副題:株式の配当と公債の金利を併せ持つ、公債市場の創設
一 資本の役割
経済は、資本を運用し、企業の運用活動の成果としての利潤をもとめる運動の連鎖です。そして、その運動は、物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の中で営まれるものです。
その利潤を否定した社会主義経済は、利潤が利権となり、それを求める社会では経済は成立しませんでした。しかし、今の株式を中心とする金融システムを中心とする市場経済は、資本主義として成立しているでしょうか。資本自体が利潤を生み出すという、キャピタルゲインを求める運動の連鎖を経済と呼べるでしょうか。
資本の調達のシステムは、民主主義と資本主義がともに生存するもので、自由経済とも市場経済とも言われます。自由経済では、資本の調達は、市場を通して、誰でもできるものであり、そのようなシステムでなくてはいけません。
資本の調達は、下記の4つのシステムに分類できます
(1) 株式による資本調達(株式金融)
(2) 社債による資本調達(社債金融)
(3) 借入による資本調達(借入金融)
(4) 経営活動に基づく資本調達(内部金融)
二 資本の調達の現状は、資本の増殖システムだ
経済活動には、その規模にかかわらず資本が必要であり、その資本を市場から調達できるのが民主主義であり、自由経済と呼ばれるものでなくてはいけません。
この観点からみれば、資本階級と労働者との対立する構図は、専制主義における資本主義の話であり、これにこだわるのはナンセンスです。民主主義での資本主義は、資本家階級と労働者階級は、、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、非民主主義の国家です。
その上で、まず、アメリカを中心とするグローバリズムは、金融システムを中心に動く経済運動です。これを、”市場”と呼んでいます。つまり、「資本を運用し、企業の運用活動の成果としての利潤をもとめる運動の連鎖」は、この金融市場を動かす要因でしかありません。
米国がアフガニスタンにミサイルを打ち込もうと、アルゼンチンがデフォルトをしようと、そこで、生活する人々の経済活動は、市場を動かす要因のひとつでしかないのです。
資本は、利潤をもとめて、物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程である、経済活動の潤滑油としてではなく、資本自体が利潤を生み出す、金融市場が経済の中心となっています。それは、資本の際限のない膨張と、資本の寡占化を推し進め、その対極として、貧困層が拡大しています。 このような金融市場システムにおいて、自由で平等な民主主義的な、資本の調達ができるでしょうか。
資本は、ブラックホールのように寡占化が進み、資本が資本を呼び込み、グローバル経済で投資できるのは、極秘一握りの人々が握り、それは、トラストを構成し、世界は、階級社会となり、専制主義となるでしょう。
三 日本の資本の調達システムの現状
日本経済での資本の調達を振り返ると、戦後の日本は、借入金融=間接金融が、その柱であり、それは、護送船団方式といわれる銀行団が、その中心的な役割をはたしました。銀行は、資本調達の手段として、借入金融であり、一般に金融機関からの長期借入をさし、企業は将来、元本に利息をつけて返済するものです。銀行は、返済のリスクを利息におきかえて、融資をするのであり、借り手側は、業績の関係なく返済をしなければなりません。
しかし、日本の銀行は、返済のリスクを請け負いませんでした。彼らは担保主義をとり、利息は既得権益としたのです。利息が既得権益とすれば、日本の銀行が護送船団方式で、その既得権益を、「寡占状態にある同一業種の企業が競争を避けて利益を確保するため」のカルテルを結ぶのは当然です。
担保主義の金融のカルテルの存在は、土地なりの担保のあるものだけが資本の調達が出来る社会でした。つまり、誰でもが、資本の形成に参加できる資本の調達システムの間接金融が、戦後の日本では、機能していなかったことです。
それでは、 株式による資本調達はどうでしょうか。戦後の日本は、ハイパーインフレの状態であり、人々は株式を買う余裕はありませんでした。戦後の日本経済を支えたのは、家族経営の零細企業の活力でありましたが、日本の税制の基本である源泉徴収は、零細企業の労働者を、雇用者に変えていきます。この源泉徴収を税収の基本とする政府は、学歴主義(学歴と資格で生涯賃金が決める社会)を利用して、資本の寡占化を推し進めます。つまり、零細事業者の存続を認めなかったのです。従って、担保のない人々が、資本を調達するための株式市場は育ちませんでした。
つまり、日本経済において、資本の調達の機能である銀行は担保主義であり、資本主義経済における資本の参加の面で、民主主義が成立したおらず、資本の寡占化が制度で守られ、資本をもてない人々は、雇用者とする戦後の教育体制は、学歴で雇用者を縦割りにして、資格で雇用者を横割りにしました。
縦割りの社会は、霞ヶ関の官僚を頂点としたシンジケートを組織して、裁量権と退職金を既得権益とし、横割りの社会は、医師会や税理士会など、職種別のグループをつくり、既得権益とします。その既得権益は世襲制となり、いまの活力とモラルの喪失した日本経済を形成しました
四 日本経済の資本の調達の問題点
日本では、資本の調達は、護送船団による間接金融が中心であり、それは、担保主義で、誰でも参加できる市場ではありませんでした。政府は、安定した、源泉徴収の税収入のための、雇用者の養成に、学歴主義を利用しますが、それは、零細企業の淘汰を推し進め、現在の日本経済の活力の低下とモラルの欠如をもたらしています。
日本の銀行は、不良債権を抱えていますが、不良債権は処理するものであり、問題の原因ではありません。不良再建があるから中小や零細企業に資金が回らないというのは詭弁でしかありません。不良債権があろうとなかろうと、担保主義の銀行団が貸し出すのは、消費者金融ばかりであり、あとはキャピタルゲインを求めて、金融市場でのカジノを止めようとはしないでしょう。
そして、現在の株式金融も、資本の調達の目的を離れて、キャピタルゲインを求めることが主業務となっています。資本の調達の役目は、企業内投資か、銀行などの借入金融で調達し、株式の参加は、キャピタルゲインを求めているのであり、銀行などの借入金融自身も、資本の調達の目的を忘れ、キャピタルゲインを求めているのです。
日本経済は、民需を市場とする自由経済と、官需を市場とする統制経済の混合経済です。しかし、資本の調達からみれば、そのシステムは捻じ曲げられ、民主主義的な自由経済はどこにもありません。民主主義の成立しないゆがんだ自由経済と、利権でがんじがらめになった統制経済が、相互に干渉しあって、いまの日本の経済の混迷は深刻です。
この混迷から脱却するには、新しい産業の創出が必要であり、それを生みだす活力と、それを阻害させないモラルが必要です。これらの活力とモラルは、官僚からは生まれないものであり、官僚が守る既得権益は、活力とモラルを後退させるものでしかありません。
新しい産業の創出は、活発な投資から生まれます。その投資を支えるのが、資本の調達システムですが資本の調達から見られる民主主義は、グローバル化の中で、キャピタルゲインを求める金融市場にも、そして、担保主義の銀行を中心とした借入金融では機能していません。
いまの銀行や株式市場には、資本の調達としての機能はあるのでしょうか。担保主義から脱却できない銀行や、キャピタルゲインを求める株式市場に、資本の調達機能はあるのでしょうか。経済の活力は、起業から生まれますが、小額の資本を調達する術がない日本で、起業する素地があるでしょうか。
不良債権の問題は、日本経済が、乗り越えなければならない問題ですが、不良債権は、日本経済の混迷の原因ではありません。不良債権の問題を解決して、経済に活力が戻るのは、安定した金融システムが必要であり、起業を支える資本の調達システムが必要不可欠です。
そのためには、担保主義やキャピタルゲインを、批判したり法律で縛っても、無駄な労力であり、新しい資本の調達システムを、資本主義の原理原則に基づいて創設するほうがよいのではないかと考えます。
五 公債市場の創設による資本の調達
いま日本経済で必要なのは、誰でもが、資本の形成に参加できる資本の調達システムの構築です。いまの株式市場は、配当よりもキャピタルゲインを求めるものであることは論じましたが、これでは、本来の資本の調達は機能していません。といって、借入金融である銀行は、貸手側のリスクを利潤のおきかえず、担保主義をとっているかぎり、民主的な、資本の調達の役割を果たしません。
そこで、社債による資本調達(社債金融)を、社債市場とでもいうべき新しい資本の調達のための市場を作ることを提案します。社会資本でも述べましたが、社債金融では、社債発行時に公約した金利支払および元本支払が社債契約書で確定されるものでありますが、”金利”を最低保障とし、それとは別に、契約した”配当”を出すようにします。しかし、株価自体の価値の変動はありません。つまり、株式市場と借入金融との中間です。
本来の間接金融の利息は、融資のリスクを含めたものであります。社債金融での”金利”は、公債は、元本の保証をしませんから、担保主義は否定されます。そして、、これに”配当”をつけることで、その企業の将来性を市場に判断させます。投資家は、投資のリスクを利息でとり、将来性を配当で取ります。
この公債市場への参加は原則自由。引受け先は、個人および金融機関となりますが、担保主義の銀行団は参加しないでしょう。そこで、この引受け先を、とりあえず郵便局が行います。ただし、郵便局には、融資を判断する能力はありません。
そこで、融資を判断する業務を民間に委託します。それは、税理士でも、新しい資格制度でも構いません。融資を判断する側の収入は、金利に上乗せしたり、配当の分配で捻出します。元本のリスクは、出資者の責任ですが、判断を間違えた者は、次回に融資の際の、元本のリスクの負担を義務付けます。よい判断をする人には、融資の機会を増やし、そうでない人は、融資の機会がなくなります。
六 社会資本の資本と経営の分離
まず、資本の分類として、社会資本と民間資本を区別しなければなりません。国営企業の民営化は、金融市場に、社会資本をゆだねることであり、社会資本である資本がキャピタルゲインを求める手段である必要性がどこにあるでしょうか。また、他国の投資家による干渉は、独立国として弊害を生むものではないでしょうか。
社会インフラを中心とする社会資本は、主権者である国民のものであり、その資本の調達は、株式による資本調達(株式金融ではなく、社債による資本調達(社債金融)とするべきと考えます。なぜなら、いまの、株式金融では、配当よりも株価の上昇=キャピタルゲインをもとめるばかりだからです。
社債金融では、社債発行時に公約した金利支払および元本支払が社債契約書で確定されるものでありますが、”金利”のかわりに”配当”を出すようにします。株主である国民は、この配当を受ける権利を持つのです。社会資本の充実した国家の国民は、その社会資本が生み出す利潤を享受できる社会です。
そして資本と経営の分離を基本政策として、経営を民間に委託します。国は、その業務の監査にまわり、利益を出す責任を負います。経営は競争原理のある民間にまかせることで、利権を制御します。
国営企業の民営化は、社会資本を、本来の資本の調達ではない、資本の増殖システムであるグローバルな金融市場にゆだねるのは、内政干渉を受ける恐れがあります。また、いまの官僚シンジ-ケートの統制経済下では、利権を制御することが出来ません。これを解決するには、社会資本を金融市場に出さず、その資本の調達は、社債金融とし、その求める金利を配当に置き換える。そのうえで、資本と経営を分離し、経営を民間に委ねることを提言します。
七 大事なのは、資本の調達の権利の民主化です
グローバル経済の本質を批判しても、いまの日本ではどうしようもありません。彼らの市場を否定せず、資本の調達を主目的とした市場の形成が必要不可欠です。それには、いまの株式市場や担保主義の銀行を批判したり、法律で縛ってもそれは、労力の無駄であり、意味がないでしょう。 それよりも、グローバル経済、つまり、いまの金融市場に左右されない、本来の資本の調達の市場を創設するべきと考えます。
その一案として、郵貯なりの国営銀行を、その資本の調達の市場へ供給をさせて、市場原理のある投資を実現を提言するものです公債市場は、その一例ですが、大事なのは、いまの間接金融とか、株式市場では、資本の調達は出来ないよいうこと。そして、いまの間接金融とか、株式市場を否定する労力は、無駄だということです。
それよりも、新しい資本の調達のシステムを創設をすれば、必ず国民の支持をうけるであろうし、このシステムを国民が支持しなければ、日本経済に活力とモラルは戻らず、日本再生はないでしょう。