平成13年4月2日 米国は世界の警察官から、世界のならず者に
米政府は1日、米海軍偵察機EP3が南シナ海上空で中国軍機と接触、海南島に緊急着陸した事故や、えひめ丸と米原潜の衝突事故など、米軍の不祥事がつづく。
えひめ丸の事故では、ミスが連鎖したものと弁明しているが、それだけ連鎖するミスがあるということは、日本語でいうと、でたらめとか、滅茶苦茶というもので、弁明にならない。また、今回の航空機事故では、どちらが悪いというよりも、偵察機を五体満足に他国に渡してしまうというのは、軍として、とんでもない大失態だ。
ブッシュは、大統領就任以来、高圧的な外交態度をとっている。米軍機のイラクの防空施設を攻撃や、対北朝鮮外交。そして、二酸化炭素削減目標を決めた「京都議定書」の不支持は、最たるものだ。そして、ブッシュの高圧的な外交姿勢と相反して、米軍の信じられない不祥事が連鎖するのは偶然だろうか。ブッシュが机をたたけばたたくほど、埃が舞い上がり、軍は咳き込む。いま、米国は経済・軍事ともに世界のトップであるが、やはり、牽制する勢力がないと独裁となるのだろうか。ブッシュは、アメリカを世界の警察官から、ならず者になりさがるのだろうか。
ヨーロッパとアジアは、この状況を冷静に分析して、経済力をうまくコントロールして、米国の暴力を鎮めなければならない。日本が、米国の手下でいれば、ブッシュは、ますますふんぞり返ることになる。日本は、世界と協調しなければならず、それはアメリカの手先でいてはいけない。(この状況は、永田町のならず者の自民党と、その番犬の公明党の構図と同じであることもまた偶然なのだろうか。)
駐日米大使にハワード・ベーカーが送り込まれるのは、85年のプラザ合意の再現を目論んでいるのであり、あの合意で、党利党略のために日本を売った連中が今の政権に顔をそろえている現状では、ブッシュのならず者政権をいさめるどころか、日本はその手先として世界から憎まれるだろう。
いま、日本の内外で危機が迫っている。野党は、日本の政局だけではなく、世界全体をみて行動してほしい。そして、それは待ったなしの状況であることを認識するべきだ。馬鹿殿様に、馬鹿をやらせているときではない。
平成13年9月13日 ブッシュはテロの惨劇の責任を感じないのか
アメリカのテロは悲惨な出来事であるが、ジョージ・ブッシュは批判するばかりで、米国民を守れなかったことに対する謝罪は全く聞こえてこない。テロは民主主義の根幹を否定する行為であり、決して容認することのできないが、アメリカがこれほどの憎悪の対象である現実を正面から受け入れるべきである。
京都議定書から、南アフリカのダーバンで開かれた「種差別反対世界会議」での、ジョージ・ブッシュの、露骨なまでに国益を優先させる米政府の「ユニラテラリズム(一方的外交)」は、アメリカへの憎悪を拡幅し、「ならず者の国家」と、名指しで批判するジョージ・ブッシュは、世界の乱暴者であったことは事実だ。
ジョージ・ブッシュのユニラテラリズム(一方的外交)は、今回の凄惨な同時テロを誘発したことは間違いがなく、また、自国民をテロから守れなかったことに対して、大統領として国民に謝罪があってしかるべきではないのだろうか。テロに対する報復を否定はしないけれど、それはアメリカ国民の安全を守る手段ではない。米国はあまりに巨大で、直接戦争をすることは出来ず、テロは弱者にとって唯一の武器である現実がある。まず、アメリカに、ジョージ・ブッシュのような、「ユニラテラリズム(一方的外交)」を行使する乱暴者の指導者がいるかぎり、アメリカはテロの脅威から逃げられない。
犯罪を憎み、法と権力で犯罪者を裁いても、その犯罪の犠牲となるのは市民ばかりであり、犯罪を引き起こす社会にその原因を求めることが民主主義ではないのだろうか。テロという犯罪は、法で裁かれるものであり、政治は、その犯罪を引き起こした社会システムに言及しなければならない。
今回のテロを宣戦布告とみなし、弱小国をその強大な軍事力で威嚇する行為は、テロを刺激するばかりである。アメリカは、世界を対話する姿勢をもつべきで、謙虚な姿勢をわすれ、傲慢で自己中心的は行為は、世界のみならず国内からも支持をうしなうであろう。アメリカの貧富の格差は、世界の貧困層とネットワークでつながり、アメリカ社会を崩壊させるのではないだろうか。
平成13年9月17日 テロとジェノサイド
テロとは、「あらゆる暴力的手段を行使し、またその脅威に訴えることによって、政治的に対立するものを威嚇(いかく)すること。」である。今回のアメリカでの事件は、犯行声明をださず、アメリカが犯人としている、イスラム過激派の指導者オサマ・ビンラディン氏自身も、事件への関与を否定している。彼がこの事件の関与を否定しているということは、「政治的に対立するものを威嚇すること」にならず、テロは不成立となる。
これに対して、ジェノサイドとは、「個々人の絶滅による一民族の組織的破壊」であり、オサマ・ビンラディン氏が過去にこの件について明言しているのであれば、彼が、この事件にたいして限りなく黒に近いことになる。しかし、セルビア人による民族浄化よりもさらにひどいジェノサイドが行われていたかつてのルワンダに対して、以前アメリカはほとんど関与しなかった。紛争介入は国益との合致が前提である、というドクトリンを前面にだしたアメリカは、今度は、アメリカのためのグローバル経済への攻撃にたいする紛争介入が、そのシステムに虐げられてきた国々にとって、アメリカへの協力は、国益に合致しない現実を認めるであろうか。つまり、アメリカへの協力は、ドルとユーロを基軸としたグローバルな経済システムを維持したい先進国にとっては、紛争介入は国益に一致するが、その他の国は、国益に一致しない。これを、「暴力的手段を行使し、政治的に対立するものを威嚇する行為」で協力させるのは、テロ行為であり、アメリカはテロ国家となる。
今回の事件は、犯罪でありその捜査は、警察の統治下で行われるべきであり、その裁きは、司法が行うものである。いま、この犯罪を、戦争行為とみなし、軍事力を持って、政治的に対立するものを威嚇し、一般市民を巻き込む戦争をすれば、アメリカは、近代兵器によるジェノサイドを正当化しようとしている。長崎と広島に投下した原爆や、ベトナムで行ったジェノサイドを繰り返すアメリカは、暴力的な国家の素顔をまたも世界に見せつけようとしている。
ジェノバのサミットで、反グローバリズム組織が10万人もあつまり、反グローバル組織の中核である、NGOとの対話に前向きな欧州と、デモ隊との対決色の強い米国の路線の違いが表面化したのは、ついこの前のことだ。ジョージ・ブッシュのあまりに、横暴で、自己中心的な政治姿勢に、世界の反グローバル組織が牙を向いている現実を、アメリカ国民もそして日本も、認識することが重要であろう。
平成13年9月18日 金融システムを頂点とする中央集権の経済は社会主義
経済活動の目的は消費にあります。基本的には、人間は、生命を維持するために食べるという消費を行い、その消費行動に付随する道具や、設備を作り出し、それを分業することで、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」である経済が生まれました。
産業革命以降、人間は動力を手に入れ、生産力の向上と、技術の進歩は、消費の多様化を急速に進展させました。その結果、究極の消費である戦争は、兵器や兵士を消費するだけではなく、経済を構成する、「社会資本」と「労働力=市民」に壊滅的な打撃を与えしまいました。
消費をもとめる経済は、第二次世界大戦以降、「財の生産および分配をはじめとする諸経済活動が中央政府の計画機関によって決定される経済体制」とした計画経済と、「個々の経済主体は自由に経済活動を行い、社会全体の財の需要と供給は価格をバロメーターとする市場機構により調節される経済」とする市場経済に別れ、イデオロギーを伴い、それは社会主義経済と資本主義経済の陣容に分かれます。?
利潤をもとめない計画経済の社会主義国家では、経済活動の原動力である技術の進歩や活力は後退し、生産力は伸びず、利権を求める縦割りの社会は、貧富の差を拡大し、一党独裁の中央政府は、市民を抑えるために、民主主義を封印し専制独裁主義に変貌します。
これに対して、利潤を求める市場経済は、テレビの登場で、広告という消費の支配権を手に入れて、経済活動は、この消費の支配権をもとめて、生産力の増強と、売上至上主義に走りました。「物資の生産・流通・交換・分配」のシステムを確立するために、金融システムが確立され、錬金術による投資がはじまります。本来、需要と供給で成立する経済は、「資金」「固定資本」「流動資本」を労働力を使い、生産された物を、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程」をとおして消費されて成立するものですが、金融システムが経済の中心に位置することで、資金の移動で利潤が生まれることになりました。資金の移動が利潤を生み出す過程には、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程」はありません。つまり、経済の原理原則に一致しない行動様式であり、これは、究極の錬金術でしかないのです。
ベルリンの壁の崩壊で、専制主義国家であった社会主義国家は、民主主義を望む、市民のパワーで倒されましたが、市場経済の資本主義国家は、経済原理に反する金融システムによって、グローバリゼーションの名のもと、資本を寡占化していき、アメリカを頂点とする資本による中央集権のシステムが確立されました。それは、統制経済であり、民主主義を装った専制主義であり、社会主義体制であります。そして、それを支えるの強大な軍事力がアメリカ軍でありましょう。
先のジェノバのサミットでは、反グローバリズムの組織が10万人もあつまりました。彼らの、抗議行動は、まさしく、先進国による専制主義的な、経済システムにたいする抗議であり、アメリカを頂点とする経済専制主義の抗議する反グローバリズムの組織に対して、欧州各国が、対話に前向きであったのは当然でありましょう。
ニューヨークの世界貿易センタービルの倒壊は、まさしく、金融システムを頂点とする中央集権にたいする攻撃であり、アメリカという国というよりも、アングロサクソンによる統制経済システムに対する叛旗ではないでしょうか。昨日のニューヨークの証券取引所での騒ぎは、アメリカの繁栄が、金融システムという錬金術の経済で成立している証拠であり、現実として、事件後の物流の混乱での実態経済の混乱を収めるのが政府の重要な施策であるはずなのに、エコノミストの眼は、証券取引所しか見ていないではないですか。
また、経済の鍵はアメリカの消費者の動向にかかっているというエコノミストの意見が、メディアを闊歩していますが、世界から中央集権で吸い上げた資金を消費するだけのアメリカを容認することになります。アメリカのエコノミストがいうのであれば仕方がありませんが、日本人のエコノミストが言うに及んでは、開いた口が塞がりません。
統制経済の国家は、ベルリンの壁で証明されたように、その社会は民主主義に反し、市民はその社会を拒絶するでしょう。とすれば、アメリカが自由の名ももとに、金融システムを頂点とし、世界を中央集権で統治する社会は、その経済格差の広がりとともに、民主主義と対立し、強大な軍事力をもっても、民主主義を望む市民のパワーは抑えられないでしょう。ベルリンの壁の崩壊の事実は、アメリカを中心とする自由経済の名を借りた統制経済=社会主義経済の存続を認めません。
平成13年9月19日
ニプルを咥えたレームダックのジョージ・ブッシュ
>25年前、私はハーバード大のMBA(経営学修士)の学生相手の授業で、米国大恐慌の政治と経済的要因のからみと政治家と企業経営者の社会的責任を米国史を題材にして討議していた。その中の一人がジョージ・ブッシュ・ジュニアだった。不品行で軽薄なのを絵にしたような学生だったのは、カネ持ちのドラ息子で独身だったせいだとしても、政治家や企業経営者というリーダーの社会的責任には一片の理解も示さなかった。「怠け者だから貧乏人だ」と主張したのを今でも覚えている。?
このブッシュは大統領になろうと、「慈悲深い、中道保守の政治家」の演技のために、ふりつけられたセリフを繰り返している。しかし、彼の後ろで糸を引いているのは、国粋右派の連中である。ブッシュの軽薄さと空っぽの頭では、森“シンキロウ”総理と同じように権力欲と物欲をくすぐられると、簡単に黒幕たちに操られてしまう。トウェーンが警告した「どうしようもない腐った政治屋」なのである。日米ともに、こういう政治屋や黒幕を選挙でできるだけ早い機会に一掃しないと大変なことになる。 =(ニューヨーク市立大教授) 霍見芳浩
日本の憲政史の最大の汚点である平成の馬鹿殿の前森喜朗は、アメリカの高官にいわせれば、レームダック(歩行困難なアヒル)の森は、むしろ「ケイポン」(去勢された雄鶏)だとワシントンでは笑われていたらしい。森喜朗の馬鹿殿様ぶりは完璧であり、「ケイポン」と馬鹿にするアメリカの高官を、日本人として苦々しく思っていたが、今回のWCTの崩壊事件で、ジョージ・ブッシュのドラ息子ぶりが見えてきた。「レームダック」と「ケイポン」の言葉をそっくりそのままジョージ・ブッシュに返してやろう。
私は、今回の旅客機による事件は、テロではなく、ジェノサイドだと考えている。どちらにしろ、アメリカは自衛手段としての報復攻撃の行使の権限を否定はしない。しかし、テロでもジェノサイドでも、これは犯罪であって、国家間の戦争と定義し、軍事行動をおこすのは論理が通らない。また、犯罪にたいしては、犯罪者を憎むのは、事件の被害者らは当然であるけれど、市民は、その犯罪を引き起こした社会に原因を求めなければ、犯罪は繰り返されるではないか。犯罪を力で抑えるだけの社会は、警察権力に抑圧された社会となり、民主主義は後退する。
ジョージ・ブッシュは、あの、こそ泥のようなエシュロンを操っておきながら、ビジネス情報ばかり盗んで、今回のような犯罪行為では、ガセネタを掴まされ、多くの自国民の生命を守れなかった、また、為替取引では巨額の資金を、犯人側に提供したという情報もある。このような事態を招いたのは、ジョージ・ブッシュの、露骨なユニラテラリズム(一方的外交)が影響していることは間違いが無く、ここまで、アメリカが憎悪の対象となる現実をアメリカのトップは責任を感じなければならない。
現に、これだけの人的被害がでたのに、国のトップとして事件を防ぎきれなかった責任を口にだすことはなく、出てくる言葉は、犯人と思われるオサマ・ビンラディン氏を、下劣な言葉で非難するものばかりだ。彼の言動に、世界の指導者としての品格がどこにあるだろうか。
まして、危機管理システムとして、チェイニー米副大統領を、ホワイトハウスから離し、キャンプデービッドに移し、政府機能の保護を守ろうとしても、「レームダック」のジョージ・ブッシュは、お守役の、チェイニー米副大統領を追いかけて、キャンプデービッドまで行ったしまった。ニプルを口から離せないジョージ・ブッシュを、端的に表す出来事だ。
いまのジョージ・ブッシュの支持率が、80%を超えているとは信じられない。なぜなら、ブッシュ大統領就任時に、反対するデモに全国から7万人も集まったのは、73年、ベトナム反戦を求めて、時のニクソン大統領の就任式に集まったデモ以来の人数だった事実があるからだ。
今回の事件がテロであれ、ジェノサイドであれ、当事国の市民の、報復する権利は否定はしない。しかし、このような犯罪を招きいれた原因がアメリカにあることに眼をつぶってはいけない。賢明なアメリカ市民は、ジョージ・ブッシュの軽薄な言動に惑わされることはないだろう。
日本は、内外の情勢を客観的に捕らえ、アメリカの市民になったつもりで、騒いでいるマスコミや一部の政治家を相手にしてはいけない。ロシアも中国も、欧州も、アメリカへの協力の言葉は、外交のカードの一枚にすぎず、まだどこも手の内は見せていないのだ。
平成13年9月20日 国語辞典を片手に議論しよう
アメリカで起きた民間航空機による無差別殺人の事件を、日本のメディアや政治家は、「新たな戦争」とか「従来型の国と国の戦いでない戦争」であるとか、ジョージ・ブッシュの言葉をそのまま受け入れている姿に、日本の学識の低レベルと、現状認識のできない単眼的な思考回路には、開いた口が塞がらない。
まず、日本語の語句の意味のおさらいをすることからはじめてみよう。
1 戦争とは、「国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に行う武力闘争」
2 テロとは、「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使すること」
4 軍隊とは、 「一定の規律のもとに組織・編制された軍人の集団」
5 警察とは、「国家の統治権に基づき、社会・公共の秩序を維持しその障害を除去するために、国民に命令・強制する作用」
6 軍とは、「一定の規律のもとに組織・編制された軍人の集団」
国際法上、戦争は、宣戦布告によって成立するものであるが、今回の事件で、どの国家がその宣戦布告に名乗りをあげただろうか。また、ジョージ・ブッシュは、今回の事件をテロと断定しているが、今回の行為での犯行声明は聞かれない。WCTとペンタゴンへの攻撃は、無差別殺人であるが、これは、特定の国家によるアメリカにたいしての攻撃であることはまだ成立していない。つまり、アメリカが「自己の意思を貫徹するためた他国間との間に行う武力闘争」にはならないのである。戦争という定義に当てはまらないからといって、単眼的に、「新しい型の戦争」とあいまいな表現をとれば、あの平成の馬鹿殿様の森喜朗のアメリカ版である、ジョージ・ブッシュと同じレベルになってしまうではないか。
これは、経済や文化がグローバル化し、異民族が国境を越えて混在する世界のなかで、いままで、国家という枠の中での、社会・公共の秩序を維持させるための武力をともなう「警察権力」の存在が、国際法にもとずく世界という国際社会の秩序をまもる、国際警察としてのありかたが問われているのだ。その国際社会の秩序を、それぞれの国家に命令・強制する権力が、軍事力であるのだ。この事件を契機に考え直すべきことは、国際法における国際社会の秩序の安定であり、各国に国際法を遵守させるための、警察権力としての軍隊のありかた、つまり国連軍の存在意義を考え直すべきことであろう。
国連の本部はアメリカにあるけれど、アメリカの国連軽視の態度は、まさに、乱暴者の国家のイメージどうりで、自国の国益市場主義のアメリカは、かつて、長崎と広島に原爆をおとし、ベトナムでは、枯葉剤を撒き散らし、湾岸戦争では、劣化ウラン弾によって、そのジェノサイドの兵器の威力は、連合軍の兵士まで巻き込んでいる。また、あのルワンダの惨状には、紛争介入は国益との合致が前提である、というドクトリンを隠すこともなく全面にだした。そして、今度は、絶対的に戦闘能力の差があるアフガニスタンへの、アメリカ軍の攻撃は、無差別殺人以外なにものでもなく、これは、ジェノサイドだ。
今回の民間航空機による自爆行為による破壊攻撃は、人道上決して許されるものではない。しかし、これは犯罪であって、犯人がアフガニスタンという国家であるのであれば、戦争行為は成立するが、そうでなければ、犯人を世界の各国が協力して、アメリカに引き出せばいいいのだ。もし、アフガニスタンが、国連の努力の甲斐もなく非協力的であれば、そのときに武力を行使するべきで、ジョージ・ブッシュはその努力をする義務がある。そして、国連の決議のもとずく協力を日本はする必要がある。そのときは、論理の通らない現行憲法の中で、中世の公家社会の歌会のような、言葉遊びをしているメディアや政治家を日本国民は許していてはいけない。
犯罪の防止は、犯罪を生み出す社会にその原因を求めるべきで、犯罪者を憎むだけでは、犯罪はなくならない。日本は、アメリカ市民になったつもりでいる、メディアや政治家に惑わされず、現状把握を客観的に行い、言葉の定義を共通にして議論する姿勢が必要だ。国語辞典を片手に議論することは、少しも恥ずかしいことではない。永田町も霞ヶ関も、覚えた知識を披露することばかり気をとられ、基本的な日本語の意味を無視した議論をしているから、経済も立ち直らないのだ。
平成13年10月9日 南北問題と反グローバリズム
革命とは「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革。」または、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」です。前者は、フランス革命や、ロシア革命、最近ではイランのイスラム革命などがある。後者では、産業や文化にたいするもので、一番に思い当たるのは、産業革命でしょう。
産業革命は、人が、牛馬ではなく、蒸気という動力を手に入れたことから、地球の中での、人間の優位性を決定的にし、それは、国家間の圧倒的な格差を生みました。これは、「北半球を主とする先進工業国と、低緯度地帯および南半球にある発展途上国との貧富の格差がもたらす政治的・経済的諸問題」の南北問題として、殖民地の時代を経て、半世紀前まで続きました。南北問題は、「東側(旧ソ連を中心とする社会主義諸国)と西側(アメリカを中心とする資本主義諸国)との間の政治・軍事的対立を基調とする諸問題」である東西問題とともに、世界を二分していましたが、ソビエトの崩壊で新しい枠組みがおきます。
それは、自由経済の名のもとに、株式市場によるキャピタルゲインをコントロールすることで、世界の経済を支配下におくアメリカの経済支配です。アジアや中国の産業の発達を容認し、自国の産業の空洞化がおきても、株式市場でのキャピタルゲインが国民所得を押し上げ、消費力を保っていく。アメリカは世界経済の消費を支えているという構図は、世界各国の産業の利潤を吸い上げるシステムの上に成立するものです。
資本の調達システムとしての株式の制度は、本来の役目を、エンジェルファンドにゆずり、そのエンジェルファンドも、株式市場でのキャピタルゲインを求めています。資本の調達システムの目的をはずれ、キャピタルゲインを求める株式市場は、資本の寡占化を押しすすめ、資本は国境を越えて、経済を支配していきます。その経済は、資本と雇用者の構図が確立され、経済格差は、加速度的に広がっています。この株式市場による金融システムは、中央集権的な経済システムであることを理解することが必要です。
このグローバリズム経済は、世界の工業力の均衡化を推し進めながらも、資本(石油・土地・資本)を持つものはさらに富んで、資本を持たざるものは、この経済システムに隷属されていきます。今は、国家間の経済格差というよりも、ウォール街を中心とする株式市場というカジノに参加するものと、しないものとの経済格差が開いています。それは企業も指すものであり、そこに参加する資本は寡占化を推し進め、新しい資本の投下は、限定した資本家の管理下に置かれています。この資本の寡占化を、カジノである株式市場は、勝手にルールをつくり、世界経済の安定の名のもとに保護政策にはいります。アメリカは、自由経済の謳いながら、現実は統制経済に入っています。経済格差は固定化して、アメリカという国家の中でも、欧州、そして、日本でも、所得の格差は広がっていて、この対立が、反グローバリズムを生んでいるといえるでしょう。
この株式市場のシステムを確立したのは、情報処理技術と情報伝達技術の進歩でありました。株式市場というマネーゲームは、そのゲームとしての性格を強め、その攻略法は、ノーベル賞まで動かしました。(その結果は、笑うしかありませんでしたが)。株式市場というのは、資本主義の資本の調達システムとして存在するものであり、その投機性は資本主義は否定していなかったのですから、これが、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命とはいえません。
アマゾンドットコムのようなネットビジネスは、通販の延長であり、それは、キャピタルゲインを目的とした経済行動であり、情報革命とは程遠いいものです。アメリカの株式市場でのキャピタルゲインを目的とする経済の中から見ていているから、通販の延長を、新しいビジネスモデルと錯覚してしまうのではないでしょうか。
情報の支配という意味で、いままでのラジオ、テレビと情報の発信の権利は、常に時の権力者のものでしたが、情報技術、その中でも、インターネットは、情報を受発信するという権利を、一般市民が廉価な設備とコストで使えるようになりました。情報を伝達するというニーズが、道路のインフラを整備し、動力を使いその伝達の速度を高め、技術を伴いその距離を縮めてきました。そして、その権利は、電話のように広く開放される技術もありましたが、テレビなどの映像を不特定多数の人々におくるという権利は、一部のものに限られてきました。このテレビにような一部のものに支配されてきた情報の発信の権利を、インターネットは、音声・映像・文字情報という情報伝達の受発信も権利を含め、広く一般市民に開放するものであり、これが、「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取ること」であり、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命というべきではないでしょうか。
この情報の受発信の権利の開放が、何をもたらすのかが未来を予測することです。この基本を、グローバリズムの渦に巻き込まれて、その渦を引き起こす、テレビメディアを中心とするマスコミは、情報技術の本質をさらに見えなくさせています。今は、情報の持つ根源的な意味と、情報の歴史を振り返り、その本質を語ることが必要ではないでしょうか。
平成13年10月13日 反グローバリズムの理解度
先進工業国と発展途上国の経済格差をいう「南北問題」は、ソビエトの崩壊とともに、あたらしい対立構造へと変化している。アメリカが作り上げた金融システムは、「資本」の調達という本来の目的ではなく、「資金」を吸い上げるシステムとして株式市場をコントロールしています。このシステムでアメリカは、アジアを中心に生産拠点を発展途上国に置き、金融システムで吸い上げた「資金」で、輸入した製品を、アメリカ国内で消費するというシステムです。このような経済構造であるから、いまのビジネスモデルは、キャピタルゲインを求めた経済活動となり、資本の寡占化を前提としています。
アメリカは、この金融システムで、自由経済の名のもとに、、世界はごく少数の、独占的金融資本や持ち株会社に支配させています。現実に、資本主義経済であるのに、大企業同士の合併で見られるトラストに対して、何の批判もでない状況は異常ではないでありませんか。この現象でわかることは、この経済システムは、資本主義経済ではなく、独占的金融資本や持ち株会社の独占的は経済構造であり、それは、ソビエトやルーマニアの末期の経済構造と同じで、資金の中央集権システムでしかありません。
金融システムによる経済システムは、国家の垣根を越えて、世界的なグローバル経済となり、世界の工業力の均衡化を推し進めていきすが、利潤は、金融システムで吸い上げられ、経済活動の中の消費の格差が広がります。そして、このシステムに取り残された地域の人々は、援助という消費システムの中で生きていかなければなりません。この経済構造の消費の格差が、南北問題を引き継ぐあたらしい問題構造であり、これが、反グローバリズムです。
オサーマ・ビン・ラーデンの行動は、この反グローバリズムの抵抗であり反乱です。日本の国会では、貧困と南北問題、そして、反グローバリズムの言葉が、一食卓に論に論じられている現状をみるに、日本の議論は荒唐無稽で無意味なものでしかないことがよくわかります。これは神学論争にも劣る行為であり、日本人でありながら、言葉の定義を共有しない議論は、けっして一致点は見出すことはできず、議論は成立しません。
オサーマ・ビン・ラーデンが提議した、世界が抱える問題を論ずるのが、政治家の役目であるのに、マスコミと一緒のレベルの議論をしているその姿に、だんだん怒る気も失せてきます。これでは、日本の経済問題も、この金融システムを国の基幹産業と位置付けしている竹中経済相の政策を批判することができません。問題の本質は、金融システムによる資金の中央集権システムであり、これが資本主義経済に合致しているかどうかが問題でしょう。この議論をせずに経済政策を語るのは、ただの知識の請け売りでしかなく、ビジョンなど語れるはずもありません。
経済政策も、安全保障政策も、今日本で、そして世界で、何が問題となっているのかを論じないから、誰も日本のビジョンがいえないのではないでしょうか。アフガンへの援助だけでは何も解決されず、そして、アメリカ国内にも日本の国内にも、隷属的な立場にいる人間ばかりでないことに気がついてほしい。
ハイテク兵器を持つ世界最強といわれる軍事大国のアメリカに、ナイフだけでWCTを崩壊させ、ペンタゴンを奇襲し、そして今、旧情報伝達システムである”郵便システム”を使い、封筒一枚で米国を恐怖に陥れている、テロ組織「アルカイダ」は、反グローバリズムの先兵であり、彼らは無国籍です。
我々は。アメリカの誇るハイテク兵器と、ナイフや封筒が同じ威力であるという現実を、真摯に受け止め無くてはいけません。歴史なかで、圧倒的な支配力による格差のある社会は、継続したことはなく、必ず滅びる運命であることを認識しましょう。弱者は、強者よりも多くの血を流しても、強者の繁栄を認めません。それは、自然界のライオンと同じです。
平成13年10月22日 小泉首相は、マハティールに学べ
アジア太平洋経済協力会議で、マレーシアのマハティール首相は、米国で起きた同時多発テロを「人道に対する犯罪」と位置付ける一方、テロとの戦いを少数民族迫害の口実にしてはならないと述べ、アメリカやロシア、そして中国をけん制する談話をしている。
マハティールは、グローバル経済が、アメリカやヨーロッパによる株式市場による経済的な殖民地政策と批判した人物である。マハティールは、「欧米こそ、アジアを植民地支配し、人権抑圧をしてきた」「アメリカこそ、自国の産業を守るために、不公正な貿易ルールを作っている」と、グローバル経済を批判してきた。
1997年以来、東南アジアを襲った金融危機の中で、マレーシアは唯一、IMFによる救済策に頼ることなく、独力で金融政策を実施しその持論を展開した。IMFの経済政策である、株式市場のグローバル化により、資本を引き込む政策を拒絶し、逆に、自国の通貨や株式に対する短期売買を禁止する政策を実行したのだ。
国際経済の教科書的な理論では、「通貨や株式に対して、短期間で利益を出すための売買を禁止するといった規制をすれば、自由な売買を好む内外の投資家から敬遠され、その国に投資された資金は流出してしまう」とされていて、 米や日本のアナリストたちは、マハティールを狂人のように論じた。しかし、結果は、マレーシアは、東南アジアでいち早く金融危機を乗り切り、プラス成長を実現したのだ。
通貨の安定は、相場の上げ下げで儲ける投資家にとっては面白くないが、為替相場の安定は、企業本来の経済活動に専念できるもので、企業の活力とモラルは向上した。相場師たちはマレーシアを離れたが、モノ作りをする人々は逆に、マレーシア通貨の安定を好んだ。そのため、半導体と家電関係をとってみると、新規投資が増大し、海外からこうしたメーカーの輸出が、マレーシア経済の回復に貢献した。
マレーシアの経済発展は、グローバル経済の本質を見極めて、日本の高度成長にならい、公共投資による経済効果が相乗した結果であり、経済基盤がすでに成熟した日本では、その経済政策は通用しないだろう。しかし、世界が、欧米による金融システムによる経済的植民地政策を容認している中で、その本質を見極め、自国の経済的独立を維持していることは注目しなければならない。
金融システムによる、経済的植民地政策は、国と少数資本による支配であり、それは、資本が独占的な既得権益となり、非資本階級は、階層化される。非資本家階級は、経済格差でコントロールされていて、それに基本的人権があてがわれる。よく考えてほしい、株価の暴落で、資産が無くなるのは、一部の資本家だけであり、その資産も、株式市場というカジノで得た資産であることに。マネーサプライの実質の移動範囲は、現実経済では、20年前とかけ離れる数字ではないはずだ。
欧米を中心とする、金融システムと基幹とするグローバル経済は、富裕層と貧困層の経済格差によって成立するものであり、その格差の差異で社会の安定を模索している。しかし、経済格差の広がりは誰にも止められない。抑圧された民衆が蜂起するのは必然であることは歴史が証明している。
アメリカのテロ事件は、「人道に対する犯罪」ではあるが、抑圧されてきた民衆の蜂起をすべて、テロと定義付けをしようとする大国の論理は、歴史が許さないだろう。そして、グローバリズムの本質を語らずして現代を生きることはできない。「9月11日で世界は変わった」と、小泉首相も言ったけれど、その意味は、マレーシアのマハティール首相とは決定的に違うものである。
問題を解決するには、客観的で冷静な現状把握からはじまるのだが、教科書を覚えるだけの教育を受けた日本人は、現状把握の必要性も方法すら知らない。アメリカが与えた教科書どうりにやることが優等生である日本社会がここにある。竹中平蔵などは、その最たるものであろう。
「9月11日で世界は変わった」というのは、テロに対する認識ではなく、テロの標的であるWCTとペンタゴンにその意味があるのであり、それは、金融システムによるグローバル経済の転換期を意味しているのだ。
インターネット、IT革命、ヘッジファンド、グローバリズムと反グローバリズム、そして、資本、資本主義と市場経済、民主主義などなどの語句の意味を明確にして、そして、それらの語句を、現代と照らし合わせて、未来を語らなければならない。その上で、いまの金融システムによる経済植民地政策を日本が支持していくというのであれば、それもよしなのだ。それを選択するのが民主主義であるからだ。
しかし、何もわからず、ただ、幼児のように、アメリカの背中を追いかけるのだけは止めてほしい。日本人としての誇りを持てほしい
平成13年10月31日 アメリカは今すぐに、空爆をやめろ
この事件の犯人が、オサーマ・ビン・ラーデンとアルカイダの組織であるとするならば、アメリカは、この組織に対して報復攻撃をする権利はあると思います。ただ、アメリカが、テロをいう定義を曖昧にして、アフガニスタンを空爆という”ジェノサイド”を正義感ぶってやることは容認できません。
国際法に従わないものを、軍事力で屈服させることは異論はありません。日本の警察だって、銃を所持していて、警察権力は武器の使用を法で認められています。国連軍は、国際法に準じて行動するものであるならば、この銃が、巡航ミサイルにとってかわっても、その使用が、法で管理されていれば問題はないでしょう。
タリバンが、国連の勧告に従わないときは、世界が、武力行使によって、その意思を貫徹することは当然ですが、今回のアメリカの行動は、その手順を踏んでいません。といって、アメリカという国家が、アフガニスタンという国家にたいして、ある意思を貫徹する目的はなく、オサーマ・ビン・ラーデンとアルカイダの組織の殲滅を目的をしているのでしょう。
となれば、オサーマ・ビン・ラーデンとアルカイダの組織にたいする報復攻撃が、「新しい戦争」などと言いまわすようなものであるはずがありません。オサーマ・ビン・ラーデンとアルカイダの組織の壊滅を目的とするならば、空爆は最小限にして、地上軍の投入で目的を達成するべきです。
誤爆と言う言葉は、もともとの命中精度を無視した非人道的な鈍感さが生んだ酷い言葉であり、アメリカの行為は、ジェノサイド以外の何ものでもありません。
この空爆というジェノサイドを受けた国は、20カ国を超えていて、数百万人もの罪のない民間人が無情かつ無差別に殺されています。日本も、長崎と広島に原爆を落とされ、40万人以上の市民が無差別に殺されました。
今回の事件は、タリバン政権によるアメリカの宣戦布告でも、テロでもなく、ジェノサイドでありましょう。これに対して、アフガニスタンに巡航ミサイルを何発打ち込んでも、自国の安全がナイフと封筒で攻撃される現実を、「新しい戦争」としてはいけないと考えています。
どちらにしろ、犠牲になるのは市民であり、ジョージ・ブッシュの言う民主主義と自由は、金融システムによる中央集権の上部にいる一握りの人間のものであることに気がつくべきです。そして、下部の市民との差が広がることによる不満は、権力や武力で押さえ込むことができないのは、歴史が証明しています。
ジョージ・ブッシュは、いますぐ、空爆を止めて、地上軍による目的達成を図るべきです。空爆は、ジェノサイドでしかなく、その連鎖を断ち切らなくてはいけません。
平成13年11月8日 ”アヒルの家族”のようなアメリカ国民
日本は、原爆というジェノサイドを受けた国であることを忘れてはいけない。アメリカは、戦争を終結する手段として、原爆という兵器で、一般市民をターゲットにした殺戮をしたのであり。今も、もともとの命中精度を無視したミサイル攻撃を”誤爆”などのレトリックでジェノサイドを繰り返している。そして、いま、アメリカは、日本に原爆を落としたように、超大型燃料気化爆弾によるジェノサイドをアフガニスタンでしている。
1990年10月10日、米議会人権委員会でクウェートの15歳の少女”Nayirah”が涙の証言をしました。クウェートの15歳の少女”Nayirah”は、「クウェートの病院にイラク兵が来てincubater(保育器)から赤ちゃんを投げ捨てている」と証言し、イラクの残虐行為を許してはならないと、国民の戦争支持は90%に達しました。これを背景に、お父さんブッシュ大統領は武力行使に踏み切りました。
しかし、その後、世論づくりのためのNayirahの証言やそれを裏付ける医師の証言は作り話だったことが、判明しました。Naiyrahは在米クウェート大使の娘でクウェートの病院にもおらず、従ってこのようなことを目撃もしたことがないことが判明したのです
アメリカ国民は、ナジェーラ謀略事件でわかるように、虚偽で固められたジョージ・ブッシュ親子の後ろを追いかける、”アヒルの家族”のような国民であることを認識するべきです。そして、今のアメリカ国民に、その姿を教えてあげなくてはいけません。そして、ジョージ・ブッシュが支持率を維持するために、空爆というジェノサイドが、エスカレートしている現実を黙って見ていてはいけません。
アメリカは、今回の軍事行動を、真珠湾にたとえることを止めません。それならば、世界唯一の被爆国として、原爆という究極のジェノサイドの兵器をためらわずに使ったアメリカの暴力を、日本国民は世界に発信し続けるべきですし、その権利を遂行する義務は、被爆国である日本にはあります。
オサーマ・ビン・ラーデンが犯人であるとしても、彼とアルカイダの組織にたいする報復攻撃が、「新しい戦争」などと言いまわすようなものであるはずがない。オサーマ・ビン・ラーデンとアルカイダの組織の壊滅を目的とするならば、空爆は最小限にして、地上軍の投入で目的を達成すればいいのです。
空爆はジェノサイドだ。今すぐにアメリカは空爆を止めろ!
平成13年12月4日 エンロンの倒産と反グローバリズム
「電力・ガス自由化の旗手」と称されたアメリカの総合エネルギー会社エンロンが倒産した。本来、社会資本である電力を、自由化の名のもとに、その権益の寡占化をもくろむアメリカのエネルギー政策が頓挫した。
エンロンは、本来の電力事業ではなく、デリバティブ (金融取引)が業務の中心であり、資金を集めることが主業務の会社だ。この形態は、アメリカの金融システムによる中央集権の構造の典型である。経済活動から生み出される利潤を求めず、その利潤を吸い上げることが、このシステムであり、集めた資本による投資は、資本の寡占化が推し進められる。行き着く先は、一握りの資本家が世界を支配する、中央集権の社会であり、自由と生存権は彼らの裁量に支配される社会でしかない。
このデリバティブが支配する経済構造は、グローバリズムと呼ばれていますが、このシステムが、国家の概念を越えて、市民の経済的な格差を前提にしている構造でもあり、このシステムのマイナスの極にいる人々は、反グローバリズムとして位置されている。彼らが対峙するのは、デリバティブ (金融取引)であり、それに参加する資本であり、企業である。そして、それを、軍事力で後押しするアメリカ政府であるのだ。
9月11日、そのグローバリズムの象徴であるWCTが崩壊した。そして、グローバリズムを支えるアメリカの暴力の象徴である別名”攻撃省”のペンタゴンが破壊された。お父さんブッシュとチェイニーおじさんがいないと何もできない、ニプルを咥えて離さない幼児程度の脳みそと、躾のできていない乱暴者で、自己中心的なジョージ・ブッシュ大統領は、「新しい戦争だ」といって、この仕返しに夢中で、ミサイルと爆撃機をおもちゃにして、ジェノサイドを繰り返している。
グローバリズムの象徴のWCTの崩壊は、間違いなくグローバリズムに亀裂を入れたのであり、エンロンの倒産は、その連鎖であろう。ジョージ・ブッシュは、グローバリズムという資本のダムに、亀裂が入ったことを認識できないし、ナイフと銃で、アメリカ帝国が揺らぐとは夢にも思わない。
しかし、現実に、ジョージ・ブッシュ親子との結びつきが深く、彼らの代弁者としてお父さんブッシュの協力で成長したエンロンは倒産した。ジョージ・ブッシュの一連のユニラテラリズム(一方的外交)は、エンロンを中心とした、エネルギー政策から派生したものであり、このエンロンの倒産は、ブッシュ親子にとって大きな意味をもつのだ。
ニプルを咥えたジョージ・ブュシュ2世は、この状況を理解できず、ミサイルをおもちゃにしての戦争に夢中だ。このままでは、お父さんブッシュも、この糞ガキをコントロールできなくなる。経済が崩壊し、アメリカ国内の安全も保障できない状況は、アメリカ国民だけではなく、世界の悲劇につながる。
小泉首相は、9月11日に何が起きたのか、そして、世界がどの方向に向かっているのか客観的に考えてほしい。「新しい戦争」だとか、「テロ撲滅」だとか、あのジョージ・ブッシュ2世の糞ガキにつられて、論理の成立しない言葉を使うべきではない。グローバリズムと反グローバリズム、そして、経済のあり方を考えて、対アメリカの外交戦略を考えるべきだ。
おそらく、アジアで、この状況を理解できているのは、マレーシアのマハティール大統領ぐらいであろう。日本は、彼の助言を受けるべきであろう。アメリカのあとをハイハイしてついていけば、知識人面できた時代は終わっている。
平成13年12月14日 「Nayirah謀略事件」を思い起こせ!
米国防総省は13日午、ウサマ・ビンラーディンと米同時テロの結びつきを示すビデオテープを公開した。このビデオはアフガニスタン東部ジャララバードの民家から米当局が押収したとして、場所はカンダハル近郊で、国防総省は11月中旬の収録とみている。しかし、デジタルの技術が進んでいるこの時代に、戦争の当事国のビデオの信憑性を誰が決められようか。また、収録時期を11月中旬とする根拠は何なのだろう。
1990年10月10日、米議会人権委員会でクウェートの15歳の少女”Nayirah”が涙の証言をした。クウェートの15歳の少女”Nayirah”は、「クウェートの病院にイラク兵が来て保育器から赤ちゃんを投げ捨てている」と証言し、イラクの残虐行為を許してはならないと、国民の戦争支持は90%に達した。これを背景に、アメリカは武力行使に踏み切ったのです。 しかし、その後、世論づくりのためのNayirahの証言やそれを裏付ける医師の証言は作り話だったことが判明した。Naiyrahは在米クウェート大使の娘でクウェートの病院にもおらず、従ってこのようなことを目撃もしたことがないことが真実であったのです。
この「Nayirah謀略事件」は、あまりにも有名であり、その首謀者は、現大統領のお父さんブッシュです。このような事実から、今回のビデオが、作られたものでないと誰が断言できようか。
もし、このビデオが捏造されたものであるならば、ハリウッドの映画会社が飛びつきそうな三流の脚本と同じであり、文明社会を謳歌するのが米国は正義で、地下組織となって戦うはずのヒーローが、徹底的に悪役になっていることだけが違う点であろう。さしずめこの手の映画に出てくるミュータントは、劣化ウラン弾で後遺症のある、イラクの市民や、湾岸戦争に従事した連合軍の兵士であり、地雷で片手片足をなくしたアフリカやアジアの市民である。
日本は、「Nayirah謀略事件」を忘れてはいけないし、一方的なプロパガンダに乗ってはいけない。”世界のならず者”のジョージ・ブッシュのユニラテラリズム(一方的外交)を世界がこのまま放置してはいけない。
このビデオの公開と同日に、アメリカは、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から一方的に脱退することをロシア政府などに通告した。また、パレスチナでのジェノサイドは進行中だ。世界が、ジョージ・ブッシュなどの”ならず者”をこのまま放置するはずがない。それは、アメリカ市民とて同じで、”ならず者”のジョージ・ブッシュに批判的な市民は、決して少なくないはずだ。?
日本は、アメリカには外面外交をして、ヨーロッパやアジア、そしてアフリカの諸国と、内面外交をするべきだ。強者は必ず、独裁国家となり、ならず者を排出し、民主主義を弾圧する。そして、そのトップの座は永遠であった史実はない。必ず、強者は交代する運命にあることを忘れてはいけない。?
そして、アメリカのメディアの番犬と成り下がっている日本のメディアの実態を理解しよう。与えられた情報をオウム返しのようにすることが、エリート記者である日本のメディアに、世界の流れを読めるものはいない。真実は、論理と哲学と、事実が描き出すもので、それを判断する権利と手段をインターネットは市民に与えてくれた。論理力も哲学も国語力もない、オウムのような日本のメディアのプロパガンダに乗せられてはいけない。自分の言葉と論理と、情報で世界を見つめることが大切だ。
平成14年2月14日 ならず者のG・ブッシュに対する日本外交
今年にはいり、イラン、イラク。北朝鮮を「悪の枢軸国」と挑発する、G・ブッシュはとんでもないならず者です。ロシアや、EUの反米の気運は当然であり、この現実を報道しないマスメディアの姿勢を批判します。
京都議定書から、南アフリカのダーバンで開かれた「種差別反対世界会議」から始まったG・ブッシュの、「ユニラテラリズム(一方的外交)」は、ジェノバのサミットで、反グローバリズム組織が10万人もあつまり、反グローバル組織の中核である、NGOとの対話に前向きな欧州と、デモ隊との対決色の強い米国の路線の違いなどが表面化していました。
その後におきた、同時多発テロは、G・ブッシュの二面外交によって、中央アジアの米軍の配備がなされ、かつて、広島と長崎に原爆を投下したのと同じように、なんのためらいもなく、超大型燃料気化爆弾によるジェノサイドをアフガニスタンでしました。
このような、アメリカの、「ユニラテラリズム(一方的外交)」は、アメリカの金融システムを頂点とするグローバル経済が支えていて、この経済システムは、「フリーライド論」を基本としています。これは、貧富の格差を前提とした、資金の吸い上げ構造であり、吸い上げた資本で消費するのがアメリカの経済のありかたです。
「このフリーライド論」がどのようなシステムであるのかは、日本でもその認識度が広まり、EU諸国の反グローバリズムと同調する土壌も整っています。そして、この反グローバリズムの胎動は、アメリカ国内でも起きています。このような世界状況で、ならず者のG・ブッシュの「ユニラテラリズム(一方的外交)」を支援する国がいるでしょうか。また、自由を愛するアメリカ市民は、アメリカがならず者の国家となることを良しとするのでしょうか。
いまの日本は日米安全保障条約に縛られていて、残念ながら、経済的にも、アメリカの支配下にあります。従って、やみくもに、反アメリカというわけにはいきません。しかし、この状況で、日本はアメリカに頼る外交姿勢ではなく、EUやロシア、そして、中国、東南アジアの情報収集に力をいれるべきです。利権ばかり考えていて、アフリカに傾注する外交姿勢と、アメリカの後をハイハイしてついていく外交を見直さなければなりません。
グローバルと反グローバリズムを、経済から理解し、尚且つ、民族主義と宗教対立など、客観的な視野での外交をしなければならず、貴族気取りでパーティーばかりしている外務官僚は、タレントとして使えても、外交判断をさせてはいけません。日本内外から、政界情勢を客観的に分析できる人材を集めて編成する外交の主力部隊を作り、その部隊を、EUやロシア、そして、中国に振りわけるべきです。
外交の重点を、表向きはアメリカに向けて、実際の主力部隊を、EUやロシア、そして、中国に配置する。いまの外務省は、この二面外交をするには都合がいいでしょう。馬鹿な外務官僚をアメリカに送り込み、有能な若い人材を、EUやロシア、そして中国に送り込む。
ならず者のG・ブッシュとの「ユニラテラリズム(一方的外交)」は、アメリカに対する憎悪しか生まれず、これに同調する国は、イギリスなど少数でしょう。日本は、外面と内面を使い分け、ならず者のG・ブッシュに近づいてはいけません。
平成14年4月5日 テロと戦争の区別もつかない日本のメディア
イスラエルのパレスチナの軍事侵攻と、パレスチナの自爆攻撃は、戦争行為である。イスラエルが、戦車や航空機で、パレスチナを攻撃する軍事行動にたいして、パレスチナ側の自爆攻撃は反撃行為であり、これをテロを呼ぶメディアに抗議する。
テロとは、「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使。」を指す。イスラエルの軍事行動はパレスチナの侵攻であり、戦争行為である。武器をもたないパレスチナ側の攻撃が自爆による攻撃を批判する根拠はない。
この反撃の行為をテロと呼ぶのであれば、ドイツに占領されたフランスのパルチザンも、アメリカの圧倒的火力に立ちむかったベトコンもテロと呼ぶのだろうか。
日本のメディアは、ならず者のG・ブッシュのガキのような論理に何故迎合するのだろう。言葉の意味を何故大切にしないのだろう。テロに対する報復を新しい戦争といってみたり、侵略された側のゲリラ行動をテロとしてみたり、日本の報道記者は、英語の直訳を馬鹿みたいに右から左へ報道するな!
パレスチナが自爆行為を止めることは、イスラエルへの降伏を意味する。戦争の是非を論じることはしないが、戦争行為を、テロという言葉を使い、焦点をぼかすような報道に強く抗議するし、中近東諸国との外交が、日本経済に占める地位を考えれば、中立な報道をすることが日本の国益であるし、メディアはその責任がある。
日本の政治のメディアも、一体どうなっているのだ。パレスチナの自爆行為が戦争の手段ではなく、テロだとする論理を言ってみろ。安易に言葉並べるだけの報道はするな。少しは考えろ!
平成14年4月12日 テロを御旗とするイスラエルと米国の不条理
私は、今回の中東問題で、イスラエルとパレスチナ側のどちらも支持はしていません。しかし、戦争相手国をテロとして、正義をかかげる論理に警鐘をならしています。
PLOを、「ベッカー高原やアフガンからのケシを収入源としている」と批判したり、「小さな子供達に「命の尊さ」を教えず、自爆テロに駆り出している」とか、「アカバ湾でパレスチナ自治政府がチャーターした50トンの武器を積んだ貨物船を拿捕されても知らぬ存ぜぬを決め込むアラファト。」など、アラファト率いるPLOをテロ組織とする意見があります。
しかし、「テロ組織は麻薬を収入源としている」といいますが、西側諸国だって、地雷や武器を収入源としているし、アメリカは、武器の消費のために、定期的に戦争を仕掛けています。また、戦争当事国が、武器の調達をすることがテロであるはずがありません。
また、「小さな子供達に「命の尊さ」を教えず、自爆テロに駆り出すアラファト」といいますが、絶望的な貧困のパレスチナ人が、目の前に存在するイスラエルの豊かな社会をみて、従順にその貧困を受け入れることができるのでしょうか。この絶望的な貧困は、カジノであるアメリカの金融システムを頂点とするグローバル経済の対極として存在するのです。
虐げられている人々をテロ組織とするならば、世界の歴史は、テロの連鎖となってしまいます。テロを、一揆や反乱などと同一に考えることは出来ようはずがありません。
世界の中での日本の立場は、石油を中心に、中東諸国との経済関係は重要です。アメリカのユニラテラリズム(一方的外交)に追随すれば、中東における日本の信頼はなくなり、国益を損ないます。といって、ならず者の、G・ブッシュに逆らうことができないのも現実でしょう。
アメリカの立場は、いまの国際社会の中で孤立しつつあります。G・ブッシュのあまりにも極端な、ユニラテラリズムは、EU諸国の同調を得られません。また、カジノ経済に参加するアラブの富豪層は、イスラム信徒の反米感情の狭間にいます。
東アジア諸国は、その勤勉な労働力を買われて、世界の工場としてグローバル経済に組み込まれていますが、国内の貧富の格差は猛烈なスピードで進み、国民のモラルと活力は、その成長の反動として落ち込み深い絶望感となっています。
世界でアメリカを支持するのは、イギリスとイスラエルと日本ぐらいです。この構図は、ナチス時代のドイツとイタリア、そして日本という構図とよく似ています。
このような現状では、中東外交こそ、日本得意の玉虫色外交を展開するべきであり、EU、アラブ諸国のアメリカに対する動向を注視し、分析に外交力を傾注するべきでしょう。そして、反グローバリズムの動向を見据えて、カジノ経済の行く末を見極めなければなりません。そのためには、竹中平蔵経済財政担当相のような、猿真似学者に日本経済の舵取りをさせてはいけません。
平成14年9月21日 ブッシュ氏=ヒトラーの独法相の発言は当然
ドイツのドイブラーグメリン法相の、ブッシュ米大統領の政治手法をヒトラーと同じとする発言は間違っていません。米政権が対イラク攻撃の準備をしているのは、カジノ経済による経済格差が、アメリカ国内でも顕著に表れていて、その不満のはけ口をイラク攻撃に向ける行為は、ヒトラーの手法と同じである事は歴史が証明しています。
G・ブュシュのならず者の所業は、すべて国民の不満を外にそらせる手法であり、かつ戦争ビジネスの権益を握る、現G・ブュシュ政権の閣僚の政治とビジネスは直結しています。これを、ヒットラーと重る行為ではないと言うのは、裸の王様に「お前なんで裸なの」と言わないのと同じです。みにくいG・ブッシュの裸を見て見ぬ振りをするのは、欧州のプライドと良心と民主主義がそれを許しません。そして私も、反吐が出るくらい嫌悪しています。
かつてヒットラーを生んだドイツが、G・ブュシュの行動がヒットラーと同じだと世界に警告するのは当然です。アメリカ政府が繰り返すテロへの警戒宣言や、WCTビル崩壊を繰り返し流すメディア、そして、フセイン打倒のコブシを振り上げるG・ブュシュ。街中では、ナチスの親衛隊ならぬ、市民のパトロール組織が出来ていて、たれ込みが市民の義務となっている様は、日本の隣組です。G・ブュシュ政権は、ナチスと日本の軍政を研究しつくしていて、なんでもありのファッシズムではないですか。
アメリカ市民が夢中なのは、ボタンを押すだけの戦争ゲームと、絶対に生きて戦場から帰るランボーになり切れる戦争映画でしょう。彼らにとって、敵役のむごい死に方や残虐な行為は、ゲームや映画の中の話でしかありません。アメリカの自由と民主主義はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。
アメリカへの憎悪は、中東のイスラム圏の国だけでなく、欧州でも、そして、アフリカ、東南アジアでも、憎悪の連鎖は広がっています。日本はかつてドイツと同盟国になり悲惨な結末を迎えていて、決して、ならず者のG・ブッシュに追随してはいけません。
ならず者とはそれなりの付き合いに押しとどめ、外交の基軸を、欧州やアジアに向けるべきです。日本は、G・ブッシュとは距離を置かなければなりません。日本は二度と世界から孤立してはいけないのです。
平成14年10月12日 アメリカのファッシズムとノーベル賞
ノルウェーのノーベル賞委員会が11日発表したカーター元米大統領へのノーベル平和賞授賞は、欧州で高まるブッシュ米政権への反発を背景にした、強い政治的メッセージだったという。グンナール・ベルゲ委員長は授賞の「意味」を問われると同委員長は「現米政権への批判と解釈されても構わない。選考委員の一致した考えだ」などと繰り返して強調したらしい。
私は、選考基準に、現代の政治状況が反映されるのは反対だ。かつて、1994年の受賞者のイスラエルのラビン氏は、翌年暗殺。同時首相したアラファト氏は、いまもパレスチナ紛争の中心にいる。今回、ノーベル賞委員会が選考したカーター氏にしても、受賞後に、ブッシュ批判に対しては言及を避けている。
むしろ、このような世界情勢の中で、アメリカの政治指導者を受賞者にすることの方が間違いではないだろうか。ノーベル平和賞は、政治指導者から選考すること自体が根本的に間違っている。強者側の正義や平和は、弱者側の正義や平和とは一致しない。なぜなら、弱者より強者の方が絶対的に少数だからだ。少数の意見が、主体となる社会では民主主義は成立しない。
しかし、ノーベル賞委員会が異例の政治的メッセージを出した背景には、かつて欧州が、ヒットラー率いるナチスの恐怖を身にしみているからだろう。アメリカのG・ブッシュが、政治理念ではなく、戦争ビジネスで動いていることを生理的に許さないのだ。
消費大国として君臨するアメリカは、カジノである金融システムを軸に、世界から資金を吸い上げ、自由を餌に、世界の頭脳を集めている。そして、今後は、ミサイルや爆弾を消費することで、軍需産業の需要創出を目論んでいる。
戦争には痛みを伴なうはずだが、アメリカの圧倒的なハイテクの軍事力は、自国の兵士の犠牲を限りなくゼロにしたことで、アメリカ国民は、戦争による痛みを感じない。アメリカにとって戦争は、あくまでゲームでしかないのだ。
アメリカ国民は、テロという言葉に洗脳されている。アメリカ議会は、上院と下院とともに、対イラク武力行使容認を決議した。しかもその内容は、議会の側からG・ブッシュへの白紙委任だ。あのナチス率いるヒットラーが歩んだ独裁の道と全く同じだ。テロを叫び拳を振り上げる、いまのアメリカに、自由と民主主義はない。
世界中から憎悪と軽蔑を受けるG・ブッシュの戦争ビジネスは、政治とか理念のレベルではなく、幼稚な金儲け主義だ。キャピタルゲインを求めることを労働としたアメリカ国民は、経済の戦争もすべてゲームでしかない。そして、豪華絢爛のカジノである金融市場に足を踏み入れることが自由の証とし、賭けに勝つことが、成功者であると信じている。
労働の対価として、貨幣を受け取る行為を捨てた社会は、高慢ちきで、自己中心の、ならず者の国家でしかない。世界中の憎悪と軽蔑は、ならず者の国家を許すことはない。アメリカのファッシズムは、アメリカ国内の経済格差で必ず内部崩壊するだろう。ならず者のG・ブッシュの暴力を止めるのは、アメリカ市民であり、アメリカの民主主義でしかない。ファッシズムの尖兵の役割のメディアに対抗する、ネットによる民主主義の声が、その鍵を握るだろう。
平成15年1月1日 "Imagine"
ジョン・レノンの”Imagine”の、「天国も地獄もない、国家も宗教もなく、欲望の飢餓もない、そんな世界を望む僕は、夢想家なのだろうか。」と言う、平和へのメッセージは、いまも世界中の人々に歌い語り継がれている。
2001年の、WCTビル崩壊事件(私は、9.11テロ事件とは言わない)で、”Imagine”を歌ったアメリカ国民が、アフガニスタンにトマホークを打ち込み、超大型燃料気化爆弾を落とした。そして、今、イラクに対しても、命中精度を無視したミサイル攻撃によるジェノサイドを行おうとしている。
アフガニスタンやイラクの人々は、”Imagine”を知っているだろうか。アメリカを憎悪するアルカイーダなどのテロ組織に、ジョン・レノンのメッセージはどのように伝わるのだろうか。
ジョン・レノンは、天国も地獄もない、国家も宗教もなく、欲望の飢餓もない、そんな世界を求めていたのではないと、私は思う。そうであるから、あえて「You may say I'm a dreamer」と問いかけたのではないだろうか。
国家、宗教、所有欲、差別は、人間が動物である限り、なくならない。これを否定するのならば、動物という生命体を否定しなければならない。しかし、動物であるが故に、地球がなくては生きていけないのであり、子孫を残すという動物の本能は、戦争という行為を否定するだろう。「国家、宗教、所有欲、差別を受け入れて、戦争を否定する。」この命題に取り組むことが、人間に託されていると、ジョン・レノンは語りたかったのではないだろうか。
かつて領土拡大を求めた戦争の時代はおわり、資本主義か社会主義かというイデオロギーを争う時代も終わった。資本主義を否定した社会主義は、利権を制御できず、経済格差による貧困層に否定された。現代は、カジノ資本主義経済である世界の中の、経済格差が紛争の原因であり、権力は、国家、宗教で差別化して、経済格差の対極にいる貧困層をテロと決め付けて、そして弾圧することを、戦争と称している。
絶対的な貧困層が、武器もなく生存権をかけて権力に立ち向かう時、自爆という悲惨な行為を、どうしてテロと呼べようか。絶対的な貧困層に、近代兵器で無差別に殺戮することを何故ジェノサイドと言わないのだろうか。もともとの命中精度を無視したミサイル攻撃を”誤爆”などという表現を、何故、世界は非難しないのだろうか。
太平洋戦争で無謀な戦争に駆り出された旧日本軍の特攻攻撃で死んでいった若者と、絶望的な貧困の中で、民族の生存権をかけて自爆するイスラムの若者の違いは、後者は、それが日常的な生活から生まれるということだ。我々日本人は、この両者の違いを理解するべきだし、その違いを世界にアピールするべきではないだろうか。
いま、世界の指導者に求められているのは、戦争を否定することでも、”Imagine”を歌うことでもない。資本主義の原理を離れて、実体経済を離れ、資本の寡占化を求めるカジノ資本主義が生み出す、絶対的な経済格差を否定することだ。資本の寡占化と絶対的な貧困層は対極化して、両者の溝は、憎悪で埋め尽くされている。
実体経済を離れ、資本の寡占化を求めるカジノ資本主義を否定する行動が、反グローバリズムなのだ。資本の寡占化を排除し、資本の分散をもとめるべきであり、それが、経済格差を拡大から縮小に向かわせていく。絶対的な貧困層をなくすことが、人類に求められている命題なのだ。
キーワードは、経済格差であり、それは資本主義にその糸口が隠されている。そのためにも、いまのカジノ資本主義を否定しなければならず、アメリカはその障害である。
宗教でもなく、イデオロギーでもない。「国家、宗教、所有欲、差別を受け入れて、戦争を否定する。」この命題こそが、平和を願うジョン・レノンのメッセージではないだろうか。そして、この命題を導くものが、経済であり、資本主義の原点に立ち返ることではないだろうか。資本主義は、民主主義と共存できる経済システムであることを、理解してほしい。資本主義は経済格差を是正する機能がある。
カジノ資本主義に代わる経済社会は、資本主義の原理に立ち返り、厳しい市場経済であるけれども、誰でも参加できる自由とルールの確立した資本主義経済を構築するべきだろう。そして、経済には、公需と民需が共存するということを受け入れ、社会資本の蓄積が、国民に還元できる社会を目指すべきなのだ。
そして、公需と民需のバランスが、経済と民主主義の健全化するものであるという、原理資本主義が、資本の分散を実現し、経済格差をなくし、絶対的な貧困層をなくすことができる。
平成15年1月23日
「レームダック」と「ケイポン」の国、アメリカ
私は、アメリカのカジノ資本主義は、日本のバブル経済を基本に作られたという自説をもつが、最近のアメリカの高官の発言は、日本の官僚のように、論理の成立しない概念、つまりデタラメを公然というようになってきた。日本もそうだが、霞ヶ関の宦官官僚のように、デタラメなことを、さも正論のようにいう者を”馬鹿”というが、馬鹿を馬鹿といえない日本人を、アメリカ人は、日本の常識は世界の非常識と馬鹿にしていた。
しかし、いまのアメリカの高官も、デタラメな論理を、公然と恥ずかしげもなく世界に言いふらすようになってきていて、アメリカの主張は、デタラメであり軽薄で、それを主張する、ブッシュはレームダック(歩行困難なアヒル)であり、アメリカの政府高官は、「ケイポン」(去勢された雄鶏)であるということは世界の常識になっている。
ブッシュは16日に、「時間は尽きようとしている。ある時点で、米国の忍耐も限界に達する」と警告したそうだが、我慢の限界は、アメリカとイギリス、日本を除く、国際社会だ。だいたい、米国の忍耐が限界なのではなく、反戦のムードが膨らむ中、戦争のタイミングを失う、軍部と、軍事産業のロビィーストの利権への執着の我慢が限界なのだ。
また、アーミテージ米国務副長官は21日、イラクの大量破壊兵器開発の証拠について「決定的な証拠がないという人がいるかもしれないが、あるのは証拠の煙ばかりだ」と述べイラク攻撃の正当性を主張している。しかし、判断の根拠となる証拠が「煙」となってしまえば証拠にならないではないか。大量破壊兵器開発があるかないかが争点になっているのに、あったという証拠ならば、日本だって攻撃されることになる。
フランスのいうように、アメリカが、イラクが大量破壊兵器開発を持っているということを証明すればいいのだ。それを証明できず、証拠の煙だなどと、アーミテージ、お前は、馬鹿か。ブッシュがイラクを攻撃したければ、イラクが、大量破壊兵器を持っているということを証明すればいいのだ。核開発を公言する北朝鮮には見て見ぬふりをして、イラク攻撃に執着するブッシュには、テロも正義も関係はない。
かつて、ヒットラーは、ムッソリーニを伴ない、欧州の支配を目論んだ。ナチスに占領されたフランスは、アメリカの参戦で開放されたが、今世界は、カジノ資本主義と石油というエネルギー資本の覇権かけて、ブッシュとブレアが、軍事力行動を起こそうとしていて、フランスはアメリカと対峙している。第二次世界大戦を引き起こしたドイツとイタリアの同盟関係は、いまは、アメリカとイギリスの関係なのだ。
難民問題で苦悩する欧州各国は、国粋主義者が台頭し、反カジノ資本主義者と反アメリカで世論は形成されている。アジア経済のキーマンである中国は、アメリカの消費を支える供給国からの脱皮を図っていて、流入したユダヤ資本の乗っ取りを目論でいる。
このような世界情勢の中で、竹中平蔵は、日本経済を、バブル経済からカジノ資本主義に構造改革し、金融市場で資金を日本に集めて、その資金で、中国を中心にアジアの製品を輸入して、消費する役割を日本が担うことをビジョンとしている。しかし、世界は、反カジノ資本主義であり、反アメリカだ。アメリカかぶれした竹中平蔵のカジノ資本主義への経済改革は、かつて、ファッシズムが世界から否定されたように、カジノ資本主義は世界から否定される。
小泉純一郎は、かつて、西独伊の三国同盟の歴史を反省し、世界と協調することが必要だと論じた。しかし、それはアメリカと協調することではないことに気が付いてほしい。少なくとも、日本は中立であるべきだ。日本国民は、イラク攻撃に反対するべきです。ヒットラーのような独裁者のブッシュに迎合してはいけないということは日本の歴史が証明している。
平成15年2月17日 アメリカの一国主義は世界秩序を崩壊させる
@ 国際秩序の崩壊を懸念する声がイラク攻撃反対の主流だ
アメリカ主導の対イラク戦争に反対する声が世界各国で広がっている。この世界の動きは、日本のメディアがさかんに取上げている、この戦争の正当性の問題だけではない。
アメリカのイラク攻撃の目的の議論はさておいて、反対意見の分析すれば、まず、欧州は、戦争によるイラクからの難民問題がある。そして、アメリカ一国主義による国際秩序の崩壊を懸念する声は、アメリカの中でも広がっている。日本の反対意見も、単に戦争反対だけではなく、国際秩序の崩壊を懸念する声が、今回は大きいだろう。
このような流れの中で、与党の国家議員は、日本の外交の基軸が日米同盟である以上、アメリカに従わざるを得ないとし、北朝鮮の大量破壊兵器の脅威に晒される日本の安全保障を考えれば、イラク攻撃には反対できないと主張する。
政府は、もちろんこの意見であるが、平和憲法を持つ国家として明言できず、小泉首相は、安保理の決議次第という曖昧な姿勢しか出せないのだ。問題は、野党が、基本的には、日米安全保障を基軸としていて、基本的にはイラク攻撃には反対をしていないということだ。
先に書いたように、イラク攻撃反対は、アメリカの一国主義が世界秩序を崩壊することの懸念であり、国連を中心とした世界秩序を守りたいという声が大きいのだ。この状況で、野党は、日本の安全保障を、国連中心に構築していくという選択肢を国民に提示するべきではないのだろうか。しかし、次期政権を夢見る民主党は、小泉内閣の失言を引き出そうとするばかりで、基本的にはアメリカと対立する気はない。
A 北朝鮮の蜂の一刺し
イラク攻撃は、国連の存在意義を否定し、世界の秩序はアメリカが握ることになる。そして、北朝鮮は、外交交渉による退路を断たれ孤立するのは確実だ。北朝鮮が、全面降伏すればそれでいいが、軍事力による武装解除となれば、日本はミサイル攻撃のターゲットだ。
軍を動かす燃料と、食料がない北朝鮮の攻撃はミサイル攻撃だけであり、アメリカの圧倒的な軍事力を考えれば、短期間で金正日政権は倒れるだろう。しかし、核や化学兵器、生物兵器を搭載したミサイルの一撃は避けられい。まさに”蜂の一刺し”だ
問題はそのターゲットであり、テポドンの射程範囲が問題となっているが、現実的にはそのターゲットは日本であろう。有事の際には、アメリカは、太平洋側に空母を配置し、日本国内のアメリカ人を退避させ、駐留するアメリカ軍もいなくなる。そして、アメリカで生まれ、二重国籍をもつ高級官僚や富裕層の子供達と家族も、アメリカに避難するだろう。日本人だけになった日本を挟んで、ミサイル攻撃の応酬となり、日本は再び大量破壊兵器の実験場となる。
日米安全保障を盾に、アメリカは無制限にトマホークをはじめ、大量のハイテク兵器を北朝鮮の投入するだろう。そしてその戦費は、日本が保有する米国債で相殺だ。日本は、大量破壊兵器で人的、物的被害は甚大で、経済は崩壊する。一方、アメリカは傷つかず、軍事産業は多いに潤うだろう。アメリカ追従の安全保障は、北朝鮮の”蜂の一刺し”のターゲットは日本であり、それが避けられないことを理解するべきだ。
外交の基本は自国の権益だ。いまの日本の状況では、北朝鮮の脅威が第一義の問題であり、イラク問題は、その延長線上にある。他国の体制を批判することは自由だが、介入することは内政干渉だ。これをアメリカ市民になったつもりで、賛成反対の議論をするメディアや国会議員は、何を考えているのだろうか。
B 拉致被害者の会は、アメリカ一国主義を支持するのか。
また、拉致問題で、経済援助という外交カードをなくした安倍普三らが、その責任をそらすのに、金正日体制のプロバガンダをしていることを何故批判しないのだろうか。結果として、北朝鮮がNPT脱退をし、日本国民の生命の安全を脅かす状況を作った責任は、小泉純一郎や安倍普三にある。
拉致問題をないがしろにする気は毛頭ない。しかし、1億3千万人の日本国民の生命の安全と比較することはできない。また、拉致被害者の会の行動は、この問題を、アメリカ政府や議会関係者に訴えるというというが、この行為は、日本国の主体性をないがしろにする行為だ。まして、アメリカの一国主義が、世界秩序を崩壊させるという世界の声が大きくなっている時に、日本人がアメリカの権力にぶら下がり、自分の家族の問題が解決すればそれでいいのだろうか。
私は、イラク攻撃は、アメリカの一国主義を増長させるものであり、世界秩序は崩壊し、抑圧された人々の体制批判は、すべて、テロ行為として弾圧される、ナチス時代のような暗黒の時代になると思う。
イラク攻撃を止めさせることで、国連の権威や存在意義を守られ、それが、北朝鮮の脅威を取り除く道である。この選択肢を示すことが政治家の職責であり、野党の国会議員の主務であろう。
平成15年3月19日 戦争回避にはイラクへの内政干渉も止む無し
副題:ブッシュのイラク攻撃を回避するには、フセイン大統領の亡命しかない。
18日、ブッシュ米大統領が演説でイラクに最後通告を突きつけたことを受け、小泉首相は、米国などがイラク攻撃に踏み切った場合、日本政府として米国を支持する方針を言明した。
首相は、ブッシュ大統領演説について、「大統領も国際協調を得るよう様々な努力を行ってきた。やむを得ない決断だったと思う。私は米国の方針を支持する」と述べた。 ただ、「日本は武力行使をする立場にはなく、戦争には参加しない」とした。
そして、川口順子外相を通じて、イラクのシャーキル駐日臨時代理大使に、フセイン大統領の国外退去を求めた。しかし、シャーキル氏は「ブッシュ大統領の通告は屈辱的だ」と反発し、亡命要請を拒否したという。
たしかに、シャーキル駐日臨時代理大使のいう「ブッシュ大統領の通告は屈辱的だ」というのは理解できる。かつて、日本も、太平洋戦争開戦前に、事実上の宣戦布告といわれる、当時の米国務長官ハルの対日覚書を突きつけられている。この通称ハル・ノートは、戦後の東京裁判で、インド代表判事パール博士が、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも、米国に矛(ほこ)をとって起ちあがったであろう」と述べているのだ。
それゆえに、イラクは日本と同じ過ちを犯すべきではないし、いま戦争を回避することが、ブッシュの戦争ビジネスと石油利権の野望を止める唯一の手段であり、フセインにとっては相討ちとなることだということをイラクに説得することは必要だ。
今回のイラク攻撃に対して、日本の世論は8割が反対していている。各地でデモや集会が開かれ、アメリカ大使館は連日抗議の人々が集まっているという。しかし、事がここに及ぶに至り、戦争を回避することを望むのならば、政府批判やアメリカ批判ばかりしていないで、イラクにたいして、フセインの国外退去を求める声があがっていいはずだ。
私は、18日、イラク大使館の前で、「フセインは亡命しろ。自国民を盾に、権力にすがるな。世界の反戦の声を無駄にするな」と書いたプラカードを持って2時間立っていた。現場にはテレビ報道が2社が待機しているだけだった。2時ごろに、立正佼成会のお坊さんが、大使館前で座り込みお経を読み始めた以外はだれも集まらない。
アメリカ大使館に抗議するのもいいでしょう。しかし、戦争を回避する行動ならば、フセインの亡命の声を上げるのも世論の取るべき行動ではないのか。日本政府の方針が、戦争を回避するカードはイラクにあるというのならば、与党議員はイラク大使館に押しかけて翻意を促す行動をとるべきではないのか。与党も野党も日本の国会議員は井戸端会議のようなことばかりやっていて、永田町から一歩も踏み出さないではないか。
イラク大使館の前でお経をあげていたお坊さんは、1.18の日比谷のデモで、ボランティアスタッフとして宗教関係者の隊列のデモの警備をしていたときに見た人だった。ブッシュが攻撃を思いとどまることを祈っているのか、フセインが亡命することを祈っているのか、彼が何を念じてお経を唱えていたのか聞くことはできなかった。
平成15年4月12日 反戦のうねりは、反ブュシュ・反ファシズムへ
ブッシュは、イラク国民に、さかんに自由と民主主義を強調しているが、ブュシュのいう自由や民主主義とどういうものなのか、誰も解説しない。 まず、自由を、辞書で引くと、政治的・歴史的には、「時代によって異なる内容をもつ」と書かれている。以下三省堂提供「大辞林 第二版」からの引用である
『古代ギリシャでは奴隷などと区別されたポリス市民固有の属性、すなわちすぐれたものへの洞察力を意味したが、中世ヨーロッパでは身分的特権の別名であった。近代のリベラルな自由概念は一七世紀の宗教戦争以来成立し、市民革命を経て強化・確立され、宗教的自由から思想・信条の自由が、さらにそこから言論・出版の自由が要請された。この過程で、権力と対立しこれを制約する自由という視点も出てくる。
マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律が真に達成されることが重要視される。』 なるほど、自由の概念が時代とともに変わるのであれば、ブュシュのいう自由を定義してあげなければならない。
ブッシュを支えている新保守主義とは、一国主義であり、排他的政治理念であり、軍事力による統治で、まさにファシズムだ。カジノ資本主義の矛盾が噴出し、経済問題をかわすために、他国を侵略する行動は、第二次世界大戦の時代に逆戻りしている。
ファシズムにおける自由とは、排他的な自由であり、いうなれば勝ってし放題ということであり、ならず者の権力をいう。この自由は市民にはない。ならず者の権力者が市民に与える権利は、市民を対立させて強者が弱者に優位に立たせることで得る「優越感」だ。この「優越感」を自由と呼ぶのは、なんと貧しいレトリックであることか。
民主主義についてはどうであろう。人民が権力を所有し行使するという政治原理である民主主義は、システム上アメリカにはある。しかし、ファシズムの国家では、全体主義が民主主義を封印する。これは、アメリカのメディア権力の全体主義化がそれを証明している。ファシズムの国には、民主主義も自由もないのである。
公共事業を軸に統制経済である日本と、軍事産業を軸に統制経済であるアメリカは、ともに資本主義の国ではない。官僚がならず者として国税を蝕む構造の日本社会と、カジノ経済を取り仕切るごく一部の富裕層が、戦争という消費を弄ぶ構造のアメリカ社会は、崩壊したソビエトやルーマニアの独裁社会主義国家と同じである。
アメリカの経済はカジノ資本主義であり、これは統制経済だ。統制経済と民主主義は共存できないことは、ベルリンの壁の崩壊が証明している。このように見せかけだけの資本主義を掲げているブュシュのいう自由と民主主義は、「裸の王様」のように、見えない洋服を自慢するのがブュシュであり、見ない洋服が、ブッシュの言う「自由」であり「民主主義」なのだ。
フセイン政権倒壊後も、ブッシュは、ジェノサイドを止めようとしないが、世界でうねりを上げた、反戦のエネルギーは静かに、そして激しくブュシュに対する憎悪を大きくするだろう。かつてヒトラーに占領されたフランス国民がパルチザンとして、そして、ベトナムではベトコンが、侵略者と戦ったように、世界の反米の人々は、裸の独裁者のブュシュに対して嘲笑と軽蔑のまなざしで手を振り、その片方の手にはナイフを握りしめていなければならない
日本人はアメリカ国民が、ファッショされていることを理解でできるはずだ。なぜなら、かつて通った道であるからだ。ファシズムの国アメリカの自由や民主主義はまやかしであることを日本人は理解することができるはずだ。
日本は、ファシズムの国アメリカから距離を置くべきであり、裸の独裁者ブッシュの醜い裸姿を、「馬鹿な独裁者」と子供たちに教えなければならない。メディア権力に惑わされてはいけない。言葉の概念と現実を付きあわせ、先入観を排除して社会を見据えならなければならないのだ。
平成15年12月5日 アメリカを帝国主義にしたのは法体系に原因がある
ホッブスは、人間の本質をエゴイズムとし、弱肉強食の本質をコントロールするものが国家であり、この国家を、旧約聖書に出てくる怪物の名前を取り「リヴァイアサン」としました。私は、彼は、国家というものが、神と悪魔の両面をもつものとして、「リヴァイアサン」と名づけたのだと思います。
この国家というものが、人間がつくった人工物であるという事を前提に、ホッブスの絶対王制を擁護するのが性悪説を基本とすることに対して、性善説を基本とする国家観が、ロックやモンテスキューの三権分立や、議会制民主主義を生みました。
問題は、ロックが、人間の心は白紙で、彼がどのような人間になるかは経験や教育が大きくものをいうと考えているところです。つまり、「人間の自由を縛るべき規範=法」だと考えたホップスに対して、「法は人間の自由を拡大するためにあると考えた」という法体系の考え方の違いに注目するべきでしょう。
成文法では、憲法によって自由と責任を基本に基本的人権が保障され、権利を与えられるのに対して、義務を背負わされます。しかし、慣習法を基本法とする国家では、自由と権利の境界がなくなり、権利=自由となります。したがって、アメリカの自由は、他国の国民の犠牲の上に成立するということが受け入れられてしまいます。結果的に、議会制民主主義の国家が、帝国主義に走るのは、権力者による法改正をともなっていることは、それは過去の歴史が証明しています。
この議会制民主主義の暴走を阻止するために、憲法の概念が存在するのであり、憲法は成文法でなくては成立しないのです。成文法でも憲法の改正できますが、慣習法よりは、基本法となるものの保護は強いといえるでしょう。しかし、絶対王政の中で貴族の権力を守るマグナ・カルタは、現在でもイギリスでは基本法となっていますし、アメリカの法体系は、実質的に、「法は人間の自由を拡大するためにあると考えた」とするロックの流れを汲む慣習法であり、ヨーロッパの成文法である憲法とは、その哲学が180度違うものなのです。
アメリカのこの法体系の源流は、ユダヤ教にあります。ユダヤ教では、「人間が主体的な選択に基づいて神との契約を結ぶ」としていて、プロテスタントの運動はユダヤ教の考え方を借りて成立しています。 そして、プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばしたのが欧州での迫害から逃れて新大陸アメリカに入植した清教徒(ピューリタン)であるという歴史の違いに注目するべきでしょう。「神との契約を結んだ人間の行動が規範=法となる」とする政治哲学は、憲法などの成文法とは相容れないものであり、ネオコンを実質的に支配するシオニストの自由と民主主義は、帝国主義の危険をはらんでいるのです。
つまり、宗教を社会規範の基本としながら、宗教を超えた憲法という成文法で、基本的人権という自由を保障した欧米の民主主義と、「神との契約を結んだ人間の行動が規範=法となる」とする法体系は、自由と権利が一食卓になっていて、帝国主義化の歯止の効かない民主主義になるという違いがあるのです。
さらに、世界の人口の3分の1を占める13億人のイスラム教徒は、経済的には後進国に多く住んでいて、民主主義の歴史が浅く、基本的人権の概念とろも、宗教が社会の法を支配する面が強い社会であると言う点です。このようなイスラムの社会では、アメリカの御都合主義の自由と民主主義は、根本的に受け入れられるものではなく衝突します。イラクに押し付けた第二次大戦後の日本の占領政策は、宗教色の薄い日本では受け入れられましたが、アフガニスタンやイラクなどのイスラム教圏では受け入れられないのは当然なのです。
21世紀は、このシオニストを中心とする御都合主義の自由と民主主義を掲げるアメリカが、十字軍の時代から続く、キリスト教徒とイスラム教徒の争いに割って入っているのです。ヨーロッパの十字軍の精神と、弱者の立場のイスラム教徒、それに、経済至上主義のネオコンが掲げる、強者の論理。この3つの文明の衝突の渦に、世界は巻き込まれているのではないでしょうか。
私は、アメリカの自由と民主主義は、シオニストを中心とするWSPの御都合主義の自由と民主主義であり、そして御都合主義の資本主義であるとしています。そして、この御都合主義の資本主義を、カジノ経済主義と呼び、この経済は、統制経済であり、社会主義の変形であると主張しています。(原理資本主義)。
平成16年6月15日 星条旗裁判が証明するファッシズムの国アメリカ
サンフランシスコ連邦高裁が違憲であるとした、星条旗に向かって「神の下の一つの国」と唱える「忠誠の誓い」を公立学校の生徒に課すことが米憲法の政教分離原則に違反しないかが争われた裁判の上告審で、米連邦最高裁は、原告のマイケル・ニュードーさんが、離婚後に娘の養育権をめぐって元の妻と争いになっていたことを指摘し、「娘の完全な親権を持っておらず、親として訴える資格がない」とし、訴訟自体を無効とする判決を出した。
この裁判は、忠誠の誓い「Pledge of Allegiance」の中にある「One Nation under God(神の下にあるひとつの国)」という語句の「God」とは、大文字で始まる「God」であり、これは、ユダヤ・キリスト教の「神(ヤハウェ)」を指していて、無宗教論者である原告のマイケル・ニュードーさんは、「如何なる意味の国教も持たない」という合衆国憲法の修正第1条に反しているとして裁判を起こしたのである。
「One Nation under God」という語句は、ソビエトとの冷戦時代のアイゼンハウアー大統領が、「under God」の文言をいれて、全米で統一したものであり、米ドル紙幣にも「In God We Trust」と印刷されているし、アメリカ合衆国の大統領は、「May God Bless America」と言ってスピーチを終えるように、ユダヤ・キリスト教の「神(ヤハウェ)」を指す「God」は至るところで公的に使われる。
つまり、全米の子供たちは、毎朝、ユダヤ・キリスト教の「神(ヤハウェ)」に、忠誠の誓いを立てている国家がアメリカであり、バチカン市国やイスラム諸国のように、アメリカはユダヤ教による、政教一致の国家であるのだ。
「アイル・ヒットラー」、と「天皇万歳」と、「One Nation under God(神の下にあるひとつの国)」は同じである。これは、社会主義を主張し、ファッシズムを形成したナチス・ドイツと、アジアの解放を叫んで、欧米の植民地政策の後追いをした旧日本軍と同じ行動原理だ。アメリカの民主主義と自由は、ユダヤ教の慣習を押し付けるものでしかなく、まさに、アメリカはファッシズムの国家であり、アメリカ軍は十字軍である。
このような問題定義である星条旗裁判を、訴える資格がないと請求を棄却する米連邦最高裁は、ブュシュのファッシズムの軍門に下った。いまのアメリカには、言論の自由も民主主義もない。ファッシズムの国アメリカ。ナチス・ドイツを経験したフランスやその当事者であるドイツなどのEU諸国には、その異様な姿が見えているのに、日本は誰もそれに気が付かないし、それをベールで覆い隠そうとしている。状況は最悪だ。