前置き
江戸幕府の鎖国政策で、ヨーロッパの植民地化を避けてきた日本は、大政奉還以降、政策を180度代えて、欧米の文化を積極的に取り入れることで、日本国の独立国を維持し列強国の仲間入りを目指します。いわゆる、富国強兵政策です。
この政策は、日本人の高い読み書き能力と勤勉によって、欧米の政治哲学や法制度は、次々と、日本語に書き直され、膨大な政治や制度の知識が日本に持ち込まれました。
しかし、当時の欧米の政治哲学や制度は、歴史的な背景を検証する間もなく日本に導入したために、成文法と判例主義が混在するなど、論理の整合性を無視して知識を取り入れていったのが現状でした。
この時代には、日本の知識人とは、欧米の知識を日本に持ち込むことで評価されました。そして、教育は、欧米の知識を丸暗記することを勉強とし、欧米の新しい知識を求めることが研究となり、新しい知識を日本で紹介することを学問としたのです。
この傾向は21世紀の現代でも変わりが無く続けられ、現代では、日本語で表現される緻密な論理力は失われ、概念ばかりが先行して、論理の崩壊を「解釈」という詭弁でごまかすという行為が常識となってしまいました。
21世紀に登場するインターネットは、情報が求めていた「距離と時間」という壁をゼロにして、情報は、四次元の世界をもたらしました。
この情報社会において、明治以降続けてきた教育と学問体系はなんら意味を持ちません。現代は、論理力が求められる時代であり、他人や他国の論理や知識・制度を枕詞にして、その知識を導入することが、学問ではないし、政治とする時代ではないのです。
今は、政治・経済・文化の基本哲学を論理的に整理して、日本語による緻密な表現で、政治・経済の基礎概念を論理的に再構築し、その整合性を求めるべき時代なのであり、その整合性を求めることで、制度や政策を求める時代まのであり、それが現代の政治なのです。
経済については、マルクス経済を基本に、概念を論理的に整理し、整合性をもとめた結果、新マルクス経済論が出来ましたが、政治に関しても同じ作業が必要であると思います
私は、この命題に日本国憲法を取り上げて行こうと考えました。「憲法とは何か」。この政治哲学を共有しなければ、憲法改正問題は語れないはずです。
以下は、憲法の歴史から入り、政治哲学の論理の整理、そして、民主主義を題材に、政治哲学の基礎概念の論理を再構築して、日本のあるべき政治の姿を突き詰めていきたいと思います。
第一章 憲法議論の迷走
(1) 憲法議論迷走の元凶は日本の憲法学者の存在である
憲法学者の小室直樹氏は「憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法、これらの権力に対する命令が憲法に書かれている」とし、樋口陽一氏は「憲法とは国民を縛るものだというのが、近代憲法が前提としてきた立憲主義である(5月3日の朝日新聞から)」と言います。そして、民主党が提議した改憲の論点は「憲法は何よりもまず、公権力行使のためのルールを定めるものである」としています。
「国民権力を縛る」という表現は、国民に主権があるという観点からみた表現であり、「公権力行使のためのルールというのは、間接民主主義で国会議員という権力構造の側からの表現との違いを表しています。共通するのは、ともに、権力を行使する規範として憲法を捉えていることでしょう。
また、「西欧民主主義の憲法は、国民が権力を縛るという普遍的原理を掲げ、国民一人一人の生き方を指示しないのが原則だ。だから、民族とか固有の文化には言及しない(5月3日の朝日新聞から)」と樋口陽一氏は指摘し、憲法に日本国有の歴史や伝統を書き込むべきとか、国民が守る義務を盛り込んだ規範であるべきという意見を「正反対の意見」だと言います。そして、憲法という概念に正反対の意見があるとして、それを政治選択することが改憲であり、理想の憲法論を開陳することにすぎないと憲法改正の議論を批判しています。
たしかに、国会の憲法調査会のしてきたことは、主張を一方的に述べているだけで、その報告書は意見集に過ぎません。しかし、本来、現行憲法が抱える問題と、その弊害をブレーンストーミングで拾い上げ、それを分析することで、根本的な原因を突き詰めて、その問題を克服するために改憲を論じるという問題解決の手順から言えば、最初に現行憲法が抱える問題とは、「憲法とは何か」という問題そのものではないでしょうか。
「憲法とは何か」という憲法の定義を共有せず、それぞれの定義で改憲論を主張することを議論とし、多数決で政治選択することを民主主義だとする憲法学者の姿勢こそが、今日の憲法議論における迷走の元凶ではないでしょうか。
(2) フランス人権宣言16条
先の樋口陽一氏は、立憲主義が前提とする近代憲法は、国民が権力を縛るものという考え方だと主張していて、その根拠として、フランス人権宣言16条を持ち出しています。
▼ フランス人権宣言16条
「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は,憲法をもつものではない」
日本の憲法学者が、「国民が権力を縛るもの=公権力を行使するための規範」を憲法の大前提とする根拠は、フランス人権宣言16条の「権力分立が定められていないすべての社会は,憲法をもつものではない」とする点からだと推察されます。この根拠から、立憲君主国家のいわゆる欽定憲法は「外見的立憲主義」という表現が生まれて、天皇を君主とする大日本帝国憲法は、外見的立憲主義だとかの、解釈というか詭弁という論理がまかり通っているのでしょう。
しかし、フランス憲法を語る前に、3年早く制定されたアメリカ合衆国憲法には、基本的人権が謳われていないことに注目するべきです。アメリカ合衆国憲法に基本的人権が追加されたのは、フランス市民革命以降であり、フランス憲法の指摘で人権を追加したのです
問題は、当時13の州の連合であったアメリカを、合衆国として権限を集中した中央政府を作るという目的で、アメリカ合衆国憲法が制定された事実であり、当時の権力側からすれば「公権力を行使するための規範」が必要不可欠だったのです。
これに対して、フランス憲法は、市民革命で生まれた憲法であり、主権在民を基本とする国家体制を成文化したもので、国家と国民の関係では基本的人権が、統治では権力の分立が明記され、これを最高規範する法治国家を宣言したものであります。
つまり、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書であるイギリスのマグナカルタのように、アメリカ憲法は、権力行使の権利を、当時の権力側の人々に平等に与えるためのルールであり、統治制度としての法を、アメリカは国の最高法典として憲法としましたが、フランスの人権宣言は、イギリスのマグナカルタを憲法とは区別しているように、アメリカの憲法に異議を唱えたのです。
(3) 憲法と国政
法律には規範としての"法"と制度としての"法"がありますが、不文法の国家では、制度としての法があるだけで、規範としての法律はありません。アメリカ合衆国憲法は、統治制度としての法が成文化されたものであり、これに対して、フランス憲法は、行動や判断の基準としての規範を成文化したものであるという違いは重要です。
不文法の国家の規範たるものは、宗教哲学など普遍的な道徳観であり、徳治主義が政治の根底にある社会と言えます。これに対して、成文法の国家は、普遍的な哲学ではなく、規範としての法である憲法を上位法とし、その下位法と共に、社会を統治する法治主義が政治の根底にあります。
つまり、法治主義を政治とする国では、法制度は成文法であり、国と国民の関係と行動の規範たるものが憲法なのです。そして、徳治主義を政治とする国の法制度は不文法であり、規範たる憲法は存在せず、国の統治システムである制度としての法は、憲法ではなく国制として区別するべきではないでしょうか。
「法治主義」→「成文法」→「憲法」
「徳治主義」→「不文法」→「国制」
(4) アメリカの憲法は国制と呼ぶべき
いまだに貴族院制度があるイギリスは、「国王も法の下に平等である」という原則の上に、王と貴族との間における民主的な主従関係の原則を規定した憲章(マグナカルタ)を持つ国です。イギリスには憲法は存在しません。
共産党という限定された権力階層の中の民主主義である民主集中制は、立憲君主制の変形であり、強力な中央集権で構成される一党独裁の政治形態の国家形態は、きわめて前近代的な立憲君主制であり、統治制度という制度としての法を最高法典とする国政を持つ国です。
市民革命で主権在民を勝ち取ったフランスは、「法の下の平等」の対象となる国民に主権を与え、行動規範となる憲法を最高法典としている典型的な民主国家です。
法治主義による君主国家を「立憲君主制」と言いますが、このような国家では、君主が、国民に与える基本的人権の範囲で、民主主義の度合いが異なってきます。形骸化されたとはいえ天皇制が存続している日本は、立憲君主国であります
日本では、主権を国民に与えているので、基本的人権は憲法で約束されています。この意味で、日本国憲法は成文法ですが、法制度は、判例主義であり、不文法の国家という矛盾があるのです。
アメリカは、判例主義を基本とする不文法の国であり、アメリカ人の基本的人権は、慣習法で認められています。アメリカの憲法は、その生い立ちから、52州の中央政府としての制度を定めたものであり、基本的に憲法というよりは、国制とするべきでしょう。
日本の憲法議論の混迷は、アメリカの国制である制度としての法規範を憲法と訳していて、日本国憲法が、成文法であるにもかかわらず、法制度は、判例主義である不文法であるという矛盾が、解釈と言う詭弁で覆い隠されています。
国家と国民の行動の規範たる憲法は、成文法の国家で生まれ運用されるものであり、不文法を基本とする社会では、制度としての上位法としての国制が運用されるのです。言い換えると、不文法の国では、規範たる憲法は存在しないし、成文法の国では、最高規範である憲法は必要不可欠なのです。
「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という政治哲学は、徳治主義そのものであり、制度としての法を基本に憲法を論じている日本の憲法学者は、王様に裸の服を着せている側近そのものであり、日本の政治哲学は、見えない服と同じで、日本の政治哲学は丸裸の状態なのです。
私は、これを「裸の王様論」と呼んでいますが、見えない服をつくるのが解釈という詭弁であり、それは無責任という既得権益の上に作られる論理なのです。第二章では、政治概念を論理的に再構築し、本物の服をつくる為の布地としての政治哲学を作っていきたいと思います。
第二章 政治哲学の論理的な整理
(1) 国家とは
国家とは、領土・人民・主権という3つの要素からなる集団が、一定の土地と人民に対し排他的な支配権を有している状態を言います。領土拡大の歴史で育った政治的共同体である国家に対して、遺伝子を共通の要素とする集団である民族国家があります。
▼ 国家の三要素
領域(領土、領海、領空)
人民(国民、住民)
主権(権力)
▼ 国家の大分類
政治共同体国家
民族国家
▼ 政治共同体国家の分類
法治主義 (成文法を持ち、規範となる法によって人民を統治する主義。)
徳治主義 (普遍的な哲学(宗教)や道徳により民を治める政治をめざす考え方で、法体系は不文法)
▼ 民族とは
民族とは、共通の出自・言語・宗教・生活様式・居住地などを共有する集団。
(2) 国力とは
国力とは何でしょうか。国力という定義がされなければ、憲法にしても国制も論ずることはできないはずです。
国力とは、経済力、軍事(安全保障)力と、それを支える教育レベルの三つの要素で構成されます。この3つの国力を基本に、国家のビジョンを語るものが憲法であり国制といえるでしょう
経済力に関しては、本来、経済は、国家の介入を受けない経済的社会領域である市民社会において機能するものであり、自由主義が憲法で保障されていれば、下位法の民法で経済は規制される。
民法の基本原理は、所有権絶対の原則、私的自治の原則、過失責任の原則です。この原則を支えているものが、「自由と責任」の概念であり、憲法で保障する基本的人権がその規範となります。
つぎに、軍事(安全保障)力と教育力ですが、これは「権利と義務」の概念がバックボーンとなります。これは物理的な軍事力や、結果論的な教育力ではなく、国家と国民の関係が定義されていれば、国家を守る義務は当然で、それが、懲役なのか納税ではたすの意見は分かれますが、国家が国民を守る義務があるように、国民は国家を守る義務はあるという基本原理を憲法で明記するべきでしょう。
また、教育は受ける権利が国民に等しく与えられているのであり、一定の水準の教育レベルに到達することは国民の義務とすることを憲法に明記することで、国民の教育レベルが、安全保障に関与し、経済の発展にも寄与してくるでしょう。
国力とは、経済力、軍事(安全保障)力と、それを支える教育レベルの三つの要素で構成されます。憲法は、この国力を維持し発展させるというビジョンを持って策定しなければなりません。
(3) 経済(国家と経済)
国家の起源は、もともと、民族という単位で構成される各集団でありますが、経済は、民族という集団の単位を超えて、政治的共同体としての国家という集団を作り上げていきました。経済から生まれる富と財は、集中と集積によって、格差や階級を生み、支配という行動原理が構築されて「権力」となります。
そして、経済で維持される権力は、民族という集団の単位を超えて、政治共同体としての国家を形成されます。国家は、経済から生まれる格差や階級から生まれる権力によって、民族国家を超えて、政治共同企業体としての近代国家を形成してきました。
人間が、他の動物と決定的に違うのは、経済という行動様式を持ったことにあります。人間は、この経済で生まれる財を求め、それを蓄積することで権力が生まれたのです。
「他人を支配し従わせる力」である権力が、他国の蓄財や労働力を奪う行為が戦争であり、政治的共同体である国家を統治する警察は、近代では、軍と区別され組織されています。
現代では、領土拡大を求めた帝国主義から、経済支配を求める覇権主義の時代であり、アメリカは覇権主義の大国です。このアメリカに対して、欧州の経済先進国は、社会主義の崩壊で、独立を勝ち取った東欧の民族主義国家をユーロ経済圏に巻き込み、アメリカの経済支配に対抗しています。
(4) 「自由と責任」と「権利と義務」
自由には責任が、権利には義務が対となっています
自由とは基本的人権の行使を言います。基本的人権は、主権者が国民に与えるものであり、国家形態によって様々です。つまり、君主国家であっても、基本的人権の裁量が大きい国は、民主主義の度合いが強いと言えます。
また、他人の基本的人権を侵害した場合には、刑罰という責任を取らされます。自由とは、基本的人権の範囲の中での自由であり、他人の基本的人権を侵害することを許していません。
権利とは、国家の運営維持のために国民に平等に与えるもので、教育を受ける権利や、社会保障などの権利、また、民主国家場合には参政権などがあり、基本的人権と区別しなければなりません。
また、権利には義務が付帯し、国家の運営維持のために、提供する義務は、納税、懲役などがあります。民主主義の度合いが強い国では、権利の方が義務よりも割合が高く、民主主義の度合いが低い国では、義務の割合が多くなります。
権利の割合が高くなると、衆愚政治に陥り、社会秩序は乱れます、また、義務の割合が高くなると、権力に対する国民の不満が高まり、治安は不安定になります。
(5) 民主主義とは
現代では、アメリカの言う自由とは、不文法(慣習法)で守られた権利の行使であり、機会の平等を自由としています。そして、アメリカの言う民主主義とは、衆愚政治を基本とする間接民主主義を指しています。
徳治主義のアメリカに対して、法治主義の国では、基本的人権の行使を自由と呼び、憲法を規範とする法治主義によって、自由と権利が保障されていることを民主主義といいます。そして、機会の平等や結果の平等は、社会保障の枠内として考えます。
他人の自由を侵害したときの責任の概念が欠如しているアメリカの自由は、他国の主権を侵害しても、自由と民主主義をセットにした間接民主主義を押し付けることに何ら疑問を持ちません。また、キリスト教の哲学の影響を受けているアメリカの慣習法が与えている基本的人権の範囲は、他の宗教、特にイスラム教の国々での基本的人権の範囲と異なりますので、衝突するのは当然と言えば当然でしょう。
私は、徳治主義の国でも、基本的人権の行使を自由とし、他人の基本的人権を侵害した場合には、責任を負わされるという概念は受け入れられると思います。
「民主主義とは、自由と権利が保障されている社会である」と定義することで、法治主義と徳治主義、資本主義と共産主義、そして、宗教の違いを超えて、民主主義という概念が共有することができるはずです。
「自由とは基本的人権の行使である」という定義を共有できれば、「民主主義とは、自由と権利が保障されている社会である」という定義も共有できるでしょう。
(6) 民主主義と政治
大辞林では、政治とは、「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動」また、広義には、「諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合すること」と書いてあります。
国家の主権が限定した国民にある国家では、政治とは「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動」という説明はとても理解しやすいでしょう。 また、権力に関わり合いのある人間の織り成す行動や活動は、国家、地方自治体、企業など、組織の大小にかかわらず、その組織内の人間関係はすべて政治といえるでしょう。
それでは、主権が国民にある民主主義の政治ではどうでしょうか。間接民主主義の中での権力作用に関わる議員が、「諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合すること」を政治とするとはどういうことでしょうか。
権力で争う利害とは権益のことです。民主主義では権利は、国民に等しく与えられていますが、権益は等しく与えられません。つまり、権益は、持つものと持たざる者とに分かれると言う事実です。この権益をめぐる利害の対立を調整・統合することを政治とすれば、権利を持つ既得権益者と非既得権益者の対立が、民主主義での政治の基本構造といえるでしょう。
従来の資本家と労働者階級という対立ではベルリンの壁の崩壊は説明できないが、既得権益者と非既得権益者の対立と考えれば、論理は成立します。また、この対立の概念は、資本主義社会でも社会主義社会でも通用するものです。
(7) 「多数決」と「権利と権益」
民主主義において、権益をめぐる対立の最終決着は多数決です。この多数決で、少数意見を一方的に切り捨てれば、それは「弾圧」であり、逆に、少数派が、多数派の意見を切り捨てれば、それは「独裁」となります。
また、既得権益者側が多数であるときに、非既得権益者の声を無視するのは「差別」であり、少数の既得権益者が、多数の非既得権益者に既得権益を奪われることを「革命」と言います。「弾圧」、「独裁」、「差別」、「革命」は、基本的に権益をめぐる得喪関係で起こるものであり、思想や信条、宗教はその「動機」にすぎません。
政治における「議論」とは、権益を求めて論じ合うことであり、権益の妥協と統合を求めることは重要ですが、それはともに既得権益の側の話である場合に成立する論理です。
非既得権益者側が政治に求めるのは、「機会の平等」「結果の平等」ではないでしょうか。既得権益は経済が成長する段階で生まれますが、やがて、既得権益は「利権」となり、経済の活力とモラルを失い経済を蝕んでいきます。既得権益のリセットは、経済にとって不可欠なのです。
非既得権益者側が政治に求めるのは、「機会の平等」「結果の平等」は、既得権益と対立します。資本主義は、既得権益をリセットすることを求め、非既得権益側の国民もそれを求めます。このリセットを、いかにするかが現代の政治に求められているのです。
既得権益者側が多数のときは、権益の調整や統合が政治となりますが、非既得権益者側が多数になった時の政治は、多数決の原則によって、既得権益のリセットがされるでしょう。
既得権益者側が成長する段階では、既得権益側と非既得権益側の利害は調整できるが、両者の格差が広がり、階級として固定化されたときには、どちらかの権益を排除せざるを得なくなるのです。
権益の調整や統合を政治とする場合には、政治哲学という論理は必要とされませんが、多数決による政治の場合には、スタンスを明確にし、論理的な政治哲学での主張が求められます。
多数決は民主主義の原則であるが故に、きちんとした政治哲学で構成された主張が必要なのであり、非論理的な主張は衝突を生み、民主主義は崩壊します。
第三章 憲法改正
(1)憲法の骨格となる目次を策定しよう
現行憲法の問題点は、第二章で述べた政治概念が体系的に憲法で述べられていないからであり、憲法改正をするならば、これらの政治概念をどのように憲法に反映させるかがポイントとなります。つまり、現行憲法を批判した上で、部分的に改正するという作業では意味がないということです。
私は、憲法の骨格ともいうべき目次を、憲法の定義とか政治概念を盛り込むことを念頭に、策定するのが先決であると思います。
目次が策定されれば、憲法なのか国政とするのか、また、経済は自由主義経済を基本とするのかどうか、政治は間接民主主義とするのかどうか、安全保障政策の基本は、非武装なのかどうか、といった各項目で、それぞれ議論することができます。
以下は、私の提案する憲法の骨格となる目次です。
第1章 最高法規
第2章 天 皇
第3章 安全保障
第4章 自由と責任
第5章 権利と義務
1 教育
2 納税
3 懲役
第6章 統治機構
1 立法
2 内閣
3 司法
4 行政監察
第7章 財 政
第8章 地方自治
第9章 補足
以下では、第2章の天皇制と第3章の安全保章では現行憲法を批判し自論を展開し、第6章の統治機構では「三権分立ではなく四権分立の統治システム」を、第8章の地方自治では「参議院の役割を地方議員へ」という提案をしていきます。
(2) 天皇制
立憲君主制は、民主主義の国家としては前近代的でありますが、日本の天皇制は、英国の王室よりその歴史は長く、世界の歴史の中で、その存在感は特別です。天皇の基本的人権などの問題点はありますが、基本的に、民主主義の基本である主権在民を確立しつつ、君主としての天皇の存在を象徴とするこの第一章には異論はありません。
(3) 戦争放棄について
これは、憲法前文と関連するもので、いいかえれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、国権の発動たる戦争はもとより、武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。従って、陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない」というものです。
つまり、「アメリカの公正と信義に信頼して、日本国民は、安全と生存を保持する国家であり、いかなる、武力の行使を放棄し、その戦力はもたない」ということであり、これを逆手に取り、日米安保政策を取り、経済に国力を集中させた吉田茂の政治決断は、評価するべきでしょう。
但し、交戦権を認めないということは、他国からの侵略に対しては、無抵抗主義の国家であることを意味します。これを、解釈によって、自衛隊を合憲としたり集団自衛権を論じたりすることがナンセンスであることは、小学生の国語力があればすぐにわかることでしょう。
高度経済成長が終わり、ベルリンの壁の崩壊による冷戦の終結で、日米安保による安全保障政策が転換点にある今日、故吉田茂の政治決断を再評価した上で、無為抵抗主義の安全保障がいかに非現実的であるか認識するべき時代に入っています。
国民が無抵抗主義を選択するのもよし、自衛隊を軍隊として、文民統制の整備に議論を集中させるのも良しでしょう。ただ、この憲法9条を解釈という詭弁で運用していくのは、日本国から論理を奪う行為であり看過することはできません。だいいちに、解釈という詭弁が、官僚シンジケートの犯罪の盾となっている現実に注視するべきでしょう。とにもかくにも、論理が成立しないことを「でたらめ」ということを、護憲論者は理解しければなりません
(4) 行政監察を創設して四権分立を確立せよ
国会は、本会議と委員会とがあり、委員会の中で立法作業と関係のないものとして、国家基本政策委員会、予算委員会、決算行政監視委員会、議院運営委員会があります。
A 国家基本政策委員会は、国家の基本政策について内閣総理大臣と野党党首との一対一の討論の場として設置されました。
B 予算委員会は、国の歳入歳出の予算の審査をしますが、その際、内閣総理大臣はじめ全部の国務大臣の出席を求め、国政の全般について各党の代表委員が質疑するのが例になっています。
C 決算行政監視委員会は、衆議院における行政監視機能の充実強化を図るために設置されました。
D 議院運営委員会は、本会議の開会の日取り、その議事の順序、発言者と発言時間その他議院の運営に関するあらゆる事項を協議する重要な任務を持っています。
国家基本政策委員会は、つい最近に設置されたもので、国家の行政に関して議論する場がなかったことは驚くばかりですが、この委員会を特別なものとするのではなく、新しい機関として、三権分立に付け足すべきではないでしょうか。これを、仮に、行政監察と呼ばせていただきます。
三権分立による抑制・均衡というシステムは、欠陥システムであり、立法権と行政権を一体化させ、首相に強力な権限を集中させているのが現実です。立憲君主制ならではのこのような権力融合は、国王の行政権への介入に対抗し、それを封じ込め、首相の強力なリーダーシップで安定的・効果的な政策の実施を可能にさせるものですが、それ自体が巨大権力として暴走するシステムであることは、英国の歴史が証明しています。
いまの、国家の中で、、国家基本政策委員会、予算委員会、決算行政監視委員会、議院運営委員会を、行政監察として独立させ行政監察府を創設するべきです。これは、内閣を抑制し、行政の検察権を独立させることで、司法との均衡をとります。行政に関与する機関を、立法機関から独立させることは、いまの政治システムを混乱させず、導入できるもので現実的といえるでしょう。そして、これは、選挙区の利益誘導に走る政治家に対して、政治家のモラルを呼び起こすものとなるはずです。
(5)参議院の役割を地方議会へ
本来二院制は、民主主義の台頭で、直接選挙によって選ばれる議会に対して、権力側が抑制するために制度化されたものでした。現実に、戦前の日本帝国議会では、イギリスに倣い貴族院がありました。しかし、民主主義が進化した国では、主権者は国民にあり、直接選挙で選ばれた国会議員で構成する、間接民主主義制度で二院制が求められました。
この二院制は、アメリカでは、上院は各州の代表2人ずつの合計100人で構成されていて、中選挙区での選出となっています。これに対して下院は、人口割の435の小選挙区から選ばれています。また、フランスでは、上院は間接選挙で、下院は直接選挙で選ばれていています
アメリカのように、中選挙区と小選挙区の違いで各院に特色を出すのか、または、フランスでは、直接選挙と間接選挙で特色をだすのかという違いがあるのに、日本の二院制は、衆議院の優位性は確立されていて、参議院は、とってつけたような「調査会」ぐらいしかその特色はなく、その存在は実に虚しいものとなっています。
私は、かねてから、参議院の役割を、47の各都道府県各地方議会に委譲することを提案しています。地方の声を国政の中心から求めることは、政治家の視野を狭くするからです。
現行の参院議員の構成議員を地方議会の議員に委ねることで、地域ごとの世論として衆議院を抑制することができるはずです。参議院の議論の場は、地方議会に委託し、その採決はインターネットで永田町と結ぶのです。47の各都道府県が、国政の法案の賛否を論ずることは世論の形成につながるでしょう。
2001/5/24
2003/1/10 改稿
2005/5/5 改稿
2005/5/14 改稿