縦横軸で表す政治の分類

1 日本の政治の迷走の現実
2 日本の経済政策の整理
3 日本の政治の明確な棲み分けの必要性
4 縦横軸で表す政治の分類
 @ 資本主義と社会主義は相対関係ではない
 A 横軸で示す経済のあり方
 B 縦軸で表す資本の考え方
 C 縦横軸で考える政治の分類

1 日本の政治の迷走の現実
 
 小泉内閣の経済政策は、与党内部からも野党からも批判が出ています。小泉内閣の経済政策は、どちらといえば、緊縮財政政策ですが、きわめて何でもありの政策で、野党ならいざ知らず、与党内で180度違う積極財政論者がいるのは、日本の政治の混乱ぶりを象徴しています。
 
 地価の下落、不良債権、デフレの定義。そして、構造改革にリストラ。そして財政出動の是非。政治の世界で経済政策が、百家争鳴の議論となるのはいいのですが、誰も、議論を集約したり整理することをしません。国会では、鶏舎に押し込められた”鶏”が鳴くだけのような議論と形骸化しています。そして、経済政策が国家主導の統制経済であることを与野党ともに漫然と容認しています。自由民主党も民主党も、その政策は、国家が管理する経済政策(統制経済)であり、社会主義的な経済政策なのです。これに社民党や共産党が入りますので、日本が、資本主義の国家ではなく、社会主義国家であることは明白です。この日本において、唯一の野党は、自由党だけと言える現実を直視しなければなりません。
 
 1989年の11月のベルリンの壁の崩壊で、社会主義経済は否定されました。統制経済は、既得権益を制御できず、既得権益が横行する社会では、経済の活力とモラルは衰弱する一方だったのです。日本は、世界で唯一成功した社会主義国家と呼ぶ人がいます。しかし、その日本でさえも、既得権益が暴走し、日本社会の原動力であった、経済の活力とモラルは、終身雇用や年功序列賃金という日本型労使関係の崩壊とともに弱体化しています。
 
 既得権益が闊歩する日本社会は、経済の活力とモラルが消滅し荒涼とした経済社会となった、ソビエトやルーマニアのような東欧諸国の現実を見てきたにもかかわらず、日本の政治は、市場経済への転換を掲げようとする政党が出てきません。与野党ともに既得権益に深くかかわっていて、既得権益の代表としての議員がその既得権益を主張することが政治としています。

 しかし、民間企業では、終身雇用や年功序列賃金の崩壊で、組織からあぶりだされた人々の増加や、統制経済下で進む資本の寡占化で、淘汰された中小零細企業の経営者は、デフレの直撃を受け壊滅状態です。彼らの、経済人としての生命力は、戦後の日本経済の復興の原動力でしたが、資本の調達手段であるはずの金融は、キャピタルゲインを求めるカジノ経済への傾注で、日本人の経済人としての生命力の糧とはなりません。結果、日本経済に、活力とモラルは死滅しつつあるのです。
 
 統制経済下で、既存の既得権益層による政官業の経済構造は、国民の活力とモラルを無視したものであり、いくら優秀な頭脳を集めても、この経済の活力とモラルは統制経済下では生まれません。やがて、国民の生命力は、経済の活力とモラルに向かわず、暴力に向かうでしょう。ベルリンの壁を破壊した力はまさしく暴力なのです。
 
 私は、ベルリンの壁の崩壊を日本で再現させてはいけないと考えています。暴力による改革は、日本経済の力と国債信用力を失うものでしかありません。日本経済の力を温存させ、且つ国債信用力を維持しながら、この経済状況を打破するには、利権社会主義から、市場経済を基調とした資本主義への転換を、政治の力で実現させねばいけないと考えています。
 

2 日本の経済政策の整理
 
 よく小泉政権と日産のゴーン氏の経営方針が比較されますが、ここにも日本のエコノミストの軽薄な経済概念がよく表れています。一例をあげれば、リストラとは、「事業の再構築」であり、生産調整ではないということです。
 
  日産のゴーン氏は、生産調整をしながら、次世代の日産を牽引する車作りをしています。彼を評価するのは、彼の作った車が、市場で認められるかで評価は決まるのであり、彼を評価するのはこれからなのです。リストラを事業の再構築とする欧米人にとっては、生産調整は手段であり目的ではありません。しかしながら、ゴーン氏は日産という企業の生産調整の段階で、日本のエコノミストは、彼を改革の旗手と持ち上げ、小泉内閣の構造改革と比較評価しました。リストラを人員整理、構造改革、コスト削減としか考えていないレベルでは、事業の再構築や構造改革は語れないということを有識者と言われる人々が指摘することはありません。
  
 先ほども書いたように、地価の下落、不良債権、デフレの定義。そして、構造改革にリストラ。そして財政出動の是非など、その言葉の定義を共有化しないで、言葉だけが氾濫している日本の議論に警鐘を鳴らさざるを得ません。以上の観点から、日本の経済政策を、私なりに論点を整理してみたいと思います
 
 まず、デフレを「貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落」と定義する場合をAとします。この場合は、地価の下落によるバランスシートの偏りに問題があるとして、不良債権を克服することでデフレ脱却が出来るとする政策です。たとえば、資産デフレなどいって地価を政策的に引き上げるなどの政策や、インフレターゲットによるバランスシートの改善を目指すの政策があります。
 
 つぎに、デフレの原因を、「有効需要が供給に対して不足すること、または、供給過多による一般物価水準の下落である。」とする定義をBとします。この原因にたいする対処として、有効需要が不足しているのが原因とする政策と、供給側の構造改革に活路を見出そうとする政策があります。前者は、積極財政論者、後者は、緊縮財政論者とに別れます。
 
 積極財政論者は、国債を原資とした公共事業を中心とした景気浮揚策をとっていますが、「丹羽経済塾」のように、国債に頼らず、政府紙幣の発行で財源を確保せよという論もあります。どちらにしろ、道路行政に代表される従来の公共事業による需要創出政策であり、需要を上回っている供給能力の稼働率を引き上げることを主眼としています。
 
 これに対して、緊縮財政論者は、供給側の構造改革を求めていて、産業別の生産調整を受け入れるべきだとして、既存の企業のリストラ(事業の再構築)で、日本経済を牽引する産業への転換を政策としています。
 
 竹中平蔵は、金融業、コンサルティング業、ソフトウェア業が、これからの都市型の労働集約型産業であるとして、アメリカのカジノ経済のアジア版を目論んでいます。これとは違い、供給側の生産調整は、資本主義の経済原則に任せて淘汰を容認し、失業などの社会不安を吸収する政策で社会秩序を保ち、市場原理によって、民間企業に、次世代を牽引する産業に期待する政策とに分かれます。
 
 緊縮財政論者の中でも、既存の企業のリストラ(事業の再構築)に日本経済を託す政策は、経済を国が管理し方向性を決めるやり方であり、統制経済であるのは共通しています。現行の既得権益の構造を変えないで次世代の日本経済を牽引する産業や企業を育てる政策は、社会主義的であり、市場経済論者とは相容れないないものでしょう。
 
 統制経済とは反対に、供給過多の現実を直視して、過剰な生産調整を市場原理に任せるべきという論者は、ハードランディング論者とされています。ハードランディングによる、失業率の増加や、世界第二位のGNP(国民総生産)の日本経済の経済の失速は、世界恐慌の引き金になるという声に押されています。しかし、GDP(国内総生産)からにれば、日本経済は、内需主導の経済であることがわかります。このことは、ビル・トッテン氏の論がよく説明されていますので、下記に引用させていただきます。
 
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ビル・トッテンからのレター 題名:No.469 日本のデフレの原因から  Date : 2001年5月22日
 
<GDPの内訳 > 
個人消費    60%    
民間資本形成  30%    
社会消費     9%    
純輸出      1%    
 
 グローバル化を始めとする、経済学に関する妄言に洗脳された読者は、上記の数字を見て日本の純輸出(輸出−輸入)が過去45年間を通してGDP全体のわずか1%に過ぎないことに驚かれるかもしれない。しかし、1955年以来、日本は国内総生産の99%を国内で消費している。日本の経済成長とともに輸出が増えたことは間違いないが、それと同時に輸入も増えているからである。 
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 日本が内需主導型の経済構造であること、そして、デフレの原因が、需要にたいして供給過多にあること。そして、供給側の生産調整を容認し、あたらしく日本経済を牽引する産業や企業の出現による、新しい需要創出に期待するのであれば、いまするべき政策は、不況による雇用不安を中心とする社会不安を、公務員を中心としたワークシェアリングで緩和しつつ、官業の生産性は一時的に悪くなりますが、これによる消費の下支えの相対効果を考えて、違う形の財政出動と考えることもできるでしょう。そして、カジノ経済に傾注する民間の金融機関とはべつに、郵貯を中心とする国営銀行に、資本の調達システムとしても金融システムを整備する。資本の調達システムとしての金融システムによる起業の促進に、経済の活性化とモラルの回復を期待し、次世代の日本経済を牽引する産業の出現を期待する政策となります 
 
 問題は、デフレの定義を、Aに求めるのかBに求めるのかをきちんと議論をせずに、積極財政な緊縮財政なのかという議論になっていることです。さらに、需要不足を原因とする場合には、供給側を構造改革する必要はないのであり、この経済構造の改革と、政治の構造改革の線引きをしないで、ごちゃ混ぜに議論をしている現状にあります。
 
 まず、経済の基本動向として、官主導の統制経済を選ぶのか、規制緩和を中心に、民間主導の経済を求めるのか。この論点の違いを、大分類として分けるべきであり、この大分類で、政党の棲み分けをするべきでしょう。その上で、デフレの定義を共有化するべく議論をし、さらに、需要側に原因を求めるのか、供給側に原因を求めるかの立場を明確にして、それぞれの政策を論じるべきではないでしょうか。
 

3 日本の政治の明確な棲み分けの必要性
 
 日本の政治の中で、自由民主党は、既存の既得権益者である政官業の構造を基本とした経済社会を維持する政党と分類することに異論はないでしょう。既存の政官業で後世するシンジケートの企業の産業構造を変えて行こうとする小泉内閣の経済政策と、現行の産業を維持していこうという抵抗勢力と言われる対立構造は、しょせん、既得権益者の上の議論であり、零細企業や中小企業は蚊帳の外になります。
 
 また、野党第一党の民主党はというと、連合の影響下にあり、官僚シンジケートである労働組合の自治労や、既存の既得権益のグループの大企業の労働組合の影響下にあり、彼らを排除するような政策はとれません。従って、政官業の経済構造を基本とする経済政策となり、政権交代は、政官業の”政”の既得権益の交代を意味するものでしかありません。
 
 日本で、ベルリンの壁の崩壊のような状況を回避するには、社会主義経済を否定しなければなりません。民主党のように、”政”の部分の既得権益の交代では、ベルリンの壁の崩壊は避けられません。政権交代は、社会主義経済の政権から、市場原理を基本とする資本主義経済の政権への交代をするべきなのです。
 
 しかし、日本の政党は、党議拘束など議会制民主主義を否定していて、一部の人間による閉塞的な政党政治の現実があります。いまの国会議員は、議員になってから政党や官僚からレクチャーを受け、それをオウム返しのように喋ることが政治と思い込んでいます。国会は、理念や主義を実現する場ではなく、既存の理念や主義を理解する学校と化し、当選した議員は、政党のイエスマンとしてオセロゲームの駒の役目を求められます。政党が白といえば白。黒といえば黒。逆らえば、次回選挙の公認の取り消し。そして、執行部は、年功序列型であり、そのポストは世襲制である現実。
 
 このような議会制民主主義を否定するいまの日本の政党政治には民主主義はありません。このような状況の中で、政界の再編は無意味でありましょう。そうではなくて、国会議員一人一人が、有権者の声を自分自身で理解し、自身の判断で、政策を判断するという、間接民主主義の基本に立ち返るべきです。それには、非民主主義的な党議拘束を否定し、憲法の第51条で明記されている「議員の発言・表決の無責任」の権利を行使するべきです。そしてそのような政治活動を支え実現することを選挙で訴えてほしいと思います。政治の基本に立ち返り、おかしいことをおかしいといえる権利は、選挙権が健在の日本では守られているのですから。
 
 そこで、私は、政治家自身の政策的な立場を、国民がわかりやすいような分類で表現できないかを考えてみました。それは、縦軸は、社会政策を表し、横軸は経済政策を表します。縦軸の上に個人資本、そして、下に社会資本。横軸の左に自由経済、右に統制経済とします。そして、右上の第一象限、右下の第二象限、左上の第三象限、左下の第四象限と分類して、政策の分類をするものです。
 
 以下に、その論拠を述べたいと思います。
 

4 縦横軸で表す政治の分類
 
@ 資本主義と社会主義は相対関係ではない
 
 ベルリンの壁の崩壊後、資本主義と社会主義という対立の構図は消えました。社会主義は、中央集権システムで生まれる既得権益を制御できなかったのです。富の分配は階層化され、民主主義は全体主義に埋没されました。既得権益で縛られた経済は、活力とモラルをなくした経済は行き詰まります。経済の打開策としての方程式の戦争は、アフガニスタンに向けられましたが、戦争による消費と経済の活力は、当事国にとっては起爆剤であり、戦争への分野への投資が常態化すれば、経済はさらに悪化するしかありません。ケインズの政府投資よる経済政策は、あくまで起爆剤であり、それを機軸とした持続的な経済は成立しえないのです。これは、アメリカのベトナム戦争もしかりであり、戦後の土地本位制による日本型社会主義経済もしかりであります。
 
 つまり、両陣営とも、経済上は、資本主義経済のなかで、自由経済と統制経済の対決だったと考えられるのではないでしょうか。結果として統制経済は破綻しましたが、それは、統制経済で生まれる既得権益を制御できなかったからであり、利潤ではなく、資本(財政投資)を求める経済は成立しないことが立証されたのです。つまり、経済システムは、貨幣経済であるかぎり資本主義経済であるということを立証するものではないでしょうか。
 
A 横軸で示す経済のあり方
 
 以上の観点から、私は、経済は、統制経済と自由経済が交互に繰り返される運動であると提言しています。つまり、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で、「統制経済」だったり「自由経済」だったりするという意見です。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではなく、自由経済が成長し、統制経済になり、統制経済が破綻してまた自由経済になるとするものです。
 
 自由経済が成長する過程でカルテルが生まれるのは必然で、資本の寡占化と既得権益層の集団化=カルテルは必然だと考えます。しかし、カルテルがトラストに進化する時点で、既得権益は市場から暴走します。価格の決定を市場に求めない経済は、市場経済と民主主義とは共生できないのです。民主主義が成立した市場では、市場から暴走した既得権益は、必ず崩壊する運命なのです。それでも既得権益を維持するのであれば、民主主義を否定するするしかありません。
 
 寡占化された資本が分散し、既得権益が崩壊した経済は、あたかも山火事のあとの焼け野原ですが、焼け跡から出でる新しい芽吹きが、草木となり山を緑で覆うように、経済の活力とモラルが、新芽の草木のように生まれ、経済は蘇ります。そして、また、成熟した森林が、山火事を起こすのと同じように、経済は、資本の寡占化と既得権益の暴走で経済は崩壊していきます。
 
 山火事は自然の営みであるのと同じように、経済も、自由経済と統制経済が繰り返されるのです。かつての冷戦時代は、自由経済の成長をまたずに、統制経済にはいることが社会主義だったのであり、経済の成長で培う民主主義も否定してしまいました。社会主義の資本は、一握りの既得権益で握り締められ、その権益は世襲制となり、独裁国家となっていったのです。
 
 このように、民主主義社会では、貨幣経済である限り、資本主義しか存在しないのであり、経済運動は、自由経済と統制経済を交互に繰り返すものであるとすれば、政治を語る中で、経済政策を、自由経済と統制経済のラインのどの位置を目指す政策をしているのかを明確にすることは、国民が政治を選択するときに指針となるものでありましょう。
 

B 縦軸で表す資本の考え方
 
 資本を個人に求めるのか、それとも社会に求めるのか。崩壊した社会主義国は、資本を社会のものとしていましたが、中央集権システムで生まれた既得権益は、民主主義を否定し、一部の人々による独裁主義となりました。ルーマニアでは資本は資産となり、チャウシェスク夫妻のような独裁的な王様を生みました。資本は資産になると流動性をなくし、経済活動は停滞します。
 
 資本や資産を個人に持っていくか、社会的な分配に比重を持っていくかは、前記の経済政策に対して、社会政策となります。いわゆる福祉政策に重点をおく政策であれば、資本の分配は社会資本寄りとなり、アメリカや日本のように、所得の格差が、競争原理の基本として、高額所得者にたいする減税政策をとるのは、個人に資本が偏る政策といえるでしょう。
 
 ただ、まちがってはいけないのは、公平な競争原理は、経済政策で自由経済寄り成立するものであり、既得権益層で支配される統制経済は、公平な競争社会ではないということです。個人の資本を優遇する政策が、市場経済と連動するものでないということは、この政策は社会政策であり、経済政策ではないのだと理解する必要があります。経済政策は、市場経済での民主主義を制御するものであり、社会政策は、資本の偏りを制御する政策だからです。
 

C 縦横軸で考える政治の分類
 
 縦軸は、社会政策を表し、横軸は経済政策を表します。縦軸の上に個人資本、そして、下に社会資本。横軸の左に自由経済、右に統制経済とします。そして、右上の第一象限、右下の第二象限、左上の第三象限、左下の第四象限と分類して、政策の分類をします。
 
 この座標軸で私の独断と偏見で分類すれば、自民党と民主党は、第一象限。自由党は、第二象限、共産党は、第三象限に分類されると思います。また、アメリカのG・ブッシュ政権やイギリスのサッチャー政権は、第一象限。クリントン政権とブレア政権は、第二象限に分類されるのでしょう。もちろん、中国は、第三象限、崩壊したソビエトは、第四象限となります。(図で表すと下記のようになります)

 この分類の説明は省略しますが、いまの日本の政治は、長野の田中知事不信任案成立で露呈したように、与党第一党の自由民主党と、野党第一党の民主党の政策に差異がどこにあるのかわかりません。上記の図でいえば規制緩和を中心とする経済政策を主張しているかと思えば、官僚主導の経済政策を主張していたりで、利権社会主義政策の自由民主党にたいして、明確な違いの政策を打ち出していないのです。民主党の政権交代は、既得権益の支配権の交代としか聞こえないのは私だけではないでしょう。
 
 これでは、いくら選挙をしても、自民党の政権は続くでしょうし、仮に民主党が政権をとったとしても、第二の自民党でしかありません。そうではなくて、私は、日本中の政治家がこの縦横軸で、自身の経済政策と社会政策を重ね合わせて、その位置を明らかにしてほしいと考えています。その上で、同じ”象限”にいる同士が集まって政策を実現すればいいと考えています。
 
 はじめに党ありきでは政治にはなりません。はじめに政策ありきで、その結果、党を選ばなくてはいけません。いまの日本の政治に求められているのは既得権益の奪い合いではありません。第一象限のように、統制経済で、尚且つ、資産格差を容認する政策を選ぶのか、それともこれに対峙する第二象限か、第三象限、第四象限の政策を選ぶのかを国民に問うべきであり、野党としては同じ象限の政策では、国民の理解は得られないでしょう。