(法曹界は奢っている)
一 はじめに
日本型社会主義の、官僚による統制経済は、高度成長をもたらしましたが、既得権益を制御できず、日本経済は破綻寸前の状況です。いまの日本の閉塞状況は、政官業癒着構造が、赤字国債を乱発してまでつくりあげる公共事業依存の経済の体質のあることが根本原因です。そして、政官業癒着構造の骨格である、官僚シンジケートは、行政と立法にダニのようにへばりつき、国税を蝕んでいます。なぜ、ここまで、既得権益がはびこったのか。どうして、既得権益は、強固に日本の政治や経済システムに食い込んでいるのだろうか。
この問題にたいして、まず、日本経済を蝕むダニ官僚を駆逐するのは、政治で改革するには、体力のない日本経済ではもたないと判断しています。ですから、官僚シンジケートは、改革ではなく排除するしかないと考ざるを得ません。そして、その役割は司法がするしかないと考えました。
次に、官僚シンジケートによって作られた、公共事業依存の経済構造を、どのように改革していくのか。日本は、どのような経済国家を目指すべきなのか。今の日本の経済は、統制経済であり、崩壊した社会主義経済と同じです。
そこで、司法が、官僚シンジケートを駆逐する役割をはたすために、現在の問題点を、イギリスの判例主義にもとめ、「司法制度改革審議会の意見書」を検証しながら、司法のあり方を考えていきます。
また、日本の公共事業依存の経済構造の改革は、崩壊した社会主義経済を検証することで、その活路を求めたいと考えます。日本の公共事業依存の経済構造は、崩壊した社会主義経済にきわめて近く、今の日本の経済状況は、ベルリンの壁が崩壊した、東欧の社会主義国破綻する状況と類似しています。崩壊した社会主義経済を検証することで、日本の進むべき経済を探したいと考えます。
ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方
http://members.jcom.home.ne.jp/0432341501/page32.htm
二 司法に常識は必要だろうか
司法制度改革の三本柱の一つとして、国民の司法参加があります。これは、司法がその機能を十全に果たすためには、国民からの幅広い支持と理解を得て、その国民的基盤が確立されることが不可欠であり、国民の司法参加の拡充による国民的基盤の確立が必要としています。そして、一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるとしています。
しかし、法というルールを用いて紛争解決をする行為に、なぜ、常識が司法に、より反映されるべきなのでしょうか。常識とは、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力でありますが、これは、社会状況や、教育水準で変化するものであり、これを司法に持ち込むのであれば、行動や判断の基準である法は成立しません。法のない社会に、民主主義もまた成立しません。
三 法曹に求められる資質は、「論理力」
司法審議会が求める法曹に必要な資質は、豊かな人間性や感受性、幅広い教養と専門的知識、柔軟な思考力、説得・交渉の能力等の基本的資質に加えて、社会や人間関係に対する洞察力、人権感覚、先端的法分野や外国法の知見、国際的視野と語学力等をあげています。
この中で、客観的に判断できる専門的知識であり、その扱う情報量の大きさに、法律の専門職としての地位は高いものでした。確かに、以前は、法律という膨大な数の社会ルールの中から、かかる案件に適合する法律を選び出し、その整合性を求める作業は、大変な作業だったでしょう。しかし、IT革命の中、情報処理の進歩で、法律というデーターベースは、デジタル化され、インターネットで閲覧は誰でもできる時代となりました。そして、その検索スピードは格段に速く、そして容易になっています。
いまの情報化時代に必要なのは、法律を覚えることではなくて、論理力ではないでしょうか。かかる案件に適合する法律を正確に選び出し、事実認定をもとに、論理的に判定を下すことであり、その論理力が大きな比重を占めるものであるはずです。審議会が、求める法曹に必要な資質には、論理力がないのは、司法の制度疲労は内部にあることを端的に物語っています。
四 政治部門が心臓と動脈、司法部門は静脈」の揶揄はナンセンス
司法審議会は、司法を、身体にたとえて、「政治部門が心臓と動脈に当たるとすれば、司法部門は静脈に当たると言えよう。」と比喩しています。しかし、政治は、社会の闇を生み出し、司法が、社会を浄化するという考えは、司法の奢りであり、民主主義の政治を否定するものです。
そうではなくて、紛争解決を、力でするのが、軍隊であり、ヤクザやマフィアであり、民主主義のルールで、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合することを政治といい、法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為が司法といえるのではないでしょうか。つまり、多数決の原理で、利害を調整・統合するのが政治であり、法に照らし合わせて、利害や紛争解決するのが司法です。
「政治を動脈。司法を静脈」と揶揄し、政治の役割である、心臓と動脈の余分な附着物を取り除き、血液が勢いよく流れるようにするのが司法の役割とするのならば、福岡地検の山下永寿前次席検事の捜査情報漏洩事件など、司法を私物化する事件がおきている現実をどのように理解すればいいのでしょう。
日本の三権分立が制度疲労した原因は、その他の日本が抱える構造改革に向けて、審議会が提議しているように、過度の事前規制・調整型社会によるものであり、そこから生まれた既得権益がその原因でしょう。この対処として、事後監視・救済型社会への転換を提議する審議会の意見には同意いたしますが、これは、「政治部門が心臓と動脈、司法部門は静脈」という、行政を司法が事後監視することではありません。
なぜなら、そうすれば、三権分立を否定することになるからです。そうではなくて、行政、立法、司法、それぞれに、独立した事後監視の制度を用いるべきです。司法もまた、論理の成立しない現行憲法を隠れ蓑に、法解釈という既得権益を享受して、司法の権利を私物化しています。、
五 法を解釈する行為は、既得権益
司法は、紛争解決のために法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為であるはずです。その判断基準である法に準拠せず、「解釈に多様な見解が有り得る」として、法を解釈して、権利関係を確定・宣言する行為を平然としている司法のあり方はあってはならないことです。
憲法とは、国家の基本的事項を定め、他の法律や命令で変更することのできない、国家最高の法規範であり、法とは社会規範であるはずです。規範とは、行動や判断の基準であり、基準とは、物事の判断の基礎となる標準です。繰り返しになりますが、その判断基準である最高規範の憲法が、解釈によって多様な見解を有するとすれば、それは基準とは言えず、規範として成立しません。
司法は、法に準拠して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為なのですから、その基準となる憲法自体を、適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する為に解釈するとなれば、本末転倒であります。司法は、権利関係を確定・宣言する行為において、準拠すべき法に矛盾があれば、審理不可として、立法府へ問題定義するべきです。司法が、基準となる法を解釈という行為で、多様な見解を述べることは、立法への介入です。
裁判官は、法律というルールに照らし合わせて、事実認定を、法律と照らしあわせて、それが適合するかどうかを判断する業務です。その作業に、ルールを解釈で曲げたりするような行為(法解釈)をさせては行けない。事実認定と法律が、整合しないときは、法律を立法に差し戻すべきです。
すべての問題を法律で、白と黒に分けることは不可能でありますが、グレーの部分を含ませる上位法の憲法は、少なくとも日本語の論理が成立していなくてはいけません。
六 法曹はスペシャリストであるべきだ
司法制度改革審議会意見書は、現在の司法制度のありかたについて、今後、国民生活の様々な場面において法曹に対する需要がますます多様化・高度化することが予想される中での二一世紀の司法を支えるための人的基盤の整備としては、プロフェッションとしての法曹(裁判官、検察官、弁護士)の質と量を大幅に拡充することが不可欠であるとしています。
法曹の質と量を大幅に拡充することは、時代の要求であり当然であると思いますが、その質と量を、司法試験のあり方に原因を求め、法科大学院構想のように、教育論にその解決を求めていくのは、理念が先行するだけではないでしょうか。
そうではなくて、法曹はプロフェッションとしてではなく、ジャッジメント=審判であり、法のスペシャリストであるべきでしょう。憲法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、労働法・社会法、医療法・公衆衛生法、産業法・知的財産法、とそれぞれの分野で法曹がゼネラリストである必要はありません。それぞれの分野で、スペシャリストであればいいのではないでしょうか。現行の、税理士や会計士、弁理士なども、この中に入れてしまえばいいのです。
法曹へのニーズは、多岐にわたり、すべてに精通している必要もないし、また、そのような法曹人がいたとしても、わずかではないでしょう。民法や、商法、労働法や、医療法など、本来、主権者である国民のための法が、機能していないのは、法のゼネラリストを自称する法曹人が、それぞれの分野に精通していなく、法を都合のいいように解釈して、法をねじ曲げているからです。法は主権者の国民のためにあるのではなく、既得権益を守るために存在するのが現実ではないでしょうか。
社会が法曹に求めるニーズは、国民の係争問題に的確に答えられる法曹であり、また、競争原理を用いて、経済的負担を軽減です。それを実現する為に、法曹の質を高めるには、対象とする法ごとに、スペシャリストを養成すればいい。そして、業務の範囲を限定した資格制度を導入すれば量も確保できるではないでしょうか。
日本は、英国と違い憲法がある。慣習法ではなく、成文化した憲法という法規範があるのだから、判例主義であってはいけない。行動や判断の基準である法規範にそって、事案に対処するべきで、審判員であるべきだ。それを公平にできる人格や思想が必要となります。
しかし、法規範をないがしろにし、法を解釈するなどと御都合主義の特権を振り回す司法の現実があります。このような結果を招いたのは、「国民の社会生活上の医師」とか、「かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」などと、法曹人は聖人君子であるような奢った意識があったからではないでしょうか。
法曹人をすべてゼネラリストにする必要はない。各分野の法のスペシャリストを育て、限定した司法の資格を持つ法曹を社会に送り出し、彼らは、限定した実務の中でその力量を高めるべきだ。そして、法曹は、審判を業務とすることを自覚し、法規範というルールに基づいて審判をくだすべきです。社会は、法曹に、聖人君子を社会は求めてはおらず、それを求めるのは、法を解釈という行為で、既得権益とするいまの法曹人の自己中心的な考えでしかありません。
七 自主憲法制定の必要性
司法審議会は、日本の司法の制度疲労の現実は認識しても、その原因を議論せず、結論ありきでの審議の終始したのではないでしょうか。司法の制度疲労の原因は、司法が、論理の整合性のない憲法を、解釈などという行為で都合よく書き換えて、判例主義を司法に持ち込んだからではないでしょうか。司法は、立法府がつくった法を、紛争解決のために、事実認定をして、その適合性を判断するべきなのに、論理の整合性のない法律を、立法府に差し戻さないで、司法自ら、解釈という行為で、判決をしてその判例を法規範とすることは、権限を逸脱するものではないでしょうか。。これでは、三権分立は成立しません。このような考えであるから、「政治部門が心臓と動脈、司法部門は静脈」などと揶揄するなど、法曹の奢りがでてしまうのです。
健全な司法は、国民の行動や判断の基準である、憲法を遵守して成立するものである。現行憲法は、論理の整合性があるだろうか。論理の整合性のないことを「でたらめ」といいますが、「でたらめな」法規範を憲法とする国家には、民主主義は成立しません。
論理の整合性のない現行憲法は、国家や国民の行動や判断の基準となる基準として成立していない現実を受け止め、論理の整合性のある自主憲法制定をするべきです。法規範が、憲法ではなく、官僚による法解釈で、多様な見解による最高裁の判例を規範とする国家では、民主主義は見せかけのものでしかありません。。
民主主義が成立しなければ、資本主義経済もまた成立しません。いまの日本の閉塞した社会状況は、官僚による独裁的で独占的、そして統制経済である社会主義国家から生じています。そして、民主主義の皮をかぶった社会主義者は、現行憲法を隠れ蓑に、国税を蝕んでいます。その意味で、現行憲法を否定し、自主憲法制定は必要不可欠と考えざるを得ません。