてもその投資効果は以前のように期待できないのです。今は、かつて選挙のとき政党や政治家が見向きもしなかった、選挙権を行使しない無関心派の国民が無党派層として、その動向が選挙を左右する時代に入っているのではないでしょうか。
 
 この一方で、政治家個人の政治献金は禁止しています。国会議員としての政治活動費は、議員報酬の範囲で行うとしていながら、企業献金の受け皿である政党支部を通して、資金の還流を暗黙の了解とし、かたや、企業献金のない野党の議員が、公設秘書の給与を私設秘書に分配するという政策秘書制度の転用は、刑務所に入れられるほどの重罪だというのです。
 
 このようなことが起きるのは、政治=選挙という論理が根底にあり、国会議員としての活動を軽視していることがその根本原因ではないでしょうか。だから、霞ヶ関をシンクタンクとする日本の政治構造が、自由民主党の一党独裁を許してきたのであり、選挙の禊を受けない霞ヶ関が実権を握る日本の政治は、民主主義は不成立となり、そのなりの果てが現在の利権社会主義となっているのです。
 
二 市場経済は企業献金を認めない
 
 利権社会主義を存続させるために責任の先送り体質は、日本経済を破綻寸前に追い込んでいて、国民はこの現状を否定しています。霞ヶ関と永田町の論理はすでに崩壊しているのに、そこの住人である官僚と国会議員は、その霞ヶ関と永田町の無残な姿が見えません。また、政治と金の問題も、選挙に使う金なのか政治活動に使う金なのかも特定せず、金を汚い物という前提のメディアの論調からは、政治資金の規制と監視を叫ぶばかりです。
 
 そうではなくて、選挙に使う金と、政治活動に使う金に分けて政治資金を考えるべきではないでしょうか。そして、間接民主主義において、政党が国会議員の政治活動や国会での採決や発言を、政党助成金で制限する行為に疑問を投げかけるべきでしょう。国会議員の発言や採決は、支持する有権者の声を反映するものであり、政党のものではありません。
 
 そして企業献金に関しては市場経済では成立しないことを理解しなければなりません。なぜかというと、企業が政党に報酬や対価を求めず資金を提供することは、株主に対する背信行為になるからです。また、国会議員が、資金の提供をうけてその企業に見返りをすれば斡旋利得罪が成立する。つまり、企業側からも国会議員の側からも、市場経済では企業献金は成立しないのです。
 
 献金は個人献金しかあり得ないのであり、また、政党に選挙費用として渡す政党助成金も、国会議員の政治活動を制約するものでしかなく間接民主主義を否定しています。また、選挙のための組織としての政党では、選挙という禊を受けない霞ヶ関のシンクタンクの地位は不動であり、本質的な政権交代はできないでしょう。
 
三 個人献金の義務化
 
 私は、国会議員の政治活動にたいする報酬は、競争主義でいいと考えています。より多くの有権者の権益を政治に反映した政治家は、その政治活動に見合う報酬を得るべきと思います。そして、それは、個人献金を原資とするものであるべきでしょう。
 
 しかし、市場経済では、サービスを求めるとき、その対価としてお金を支払いますが、政治の世界では、国民は選挙で一票を投じることで、そのサービスを受ける権利があると考えられていないでしょうか。自分の支持する政治家を国会に送り出しただけで、その支持者の権益は政治に反映されるでしょうか。また、国が一律で支給する議員報酬では、国会議員同士の競争意識が生まれず、むしろ、国民に顔を向けない内向きの政治になるのではないでしょうか。選挙の時だけ頭を下げ、当選後はごく一部の権益者の声を政治に反映するという政治スタイルは、市場経済において企業献金が成立しないことと、間接民主主義を否定しています。
 
 そうではなくて、有権者は、国会議員に国政を委託すると同時に、彼らの政治活動をサポートする個人献金の義務が生じるものではないでしょうか。つまり、個人献金の選択は国民の「自由」ではなく「義務」ではないかという問題定義です。なぜなら、自由は自己責任と伴い成立する権利でありますが、義務は権利を伴うことで成立するものであり、選挙が国民の権利であるならば、個人献金の義務であり、それは、自己責任の範疇を越えて社会責任であるからです。
 
 この個人献金をする有権者の数が、その議員の政治活動費に連動するような報酬制度は、市場経済の社会の論理と合致します。政治の世界に競争主義があることで、活力のある政治が生まれ、個人献金の義務化で、政治のモラルが生まれるでしょう。
 
 選挙権と義務化する必要があるように、個人献金も義務化することが前提となります。そして献金額に差はつけません。小額でもいいから有権者が献金することで、国会議員の議員活動費はまかなうことは出来ます。たとえば、日本の有権者9000万人いたとして、一人2000円の個人献金を義務付けるとすると、1800億円の政治献金が集まります。この額は、01年の政治資金収支報告書の総額1559億円を越えます。
 
四 シンクタンクとしての政党
 
 また、現在の選挙のための党運営ではなく、有権者の声を政策に反映するシンクタンクとして党運営にかえるべきでしょう。政党がシンクタンクの役目を果たせば、政権交代は、政権のシンクタンクの交代を意味し、選挙で求める有権者の声を実現することが出来ます。そして、国会議員のいる国会の上に政党が位置するのではなく、国会とシンクタンクには上限関係はなく対等の関係であるべきでしょう。この関係の中で、霞ヶ関は、国会の下部組織として位置付けできるのです。
 
 具体的に、国会議員と政党の関係を対等にするには、議会活動を支える政策スタッフのあり方を変えればいいと思います。それは、シンクタンクとしての政党は、政策スタッフを、国会議員に派遣することで、政党の主義主張を、議員の国会活動に反映させると言う考えです。政治家は、議員活動費の中から政策スタッフの人件費を政党に支払い、その政策スタッフの力を借りて、有権者の権益を政策に反映します。主義主張を同じとする政党から政策スタッフを派遣してもらうことで、国会で勢力を求め、政党はその政策スタッフを派遣することで党運営をします。
 
 有権者の声を反映する政治家は、政党にとって次回選挙で勝つことのできる人材であり、彼らが国会議員になれば、政党にとってお客様となるでしょう。そのお客様に選挙資金を提供することは、政党としての投資となります。
 
 もちろん、個人献金のシステムは、一回の選挙でその報酬が固定化しないようにするか、タレント議員の扱いをどうするか、また、一票の格差という問題点はあると思います。しかし、事務処理に関しては、一億人の個人献金を管理する技術はありますし、なにより、このシステムは、市場経済の論理と一致している点を評価していただきたいのです。
 

五 投票は義務とするべき

 従来の組織型選挙は、企業献金や団体からの献金によって成立していました。しかし、組織による選挙を否定することはできません。組織による選挙応援は資金が必要となり、必ず献金の抜け道が生まれるでしょう。問題は、組織型選挙が、選挙の結果を支配する社会構造に問題があるといえます。組織型選挙の影響力を弱める方法は、投票率を上げるしか方法はありません。

 では、どうすれば投票率を上げることができるでしょうか。選挙カーで投票を呼びかけるのでしょうか。ちらしを配布するのでしょうか。私は、投票を義務化して、投票を棄権する人にはペナルティーを科せばいいと思います。

 選挙権は、基本的人権の参政権の一つです。選挙権が権利であるならば、投票は義務であります。国民は義務を怠ったときは、ペナルティーを受けるのが社会のルールです。つまり、投票を義務とし、投票を棄権する行為にたいしてペナルティーを科すことはなんら問題はありません。

 投票を義務化すれば、投票率があがり、組織型選挙の影響は小さくなるはずです。議員報酬を個人献金でまかない、投票を義務化すれば、いわゆる政治と金の問題は一蹴されます。
 

六 議員活動に企業会計の導入を
 
 結論として、議員報酬は、国会議員の政治にたいする成果で格差があるべきであり、その報酬をきめるのは、個人献金であるということ。そして、政党助成金や政策秘書制度は、議員報酬の平等化で成立する制度であり、競争主義の市場経済ではその論理は成立しない。ということです。

 そして、個人献金で得る議員報酬は、企業の売上金と同じで、そこから人件費やもろもろの諸経費を引いて、利益が議員の報酬にあたるとする企業会計を導入する。旧態依然とした秘書制度はやめて、企画、営業、経理というような企業組織の概念を導入する。故に、もろもろの議員手当てなどは不要となるでしょう。

まとめ
T 議員報酬は競争主義で格差を是とすること
U 議員報酬は個人献金で成立するということ
V 議員活動に企業会計や組織形態を導入すること
W 政党はシンクタンクとして存在し、スタッフの派遣で、議員とつながること
 

七 個人献金システムのあり方
 
T 個人献金は税金で強制徴収し、国に登録した政治活動家にたいして、献金をした人には、証明書を発行する
U 強制徴収する献金額は、実際の献金額にたいして上乗せして徴収する。
V 献金をした人は、証明書と引き換えに、献金額との差額を受け取る

 たとえば、献金額を一人あたり、年額1000円と設定したとして、税金として徴収するのは2000円とする。献金をした人には、証明書を発行し、それと引き換えに差額の1000円を返金する。献金しない人は、他の人に政治を委託するわけだから、差額の1000円は、国が管理し、政治関係の予算として計上する。

 登録する政治家は自由ですが、かならず、企業と同じように決算書の提出を義務付ける。登録は、国会議員、県議会議員、市議会議員と区別する必要があり、また、国会議員の場合は、一票の格差の反対の現象が起きるでしょう。現実的には、個人献金額は固定なので、支持率と同じになり、分配方式となるでしょう。また、最低額も決める必要があります。事務的には、コンピューターの進歩とその能力を考えれば問題はないでしょう。
 

八 投票の義務と棄権に対するペナルティーのありかた

 これも、投票したときに証明書を発行し、その証明書がない場合は、規定の金額を納税額に上乗せするようにします。上乗せする納税額は、選挙費用にたいする献金とし計上します。投票を棄権するということは、他の国民に政治を委託するわけですから、委託する費用として金額を支払うということです。