新日本列島改造論

副題:情報技術が革命する社会と未来 
 1 資本主義と社会主義は相対関係ではない
 2 階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)
 3 戦後の日本経済の成長過程
 4 日本経済の現状
 5 情報技術は社会構造を変える
 6 情報技術とは
 7 インターネットが革命である理由
 8 新日本列島改造論
 9 インターネットの普及による地域経済の活性化
10 間違ったリストラの概念
11 ブロードバンド社会における社会資本の本質
12 社会資本の定義と、資本と経営の分離の原則
13 退職金は、既得権益 

1 資本主義と社会主義は相対関係ではない

 まず、資本主義と社会主義についてですが、第二次世界対戦以後、世界は米ソに分かれ、資本主義と社会主義と分けられました。しかし、両陣営とも、経済上は、資本主義経済のなかで、自由経済と統制経済の対決だったと考えます。 

結果として統制経済は破綻しましたが、それは、統制経済で生まれる既得権益を制御できなかったからであり、利潤ではなく、資本(財政投資)を求める経済は成立しないことが立証されたのです。これは、経済システムは、貨幣経済であるかぎり資本主義経済であるということを立証するものでありましょう。 

 つまり、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするという意見です。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではないと考えます。
 

2 階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)
 
 次に資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段をもっている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしている点に異論があります。これは、資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側と分けるべきではないとする意見です。

 利潤は、生産過程で労働力の「搾取」によって生み出される、という従来の「搾取」という概念が、資本側と労働者の対立する構造を作り出してきたが、これは、不労所得と労働所得と分けて考えるべきでしょう。資本の所有と経営の分離している企業では、経営側も労働者であり、役職のあるかないかで労働者を分類し、労働者としての様々な権利を経営側が受け取れないのはおかしいのです。

 株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで得る不労所得者と、労働にて所得を得る労働所得者の分類こそが、資本主義の基本構造です。そして、所得や資産を再分配する税で、不労所得者を優遇すれば、資本の寡占化が進み、労働所得者層を優遇すれば、資本の再配分が進むでしょう。

 つまり、資本主義において、労働者は資本に搾取されるという関係ではなく、不労所得者層と労働所得者層の関係が基本であり、この関係が固定化し階級化しないために税システムがあります。資本家階級と労働者階級は、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家となるでしょう。 


3 戦後の日本経済の成長過程
 
 経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれるが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要となります。経済の需要と供給のバランスは、資本の寡占化とその解体を交互に起し、して技術も発達してきました。つまり、経済は、自由経済と統制経済を繰り返すことで成長するのです。

また、統制経済では利権を生み、市場経済の自由は奪われていきますが、その利権をリセットするのが民主主義です。民主主義は、統制経済と自由経済のバランスを担う役目を持ち、資本主義の成長とともに、民主主義も成長します。

 高度に成長した資本主義と民主主義は、社会資本による経済の「公需」と民間資本の経済である「民需」という二つの経済を持つようになります。「公需」の割合が高い社会は、いわゆる社会主義経済であり「統制経済」が強く、民需の割合が高い社会は自由経済で、福祉や年金という社会保障制度も自己責任の割合の強い市場経済の社会となります

 統制経済と自由刑経済と、公需と民需のバランスが政治であり、国民は、自分自身がどの層にいるかを認識して、自己の権益を主張することが必要です。そして、国会議員は、どの層の国民の権益を代弁するのかを明確にしなければならず、その求める権益を主張する均衡とバランスを、民主主義の原理原則に求めなければなりません。 

 問題は統制経済で生まれる既得権益です。既得権益は経済法則では除外できません。既得権益は権力であり、この権力を制御するのが政治となります。権力が制御できず、権力の交代が出来ない世界は独裁国家であり、経済の発展は望めません。また資本家と労働者の階層間移動が、権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立いたします。

 軍事力による市場の拡大と資本の寡占化を目指す、帝国主義の時代は、第二次世界大戦で終わりました。第二次世界大戦は、資本の寡占を続けるために市場を力で拡大するということは、軍事技術の発達で、その代償があまりにも大きなものであることを人間は学びました。それは、核の抑止力を決定的なものとしました。

 これは、権力者が資本主義の矛盾の矛先を、他国へ振り向けることが出来ないことを表していて、政治と経済のリセットは、民主主義のルールにしたがって行わざるを得ないことを意味してます。資本主義は、戦争というリセットのやり方を否定する時代に入っているといえるでしょう

 統制経済から生まれる既得権益は、経済を硬直し民主主義と対立します。これを打開するには、新しい資本の寡占化をはじめなければいけません。しかし、この新しい資本の寡占化を見つけられないとき、政治と経済をリセットすることが必要となるでしょう。このリセットをいかにするか、これが政治に託されるといえます。
 

4 日本経済の現状
 
 戦後の日本は、国力である軍事力を「瓶の蓋論」で米国に依存し、国力を経済力に傾注できました。そして、戦後の日本の奇跡的な、経済復興と高度成長経済を支えていたのは、官僚主導の統制経済であったことは事実でしょう。それは銀行を中心とした、日本の産業界の護送船団方式でありました。

 ソ連を中心とする社会主義国家が、資本主義を否定し、資本と思想の統制を行っていたとき、日本は、資本主義の中で、官僚主導の統制経済は、規制と認可によって、資本の寡占化を制御し始めていきます。東大を頂点とする学歴社会で選別された国民は、終身雇用とあいまって、日本株式会社を形成し、そして発展させたます。そこに要求されたのは、集団主義であり、それぞれの部署での平均値が均一の国民でした。そしてその均一した国民を作り出す教育体系が学歴社会であり、それは、知識の量で選別され、試験で得る学力や資格が生涯賃金を決める大きな要素となります。

 一方、創造力や、経験で積重ねる知識は、客観的な選別基準がむずかしく教育体系から外されました。そして、戦前より植え付けられた、国家への帰属意識は、会社への帰属意識にかわり、国民は会社中心に機能していきます。日本は、試験で得る学力や資格と、終身雇用という労使関係との相乗効果で高度成長を実現し、国内総生産を世界第二位に押し上げ、国民の9割が中流意識をもつ国になりました。

 一九八九年十一月、「ベルリンの壁」は崩壊しました。この後、ソビエトを改めロシアは、自由経済を導入します。これは、資本主義を否定して統制経済は成立しないことを証明したのです。資本主義のあり方の中に、自由経済があり、統制経済がある。統制経済は、既得権益を権力にしてしまうが、この権力を制御するのが民主主義です。しかし、社会主義は、資本主義を否定し、そして民主主義も否定してしまうものであることを歴史は証明したのです。

 日本においても、高度成長期を支えた官僚主導の統制経済は、既得権益という権力を増幅させていきます。ただ、米国の監視下、民主主義は守られていたので、その利権は、立法府を巻き込み、構造的なものとなっていきました。政官財を巻き込んだ、特殊法人や公益法人を中心とする利権構造の誕生です。そして、官僚は政治という隠れ蓑で身を隠し、そして集団でその利権構造を支配することで、責任の所在を曖昧にしていきました。

 高度成長期が終わり、その利権構造に歪みが生じたとき、その利権構造を守るために、官僚達は、赤字財政を選択しました。右肩上がりの経済成長を、かれら官僚達は疑わなかったし、経済成長がなければ、利権構造は維持できなかったからです。

 しかし、戦後からの統制経済は、日本経済のなかで、民需の力を削ぎ落としていきます。がんじがらめの規制と認可制度、そして、統制経済を支えるための学歴中心の国民教育は、集団主義と、平均値で固められた国民を大量生産し、民需の経済を興す活力を失わせていきます。そして、戦後の経済復興の原動力であり、企業の80%と超えていた小規模事業者は激減し、国民は就職こそが仕事という考えが定着していきます。

 よって、官僚主導の政府は、需要の創出と利権のための公共事業を拡大しなければならず、赤字財政から均衡財政へ切り替えることができなくなり、赤字財政を繰り返していくことになりました
 

5 情報技術は社会構造を変える
 
 日本の資本主義の成長過程はおおむね健全といえるでしょう。資本主義は人間の成長と同じで、反抗期やいろいろな苦労を重ねながら成長するものです。その意味では、世界に先駆けて、統制経済を確立したのは評価するべきでしょう。
しかし、経済は、資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まり、その成長過程で、自由経済と統制経済もまた繰り返すものである。これをふまえて現状を認識すれば、赤字財政による産業の創出もできず、また既得権益の弊害がおきていることはあきらかです。

 そしてこれを打開するには、情報処理技術と情報通信技術の進歩によって、現在の高度に寡占化された資本をすべて開放し、規制と認可を取り払い自由経済による経済再生をするべき時代にきていると考えます。この新しい時代へのリセットをいかにするかが、この変革期にいる政治家のなすべきことです。日本は明治維新といういいお手本があります。いまこそ維新です。

 そのためには、情報技術が、もたらす社会を認識しなくてはいけません。そしてまず最初に、情報技術がもたらす社会とは、「情報技術という新しい産業」がおきることではないことを認識しなくてはいけないでしょう。情報技術は消費と雇用を創出するものではなく、むしろ雇用においては、マイナスに作用するものです。かりに、経済を打開する新しい産業となりえると仮定しても、もしそうであるならば、支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革とすることを革命というならば、それは、革命とはなりえないからです。

 そうではなくて、現在の産業が、情報技術で、その寡占された資本を開放し、資本家階層と労働家階層の行き来である、階層間移動を活性することが日本の取るべき未来ではないでしょうか。情報技術は、高度の寡占化された資本を開放するものであり、資本家階層と労働家階層の階層間移動が自由に、そして移動の壁をなくすものです。故に、それは、統制経済の要である官僚組織という権力と対峙するものとなり、この実現への道のりは、文字どうり革命となるでしょう。
 

6 情報技術とは
 
 ITとはinformation technologyの略称で、情報技術という意味です
そしてこの情報技術は、以下の3つの技術に分けて考えねばなりません。
 
(一) 情報処理技術  information processing technology 

 産業革命は、動力(蒸気)の発明で、生産性は飛躍的に向上した。そして、テレビを利用した、広告効果は、資本を集約し、その過程で、組織を管理するための間接人員を増大させました。管理部門の労働者を選別するための、東京大学を頂点とする学歴社会は、高度成長に大きく貢献しましたが、情報処理技術の進歩は、この間接部門をリストラすることを意味します。米国はこのリストラで、生産性において日本を抜き返しました。
 
(二) 情報通信手段  information communication

 テレビの登場で、資本は、広告という媒体を利用して、市場の拡大と資本の統合を進めた。テレビは、限られた枠のなかで、情報を発信していたから、そのメディアに携わる者と利用する者は、一般大衆との賃金格差をひろげていきます。
このような歴史的背景から、インターネットの登場は、テレビジョンが送信する権利が限られたチャンネルしかなかった時代から、誰でもが、廉価なコストと設備で、音声と映像の情報をリアルタイムに情報をやり取りすることを可能にするでしょう。
いままで、情報を蓄積し判断する人間は、移動することで、情報をやり取りしていましたが、インターネットは、人間が移動することなく、情報を交換することを実現し、資本の集約に大きな影響のある広告のコストを削減します。
 
(三) 遺伝子情報技術 genetic information technology

 そして情報遺伝子工学は、医療に分野で人類に大きく貢献するものですが、反面、倫理面で難しい選択を迫られることになり、使い方によっては、核兵器以上に危険なものであることを認識なければならないでしょう。 


7 インターネットが革命である理由  

 先日、テレビで銀行が、担保偏重の融資から、事業性にたいする融資に取り組みだしたと報道していました。日本の銀行は、間接金融としての銀行業務は、民間では無理と考えていただけに驚きです。しかし、その事業を査定する能力と基準が問題です。長年、担保があるかないかを基準に融資を決めていた日本の銀行員は、バランスシートさえ読めないのは周知の事実だからです。そのような彼らに、事業の将来性など判断できるのでしょうか。

 おそらく、彼らの融資の判断基準は、従来型の急成長企業としてのキーポイントである、多店舗展開による売上増ではないでしょうか。店舗の不動産を担保に融資を引き出し出店をし、またその店舗を担保に融資を引き出す。このビジネスモデルは、そごうやマイカルの倒産で、マネーゲームであることが判明しても、その売上による集金能力の拡大を、ビジネスモデルの基本としているのが、ユニクロなどの企業を、ビジネスモデルの最先端としている今の経済界を俳諧するエコノミストの意見が主流であります。

 大量生産によるコストダウンによる低価格商品を、大量に販売することを至上命題とし、売上増のための融資が銀行の目的となっています。個人事業者が減少し、コンビニでみられるチェーン店ばかりが増え続けている現状も、このビジネスモデルを基本としているからであり、チェーン店というシステムは、企業が、資本と労働力を負担せずにリスクなしで販売網を広げていて、企業と雇用者という枠から一歩もでていない現実があります。情報も物も人も、一点に集まる求心力が、ビジネスモデルであることは、なんら変わっていません。

 情報と物と人が集めることが、経済を繁栄させるものであり、そのために交通インフラを整備して、情報と物と人が集まれる環境作り、つまり都市の構築が、経済成長のキーポイントでありました。その中でも、情報が消費を促進させる潤滑油になり、この潤滑油である、戦後のテレビメディアによる広告は消費の支配権を握りました。その支配権を求めて、資本の寡占化は拍車がかかります。この現象により、ビジネスモデルの基本は、売上増を実現するビジネスに傾斜せざるを得ませんでした。情報は人を媒体として運ばれ、その情報が、消費のための物を要求する。物は人が消費し、人は新しい情報を求める。この連鎖運動が経済であり、その効率を求めた都市を持った国家が、現代の世界の経済を支配しています。

 ことの始まりは情報であり、その情報の媒体である人が動く距離と時間の短縮が、経済と技術の発達の歴史です。情報は、紙の発明から活版印刷へと、文字情報の技術は進歩し、言語による人と人とのコミュニケーションは、交通インフラの進歩をもたらし、それは、コンコルドによって音速を突破する旅客機を持つにいたります。電話とFAXは、言語と文字情報の距離と時間の壁を取り払い、OA革命といわれたのは20年前のことです。それでも、情報の媒体としての人間の役割は、移動することを必要としました。それは、文字や音声、そして映像という情報のすべてを、リアルタイムでやり取りするには情報量が不足していたからです。

 ここで、インターネットが登場します。インターネットは、文字、音、映像という膨大な情報を、相互通信することを可能にするものです。つまり、情報を媒体する人が、移動しなくても、文字、音、映像という膨大な情報をやり取りできるものであり、それは、電話と違って、複数の人とのやり取りを可能としました。人間は、情報の伝達の、距離と時間の壁を取り払ったのです。音速の壁を超える技術に至る、情報伝達のスピード競争は終止符が打たれました。このことが、あの人類が、動力を手に入れた産業革命と同じように、情報の伝達のあり方に対して、既成の制度や価値を根本的に変革する革命的なことであり、このことをIT革命=情報技術革命と呼ぶべきでしょう。

 このようにIT革命を定義すれば、来る社会のあり方が見えてきます。それは、ブラックホールである都市に吸い込まれた情報と物と人は、都市から開放されるということです。都市の発達とともに寡占化された資本も開放されるものであり、その流れを妨げてはいけません。資本と物と人は分散することで、地域経済が発達し、あたらしい経済の需要が生まれるでしょう。その分散した情報と物と人を結びつけるのが交通インフラであり、このインフラ整備の完成度が、経済力を決定します。

 竹中経済相は、生産性の低い産業から生産性の高い産業への労働力の移動を、構造改革と捕らえている節がありますが、これは、構造改革ではなく経済運動の法則でありましょう。いま、日本経済の構造改革は、国税という利権を求める統制経済の流れを断ち切り、市場経済への転換であります。そのために、利権の温床となっている特殊法人を頂点とする官僚シンジケートを解体して、市場経済を硬直化している規制を取り払い、民間の活力を生かした経済環境を作ることです。経済運動の原理原則を謳うことは、改革とは言いません。

 竹中経済相は、日本の経済の将来が見えていないのです。彼は、アメリカが与えた知識を披露することを学問としてきましたが、日本は未来の教科書は、アメリカにも欧州にもないのです。教科書を覚えるだけのエリートの存在は、現代では弊害でしかありません。煮ても焼いても食えない存在なのです。

 まず我々は、IT革命を語る前に、情報と革命の語句の定義付けをしなければなりません。語句の定義を共有化して、インターネットの役割を理解するべきです。ITを新しい産業と位置付けしているのであれば、それは、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命とはなりません。アメリカから入る情報を丸暗記するだけで日本の未来が語ることはできません。

 インターネットが革命的であることを語るには、情報と革命という語句の定義を共有化することは絶対要件です。このとき、日本国憲法にように、語句の解釈による言葉遊びではなく、語句の定義は、解釈するものではなく、ひとつの決まりごとであることを認識しなくてはいけません。この議論の基本ができない政治家やエコノミストは、戦後教育の負の遺産であり、彼らの存在は日本の再生の障害でしかありません。 


8 新日本列島改造論
 
 官僚主導の統制経済は、高度成長をもたらしましたが、資本の寡占が進み、既得権益が経済活動を閉塞し、そして、既得権益を享受する階層と享受できない階層の階層間移動は硬直し、日本経済は活力を失っています。そして、そのはけ口を、諸外国に対しての市場拡大に向かわせるような第二次世界大戦の時代ではありません。といって、ウォール街を中心とした金融システムによるカジノ経済のグローバル経済は、富める者と貧困層の格差を前提としている以上、この経済システムはいずれ崩壊します。WCTの崩壊は、グローバリズム経済への警鐘であり、アメリカの経済システムを、21世紀の日本の経済システムのお手本としてはいけません。

 アメリカのように、カジノ経済で得た資本を国内で消費するという経済のあり方は、対極にある貧困層を抑えきれず、また、国内においても、貧富の格差が広がり、対極にいる貧困層を抑えるようになれば、民主主義は崩壊します。世界第九位の人口を有する日本は、グローバル経済の勝ち組みとして、カジノで得た資本で内需を活性化するのは愚作です。

 そうではなくて、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」が経済であることを再認識して、物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の流れを促進し停滞させないという基本に立ち返るべきではないでしょうか。

 いま日本は小手先の有効需要を追い求めず、内需主導の経済を柱とした、21世紀を睨んだ展望が必要です。そしてその核となるものは、IT=情報技術でありましょう。ただ間違ってはいけないのが、IT=情報技術そのものを有効需要と考えるのではなく、情報技術は、統制経済で行き詰まった経済をリセットし、自由経済にて経済を再構築するという手段として考えるべきなのです。IT=情報技術は、都市部に集中した市場を地方へ拡散します。寡占化した資本は地域ごとの資本へ分散し、資金が利益を生むような経済構造から脱却していくでしょう。

 故田中角栄の日本列島改造論で、日本の物流インフラは高度に整備されましたが、情報は、都市部に集まり、情報を伝達する人間も都市部へ集中しました。人が集まればそこには経済が集中し、都市経済と地方経済の格差は広がりました。日本列島改造で、作られた高度な物流システムは、都市の肥大化を促進させました。そして、皮肉にも、都市部の経済の発達で得られる利潤は、地方の物流インフラへと再投資され、この投資で地方経済が成立していきます。日本は、自由主義経済の面と、統制経済による社会主義的な一面を合わせ持つ特異は国家となっていきます。

 これに対して、情報通信技術は、どのような社会をもたらすのでしょうか。情報技術の発達は、情報の伝達の時間と距離の壁をなくすことを意味しています。これは、いままで、情報は、物流インフラで動いていた為に、情報も人間も都市へ集中し、経済も都市に集中してきました。しかし、情報の伝達の距離と時間の壁がなくなる社会では、情報と人間は都市へ集中する必要がなくなり、地方へ流れ出すことを意味します。それは、地方での自由経済の成立を意味します。経済は消費によった支えられますが、高度な物流インフラは、分散する消費を支える事でしょう。情報技術の進歩は、都市化せずとも、経済が成立していく社会を意味するものではないでしょうか。そして、その経済をささえるのは、高度な物流インフラであるのです。

 また、テレビに独占されていた情報の発信する権利も、インターネットによる情報の発信で、狭い地域への効果的でコストのかからない広告が出来るようになり、資本の寡占に大きな影響をもつテレビ広告の影響を受けなくなるでしょう。テレビは、第二次世界大戦後に登場したもので、この情報通信技術は、経済に広告宣伝の効力をまざまざと見せました。流動資本を求めて軍事力による市場の拡大を求めた経済は、第二次世界大戦で終わり、それ以降は、テレビでの宣伝広告による、市場の開拓と資本による経済支配を求めるようになります。

 資本の寡占化は、テレビという距離と時間を超えた宣伝広告という技術を効果的にするため、資本の寡占化の成長のスピードに拍車を掛けました。ビジネススタイルは、事業の拡大のみに眼が向けられ、事業の拡大とテレビの宣伝広告に投資が行われました。経済は、消費動向を支配する情報を発信するテレビの権利を求めて、資本と人が集まります。この、情報を受信する権利と発信する権利の不平等に誰も気がつきませんでした。

 インターネットは、情報を発信する権利と受信する権利を平等にするものです。いままで、テレビに支配されてきた、情報を発信する権利を開放するものであり、それは、一部の寡占化された資本に支配されてきた経済構造を崩すことができることを意味しています。インターネットは、寡占化した資本が支配する、消費をコントロールするテレビによる宣伝広告を、小資本の事業者でも、廉価な設備で、その宣伝広告ができる環境を手に入れられることを可能しするものであり、ビジネスが、事業の拡大のみに走る経済構造を変えるものとなるでしょう。そして、小さな資本での企業活動が出来る環境の実現は、資本家階層と労働家階層の「階層間移動」の壁をなくし、活力のある経済がよみがえるはずです。

 私達は日本国は、この情報通信技術を使い、都市部への情報の集中から地方へ拡散を実現し、高度な交通インフラを最大限に利用し、物流を都市部への集中から地方へ拡散させます。21世紀は、高度な交通インフラと情報通信インフラによって、経済的に地方自治を確立し、中央集権の国家から決別し、地方分権を確立し道州制を確立させるべきです。

 そして、情報処理技術の進歩は、情報を処理する仕事を機械化することで、国民の経済的な、行政負担を軽減します。これは政府の歳出削減に大きく寄与し、その導入のノウハウは民間で確立しています。また、会社運営がこの技術で、間接人員の少数での運営を可能とすることにより、小規模事業者の増加を促進し、彼らが、地方経済の新しい核となり、新しい経済構造を構築するでしょう。

 また、情報遺伝子工学は、食料計画や医療の分野で人類に大きく貢献するものであることを認識し、この技術を推進していかなくてはいけません。反面、倫理面で、使い方によっては、核兵器以上に危険なものであることを認識し、核被爆国として、核の脅威を世界に伝えつづけていくこととおなじように、この脅威を世界に警鐘をあたえていくことを使命としていかなければなりません。

 故田中角栄首相が提唱した日本列島改造論は、物流のインフラ整備を提唱し、建設・自動車そして家電と日本の基幹産業を巻き込み、技術と経済の高度成長を実現しました。そして、今、コンピュータの進歩は、それまで人間していた、情報の処理の仕事を機械化し、そして、情報を蓄積し判断する能力をもつ人間の移動を、インターネットは、距離と時間の壁をなくします。

 ただ、日本列島改造論が、基幹産業を巻き込んで、有効需要を創出したのとはことなり、情報インフラの整備での有効需要は特定の産業に限定され、日本経済への波及効果はないでしょう。しかし、情報技術革命は、有効需要を作り出すのが目的ではなく、有効需要を導く手段として考えるべきでしょう。そして、高度に寡占化し既得権益で守られたした資本の分散を実現し、既得権益を権力とする政治をリセットするものであるべきです。

 経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれるが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要だとするとき、寡占化した資本の分散と、既得権益を権力とする政治のリセットを、経済の流れのなかで実現することを可能とするのが情報技術です。日本列島改造論が日本の産業構造の根幹を形成したものとするならば、情報技術による、新日本列島改造論は、この産業構造の再構築を提唱し、実現する指針とするものであります。

 情報技術は、技術の進歩ばかりみているのではなく、この技術でなにをするかです。今の日本の政治には、ビジョンがない。私の提唱する新日本列島改造論は、ビジョンとなりえないでしょうか。この意見は、まだ日本の有識者が語ったことではありません。当然、他国での前例も検証もなければ、教科書に書いてある意見でもありません。

 しかし、先ほども書いたように、高度成長期を支えた官僚主導の統制経済は、世界で唯一社会主義経済を成功させた国であります。残念ながら、それは利権社会主義となり、既得権益の横行で、活力とモラルを失うという現実に直面しています。欧米では、社会主義が既得権益を制御できず崩壊しましたが、日本もまた破綻寸前です。

 利権社会主義から脱却し、情報を求めて肥大化する都市化と資本の寡占化を、インターネットによる情報の受発信の権利の開放で、都市部に集まる情報と人、そして資本を分散させ、高度な交通インフラを最大限に生かした地方経済の活性化に日本再生の活路を求めるべきではないでしょうか。 

 
9 インターネットの普及による地域経済の活性化
 
 雇用については、従来の企業の誘致による雇用確保の手法では駄目です。雇用を確保するのではなく雇用機会を確保するのであり、地方で経済活動ができる環境を作り上げ、小規模事業者の増加を促進させなくてはいけません。下記に、小規模事業者のなかの小売業を例として説明します。

 小売業が衰退していった過程は、流通構造の集中化と合理化にありました。輸入大国の日本の流通業界は、商社を通して問屋や市場に商品を集め各小売に卸していましたが、大手資本は、問屋や市場という中間をはぶいて、商社と流通大手とが直結することで、経費の削減などの合理化と、流通資本の寡占化に拍車を掛けました。そして、消費の動向の情報もまた、流通大手と商社に支配されていきます。

つまり、大店舗の進出が地方の商店街に代表される小規模の小売業者を衰退させたのではなく、流通構造のラインからはずされたことにより、消費動向にたいする情報が得られず客足が遠のいたと考えるべきではないでしょうか。大店舗の進出時に既得権益を主張した商店街が、今回のそごうの撤退で、逆の行動をとった事例からみて、消費者の動きは活発であったのに、商店街のような小規模事業者は売れなかったのは情報が重要な要因だったのではないでしょうか。

 それでは、情報技術はこの構造をどう変えようとしているのでしょうか。現在のインターネットビジネスモデルと捕らえられているのが、消費者と生産者を直接リンクすることによって、生産者側は在庫管理の問題や収益構造を改善し、消費者は家にいながらにして何でもそろう社会を近未来としています。

 しかし私は、消費者と生産者がリンクするのではなく、小売業者と生産者がリンクするべきと考えます。地方の小規模事業者でも、インターネット市場が形成されることによって、大手小売業者と対等に情報と商品を仕入れできるようになり、その情報と商品を、各地域で発信して、そして提供すれば、人々は、情報をもとめて、大都市に行く必要もなくなり、人が定着し活気のある市民社会が構築されるでしょう。

 それは、いまの情報を求めて成立する都市での経済中心の社会が、インターネットで、情報伝達の距離と時間がなくなることで人々の都市への移動が変化するということです。都市と地域との情報格差の解消は、地方経済の成立要件となるのではないかという問題提議です。

 具体的には、テレビメディアの広告を求めて、寡占化した流通業の広告宣伝は、WEB広告で地域限定の広告ができるようになり、テレビ広告による宣伝広告の寡占化の意味あいは薄れていくのではないでしょうか。低コストな宣伝広告が、小規模事業者ができるようになれば、限定した地域でもビジネスは成立します。そして小規模事業者の経営は、情報処理技術の発達で、計数的な経営ができるようになるでしょう

 もし消費者と生産者が直接リンクしたならば、消費者は商品を選択するのに大きな労力をとられるか、または、集約化された情報流通ルートで、択一的は商品を選ばされることになります。そして、生産者と消費者を結ぶ流通ルートは、多くの人を支えられず一部の選ばれた人間がその恩得を受けることになるでしょう。そして情報の恩得を受ける側の受けられない側も、厳しく管理される社会となるのです。
 

10 間違ったリストラの概念
 
 雪印、三菱自動車、そして少し前だが東海村の原発事故と、生産現場での致命的なミスが表面化した。いずれの事件も、経営トップは、知らなかったとか、現場での独断専行によるものと、永田町さながらのトカゲの尻尾切りで一見落着としようとしている。しかし、今回の問題の根本の原因は、間違った事業の再構築=リストラにあるのではないでしょうか。

 資本の集中にともない、組織を機能する情報を管理する間接労働者層は肥大した。この間接労働者層の合理化=再構築として、コンピューターが開発された。しかし、これは、物流でいえば、鉄道とおなじで、決まった線区のなかでの情報を処理することであり、構築に多くの費用がかかり、そのランニングコストは莫大であった。そんな中、いわば自動車のように、行動範囲が自由で廉価な設備として、パソコンが登場してきた。パソコンは、プラットホームの考えの登場でその行動範囲は飛躍的に向上した。いわゆるウインドウズの登場である。パソコンの情報処理の特性が、資本の集約化で肥大した間接労働者層を、合理化=再構築する手段としたのが、米国でありいわゆる、リストラである。

 それでは日本のリストラの実態はどうであろうか。まず、情報処理に対する日本の対応は、資本の集約化の過程で肥大化した間接労働者層にはいるため、勤勉な日本人は,競って学力の向上をはかり、それは終身雇用の制度のもと、世界でもトップレベルの組織をつくりました。一九八〇年代からはじまった、アメリカのリストラ=事業の再構築は、バブル崩壊の前後から、取り入れようとしたが、学力(覚えるだけの)こそが、経済の力と信じた国民は、リストラを、すべての労働者層とそれにかわる技術=FAをその意味するところとした。日本版リストラ=首切りである。つまり間接労働者も直接労働者も関係なく、人減らしにはしった。

 結果、世界でトップレベルにあった品質と技術は後退した。このころ,生産現場はその生産性の合理化、生産性を高めるために直線ラインからU字ラインへ、単能工から多能工へとは、熟練工の育成に傾いていたたことを知る人は少ない。日本の部品の調達はその系列の組織で、看板方式を生み出し、部品の品質管理は欧米を追い抜いた。この環境下に、欧米にならいコスト削減の旗印をかかげ、直接労働に従事する層をリストラの名のもと単価の切り下げや熟練工の首切りをしてしまう。日本に系列による産業構造を良しとするわけではないが、ナットひとつでも日々設計変更を繰り返し、その結果が品質の保持または向上にあらわれていたし、また最前線の現場は、単純な作業ほど熟練度で優劣がでることも生産ラインは気づき始めていた。しかしトップからの指令は、コスト削減と人員整理だった。現場は、工程数の削減に必死になったのはいうまでもない。

 それでは本来の目的であった、間接労働に対してはどうだったのだろう。組織を運営するために、資本の増加にともない肥大化した間接労働者層の組織を認識できないいわゆるホワイトカラーと呼ばれる人々は、情報処理技術の存在意義がわからない。パソコンが登場して、リストラの言葉がでてきても、コストとメンテナンスに労力がとられるオフコンの導入に必死だった。結果、間接労働者の人員比率はかわらず、その雇用スタイルが、アウトソーイングに変わっただけだ。本来リストラによる間接人員の削減によって、現場と管理部門の情報の伝達が速くならなければならないのに、日本では、現場と管理部門の距離が離れていく。

 高度成長がもたらしたものは、経済成長ばかりではない。経済を支える技術の進歩ももたらした。とりわけ、品質管理の分野では、学歴社会による平均値の均質化した労働力によって、製品や作業工程の品質管理は、世界のトップレベルになっていた。
米国が、情報技術を駆使して、リストラによる生産性を向上させ、日本を抜き返したが、日本は、リストラ=事業の再構築をする部門がわからず、事業全体に眼を向けてしまう。日本の生産現場における品質管理は、コスト削減の名のもと、生産ラインは海外へ流出し、国内に残る付加価値のたかい生産現場も、コスト削減を強いられる。

 知識の量で選別され、試験で振り分けられた労働者の価値は固定のものとしてとらえ、企業は、コストだけでその価値を判断していく。品質管理は、経験で積重ねる知識と技術を持つ労働者が作り上げたものとは認識しない日本がそこにあった。このような社会背景が、雪印や三菱自動車。そしてが東海村の原発事故を誘発したのではないか。そして、問題の本質は、間違ったリストラによるものが根本でなないかと考えざるを得ないのです。

 知識の量で選別され、試験で振り分けられた労働者の価値は、情報処理技術に取って代わります。しかし、経験で積重ねる知識と、技術は人間のほうがすぐれていることに気がつかなくてはいけない。本来勉強の意味は、「学問や技芸を学ぶことであり、ある目的のための修業や経験をすることである」ことを認識し、コンピュータと人間の住み分けを理解するべきではないでしょうか。 
 

11 ブロードバンド社会における社会資本の本質
 
 電子書籍販売を手掛けるインターネット関連ベンチャーのイーブックイニシアティブジャパン(東京都千代田区)は、電子書籍の販売サイト「電子書籍の本屋さん」を開設し本格的なサービスを開始した。通常の一般書籍の半額程度の価格で提供するという。電子書籍では、著作権の切れた作品を中心に無料で、文学作品を提供する「青空文庫」というサイトもある。無料で書籍のデーターを提供することが、経済として成立するのかどうかわかろませんが、書籍や音楽など、インターネットによるビジネスは本格的になるだろうし、情報を紙やCDのような物質に置き換える無駄をなくすことは環境にもプラスに寄与するでしょう。

 ただ、その価格の内容についてですが、書籍の場合は、著作権料と製本代、そして運搬費と販売費などから、販売価格が決められていくが、インターネットによる書籍の価格はどのように構成されるのでしょう。。
 資本主義では、資本が労働力をつかい利潤をあげていきます。資本は自由経済の国家のなかでは、個人のものです。これとは別に社会資本といういうものがあって、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設。道路・港湾・工業用地などの生産関連と,住宅・公園・上下水道などの生活関連に大別されています。
社会資本は、国家のもので、日本は主権は国民にあるのですから、国民のものです。故に社会資本では、特定の人間への利潤を求めてはいけません。。

 それでは、インターネットを利用して、情報を売り買いすることはどうでしょう。情報をインプットする人件費とシステム代はいいとして、ほかに価格を構成するものがあるでしょうか。この情報を売り手に伝えるのは電波であり、人間つまり労働者は介在しない点に着目するべきです。

 次に、電波はだれのものでしょう。電波は、電話、テレビ、そしてインターネットとブロードバンドの時代にはいっています。ケーブルテレビの普及が遅れている日本では、テレビの受信は無料という考えが強いですが、対価を払って受信する時代も近いでしょう。そうであるとすると、電話やテレビやインターネットが、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設とするならば、電波そのものは社会資本といえるのではないでしょうか。

 電波を社会資本とするならば、電波を送信する側が、送信することで利潤をあげるとすると、電波の使用料は当然支払うべきではないでしょうか。なぜなら受信する権利は国民に平等に与えられていますが、送信する権利は、国民の極一部の人間に限定されているからです。電波を社会資本とすると、送信する側と受信する側が対等の立場ではないことは、資本主義経済では不公平なことになるでしょう。社会資本が国家のものであるならば、それを利用して利潤をあげる者は、その資本形成に参加しなくてはいけません。

 たとえば、コニシキというタレントがいますが、彼は、テレビのコマーシャルにでて出演料を収入としていますが、彼の収入は、電波という社会資本を使いその付加価値をつけています。テレビの受信の権利はありますが、発信する権利は万人に与えられるものではありません。テレビのメディアを利用して、付加価値をつけるのはいいのですが、社会資本を使うのであればその資本の形成に参加しなければならないでしょう。

 もう一例、野球選手を例にとりますと、野球選手の年俸は、球場に足を運んでくれた観客の入場券がその原資となります。球場の管理費や、維持費、そして活躍の応じてそれぞれの選手の年俸がきまるはずなのですが、庶民の年収とはるかにかけ離れたいまの、野球選手の年俸も、テレビの放映権なくしては成立しないでしょう。
ということは、野球選手の年俸にも、社会資本である電波をつかって利潤をあげているということにならないでしょうか。そうであれば、彼らは、社会資本の形成に参加しなければならないのではないでしょうか。

 もちろん、NTTの電話回線は、社会資本であり、その管理をNTTに委託するのは構いませんがその権利を、NTT一社に与えるのはおかしいのです。

私は、電話やテレビ、そしてインターネットのインフラは社会資本であると思います。そしてその社会資本を利用して付加価値をつけ収入をえる企業や個人は、その社会資本の形成に参加するべきと考えます。その参加形態は、利用料をとるのか、課税にするのかはわかりませんが、社会資本を利用する経済形態を理解するべきではないでしょうか。
 

12 社会資本の定義と、資本と経営の分離の原則
 
 私は、公営企業の民営化は、以下のような意見を持っています。 

 まず、社会資本と民間資本を区別し、それぞれに自由経済の論理を当てはめる。民間企業でも、資本と経営は分離するべきもので、社会資本もしかりです。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではないでしょう。そうではなく、自由経済における競争原理にもとずく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味と考えています。 

 高速道路をはじめ、住宅公団でも、運営管理能力がないから、いつまでたっても償還ができないのであって、特定財源の考え自体は間違ってはいないと思います。特定財源は利権の温床であり、解体しなければいけませんが、社会資本である高速道路を管理する日本道路公団を民間に渡すのは、不公平になります。特定財源で作られた道路は、国民のものであり、民間に移譲することはできません。 

 そうではなくて、電力、通信、水事業、道路などの社会資本の定義を設定し、社会資本はあくまで国の所有とし、その運営管理を民間にまかせるようにするべきでしょう。所有権者として、国や国民が、そこからでる利潤を求め、その運営を監察するべきでしょう。 

 道路公団は、道路を作ることがその本業のようになり、箱物行政の象徴となっていますが、社会資本で整備したインフラを、民間に譲渡してしまうのではなく、高速道路などの社会資本は国の所有とし、そのインフラを利用して収益を上げる部門の、運営管理を民間に委託するとかんがえられないでしょうか。民間の経営陣には、社会資本での利潤を求め、経営の責任を明確にします。社会資本での利潤は、主権者の国民に平等に分け与えられるものであり、この利潤は、国の安定した財源とするようにできないのでしょうか。 

 これは、通信インフラも同じで、電波を社会資本とするならば、電波を送信する側が、送信することで利潤をあげるとすると、電波の使用料は当然支払うべきではないでしょうか。なぜなら受信する権利は国民に平等に与えられていますが、送信する権利は、国民の極一部の人間に限定されているからです。電波を社会資本とすると、送信する側と受信する側が対等の立場ではないことは、資本主義経済では不公平なことになるでしょう。社会資本が国家のものであるならば、それを利用して利潤をあげる者は、その資本形成に参加しなくてはいけません。 

 私は、高速道路や鉄道の交通インフラや、電話やテレビ、そしてインターネットの通信インフラは社会資本であると思います。そしてその社会資本を利用して付加価値をつけ収入をえる企業や個人は、その社会資本の形成に参加するべきと考えます。その参加形態は、利用料をとるのか、課税にするのかはわかりませんが、社会資本を利用する経済形態を考えることが必要だと考えます。

 社会資本と民間資本を区別し、それぞれに自由経済の論理を当てはめる。民間企業でも、資本と経営は分離するべきもので、社会資本もしかりです。国益を投じて営々と築いた社会資本を、経営上の問題で、資本を民間に投げ売りするべきではないでしょう。そうではなく、自由経済における競争原理にもとずく経営に切り替えることが重要で、これが民営化する意味となります。

 そして、社会資本の株主は、主権者のものであり、日本国では国民が株主です。従って配当は、公平に分けられるものでしょう。経済の発展は、社会資本の配当を上げていき、国民への還元も大きくなるような社会構造をめざすべきではないでしょうか。 

13 退職金は、既得権益

 退職金とは、長年の勤労に対する報償的給与です。報奨金とは、勤労や努力にむくい、それを高く評価することであり、それを対価に換えたものであります。資本主義経済の経済活動で得られる対価は、利潤と賃金であり、この賃金の中に、報奨金があるのは、問題はないのですが、ボーナスに見られる一時金と、退職金ではその性質は異なります。いうまでもなく、退職金とは、長年の勤労に対する報償的給与であり、年金として意味合いが強いものです。年金としての退職金が成立するには、熟練労働者を確保するためのコストは、退職金よりも高くなければいけません。

 人口構造が、ピラミッド型の時代は、年功序列と終身雇用制度を完結するために、退職金制度は必要不可欠でありましたが、それは若年労働者の負担があって成立するのもであり、年金制度的な性格が強かったのです。しかし、人口構造が変化し、若年労働者層の負担による年金制度が不成立となった今、この退職金制度を存続する論拠はありません。

 終身雇用と年功序列が崩壊した現在、この退職金制度だけが取り残されているのはおかしいのです。まして、雇用者層の人工構成が、ピラミッド型から釣鐘型(?)に変化した現在、退職金を支えた若年労働者層の低賃金だけでは支えることはできない現実を直視するべきでしょう。この状況は、公的年金の状況も同じであり、公務員を除く民間企業の若年労働者は、公務員の退職金と、年金を支える為の高い税を負担することは不可能です。

 公務員制度改革で問題点となっている、天下りのシステムは、複数の特殊法人を渡り歩いて高額の退職金を取得するシステムであります。外務官僚の公金横領や、公正文書偽造の犯罪が、内部処分で済まされるのは、日本の司法制度がいかに腐りきっているかを証明するものでありますが、司法官僚を中心に、官僚らが何を守っているのか注視すれば、それは、退職金であることに気がつきます。民間でもこの退職金制度を堅持している所もありますが、これは、労働者の意向よりも、、経営陣の意向が強いと考えるべきでしょう。ここに、経済の原理原則を無視した日本企業の経営の実態が見えきます。

 まして、政府主導の派遣社員のシステムは、民間企業の、正社員の構成比率を押し下げ、退職金は、一部の経営者や、労働者幹部の既得権益となっている現実に気が付かなければなりません。公務員にいたっては、退職金は既得権益であり、官僚シンジケートの解体にともなう合理化は避けて通れず、激しく抵抗するでしょう。しかし、この退職金制度を残せば、官僚シンジケートの組織犯罪を増長させ、経済法則を無視した賃金体系は、民間企業のモラルと活力を奪い、日本経済は立ち直ることはできません。

 高度な民主主義の国家は、年金制度が確立した国家であり、高齢者が安心して暮らせる国家は、社会秩序を維持するためには、必要不可欠です。高度な民主主義の年金制度は、格差があってはならず、厳しい競争社会を維持するためにも、高齢者を支える年金制度は平等でなくてはいけません。

 いまのデフレ経済のなかで、厳しい生産調整のなかでの雇用状況を打破するための、ワークシュアリングを推し進めるべきと考えますが、そうであれば、この退職金制度を存続させることはできません。官業では、この既得権益を求めて、天下りなどの官僚シンジケートが生まれたのだから、この制度の廃止は、なりふり構わない抵抗をするでしょう。しかし、官僚シンジケートによる官僚らのための社会主義国家から、経済活動による利潤と賃金を求める、自由経済を基調とする資本主義国家への転換には、この退職金制度の廃止は、避けては通ることはできません。

 この退職金制度をなくすために、まず、第一段階として、退職金の一時支給をやめて、分割支給へ切り替えるべきです。そして、第二段階として、退職金を年金と改め、公的年金とあわせて年金受給の上限を設ける。この上限は、公的年金を基準に設定して、退職金か公的年金かを選択するようにします。そのかわりに、最低基準を大幅に引き上げをしなければなりませんが、社会秩序の安定と、日本社会のモラルの回復を考えれば、割引現在価値の高い投資となり、経済は成立します。あくまで、基本は、年金は、国民にたいして公平に分配されるものであることを確立させなければなりません。退職金を払う余力がある企業や自治体は、その金を国家の年金制度に参画するべきです。

 このようにすれば、退職金に群がる官僚シンジケートも、主目的がなくなり、退職金という既得権益の求心力ががなくなれば、官僚は烏合の衆となり、集団犯罪をする気も失せることでしょう。そして、格差のない安心な年金生活を実現することは、社会のモラルが確立し、厳しい競争社会を受け入れる素地を生み出すものとなるでしょう。

 民主主義が高度に成長した国家は、健全な年金制度が必要不可欠でありますが、一部の既得権益者が蝕む退職金制度は、年金生活者の格差を生み出します。また、若年労働者の不満を増大させるものでしかなく、このような社会の行き着く先は、モラルを喪失した社会と、暴力と、規制で縛られた社会になるでしょう。

 経済の原理原則が成立しない、報奨金制度=退職金制度は、利権社会主義国家の産物であり、この制度を壊すことは、自由経済の社会の構築に、避けては通れない道であります。高齢で、社会をリタイヤした人々は、公平に保証することを第一義に、年金制度の位置付けをするべきで、将来のビジョンを示さなければ、高額の税負担に若年労働者は納得しないでしょう。

 日本の年金で作り出す社会のビジョンをはっきりさせ、制度を変えていく。この作業が、政治であり、ファイヤーとか掛け声をかけたり、人間性を訴えるだけでは政治は成立しません。政治は、利害を調節するのが主目的であり、8割の国民を満足させなければなりません。官僚シンジケートの解体は、公務員のリストラを伴うものでありますが、きちんとした社会ビジョンを示して、就業者総数の約一割の公務員の抵抗を押さえる事ができるかどうかで、日本の構造改革の成否が決まります。

 9割の就業者層は、1割の官業のために生きるか、高度な民主主義を信じて改革に参加するかどうかを決断しなければなりません。これを理解せず、国民が、日本の再生に関わる政治への参加をしないようであれば、日本の再生はありえません。