「第三の道」とIT革命

一 第三の道は、政策モデルであって国政の指針ではない
二 憲法を構成する要素と概念はシンプルであるべきもの
三 第三の道が生まれた土壌は、日本にはない
四 デフレと第三の道
五 今、日本が求めるものは政策ではなく国家システムだ
六 IT革命がもたらすもの
七 まとめ 

1 第三の道は、政策モデルであって、国政の指針ではない

 「第三の道」とは、イギリスが、資本主義の進化の中で、資本の所有を個人のものとし、個人の権利を、特に生存権を国家が与える福祉国家を経験したうえでの、次の社会システムを模索した政策モデルと認識しています。

 日本では、「第三の道」の訳者である佐和隆光氏がこの考えを主張していますが、彼が言うには、その定義の単純化すると、平等を「包摂(inclusion)」と、福祉を「リスクの共同管理」と、再定義しようという主張だそうです。

 「包摂」とは、類概念に種概念が包括される関係、あるいは普遍に特殊が従属する関係。例えば、「哺乳類」という概念は「動物」という概念に包摂されるという概念ですから、平等を包摂するということは、、平等にたいして、権利と義務という概念が従属するという意味でしょうか。

 私は、憲法の改憲論者でありますが、個人と国家の関係は、その主権はだれにあるのか。そして、個人の権利と義務、そして、国家の権利と義務はどうあるべきかを、規定するのが憲法だとかんがえています。個人と権利の相関関係を定義するのが憲法であるとすれば、「平等」にたいして、「権利と義務」という概念が従属するいう、平等を「包摂」と定義する必要はないと考えます。ですから、もし、「包摂」という言葉を使うのであれば、「権利と義務」という概念は、「憲法」という概念に包摂されるとなります。

 次に、福祉を「リスクの共同管理」に関してですが、これは、で、生存の権利の平等を、一律の失業給付として与えた、ヨーロッパ大陸の雇用情勢からきているといえるでしょう。

 第三の道は、雇用機会の平等を福祉としていますが、ここに大きな間違いがあると考えます。それは、雇用ではなく、労働ではないでしょうか。また、労働が罪であると教えられたキリスト教の世界の労働環境のなかでの概念から、雇用=労働を福祉と置き換えて競争原理を促進させようとしているのではないでしょうか。

 私の憲法論でいえば、労働は個人が国家から与えられる権利であり、労働することは国家に対する義務であると考えます。故に、労働する環境を個人にあたえることは国家の義務となります。そして、労働とは、経営者側と雇用者という従属的な関係ではなく、階層間移動のある労働環境での個人をさすものとします。資本での利潤で生活し、労働しないものは、労働する義務をしていないのですから、その見返りとして、納税義務の割合を大きくします。これは相続税にあたります。

 第三の道は、独立した概念ではなく、また、国家の政策の基本となるものではないと考えます。それよりも、国家と個人の物事の大原則となる約束事である憲法に、その概念を求めるべきではないでしょうか。それは、福祉とか平等という概念ではなく、責任と義務という概念だけで構成できると考えます。基本はシンプルであるものだし、そうでなければならないでしょう。


2 憲法を構成する要素と概念はシンプルであるべきもの 

 国家を形成する要素は、教育、安全保障、そして行政システムだと考えます。

 教育は、ライオンの子が、親から生活様式や狩の仕方を教えてもらい、その子孫の存続を図っているように、国家もその存続を第一の目的とするものでしょう。教育は、国家として存続するために、人間が個人として国家を支えるために、絶対要件であります。それは、人間としての情緒と愛情は、親から、そして、社会での生活をするための知識や技術は国家が与えるものだと考えます。さらにいえば、人間としての理性や慣習を子供に与えるのは、国家に属する親の義務であり、知識や技術を与える義務が国家にあると考えます。そして、個人は、国家にたいして、必要最低限の教育を受ける権利を有すると同時に、その権利を遂行する義務を持ちます。

 次に、安全保障に関しては、国家なくして、個人はありえないと考えますので、国家の存続のための安全保障に参加することは、国家にたいして、個人の義務と考えます。国家は、個人の安全を保障することは義務ですから、それを遂行するのに、軍隊をもつのか、無抵抗主義を貫くのか、そして、徴兵制があったり、核の保有の問題があるのです。日本が独立した国家であれば、この問題は避けて通ることは出来ません。まず、安全保障の基本概念を共有したうえで、各論に入るべきでしょう。いまの、憲法第9条の呪縛から抜け出せない論理はナンセンスです。

 そして、行政システムですが、国家と個人の関係で、その主権が誰にあるのかで、国家主義の国家なのか、民主主義の国家なのかその形態はいろいろでしょう。ただ、ひとつ言えるのは、主権者の国家に対する権利と義務があるということです。たとえば、日本は、形式上は、天皇による立憲君主国家ですが、主権は国民にあります。主権者たる国民は、間接民主主義の参加する権利=選挙権を持ち、選んだ政府の行動に責任を持たなければいけません。そして、行政の運営に参加する義務=納税義務を持ちます。個人的には、選挙の権利は遂行する義務があると考えています。

 そして、国家が個人に与える権利に自由があり、それは、法で制御されるものでしょう。 

 話が、憲法論にそれましたが、「権利と義務」という概念は「平等」という概念に包摂されるのではなく、それが憲法に、包摂されると考えると、「第三の道」の定義はあまり意味をなさないのではないかと考えてしまうのです。


3 第三の道が生まれた土壌は、日本にはない

 資本論では、資本主義の行き着くところは、資本は国家の所有物となり、利潤は国民に平等に平等の分配される社会(共産主義)を予測しました。しかし、1989年11月、「ベルリンの壁」の崩壊は、共産主義がユートピアであったという現実を世界に示しました。欧米の自由主義経済の国家では、共産主義の労働者の権利の平等が一人歩きして、それが福祉国家に発展しました。そして、形而上学的には、米国を中心とした方法論的個人主義と、イギリスに代表される方法論的集団主義に分けられたと考えます。

 第三の道は、イギリスで、サッチャーが、方法論的集団主義から、方法論的個人主義に転換して、中央主権による既得権益の構造を解体し、自由経済を導入し、その後に、方法論的個人主義と方法論的集団主義の融和を提唱するブレアの政策の基本となる考えと定義しています。

 この時点で、日本では、共産主義と社会主義は、混在されて使われてたのでないでしょうか。アメリカから強要された、資本主義と民主主義、そして方法論的個人主義は、資本主義の進化の過程で得るものです。これが勉強というもので、それは、修業や経験で得る知識でありましたが、真似することと覚えることが勉強の概念とした、日本の教育は、これをそのまま受け入れてしまいます。

 よって、日本の資本主義の進化はイギリスとは違い、政官財で組織する国家主義による、統制経済を生みだしました。憲法上は、主権は国民にあるとして民主主義国家でありましたが、現実は、主権が官僚に限定されている国家主義でした。国家主義は一方で、支配階級以外の平等化を含んでいるものですから、一般国民は、全員に同じルールを適用すれば、当然、結果も平等になるという方法論的集団主義を与えられました。アメリカから強要された、方法論的個人主義は、学力の低下と日本人が育んできた常識とモラルを失わせるものでしかありませんでした。

 そして、イギリスと決定的に違うのは、日本国民は、統制経済による高度成長経済による、生活レベルの向上に目を奪われ、福祉国家には至らなかったこと。そして、イギリスでは、鉄の女といわれるサッチャーが、官僚による国家主義を解体したことです。私は、「第三の道」に日本の未来を託すには、その社会土壌が違いすぎる為、理念が先行すると考えています。 


4 デフレと第三の道

 インフレでは、需要が供給を上回るため、物価や賃金が高くなり、消費力の減退と、高い賃金水準は、生産力を落とします。結果、需要と供給の格差が広がり、インフレ率として数値化されます。インフレ時の経済対策は、生産力を高めることを主眼におきますから、高い賃金水準での雇用の増大のためのに公共事業を中心とする総需要政策をとります。雇用が増えれば、消費が回復して生産力が高まり、需要と供給のバランスがよくなります。

 デフレでは、供給が需要を上回り、生産調整がはじまります。以前は、在庫調整の段階で、企業倒産が出て恐慌がおきましたが、ジャストインタイム方式の生産方式は、全産業に浸透していて、在庫による影響は低く押さえられています。生産調整が始まると、解雇や、賃金水準が下がり、消費力が後退していきます。供給が下がり、需要が下がる。この一連の運動が、螺旋的に下方に落ちていくのをデフレスパイラルであり、行き着くところは、消費力を失う人々が増大して、貨幣経済で生きることの出来ない人々が増大します。これは社会秩序の崩壊を意味します。

 デフレでの経済対策は、消費を回復させるための、所得の分配率を変え、賃金の引き上げを通じて消費の活性化を求める総需要政策と、賃金水準を下げて、労働機会の公平化を図り、消費力の後退を食い止める方法があります。

 前者の方法は、競争原理を用いて、需要の喚起を呼び起こすものですが、デフレスパイラルを阻止した事例はありません。むしろ、落ちるところまで落ちてからの政策でありましょう。後者の方法は、ワークシェアリングであり、欧米での実績があります。しかし、これは、競争力を阻害して、経済の活力を奪うものであるのも歴史が証明しています。

 英国での第三の道は、インフレの原因である、生産力の落ち込みによる失業者の増大と、、デフレでおきる生産調整で、消費力を落とさない為の、労働機会の公平化による競争原理の喪失を、いかに乗り越えるかの政策モデルであります。

 いまの日本で取るべきデフレ対策は、賃金水準を下げて、雇用機会の均衡をはかり、失業者の増大を食い止めることです。そのためには、赤字国債を原資に、賃金水準を上げ続けている公務員をリストラして、官民の事業で、賃金水準を下げて、ワークシュエアリングによる雇用機会の確保に努めるべきです。賃金水準の引き下げは、官が率先して行わなければなりません。官と民の賃金水準が同じになれば、消費力は持ち直し、そこから、競争原理に基づく経済政策で、需要が盛り返します。

 「失業者に新たな教育をほどこし、厳しい労働移動に備えます」のは、その後にくる、競争原理の回復期でしょう。今は、ワークシュエアリングによる総需要の下支えが必要です。総需要を、資本サイドでみるのは、インフレ時であり、労働者サイドでみるのがデフレ時ではないでしょうか。 

5 今、日本が求めるものは政策ではなくて、国家システムだ

 それよりも、日本の国の経済システムを、資本主義経済としてどうあるべきか。そして、社会システムとして、自由主義となにか。社会主義とはなにかを国民が理解し、どちらかを、選択しなければなりません。ソビエトや東欧の社会主義国が崩壊したのは、既得権益をコントロールできない国家主義の国家であったためであり、この国家は民主主義と対立します。いまの日本は、官僚による国家主義であることを認識して、民主主義とは何かを考えるべきです。

 また、第三の道でいう社会民主主義では、雇用に関しては、福祉国家を実現するため広範囲のサプライ・サイド政策を発展させることを目指していますが、これは、自由経済において弊害ではないと考えます。しかし、従来のケインズ理論では、また既得権益に毒されるだけでしょう。

 そうではなくて、資本を個人資本と社会資本に明確に分けて、それぞれに自由経済のなかで利潤を求めさせます。そして、社会資本の利潤は、国民に還元されるようにするべきです。そして、資本と経営の分離の概念を導入し、社会資本の経営は民間にまかせて競争原理を生かすべきでしょう。

 いまの、市場原理にもとづく社会資本の民営化は、資本も経営もすべて、民間に譲渡しています。しかし、その社会資本を形成したのは、国民の税金であり、その資本の所有権を、限定した第三者に譲渡するのはおかしいでしょう。社会資本の所有者は国民であり、その資本が生み出す利潤は、国民に均等に分け与えられるものでなくてはいけません。自由経済の競争原理は、その経営を民間に託して、実現するべきです。

6 IT革命がもたらすもの

 私は、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりするという意見です。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではないと考えています。

 そして、資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段をもっている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしていますが、資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側と分けるべきではないとする意見です。資本主義のなかで、資本家階級と労働者階級は、、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家であると考えます。

 経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれるが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要です。そして、資本は、寡占していく資本の成長の繰り返しであり、その成長過程で、自由経済と統制経済もまた繰り返すものである。

 そして、問題は統制経済で生まれる既得権益です。既得権益は経済法則では除外できません。既得権益は権力であり、この権力を制御するのが政治となります。権力が制御できず、権力の交代が出来ない世界は独裁国家であり、経済の発展は望めません。また資本家と労働者の階層間移動が、権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立いたします。

 統制経済から生まれる既得権益は、経済を硬直し、民主主義と対立します。これを打開するには、新しい資本の寡占化をはじめなければいけません。しかし、この新しい資本の寡占化を見つけられないとき、政治と経済をリセットすることが必要となるでしょう。このリセットをいかにするか、これが政治に託されると考えます。このリセットを戦争以外の方法で実現できるのが、情報技術でしょう。

 情報処理技術と情報通信技術の進歩は、現在の高度に寡占化された資本をすべて開放し、規制と認可を取り払い自由経済による経済再生をすることが可能と考えます。つまり、日本列島改造論で、日本の物流インフラは高度に整備されました。しかし情報は、都市部に集まり、情報を伝達する人間も都市部へ集中しました。これに対して、情報通信技術は、情報の伝達の時間と距離の壁をなくします。これは、情報も人間も消費も、都市へ集中する必要がなくなり、地方へ流れ出すことを意味します。高度な物流インフラは、分散する消費を支え、都市化せずとも、経済が成立していきます

 また、テレビに独占されていた情報の発信する権利も、インターネットによる情報の発信で、狭い地域への効果的でコストのかからない広告が出来るようになり、資本の寡占に大きな影響をもつテレビ広告の影響を受けなくなるでしょう。小さな資本での企業活動が出来る環境は、資本家階層と労働家階層の、階層間をなくし、活力のある経済がよみがえるでしょう。

 いま日本は小手先の有効需要を追い求めず、内需主導の経済を柱とした、21世紀を睨んだ展望が必要です。そして、IT=情報技術は、それを実現するものであります。それは、IT=情報技術そのものを有効需要と考えるのではなく、情報技術は、統制経済で行き詰まった経済を、リセットし、自由経済にて経済を再構築するということです。IT=情報技術は、都市部に集中した市場を、地方へ拡散します。寡占化した資本は、地域ごとの資本へ分散し、資金が利益を生むような経済構造から脱却していかなくてはいけません。

 そのためには、情報技術が、もたらす社会を認識しなくてはいけません。そしてまず最初に、情報技術がもたらす社会とは、情報技術という新しい産業がおきることではないことを認識なくてはいけないでしょう。情報技術は消費と雇用を創出するものではなく、むしろ雇用においては、マイナスに作用するものでしょう。かりに、経済を打開する新しい産業となりえると仮定しても、もしそうであるならば、支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革とすることを革命というならば、それは、革命とはなりえないからです。

 そうではなくて、現在の産業が、情報技術で、その寡占された資本を開放し、資本家階層と労働家階層の行き来である、階層間移動を活性することが日本の取るべき未来ではないでしょうか。情報技術は、高度の寡占化された資本を開放するものであり、資本家階層と労働家階層の階層間移動が自由に、そして移動の壁をなくすものです。故に、それは、統制経済の要である官僚組織という権力と対峙するものとなり、この実現への道のりは、文字どうり革命となるでしょう。


7 まとめ

 日本人は、いろいろな概念や技術を柔軟にとりいれて、今日の繁栄を築き上げましたが、同時に、すばらしい技術を生み出してきました。概念や論理も同じです。

 第三の道は、政策モデルとしてとらえて、21世紀の日本の社会システムは、資本主義国での先進国である日本に、お手本となるものはないのであり、自らそのシステムを構築しなければいけません。そして、それが、アジアでの日本の果す役割ではないでしょうか。

 2001/03/31 08:42