一 判例主義が官僚の独裁を許した
日本型社会主義の、官僚による統制経済は、高度成長をもたらしましたが、既得権益を制御できず、日本経済は瀕死の状態を招きました。なぜ、ここまで、既得権益がはびこったのか。どうして、既得権益は、強固に日本の政治や経済システムに食い込んでしまっのでしょうか。
私は、官僚シンジケートを、政治で改革するには、体力のない日本経済ではもたないと判断します。官僚シンジケートは、改革ではなく排除するしかないと考え、その役割は司法がするしかないと考えています。
しかし、日本の司法は、紛争解決のために法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為であるはずですが、その判断基準である法に準拠せず、「解釈に多様な見解が有り得る」として、法解釈による判例主義による司法であり、憲法を規範としない現実があります。判例主義における法とは、裁判所が判例によって積み上げてきた判例を意味していて、実際に、この制度の英国には、憲法は存在していません。これに対して、過去の慣習や、判例によってみとめられてきたものを成文化ししたのが憲法であり、この憲法を行動や判断の基準としたのが、アメリカです。
日本は、憲法を持ってはいますが、それは論理の整合性のない法規範であり、司法は、論理の成立しないところを解釈という行為で判決して、行動や判断の基準は、判例主義となっています。かつてのイギリスもそうでありましたが、何故、官僚が権力を握ってしまうのか、何故、民主主義は、官僚の独裁を止められなかったのか。それを考えてみました。
二 国会の役割と、議員に求められる政治の現実
議会制民主主義での国会の役割と権限は以下のとおりです。
@ 国会の地位
国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関であると定められています。国会は、行政を担当する内閣と非常に密接な関係を持っていて、内閣総理大臣は、国会において国会議員の中から選ばれます。また、内閣総理大臣が各国務大臣を任命する際は、その過半数は国会議員でなければならないことになっています。このようにして組織される内閣は、国会に対し連帯して責任を負っています。国会での議員が多いい政党を基礎に、内閣がつくられ、行政権を行使しています。
A 国会の権限
国会は国の唯一の立法関でありますから、言うまでもなく 法律を制定することが最も重要な役目ですが、その他として、予算その他国の財政に関する議決をすること、条約の締結を承認すること、内閣総理大臣を指名すること、憲法の改正を発議することなどの役目を持っています。
国会は、本会議と委員会とがあり、本会議は、その議院の議員全員の会議であり、議院の意思は ここで決定されます。委員会には常任委員会と特別委員会とがあり、委員会は、予算・条約・法律案などの議案や請願などを専門的に詳細にわたって審査し、また、それぞれ所管する事項について国政調査を行います。常任委員会の中で特殊なものは、国家基本政策委員会、予算委員会、決算行政監視委員会、議院運営委員会などです。
B 請願
各議院はそれぞれ請願を受け付けています。請願は、憲法で保障された国民の権利であり、国会に提出されるものはその一つです。請願しようとする者は、議員の紹介によって請願書を各議院の議長あてに提出します。提出された請願は所管の委員会で審査のうえ、その内容が妥当と思われるものは採択され、その中で内閣において措置することが適当と認めたものは内閣に送られます。内閣は送られた請願の処理経過を毎年各議院に報告することになっています。
国会では、議員の役割は主業務として、法律を制定することになります。それは、請願という国民の声を法律で反映することであり、議員は、選挙区の請願をもとに国会での立法を主業務とししています。
民主主義のルールで、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合することを政治といい、法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為が司法であるとすれば、選挙で選ばれた議員は、選挙民の利害の対立などを調整・統合する手段として、法をつくる。これは見方を変えれば、法はなにかしらの規制を意味するもので、規制で守られる人々がいることを意味すします。つまり、立法作業の目的は、選挙民の既得権益を守るためといえます。
三 立法を議員から奪う官僚の目的
立法は、国の最高規範である憲法に遵守して作られるものであるが、英国のように憲法のない国家のように、判例法で形成される慣習法体系での、立法の作業は基準はなく、悪くいえば、何でもありの世界です。また、膨大な過去の判例を扱う作業は、専門的な作業となり、市民感覚を備えた理性的アマチュアの議員には出来ません。議員は、立法の作業を官僚に任せて、本人は、選挙民の、冠婚葬祭や就職の世話をすることが本分となってしまいました。
アメリカのように、憲法を基準に立法作業をする制度では、議員立法が原則であり、その作業は、コモン・ロー(判例法で形成される慣習法)を基準とするより容易であるのはいうまでもないでしょう。
故に、日本の場合、内閣提出法案はもとより、議員提出法案という形をとっていても、そのほとんどが行政官僚の手によって立案されているのは、現行憲法は、法規範としての機能を果たしておらず、官僚による法解釈という判例主義による立法作業のためであります。その現場は、中世の公家社会の、歌会のようなもので、庶民の常識で理解できるものではありません。
つまり、議員の仕事の主業務である、立法の作業は、既得権益を守るためのものであり、判例主義の中でのその作業は、複雑怪奇であり、専門職の官僚が握り占めています。議員は、その法案を決議するために、選挙民の、冠婚葬祭や就職の世話をして、一票をどぶ板を踏みしめながら、票田を耕すことが主業務となりました。ひとたび議員が地元への利益誘導を怠ろうものなら、手のひらをかえしたように他陣営に乗り換えてしまう。そんな中で政治家としての信念や政治理念を貫き通せという方が無理でありましょう。とすれば、立法を議員の主業務としたところに、いまの政治の腐敗の原因があり、官僚の暴走の原因があるのではないでしょうか。
四 今、立法府がすべきことは、法律の廃案です
国会を辞書で引くと「現行憲法の定める国の議会。国権の最高機関で、国の唯一の立法機関。」と書いてあります。たしかに、「国権の最高機関で、国の唯一の立法機関」というのは、中学校の教科書でもそのように教えているでしょう。
しかし現実には、国会は立法作業だけではなく、国の歳入歳出の予算の審査する「予算委員会」や、その予算がどのように使われたのかを監査する「決算行政監視委員会」があり、この予算の配分をめぐる攻防が「政治」といわれているのです。さらに言えば、この予算の配分の規律となる法=既得権益を作成するのが立法作業という事になります。
具体的にいうと、この国の予算で生活する人々を支持者とする自民党は、既得権益者である彼らの権益を守るための政治をするわけす。これに対して、野党の民主党は、自民党の持っている予算の権限を求めて、政権交代を求めています。彼ら野党の政治は、スキャンダルなどで審議を遅らせたりする程度で、その行動は幼稚園児並です。つまる所、与野党ともに、公需をささえる予算の配分を政治としていて、ともに中国共産党のような社会主義者であることがわかります。
私は、自由経済社会陣営の日本が、何故、社会主義経済になったのか誰も理解できないのは、立法府の定義が曖昧であるからだと思います。そして、それは法という概念を見つめ直す所からはじめなければならないと思います。論理や哲学が日本の教育に欠けていたことは、今の日本にとって致命的となっています。
まず、法とは、主権者の行動や判断の基準・手本となる「規範」としての「法」と、国家・社会・団体を運営していく上で制定される制度としての「法」。そして、行為や手続きなどを行う際の標準となるように定められた規則としての「法」があります。つまり、法とは、規範・制度・規則の総称であるのです。
【規範】 主権者の行動や判断の基準・手本となる「規範」としての「法」
【制度】 国家・社会・団体を運営していく上で制定される制度としての「法」
【規則】 行為や手続きなどを行う際の標準となるように定められた規則としての「法」
このことを理解しなければ、国会での立法作業は出来ません。「規範」を上位法として、下位法である「制度」、そして「規則」という序列を守らねば「法」の整合性は得られないのです。
このように考えれば、政治家は、まず、制度としての「法」を作成するべきであり、それが政策であるのです。制度としての「法」を議論して作成したならば、それに順守した規則である「法」の整備を官僚に作成させて、それを国会でチェックするというのが立法作業となります。
問題は、規則である法の整備なのですが、整備というからには、新しい制度にそぐわない法律は、まず破棄するべきであるのに、これを既得権益とする側との折衝を政治としていることです。本来、「制度」としての法を議論するべき国会議員が、「規則」である法整備に時間を割いているのが現実なのです。骨抜きという言葉は、このような過程を指しているのです。
制度としての「法」が議論されれば、それに順守した行政府の予算かどうかを国会で審議するのが予算委員会となります。しかし、現実には、制度としての「法」の概念がありませんから、予算委員会は、政策論とスキャンダルが入り乱れて、ただの与野党の対立の茶番劇しか国民には映りません。
五 行政監察を創設して四権分立を確立せよ
国会は、本会議と委員会とがあり、委員会の中で立法作業と関係のないものとして、国家基本政策委員会、予算委員会、決算行政監視委員会、議院運営委員会があります。
A |
国家基本政策委員会は、国家の基本政策について内閣総理大臣と野党党首との一対一の討論の場として設置されました。 |
B |
予算委員会は、国の歳入歳出の予算の審査をしますが、その際、内閣総理大臣はじめ全部の国務大臣の出席を求め、国政の全般について各党の代表委員が質疑するのが例になっています。 |
C |
決算行政監視委員会は、衆議院における行政監視機能の充実強化を図るために設置されました。 |
D |
議院運営委員会は、本会議の開会の日取り、その議事の順序、発言者と発言時間その他議院の運営に関するあらゆる事項を協議する重要な任務を持っています。 |
国家基本政策委員会は、つい最近に設置されたもので、国家の行政に関して議論する場がなかったことは驚くばかりですが、この委員会を特別なものとするのではなく、新しい機関として、三権分立に付け足すべきではないでしょうか。これを、仮に、行政監察と呼ばせていただきます。
三権分立による抑制・均衡というシステムは、欠陥システムであり、立法権と行政権を一体化させ、首相に強力な権限を集中させているのが現実です。立憲君主制ならではのこのような権力融合は、国王の行政権への介入に対抗し、それを封じ込め、首相の強力なリーダーシップで安定的・効果的な政策の実施を可能にさせるものですが、それ自体が巨大権力として暴走するシステムであることは、英国の歴史と、いまの日本の状況がそれを証明しています。
いまの、国家の中で、、国家基本政策委員会、予算委員会、決算行政監視委員会、議院運営委員会を、行政監察として、独立させ、内閣を抑制し、司法から行政の検察権をもつことで、司法との均衡をとります。行政に関与する機関を、立法機関から独立させることは、いまの政治システムを混乱させず、導入できるもので現実的です。そして、選挙区の利益誘導に走る政治家に対して、政治家のモラルを呼び起こすものとならないでしょうか。
六 参議院の役割を地方議会へ
日本の参議院にあたるのは、世界では、上院や貴族院であり、この制度は時代遅れの制度の一面を持ちます。しかし、今後、日本でも中央集権が解体され、地方分権がすすめば、国政の行政権と立法権を持つ衆院と、それを抑制する、より国民に近い、つまり地方の声を国政に反映させることを目的とする、参院の意義は重要となるでしょう。
国民全員が一カ所に集まって議論し合って、政治のありかたを決める「直接民主制」という方法は非現実的であったため、選挙で代表者を選んで、その代表者に政治を任せる「間接民主制(代議制)」をとっていましたが、インターネットは、国民の声を集めることを可能にするものです。
これは、つまり地方の声を国政に反映させることを目的とする参院は、地方議会から選出される議員に委託したらいかがでしょうか。地方の声を国政の中心から求めることは、政治家の視野を狭くするものであります。地方からの声は、現行の参院議員の構成議員を地方議会の議員に委ねることで、地域ごとの世論を、国政に届けるようにしたらいかがでしょうか。参議院の議論の場は、地方議会に委託し、その採決はインターネットでとればいいでしょう。
七 欧米に惑わされず独自の政治システムを
さきの、4つの委員会を独立させることは、行政権への抑制の働きをはたし、司法に、違憲行為に精査をもとめる検察の権限を与えることで、司法との均衡を取るべきでしょう。KSD事件も、機密費問題や、外務省のリークなど、司法の検察は機能していません。行政おける、違憲行為は、司法によって裁かれるもので、行政監察に、基本政策や、行政行為の検察権をもたせることで、議員に行政権を与えるべきです。
そして、政治とは、民主主義のルールで、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合することであり、その手段として、行政監察機関を創設して、行政監察権と立法権を持足せるべきでしょう。
また、法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為が司法とするならば、その行為の基準となる憲法は、論理の整合性のある法規範でなくては行けません。でたらめな法規範は、権力の都合で書き換えられる判例主義を呼び込み、民主主義はもちろん、資本主義経済も成立しません。現行憲法は、官僚らの隠れ蓑でしかないことを認識し、論理の整合性のある自主憲法を制定するべきです。
現状分析をして、問題の阻害要因はなにかを考え、そしてその解決の理論を組み立てる。覚えることが勉強としていて、覚えたことを実践するだけでは、この閉塞した日本の状況は脱することは出来ないでしょう。欧米の理論にとらわれず、独自の理論への挑戦をするべき時代ではないでしょうか。
八 「法」と「制度」の違いから導く、三権分立の概念
@ 「法」と「制度」
「法により国家権力が行使される国家」と定義される法治国家の中で、立法機関である国会は、国権の最高機関とされています。しかし、国会議員の憲法51条の「議員の発言・表決の無責任」は、党議拘束でその自由と権利が奪われ、国会は、本来行政側である霞ヶ関の官僚に牛耳られていて、国家議員にとって、国会は権力をめぐる駆け引きの場でしかなくなっています。
私は、党議拘束は憲法違反であるとし、国会議員は、有権者の声を受け、一人一人の判断と論理で、国会の発言と表決に参加するべきだと主張しています。しかし、そのまえに、法治国家として、「法」と「制度」の相関関係の定義を明確にするべきかもしれません。
「法」とは、行動や判断の基準です。日本国憲法には欠如していますが、本来、基本的人権である自由と、他人の人権を阻害したり否定してはいけないという責任。そして、国家が国民に与える権利と、その権利を行使する国民が国家に提供する義務。この「自由と責任」「権利と義務」の関係を成立させるのが、国家最高の法規範である憲法といえると考えます。
日本では、憲法を上位法として、法律を下位法と位置付けしていますが、この場合の法律とは、国家・社会・団体を運営していく上で、制定される法や規則である「制度」といいかえることができます。国家と国民の行動の基本となる法規範である憲法と、国家・社会・団体を運営していく上で、制定される法や規則である「制度」の違いを、上位法と下位法というように法という言葉でひと括りにするのではなく、上位法の憲法、下位法の「制度」と分けるべきではないでしょうか。
A 機能不全の国会の現状
この違いを明確にしないから、立法機関である国会の議論は成立しないのです。国民の権益を政治に反映するために送り出された国会議員が、国会ではイデオロギーの議論に終始して、権益の主張は、国会外の政党内で議論をしているというのが日本の政治の現状ではないでしょうか。制度を議論するときは、イデオロギーは関係なく、権益のぶつかりでいいのです。それには、どの層の権益を代表しているかというスタンスが重要となります。
しかし、いまの小泉政権に対峙するのは与党内野党である自民党の抵抗勢力であるという構図と、支持率が5%前後の野党第一党の民主党は、政権交代を叫ぶばかりで、均衡財論者も積極財政論者であるケイジアンは、与野党内に混在しています。彼らは、永田町の論理で動いているのであり、国民の声である権益はその眼中にはありません。
政治はどの層の国民の権益を主張するかというスタンスが必要であり、それを実現するためにイデオロギーが必要となります。東京大学出身者の哲学の底流にある「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という「一般人民は、選ばれた者によって行うべき道を与えられるが、何故それを行うのかということは知らせても意味がない」という教えは、どの国民の権益を代表するかというスタンスを庶民に問わなくてもいいと言っているわけではありません。そうではなくて、そのスタンスを理解してもらい、それを実現するイデオロギーは、(エリートに)一任しろというものではないでしょうか。
B 三権分立をその基本概念から見直そう
国会は憲法や制度という法を審査・監視するとことであり、法律を作るところではありません。新しい制度や現行制度の問題点を議論する場であり、憲法の改正の是非は当然です。従って、国会は立法機関ではなく、上位法である憲法と、下位法である制度を、審査・監視して、改善したり修正する機関とするべきでしょう。
そこで議論されるのは、違憲行為の監視とか、現行憲法の問題点や改善点を議論するべきであり、問題点と方向性の議論が集約したならば、それを、事務方に法案化させればいいのです。そして、下位法である制度に関しては、まず問題提議がまずありきで、現行制度の問題点や改善の提案の是非を議論するべきで、法案の提出が先にありきではいけません。法案の提出が先にありきになるから、事務的処理が先行してしまい、結論ありきの議論となってしまうのです。
そして、具現化した法律を審議・審査するのが司法です。司法は、国会で作られた論理と、事務方の作成する法律との整合性を審査・審議して、その正当性を判断します。司法が、この法案に異議がある時に行使するのが「違憲審査制度」となります。
法案を作成するものが権力を握るという政治では、行政、国会、司法と官僚が実効支配してしまうのは当然です。そうではなくて、国会は、憲法や制度にたいして、提案や改善点を指摘する場であり、それを具現化する法を審議、審査するのが司法の役割であるとするべきでしょう。そして、行政は、国会が定めた憲法や制度に枠組みで、外交や内政の行政権を行使するとするべきです。これならば、三権分立は成立します。