ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方

 1 南北問題と反グローバリズム
 2 崩壊した社会主義経済は反面教師
 3 貨幣経済である限り資本主義しか存在しえない
 4 既得権益を制御できない社会は崩壊する
 5 資本の定義からみる経済のあるべき姿と未来
 6 社会資本の充実と健全さを求める国家
 7 ルーズベルトとヒトラーのデフレの処方箋
 8 デフレと第三の道
 9 資本主義と社会主義が同居する日本経済
10 フレの定義を求める、現状把握の重要性
11 金融システムを頂点とする中央集権の経済は社会主義
12  戦争と経済から考えるアメリカの経済戦略

1 南北問題と反グローバリズム
 
 革命とは「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革。」または、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」です。前者は、フランス革命や、ロシア革命、最近ではイランのイスラム革命などがある。後者では、産業や文化にたいするもので、一番に思い当たるのは、産業革命でしょう。

 産業革命は、人が、牛馬ではなく、蒸気という動力を手に入れたことから、地球の中での、人間の優位性を決定的にし、それは、国家間の圧倒的な格差を生みました。これは、「北半球を主とする先進工業国と、低緯度地帯および南半球にある発展途上国との貧富の格差がもたらす政治的・経済的諸問題」の南北問題として、殖民地の時代を経て、半世紀前まで続きました。南北問題は、「東側(旧ソ連を中心とする社会主義諸国)と西側(アメリカを中心とする資本主義諸国)との間の政治・軍事的対立を基調とする諸問題」である東西問題とともに、世界を二分していましたが、ソビエトの崩壊で新しい枠組みがおきます。

 それは、自由経済の名のもとに、株式市場によるキャピタルゲインをコントロールすることで、世界の経済を支配下におくアメリカの経済支配です。アジアや中国の産業の発達を容認し、自国の産業の空洞化がおきても、株式市場でのキャピタルゲインが国民所得を押し上げ、消費力を保っていく。アメリカは世界経済の消費を支えているという構図は、世界各国の産業の利潤を吸い上げるシステムの上に成立するものです。

 資本の調達システムとしての株式の制度は、本来の役目を、エンジェルファンドにゆずり、そのエンジェルファンドも、株式市場でのキャピタルゲインを求めています。資本の調達システムの目的をはずれ、キャピタルゲインを求める株式市場は、資本の寡占化を押しすすめ、資本は国境を越えて、経済を支配していきます。その経済は、資本と雇用者の構図が確立され、経済格差は、加速度的に広がっています。この株式市場による金融システムは、中央集権的な経済システムであることを理解することが必要です。

 このグローバリズム経済は、世界の工業力の均衡化を推し進めながらも、資本(石油・土地・資本)を持つものはさらに富んで、資本を持たざるものは、この経済システムに隷属されていきます。今は、国家間の経済格差というよりも、ウォール街を中心とする株式市場というカジノに参加するものと、しないものとの経済格差が開いています。それは企業も指すものであり、そこに参加する資本は寡占化を推し進め、新しい資本の投下は、限定した資本家の管理下に置かれています。この資本の寡占化を、カジノである株式市場は、勝手にルールをつくり、世界経済の安定の名のもとに保護政策にはいります。アメリカは、自由経済の謳いながら、現実は統制経済に入っています。経済格差は固定化して、アメリカという国家の中でも、欧州、そして、日本でも、所得の格差は広がっていて、この対立が、反グローバリズムを生んでいるといえるでしょう。

 この株式市場のシステムを確立したのは、情報処理技術と情報伝達技術の進歩でありました。株式市場というマネーゲームは、そのゲームとしての性格を強め、その攻略法は、ノーベル賞まで動かしました。(その結果は、笑うしかありませんでしたが)。株式市場というのは、資本主義の資本の調達システムとして存在するものであり、その投機性は資本主義は否定していなかったのですから、これが、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命とはいえません。

 アマゾンドットコムのようなネットビジネスは、通販の延長であり、それは、キャピタルゲインを目的とした経済行動であり、情報革命とは程遠いいものです。アメリカの株式市場でのキャピタルゲインを目的とする経済の中から見ていているから、通販の延長を、新しいビジネスモデルと錯覚してしまうのではないでしょうか。

 情報の支配という意味で、いままでのラジオ、テレビと情報の発信の権利は、常に時の権力者のものでしたが、情報技術、その中でも、インターネットは、情報を受発信するという権利を、一般市民が廉価な設備とコストで使えるようになりました。情報を伝達するというニーズが、道路のインフラを整備し、動力を使いその伝達の速度を高め、技術を伴いその距離を縮めてきました。そして、その権利は、電話のように広く開放される技術もありましたが、テレビなどの映像を不特定多数の人々におくるという権利は、一部のものに限られてきました。このテレビにような一部のものに支配されてきた情報の発信の権利を、インターネットは、音声・映像・文字情報という情報伝達の受発信も権利を含め、広く一般市民に開放するものであり、これが、「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取ること」であり、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命というべきではないでしょうか。

 この情報の受発信の権利の開放が、何をもたらすのかが未来を予測することです。この基本を、グローバリズムの渦に巻き込まれて、その渦を引き起こす、テレビメディアを中心とするマスコミは、情報技術の本質をさらに見えなくさせています。今は、情報の持つ根源的な意味と、情報の歴史を振り返り、その本質を語ることが必要ではないでしょうか。

 そこで、反グローバリズムとIT革命を、ベルリンの壁の崩壊から検証し、IT革命のもたらす社会を展開していきたいと思います。


2 崩壊した社会主義経済は反面教師
 
 経済とは、労働という行為を、商品やサービスにかえて、消費する過程であり、その中で営まれる社会的諸関係をいいます。

 資本主義は、資本を投じて、商品やサービスを生み出す環境を整え消費による利潤を求めます。この資本を個人で投じるのが、所謂資本家という人々です。これに対して、社会主義とは、その資本を投じて作られた商品やサービスを生み出す環境=固定資本を国家の所有としました。そして、生産手段および財産の共有・共同管理、計画的な生産と平等な分配を目指しました。

 ご存知のように、ベルリンの壁の崩壊で社会主義は否定されました。これが意味するものは、資本家と労働者の対立を否定した社会主義は、社会資本を中央集権で管理する官僚が、資本家に取って代わっただけであるのが現実だったのではないでしょうか。そして、統制経済の矛盾と、それを制御する官僚と市民の階層化は、経済的な格差と貧困、そしてなによりも民主主義と対立したのではないでしょうか。

 社会主義では、計画経済による経済を目指し、資本の投入も決められた生産能力に基づいて国が決定しました。結果、人々は投入される資本や固定資本の「利権」を求めることを経済と思い込みます。それは、既得権益となり固定化していきました。社会主義経済は、経済で求めるべき消費や利潤ではなく、既得権益を求めた為、経済は破綻して、社会主義国家は内部崩壊したのです。

 既得権益の横行する経済には、機会の平等はなく経済の活力とモラルは後退します。生活を向上するための労働意欲が、既得権益で決まる社会では、労働市場の競争原理は働きません。社会主義経済は、経済の原理原則を見失い、経済と思想を混在してしまったところに大きな落とし穴がありました。

 利潤を求める行動を搾取と否定するのではなく、利権を求める行為が不平等な社会をつくりだすのであり、それが既得権益として固定化し階級社会を構成するのではないでしょうか。経済は、消費を求める社会の営みであり、利潤を追求する力は社会の活力です。利潤を求めず利権を求める社会では、経済は停滞し、国力は落ち、民主主義は封印さるのです。


3 貨幣経済である限り資本主義しか存在しえない
 
 私は、経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりすると考えています。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではないと考えます。

 また、資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段をもっている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしている点に異論があります。これは、資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側と分けるのではなく、「不労所得」と「労働所得」と分けて考えるべきという意見です。

 利潤は、生産過程で労働力の「搾取」によって生み出される、という従来の「搾取」という概念が、資本側と労働者の対立する構造を作り出してきましたが、これは、「不労所得」と「労働所得」と分けて考えるべきです。資本の所有と経営の分離している企業では、経営側も労働者であり、役職のあるかないかで労働者を分類し、労働者としての様々な権利を経営側が受け取れないのはおかしいのです。

 株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで得る「不労所得者」と、労働にて所得を得る「労働所得者」の分類こそが、資本主義の階級構造です。そして、所得や資産を再分配する税で、「不労所得者」を優遇すれば、資本の寡占化が進み、「労働所得者層」を優遇すれば、資本の再配分が進むでしょう。

 つまり、資本主義において、労働者は資本に搾取されるという関係ではなく、不労所得者層と労働所得者層の関係が基本であり、この関係が固定化し階級化しないために税システムがあります。資本家階級と労働者階級は、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、民主主義との相性はよく、逆に階層間移動を阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家となるでしょう。

 経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に、規制や認可などの既得権益を伴い、統制経済が生まれます。そして、資本が解体して、新しい資本の寡占が始まるとき、そこには自由経済と既得権益の解体が必要です。資本主義経済は、市場経済の運動法則で、資本の寡占化によって経済も技術も、そして文化も発達しますが、資本主義が内包する矛盾は、資本の独占的な寡占の持続を許しません。それは民主主義と対立し、また経済の活力とモラルを失うからです。
 

4 既得権益を制御できない社会は崩壊する
 
 問題は統制経済で生まれる既得権益です。既得権益は経済法則では除外できません。既得権益は権力であり、この権力を制御するのが政治となります。権力が制御できず、権力の交代が出来ない世界は独裁国家であり、経済の発展は望めません。また資本家と労働者の階層間移動が、権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立いたします。

 自由経済が発達すると、産業別にカルテルが生まれ、トラスト、コンツェルンと資本の寡占化が進みます。これを制御するのが政治であり、これらの経済運動を法律で寡占化する資本を制御ようとして、経済学が発達しました。

 それでも、資本主義経済は、好景気と不景気を繰り返し、その度に、資本の寡占化と解体が繰り返されてきました。これは、既得権益が寡占化しまた解体することも連動していました。そして、既得権益の声が政治であり、その声を後押しするのも、制御するのも政治でした。好景気のときには、資本の寡占化は既得権益を生み出し、不況時の倒産などの、資本の解体の時には、既得権益が政治力でそれを阻止する。この経済運動と政治が絡み合うのが資本主義なのです。

 崩壊したソビエトを中心とする社会主義国は、既得権益が経済の活力とモラルを失わせ、経済は混迷し国民の貧困は増していきましたが、社会主義経済では資本の解体は想定しておらず、市場経済を導入しようとしたゴルバチョフのペレストロイカは、その矛盾を鮮明にしていきます。結果、経済の困窮とソビエト共産党の既得権益層への反発は、ベルリンの壁を打ち砕いたのです。

 自由主義経済の国家では、統制経済と自由経済は、交互に繰り返していて、これが、所謂「景気の波」といわれ、好景気もときは、資本の寡占化が進み、不況のときは倒産等で資本が解体されます。この時、抑制と均衡が保たれている民主主義の社会では、既得権益は制御されますが、抑制と均衡が保たれない社会は、既得権益が暴走して、資本の解体を阻止して資本主義は否定されます。資本主義が否定された国家は、すでに独裁国家となっていて、民主主義は存在しません。

 このように考えると、資本主義と民主主義は同体ではないでしょうか。経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするものです。そして、統制経済から自由経済の転換期には、民主主義が既得権益を制御することが必要であり、この時に既得権益が制御できない国家は、民主主義が否定され経済も破綻するでしょう。

 経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするのです。経済活動は、消費と利潤を求めるべきで、既得権益を求めてはいけません。そして、その既得権益を制御するのが民主主義であり政治でありましょう。
 

5 資本の定義からみる経済のあるべき姿と未来
 
 つぎに、資本についてですが、資本とは、「事業のもとでとなる金」であり、その調達方法に、自己資本や、他人資本があり、他人資本とは、株式や社債をいい、他人資本とは、金融資本や自己資金があります。そして、資本は、「資金」と、「固定資本」、そして、「流動資本」に分けられますが、これらの資本は資本主義経済のなかで、機能しているのでしょうか。

@ 事業のもとでとなる金 「資金」
A 過去の生産活動が生み出した生産手段である「固定資本」
B 原材料・仕掛品・出荷前の製品などの「流動資本」

 崩壊した社会主義から、学ぶべき点は、まず、資本の中の資金が、国有化されたことでしょう。つまり、資金の民主主義的な調達方法がなくなったことに注目します。資金の調達方法の中で、株式は、資本家と労働者の階層間移動を活性化するものですが、資金の国有化は、経済の活力を奪い、その金を目的とする既得権益を生み出す温床でしかなかったのではないでしょうか。資本の調達のシステムは、資本家と労働者の階層間移動を活発にするものであり、そこに、経済の活力が生まれます。資本の国有化は、この活力は育ちません。

 しかし、市場経済を基調とする資本主義でも、資本の調達システムは、その本来の機能を見失い、資本の移動が利潤を生み出し、それを経済とするゆがんだ資本主義が形成されました。経済活動の目的は消費にあります。基本的には、人間は、生命を維持するために食べるという消費を行い、その消費行動に付随する道具や、設備を作り出し、それを分業することで、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」が経済です。しかし、情報技術の進歩した金融システムは、資本の移動を目的とした活動に終始し、本来の資本の調達システムは機能していません。

 その結果、資本が、特定の階層にしか集まらず、資本の移動で利潤が出る社会では、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」である経済の原理原則から離れ、その行為は錬金術でしかなく、既得権益層のカジノでしかありません。市場経済での株式を中心とした金融システムは、経済の資本の定義から逸脱し、ゆがんだ資本主義を形成し、それは、資本の固定化を呼び込み、統制経済へと変貌したと考えます。

 つぎに、生産手段である「固定資本」でありますが、資本が求めるものは、消費と利潤ですが、固定資本を国有化は、生産手段の共有・共同管理が目的となっているといえるでしょう。消費と利潤の分配を平等に分ける発想は、消費を求めず、競争意欲を減衰させ、経済の活力は後退させるのは人間の浅はかさなのでしょうか。
 資本を国有化することで、利潤ではなく、資金を求める既得権益をもとめる構図ができあがり、固定資本の国有化は、消費を求めず、社会の活力をモラルは後退するばかりでした。

 いまは、経済における資本のありかたを、原理原則に基づいて運用し、ゆがんだ資本主義を立て直さなければなりません。需要と供給できまる市場経済において、株式や債券を、需要と供給の関係に求めてはいけません。資金の移動による利潤の発生システムは、究極の錬金術でありカジノでしかないことを認識するべきでしょう。

@ 事業のもとでとなる金 「資金」

 資金では、その調達方法がポイントで、株式による資金調達よりも、借入による資本調達、つまり、金融調達の改善を推し進めていくべきと考えます。つまり、日本の銀行の貸付の際の基準は質権です。担保があるかどうか、保証人がいるかどうかです。企画書や、企業のバランスシートは関係ありません。従って、担保のある人達への貸付しかしませんから、資本の寡占化が進みました。資本の寡占化は、既得権益を生み、資本家と労働者の階層間移動が硬直しました。権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立いたします。いまの日本の経済の閉塞は、資本の寡占化により、資本家と労働者の階層間移動が硬直したからです。この対策として、証券市場を解放しようとしていますが、日本の貯蓄率を長所と考えて、この高い貯蓄を活用して経済再生を図ることも大切でしょう。特に経済の活力である、中小や零細企業によって、他人資本による調達手段は重要です。


A 「固定資本」=「社会資本」

 「固定資本」は、社会資本とおきかえ、民間資本と区別するべきでしょう。そして、民間企業でも、資本と経営は分離するべきものですから、社会資本も経営を分離して、民間に経営をまかせて、競争原理を導入して、そこからの利潤を追求しなければなりません。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではありません。そうではなく、自由経済における競争原理にもとずく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味としてほしい。

 そして、社会資本の株主は、主権者のものであり、日本国では国民が株主です。従って配当は、公平に分けられるものでしょう。経済の発展は、社会資本の配当を上げていき、国民への還元も大きくなるような社会構造をめざすべきではないでしょうか。


B 「流動資本」に、循環型社会の価値を求めよ

 最後に、「流動資本」に、循環型社会の必然性を求めます。いままでの経済活動で、消費されてきたのは、膨大な、地球資源の「流動資本」であり、これは、ゴミとして社会を破壊しています。いま、環境というニーズのもとに、ゴミをリサイクルするという労働力の消費行動は、経済が求める消費として、経済構造の転換の基軸とするべきです。

 経済は、消費を求めて、そして、利潤を追求するものであれば、ゴミを「流動資本」にするという行為は「消費」であり、環境というニーズで求められる社会の要請です。割引現在価値をもとめる環境というニーズは、公共投資としての目的に合致するものです。環境破壊というリスクを金に換算すれば、割引現在価値を考えて、公共投資の対象として問題なないでしょう。

 そして、資本と経営を分離して、経営を民間に委託して、国は、バランスシートの改善を求めるべきです、そこからの利潤がでるようにするのは、民間の競争原理に委ね、その活力を国は公平に見守るべきです。国民はその利潤を共有して、豊かな国家を目指すべきでしょう。
 

6 社会資本の充実と健全さを求める国家
 
 まず、社会資本と民間資本を区別し、それぞれに自由経済の論理を当てはめる。民間企業でも、資本と経営は分離するべきもので、社会資本もしかりです。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではないでしょう。そうではなく、自由経済における競争原理にもとずく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味と考えています。 

 高速道路をはじめ、住宅公団でも、運営管理能力がないから、いつまでたっても償還ができないのであって、特定財源の考え自体は間違ってはいないと思います。特定財源は利権の温床であり、解体しなければいけませんが、社会資本である高速道路を管理する日本道路公団を民間に渡すのは、不公平になります。特定財源で作られた道路は、国民のものであり、民間に移譲することはできません。 

 そうではなくて、電力、通信、水事業、道路などの社会資本の定義を設定し、社会資本はあくまで国の所有とし、その運営管理を民間にまかせるようにするべきでしょう。所有権者として、国や国民が、そこからでる利潤を求め、その運営を監察するべきでしょう。 

 通信インフラでいえば、電波を社会資本とするならば、電波を送信する側が、送信することで利潤をあげるとすると、電波の使用料は当然支払うべきではないでしょうか。なぜなら受信する権利は国民に平等に与えられていますが、送信する権利は、国民の極一部の人間に限定されているからです。電波を社会資本とすると、送信する側と受信する側が対等の立場ではないことは、資本主義経済では不公平なことになるでしょう。社会資本が国家のものであるならば、それを利用して利潤をあげる者は、その資本形成に参加しなくてはいけません。 

 私は、高速道路や鉄道の交通インフラや、電話やテレビ、そしてインターネットの通信インフラは社会資本であると思います。そしてその社会資本を利用して付加価値をつけ収入をえる企業や個人は、その社会資本の形成に参加するべきと考えます。その参加形態は、利用料をとるのか、課税にするのかはわかりませんが、社会資本を利用する経済形態を考えることが必要だと考えます。

 社会資本と民間資本を区別し、それぞれに自由経済の論理を当てはめる。民間企業でも、資本と経営は分離するべきもので、社会資本もしかりです。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではないでしょう。そうではなく、自由経済における競争原理にもとずく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味となります。

 そして、社会資本の株主は、主権者のものであり、日本国では国民が株主です。従って配当は、公平に分けられるものでしょう。経済の発展は、社会資本の配当を上げていき、国民への還元も大きくなるような社会構造をめざすべきではないでしょうか。経済の発展は、社会資本を充実させ、そこからでる利潤は、国民の福祉を向上させます。社会資本の充実と健全さが、国力のバロメーターをする社会をめざすべきでしょう。
 

7 ルーズベルトとヒトラーのデフレの処方箋
 
 米国の経済史家ピーター・テミン氏は、千九百三十年代の大恐慌時代、ルーズベルトのアメリカとヒトラーのドイツのデフレの処方箋と、戦後の日本の不良債権を処理について以下のように書いています。


@ 米国は消費が減ったから不況になったという過少消費説に基づき、ワグナー法やNIRA(全国産業復興法)によって労働者保護と、所得の分配率を変え、賃金の引き上げを通じて消費の活性化をはかった。
A ナチスは一切の労働組合に解散を命じ、賃金を固定させた。強制的な労働奉仕制を導入し、軍事費を含む政府支出を増大させた。実質賃金は微増で、GDPに占める個人消費は急減したが、企業の利潤は増加し、民間投資は拡大した。
B 戦後の日本は、政府や国策会社等の、民間企業に対し巨額の未払債務と、在外の占領地や植民地における民間の請求権が敗戦によって突如放棄させられたことなどから、企業や金融機関に巨額の不良債権が発生した。政府は、金融機関の預金封鎖と新円切り替えを実施した。間髪をいれず、政府は、戦時補償の百パーセント切り捨てを実行した。
そして、新たな事業を司る新勘定と戦時期の取引にかかる旧勘定とを完全分離して、企業には資産再評価益を損失処理の財源として認める一方、金融機関には資本の取り崩しを実行した後に、公的資金を注入した。


 この論評として、まず、ドイツは、低賃金を維持し、完全雇用に到達したが、その雇用の場を軍事に求め、ファッシズムでドイツを第二次世界大戦へと向かわせた。そして、アメリカは、実質賃金を引き上げ、企業収益を圧迫し、失業率の高止まりと購買力の低迷をもたらし、大恐慌を長期化させたが、第二次世界対戦の軍需で、恐慌から抜け出したとしています。

 この論説は、日本の記述がありませんが、日本は、間違いなくドイツと同じ道を歩んだのだと思います。「贅沢しません。勝つまでは」のスローガンは、低賃金で、強制的な労働奉仕制を導入し、その雇用を軍事にもとめ、戦争による消費を求たのは日本もナチスと同じでした。

 私は、いまの小泉内閣の支持率が、日本を戦前のファッシズムを導くなどというつもりは毛頭ありません。それよりも、デフレの処方箋で、雇用を柱におくか、需要の創出を求めるかという政策の違いは興味があります。そして、ピーター・テミン氏は、経済政策としては、ドイツの完全雇用は政策的に成功としていて、米国の政策は、賃金を引き上げ、失業の長期化を招いたとしている点を注目したい。
 
一 デフレの処方箋
 
 ナチスが、一切の労働組合に解散を命じたのは、日本が、既得権益層の温床となっている特殊法人の解体の方向と一致するものです。特殊法人を中心とする組織に従事する公務員や、関連企業の労働者は、既得権益を剥奪され、資本主義の荒波に放り出されます。また、年功序列と終身雇用の労使関係が、人材派遣法により規制緩和で、日本版レイオフが現実になり、従来の賃上げしか要求しない労働組合の時代は終わりました。

 また、いまの日本の供給が需要を上回ってる現状は、ITで、さらにその差は拡大せざるをえず、現状を上回る消費の拡大は当面ありえません。日本人は、名目賃金にこだわらず、ワークシェアリングをして、実質賃金を求め、企業の体力の回復をまって、設備投資の機会を伺うべきではないでしょうか。

 戦前の日本やナチスは、雇用を軍需に求め悲劇的な結果をもたらしましたが、我々は、その雇用の場を、違うところのもっていかなくてはいけません。従来の公共事業投資は、現在では、割引現在価値のない投資(道路やダムなど)であることは明白で、、また、官僚シンジケートの利権の温床となっています。そうではなくて、今我々がもとめるニーズで、割引現在価値の高いものがあるはずです。(たとえば、循環型社会の構築など)

 「贅沢しません。勝つまでは」ではなく、「名目賃金ではなく、実質賃金での生活をもとめ、日本の経済の立て直しを目指そう」のスローガンでいけばいいのではないですか。そして、官僚シンジケートによる既得権益層への解体とその責任を追及し、日本人がモラルを取り戻せば、必ず日本は立ち直るでしょう。
 
二 不良債権
 
 また、不良債権問題については、「政府や国策会社等が、民間企業に対し巨額の未払債務を積み上げていった」とする「政府や国策会社」を国債とし、民間企業を銀行と考えて、国債の債務の切り捨てをしたらどうだろう。銀行は破綻するが、日本には郵貯がある。郵貯の銀行業務を解放し、新しい金融秩序をつくったらどうだろう。

 日本の高い貯蓄率を長所としてとらえるべきで、いたずらに、アメリカを意識して、株式などの直接金融にシフトせず、預金を中心とした間接金融を活用するべきでしょう。

 間接金融の際は、いままでの質権重視の融資基準を改め、融資するリスクを、企業のバランスシートや、その将来性を判断する能力で補い、そして、融資の方法も、設備資金による資本(減価償却の対象物)を質権としたり、回転資金は、一括融資せず、分割融資にしたりして、リスクを分散するような方法をとるべきです。

 また、融資業務をアウトソーシングして、民間の活力を利用するのもいいでしょう。会計士や、中小企業診断士などを介して融資を行い、彼らの手当ては、月々の返済の利息の上乗せ分で補い、彼らもまた、融資のリスクの分担を負うというシステムなどです。
 

8 デフレと第三の道
 
 インフレでは、需要が供給を上回るため、物価や賃金が高くなり、消費力の減退と、高い賃金水準は、生産力を落とします。結果、需要と供給の格差が広がり、インフレ率として数値化されます。インフレ時の経済対策は、生産力を高めることを主眼におきますから、高い賃金水準での雇用の増大のためのに公共事業を中心とする総需要政策をとります。雇用が増えれば、消費が回復して生産力が高まり、需要と供給のバランスがよくなります。

 デフレでは、供給が需要を上回り、生産調整がはじまります。以前は、在庫調整の段階で、企業倒産が出て恐慌がおきましたが、ジャストインタイム方式の生産方式は、全産業に浸透していて、在庫による影響は低く押さえられています。生産調整が始まると、解雇や、賃金水準が下がり、消費力が後退していきます。供給が下がり、需要が下がる。この一連の運動が、螺旋的に下方に落ちていくのをデフレスパイラルであり、行き着くところは、消費力を失う人々が増大して、貨幣経済で生きることの出来ない人々が増大します。これは社会秩序の崩壊を意味します。

 デフレでの経済対策は、消費を回復させるための、所得の分配率を変え、賃金の引き上げを通じて消費の活性化を求める総需要政策と、賃金水準を下げて、労働機会の公平化を図り、消費力の後退を食い止める方法があります。

 前者の方法は、競争原理を用いて、需要の喚起を呼び起こすものですが、デフレスパイラルを阻止した事例はありません。むしろ、落ちるところまで落ちてからの政策でありましょう。後者の方法は、ワークシェアリングであり、欧米での実績があります。しかし、これは、競争力を阻害して、経済の活力を奪うものであるのも歴史が証明しています。

 英国での第三の道は、インフレの原因である、生産力の落ち込みによる失業者の増大と、、デフレでおきる生産調整で、消費力を落とさない為の、労働機会の公平化による競争原理の喪失を、いかに乗り越えるかの政策モデルであります。

 いまの日本で取るべきデフレ対策は、賃金水準を下げて、雇用機会の均衡をはかり、失業者の増大を食い止めることです。そのためには、赤字国債を原資に、賃金水準を上げ続けている公務員をリストラして、官民の事業で、賃金水準を下げて、ワークシュエアリングによる雇用機会の確保に努めるべきです。賃金水準の引き下げは、官が率先して行わなければなりません。官と民の賃金水準が同じになれば、消費力は持ち直し、そこから、競争原理に基づく経済政策で、需要が盛り返します。

 「失業者に新たな教育をほどこし、厳しい労働移動に備えます」のは、その後にくる、競争原理の回復期でしょう。今は、ワークシュエアリングによる総需要の下支えが必要です。総需要を、資本サイドでみるのは、インフレ時であり、労働者サイドでみるのがデフレ時ではないでしょうか。
 

9 資本主義と社会主義が同居する日本経済
 
 ソニーやトヨタ、ホンダなどの民間企業は、生産性の増大を求め、技術革新を行い、安い労働力をもとめ、国内の産業の空洞化を推し進めました。そして、情報技術の進歩は、その空洞化された企業の間接労働者層を合理化して、さらに生産性を高めてきます。

 民間企業が産業を空洞化していく中で、政府は、日本の内需と雇用を支える為に、公共事業中心の財政政策を続ける。この財政政策は、特殊法人を中心とする官僚シンジケート団を生み出していきます。彼らは、生産性の増大には関心を示さず、財政の確保しか眼中にありません。そして、年々増加する公共事業費は、現実問題として、予算ベースだけが右肩上がりであり、支出した額は、決算ベースで見る限り、その数値は逆に減少している現実を見逃してはいけません。

 これは、民間企業が引っ張る日本経済は、生産性の増大による供給能力が需要を上回り、デフレ経済を呼び込みましたが、特殊法人を中心とする、官僚によるシンジケート団による、赤字国債を原資とする社会主義経済もまた、予算ベースによる公共事業費の供給過多となって、デフレを後押ししているのが現実です。(基本的に社会主義経済ではデフレはあり得ないはずですよね)

 日本経済が、民間企業による資本主義社会と、特殊法人を中心とする社会主義経済が同居している現実は極めて特異でありましょう。民間企業に属する国民は、特殊法人シンジケート団の国民を養わなければならず、その占める人口比率が2割をこえることがあれば、子供や高齢者の方を含めれば、五割を超える国民を、民間企業側の国民が養わなければなりません。

 この状況を、是認するか、それとも異を唱え、特殊法人を中心とする官僚シンジケートを解体し、公務員の生産性の増大をはかり、行政の組織を再構築(リストラ)を行い、日本経済を、経済活動で得る利潤を賃金を求める資本主義経済の社会への転換が、構造改革なのであります。

 構造改革の成否は、官僚シンジケート団による、利権社会主義国家の姿を、国民と政治家が理解するかどうか、そして、これを認めるのかどうかにかかっています。


10 デフレの定義を求める、現状把握の重要性

 政府は、デフレ経済への経済政策の重要課題とて不良債権問題をあげています。私は、不良債権問題は、日本型社会主義経済の負の遺産であり、この問題の解決する目的は、日本型社会主義経済の崩壊にあると考えています。つまり、不良債権の問題解決の目的は、デフレ経済からの脱却が目的ではなくて、日本型社会主義の負の整理であり、それを生み出す構造を解明し、解体することであると考えています。しかし、いまのデフレ経済を招いた原因に、土地本位制の崩壊にその原因をもとめ、いまの日本経済を資産デフレと位置付けをして、地価の上昇による調整インフレによるデフレ脱却論が根強いのも事実であります。

 不良債権の問題を、統制経済と自由経済が混在する日本型社会主義経済から、自由主義を基調とした資本主義経済への転換への、乗り越えるべき負の遺産と見るか、いまのデフレ経済を脱却する処方箋として、不良債権問題を解決するべきなのか。この二つの意見の相違は、相容れるものではなく、不良債権の問題の議論は、この相違の根本的な原因を論議しなくてはいけないでしょう。その根本的な意見の相違点は、デフレの定義にあるとする自論を下記に論じます。

 デフレの定義は、一つには、「有効需要が供給に対して不足することによる一般物価水準の下落である。」とする意見と、「貨幣および信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回ることから生ずる一般的物価水準の下落のこと。」とする意見があります。デフレとインフレの要因を、「需要と供給の関係」からみるか、「貨幣および信用供給」の関係とするかは、その意味は全く違うものであり、その方向性も結論も違うものになります。

 つまり、デフレの要因を、「貨幣および信用供給の収縮」と考えれば、地価が下がる経済政策ではデフレを阻止することはできず、不良債権問題は解決できないとなります。従い必然的に、地価の上昇を誘導する策、つまり調整インフラを経済政策の柱となっていきます。そして、このインフレ率が高ければ高いほど、債務は相対的に減少し、バランスシートは正常に戻るでしょう。

 これに対して、デフレの要因を「需要と供給の関係」に置いた場合はどうなるでしょうか。これは、需要過小の立場に立てば、需要を喚起する為に、資本の投資を刺激し、賃金の上昇をともなう産業の育成に力を入れていくべきでしょう。また、供給過多の場合は、生産調整をしなければなりません。過剰となった固定資本は企業倒産を増大させ、過剰となった労働力は行き場を失い、購買力は低下するでしょう。この場合、いかに社会秩序を保ち、あたらしい需要を喚起する産業を見出すかが経済政策となるでしょう。いわゆる、セーフティーネットであり、公共事業による労働の場の機会を提供することになります。
*ちなみに、前者の需要過小を前提とした経済政策では、失業者への給付金の拡充などの政策となり、雇用対策はそれぞれ違うものとなるでしょう。

 デフレの要因を、「貨幣および信用供給の収縮」と考えれば、バランスシートの改善をもとめます。しかし、それは、健全な需要と供給の関係があってのことで、その環境がなければ、経済上の不良債権を新たに生み出し、その新しい不良債権は、市場を席捲するでしょう。また、デフレの要因を「需要と供給の関係」に置いた場合でも、需要不足なのか、需要の潜在能力が落ちているのか、または、供給が過剰なのか、不足しているのかの現状の認識を、正しく把握してこそ、経済政策の議論が始まるのであり、この現状認識の議論は、政府も国会でも、目的意識を持ってされているとは思えません。

 私は、いまの日本のデフレ経済の状況は、国内の産業の空洞化による生産コストの低下と、生産技術の進歩による生産性の向上が、物の供給過多を招いていると考えています。そして、情報処理技術の進歩による、コストに占める間接(労働)経費の低減は、賃金の低下と雇用不安を招いていて、失業率の増加と相まって、需要を支える購買力の低下が起きていると判断しています。これが交互に作用して、経済は下降していると考えています。所謂、デフレスパイラル現象です。

 デフレの定義を、「需要と供給の関係」からみるか、「貨幣および信用供給の関係」とするかは、経済政策の議論の大前提であり、この現状把握の議論を客観的に、そして建設的な議論が構築されなければ、日本の経済政策は何でもありの世界になってしまい、いまの閉塞した経済状況からは脱することは出来ないでしょう。


11 金融システムを頂点とする中央集権の経済は社会主義

 経済活動の目的は消費にあります。基本的には、人間は、生命を維持するために食べるという消費を行い、その消費行動に付随する道具や、設備を作り出し、それを分業することで、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」である経済が生まれました。

 産業革命以降、人間は動力を手に入れ、生産力の向上と、技術の進歩は、消費の多様化を急速に進展させました。その結果、究極の消費である戦争は、兵器や兵士を消費するだけではなく、経済を構成する、「社会資本」と「労働力=市民」に壊滅的な打撃を与えしまいました。

 消費をもとめる経済は、第二次世界大戦以降、「財の生産および分配をはじめとする諸経済活動が中央政府の計画機関によって決定される経済体制」とした計画経済と、「個々の経済主体は自由に経済活動を行い、社会全体の財の需要と供給は価格をバロメーターとする市場機構により調節される経済」とする市場経済に別れ、イデオロギーを伴い、それは社会主義経済と資本主義経済の陣容に分かれます。

 利潤をもとめない計画経済の社会主義国家では、経済活動の原動力である技術の進歩や活力は後退し、生産力は伸びず、利権を求める縦割りの社会は、貧富の差を拡大し、一党独裁の中央政府は、市民を抑えるために、民主主義を封印し専制独裁主義に変貌します。

 これに対して、利潤を求める市場経済は、テレビの登場で、広告という消費の支配権を手に入れて、経済活動は、この消費の支配権をもとめて、生産力の増強と、売上至上主義に走りました。「物資の生産・流通・交換・分配」のシステムを確立するために、金融システムが確立され、錬金術による投資がはじまります。本来、需要と供給で成立する経済は、「資金」「固定資本」「流動資本」を労働力を使い、生産された物を、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程」をとおして消費されて成立するものですが、金融システムが経済の中心に位置することで、資金の移動で利潤が生まれることになりました。資金の移動が利潤を生み出す過程には、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程」はありません。つまり、経済の原理原則に一致しない行動様式であり、これは、究極の錬金術でありカジノでしかありません。

 ベルリンの壁の崩壊で、専制主義国家であった社会主義国家は、民主主義を望む、市民のパワーで倒されましたが、市場経済の資本主義国家は、経済原理に反する金融システムによって、グローバリゼーションの名のもと、資本を寡占化していき、アメリカを頂点とする資本による中央集権のシステムが確立されました。それは、統制経済であり、民主主義を装った専制主義であり、社会主義体制であります。そして、それを支えるの強大な軍事力がアメリカ軍でありましょう。

 先のジェノバのサミットでは、反グローバリズムの組織が10万人もあつまりました。彼らの、抗議行動は、まさしく、先進国による専制主義的な、経済システムにたいする抗議であり、アメリカを頂点とする経済専制主義の抗議する反グローバリズムの組織に対して、欧州各国が、対話に前向きであったのは当然でありましょう。

 ニューヨークの世界貿易センタービルの倒壊は、まさしく、金融システムを頂点とする中央集権にたいする攻撃であり、アメリカという国というよりも、アングロサクソンによる統制経済システムに対する叛旗ではないでしょうか。昨日のニューヨークの証券取引所での騒ぎは、アメリカの繁栄が、金融システムという錬金術の経済で成立している証拠であり、現実として、事件後の物流の混乱での実態経済の混乱を収めるのが政府の重要な施策であるはずなのに、エコノミストの眼は、証券取引所しか見ていないではないですか。

 また、経済の鍵はアメリカの消費者の動向にかかっているというエコノミストの意見が、メディアを闊歩していますが、世界から中央集権で吸い上げた資金を消費するだけのアメリカを容認することになる。アメリカのエコノミストがいうのであれば仕方がないとおもうのであるけれど、日本人のエコノミストが言うに及んでは、開いた口が塞がりません。

 統制経済の国家は、ベルリンの壁で証明されたように、その社会は民主主義に反し、市民はその社会を拒絶するでしょう。とすれば、アメリカが自由の名ももとに、金融システムを頂点とし、世界を中央集権で統治する社会は、その経済格差の広がりとともに、民主主義と対立し、強大な軍事力をもっても、民主主義を望む市民のパワーは抑えられないでしょう。ベルリンの壁の崩壊の事実は、アメリカを中心とする自由経済の名を借りた統制経済=社会主義経済の存続を認めません。

12  戦争と経済から考えるアメリカの経済戦略

 帝国主義の衝突であった第一次世界大戦。変動相場制の欧州と、金本位制のアメリカが引き起こした貿易保護主義の衝突である第二次世界大戦。そして、社会主義と資本主義の対立である冷戦時代のベトナム戦争。また、鉱物資源の覇権をめぐるアメリカの数々の軍事介入。

 これらの戦争と経済の歴史は、アフガニスタンの侵攻とイラク攻撃をしたアメリカ経済をどのように論評するだろうか。

 第二次大戦後、ニクソンショックを契機に、変動相場制による金融市場経済の形成したアメリカは、ベルリンの壁の崩壊以降、自由経済と規制緩和、そして民営化をキーワードに、社会資本を経済的に支配する経済的植民地政策を進める。

 一方、アメリカは、株式や特許などの知的財産、そして不動産などのバブルを誘発し資金をウォール街に集中させた。そして、アジアからの輸入を一手に引き受け消費大国としての地位を固めるとともに、ドル本位制によるドルの還流システムでアジア各国で売った米国債を、軍需産業を中心とするアメリカの内需(公需)に振り向けることで実体経済を支える。

 1997年の通貨危機で露呈した金融市場経済の矛盾は、カジノ資本主義の限界を示す一方、エンロンの倒産で、社会資本を経済的に支配する経済植民地政策を行き詰まらせた。この状況で、ネオコン(新保守主義)が台頭してくる。彼等は、カジノ資本主義からの脱却を、アメリカの圧倒的な軍事力を活用することで乗り切ろうとしていて、その基本となる経済政策は保護貿易主義だ。

 彼等の政策は、石油エネルギーの力による支配と、軍需産業を基軸とする内需拡大政策。そして、アメリカの4倍の人口をもつ中国に、消費大国の役割を押し付けて、アメリカの貿易保護主義による貿易黒字で、肥大した米国債務を解消するという政策転換だ。

 現状では、ユーロ高で、アメリカが担ってきた消費を欧州に負担させつつ、ドル安で、インフレを誘導し、輸出を増やす保護貿易主義を支える。そして、アジア諸国の通貨を加重平均した「アジア通貨バスケット」を構築を認めつつ、軍事力でドルの暴落を抑え、アメリカの貿易黒字でアジア各国の米国債を相殺させるつもりだろう。

 このように考えると、円高を阻止する日本の過激なドル買いも、「アジア通貨バスケット」に有利に参加するために円相場を維持するとしているのであれば、日本政府の行動も一理ある。

 しかし、この保護貿易主義は、かつてジョージ・H・W・ブッシュが大統領を争ったレーガンの経済政策であり、呪術を意味するカリブ海の島国ハイチなどで信仰されている「ブードゥー教」をなぞって、ブードゥー的だと批判した経済政策だ。息子のジョージ・W・ブッシュは、このことを知っているのだろうか。

 また、第二次世界大戦を引き起こしたのも、貿易保護主義の衝突であったことを考えると、かつての軍事大国のヒトラー率いるドイツが、ブッシュのアメリカと重ね合わさる。

2002/08/15 

2004/03/02 改稿