民主国家と資本主義の基本概念

一 民主国家と資本主義
二 社会主義について
三 市民社会と労働組合
四 政治は、論理的であり、哲学的であるべきだ 

1 民主国家と資本主義

 民主国家とは、人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態であり、主権が国民にある国家である。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す政治形態としても使われています。

 資本主義とは、資本は、生産手段や生産環境を提供しそこから生まれる利潤を求める。労働者は労働力を提供する対価として賃金を受取る。利潤と賃金は貨幣にかわり、労働によって生まれる商品とサービスと交換される。この流れは還流し、経済を構成する。

 この流れは、川と同じで、水が少なければ、水は淀み、大地は乾く。水が多ければ、それを制御するための堤防を築かなければいけない。時には、洪水となり、人間の所有物を奪い取る反面、肥沃な土壌も形成してくれる。

 産業革命以降、経済の歴史は、水不足=デフレや、河川の整備=インフレを繰り返し、洪水=戦争も経験した。武力による市場拡大は、人民の言論や思想の統制を生み出し、民主主義をも押し流した。

 資本主義経済は、第二次大戦のあと自由経済の時代にはいる。テレビメディアの登場で、戦争という市場拡大の方法から宣伝広告という手段で、市場を拡大する方向に転換したことに気がつかなくてはいけない。宣伝広告による消費の促進と市場拡大に走る自由経済は、言論統制や抑制の社会を受け入れない。多種多様な商品を宣伝広告し、その効果をあげるには、言論や表現などの「自由」が必要不可欠だからだ。

 いま、IT革命と叫ばれていますが、民主主義と資本主義において、テレビメディアの役割を論じる者がいない。マルクスは資本主義の内包する矛盾は、戦争によって開放されるとし、資本主義を否定したけれど、統制経済で生まれた既得権益をコントロールすることのできなかった社会主義は崩壊し、戦争でしか矛盾を開放できないとした資本主義は、決定的な破壊をもたらす戦争もなく、自由経済を確立した。これは、近代経済学のおける成果だとし、近代経済学が経済の主流のように考えられているが、市場拡大の方法が、武力から宣伝広告に変わったとのだとは考えられないだろうか。

 民主主義もしかりで、自由なことがいえて、好きなことができる社会を民主主義と取り違えていないだろうか。また、就職することが、国民の義務のようにいわれているが、なぜ、労働者になることがスタンダードになるのだろう。自由は、自由経済が存続するための絶対条件であり、民主主義が勝ち得たものではない。

 民主主義とは、権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態であり、主権が国民にある国家が基本であり、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す政治形態はそれに付随するものではないだろうか。

2 社会主義について

 社会主義とは、マルクス主義において、生産手段の社会的所有が実現され、人々は労働に応じて分配を受けるとされる共産主義の第一段階であり、統制経済のことです。

 このシステムは、既得権益を生み、既得権益を受益する一部の者と、そうでない者とに二極化します。つまり独裁国家主義です。そして、独裁国家主義は一方で、支配階級以外の平等化を含んでいるものです。しかし、既得権益の受益者の欲望は膨張しつづけ、支配階級以外の平等を取り上げ、抑圧と弾圧に変わります。

 また、社会主義は、資本主義の成長過程の一段階であり、経済の基本は資本主義です。資本主義は、経済活動による、利潤と消費を求めますが、既得権益の受益者が求めるのは、国税であり、消費は浪費となります。従って、経済は不成立となり、国家の成立しません。

 社会主義とは、統制経済をさすもので、それは、既得権益を生み出し、それは権力となります。このように定義すれば、日本は社会主義国家であり、支配階級以外の平等化を実現した点では、唯一社会主義国家として成功した国でもあるわけです。しかし、既得権益層の固定化が確立し、非支配階級(非受益者)との経済格差は開きつづけ、非支配階級(非受益者)の平等化ができなくなると、経済も民主主義も崩壊していきます。

 マルクスは、人間の煩悩を、彼の科学的社会主義の論理に組み入れていませんでした。このように考えれば、日本の社会主義も、ベルリンの壁と同じ運命にあるはずです。

 社会主義という言葉が濫用されているのではなく、社会主義という概念のとらえ方の違いでしょう。資本主義と社会主義、民主主義と国家主義、この相関関係を、ばらばらにしてしまうと論理は成立しません。

3 市民社会と労働組合

 資本家階級と労働者階級という、借り物の思想は、日本独自の社会主義社会を構築した。
つまり、小資本の小規模事業者の労働者としての権利を認めず、源泉徴収と引き換えに終身雇用と年功序列を雇用者に一方的に与えた。

 結果はどうであろうか。既得権益の受益者は、資本の寡占化を推し進め、学歴と資格で生涯賃金が決まる社会で、国民は、終身雇用と年功序列の権利をもとめて、大学を目指した。

 そして、バブルの崩壊からのリストラの嵐。資本家階級と労働者階級という、借り物の思想から生まれた、終身雇用と年功序列は崩壊し、目標を失った国民は茫然自失ではないか。

 まして、派遣業務の拡大は、日本版レイオフを現実のものとした。これも、消費税がらみで、政策的に普及させたものであるが、このようなことに対して、労働組会は、何をした。

 既得権益に従属する労働組合は、馬鹿の一つ覚えに賃上げしか要求せず、民間のリストラの嵐を、対岸の火事としてみていてただけではないか。

 日本は、社会主義国家として、世界で唯一成功した国家だ。しかし、民主主義が成熟していない為に、既得権益をコントロールできなかったがゆえに、今日の日本がある。

 いま、資本家と労働者という階級闘争ではなく、市民が国家を構成するという概念であろう。市民は、資本家も、経営者としての間接労働者も、そして直接労働者も、包括するもので、そこに、既得権益層はない。これが、市民社会だ。


4 政治は、論理的であり、哲学的であるべきだ

 このような観点からいまの日本を考えれば、間接民主制による民主主義の政治形態であるはずの日本の政治は、選挙による国民の審判を受けない官僚が政治の中枢にいる現実から、民主国家を形成していない。また、官僚を形成する、学歴と資格で生涯賃金がきまる社会は、官僚を頂点に構築された中央集権国家を形成し、その階層は世襲化している。

 経済は、経済活動による利潤よりも、既得権益で得る貨幣に執心し、国税を既得権益者の間で、還流する経済構造になっているではないか。

 いま日本で言論や表現などの自由があるのは、民主国家であるためではない。資本主義経済の法則によって与えられてものである。もし、資本主義経済が、破綻するとなれば、その自由は必ずなくなる。

 いま、我々日本人は、民主国家とはなにか、資本主義とはなにか、そして自由経済とはなにかを基本に立ち返り考え直さなければいけない。

 ケインズやマルサス、そしてロック・モンテスキューらの先人の論理を学ぶことは大切であるが、そこから新しい理論を構築していくことが進歩であろう。憲法もしかり、敗戦で押し付けられた憲法をなぜ一言一句守らなければいけないのだ。日本人は、自分達の考えと言葉で、論理を構築してはいけないのか。またできないのだろうか。その阻害要因となっている、学歴と資格で生涯賃金がきまる社会から脱却しなければいけない。

 IT革命も同じで、テレビメディアが資本主義に与えた影響を無視するならば、インターネットが、自由経済にあたえる影響を論ずることは出来ない。

 サッカーでもテニスでも、一流の選手は、基本の反復練習を欠かさないと聞いています。
民主主義も、資本主義も、そして情報も、あらゆる概念は、基本の反復を欠かしては真実が見えないでしょう。