教育問題について

 (1) 日本の教育の迷走の社会背景
 (2) 日本の教育の迷走の原因
 (3) 義務教育と家庭教育と社会教育
 (4) 学歴社会は、何故生まれたのか
 (5) 技術と能力の違い
 (6) 日本の教育への提言
 (7) 大学の構造改革で、解決を求める問題とは
 (8) 戦後教育の負の遺産
 (9) 学校教育だけを論じていても仕方がない
(10) 国力の視点から考える教育

(1) 日本の教育の迷走の社会背景

 戦後日本は、民主主義国家となり、主権は国民のものとなりました。国家のための教育は、主権者である国民のための教育になったのです。この時点で、家庭教育は、主権者である国民に委ねられることになり。社会教育またしかりであったはずです。

 民主主義の先進国の欧米は、キリスト教圏であり、共通の倫理観や認識を持っていて、家庭教育にもその倫理観は基本となっています。かれらの民主主義社会では、宗教は慣習法として溶け込み、聖書は家庭教育の基本となっています。 
 しかし日本はどうでしょうか。戦前の天皇を崇拝することを中心に確立した道徳教育は、GHQによって取り上げられ、自由を押し付けられ、教育は平等と協調が基本となりました。明治開国で、廃仏毀釈で崩壊した宗教の復権もなく、日本の宗教は冠婚葬祭の行事を既得権益として企業化しました。

 この状況で日本国民が、よりどころとしたのが、平等主義でした。戦後の荒廃した状況で、自分自身のために働ける権利が、平等に国民に与えられたことは、荒廃した経済の活力とモラルを刺激しました。そしてテレビメディアの登場で、広範囲の広告が打てるようになると、テレビメディアの放映権を求めて、資本の統合が急速に進みました。

 資本の統合や寡占化は、企業の間接労働者層の需要を呼び起こします。この間接労働者を選別するのが、学歴でした。東京大学を頂点とする学歴主義と、終身雇用と年功序列という賃金体系とは、相性がよかったのです。

 戦後の日本は、資本の統合が進み、巨大化していく企業を支える管理組織に従事する労働者、つまり間接労働者の需要の応えて、学校教育は、東京大学を頂点とする教育のピラミッド構造を形成しました。戦後の平等主義は、だれでもが、管理組織の労働者になれる権利を与えられ、国民は、学歴社会を受け入れたのです。

 しかし、それは、学歴社会の振り分けに終始したため、その価値は、いかに多くの知識を持てるかがその基準となり、理解力や応用力は無視され、個別に特化した能力は封印されました。こうして、東京大学と頂点とする学歴社会と、その学歴が生涯賃金がきまる社会の頂点である霞ヶ関の社会構造が出来上がりました。

 戦後日本経済の終身雇用を軸とした企業は、高度成長経済を実現します。優秀な管理組織を有する日本企業は、その生産性において、米国を追い越したのです。しかし1980年代から始まる、パソコンの中心とする情報処理技術の進歩は、米国は、企業の管理部門の合理化を実現し、企業の再構築に成功して、日本は、生産性において米国に追いつかれ追い越されました。

 米国の後追いをする日本企業は、生産性の合理化よりも、生産調整に力点をおき、日本の終身雇用制度と年功序列制度は崩壊しました。かつて、学歴社会で勝ち取った終身雇用と年功序列を基礎とした生活設計は、終身雇用と年功序列の崩壊とともに崩れ去りました。事の事態を飲み込めない大人たちは、行き場を失います。

 この社会構造の転換に気が付かない日本社会は、東大を頂点と教育構造で加熱する受験勉強をさけて、日々の生活態度を重視する内申書重視にかえて推薦入学の枠の拡大をも求めていきます、個性のない先生たちが、個性のある人間を育てようという歪んだ教育が平然をおこなわれているようになります。

 東大と霞ヶ関を頂点とする、学歴と資格で生涯賃金が決まる社会構造が崩壊しつつあるときに、学歴と資格を推薦枠というきわめて主観的な判断で与える社会構造が進行しているのはゆゆしき事態です。なぜなら、主観は、既得権益を生む原因であるからです。「類は友を呼ぶ」の格言のように、既得権益は既得権益を呼び、学歴と資格は、世襲制となっていきます。

 塾などの高い教育費と、お受験に見られる、受験選別の低年齢化。そして、推薦入学を基本とする小学校から大学までの一貫教育など。これらが、既得権益の世襲制を後押ししていて、既得権益層の階層化を進めているのです。

(2) 日本の教育の迷走の原因

 日本国憲法は、国民に、社会の構成員となるすべての者に共通に必要とされる一般的・基礎的な教育を受けさせる義務があります。いわゆる義務教育であり、これは学校教育で教えられる教育です。教育には、家庭教育と学校教育、社会教育に大別されますが、戦後の教育は、学校教育に教育のすべてを求めました。

 権利は与えられるものとした日本国民は、教育も与えられることを望みました。家庭教育も社会教育も国が与えられるものとした国民は、教育の結果には無責任となります。

 何か問題があれば、国民は責任を学校や国にもとめるようになります。これが矛盾していることに国民は気がつかなくてはいけないのではないでしょうか。家庭教育や社会教育は、義務教育を受けた国民の責任と義務であって、国家が国民に与える権利ではないということです。

 家庭教育と社会教育を受ける権利は、国民一人一人の権利であると同時に、家庭教育と社会教育を教えたり、伝えたりする教育の義務も、国民一人一人にあるということです。

 つまり、家庭教育の責任は、親が取り、社会教育の責任は、経済活動に参加する国民全体にその責任があるのではないでしょうか。

(3) 義務教育と家庭教育と社会教育

 義務教育は、国家を形成する国民はその国家のルールを身に付け、その国家で生活する為の義務と権利を理解する教育を受けなければなりません。そして、国民の誰もが、平等に社会参加できる教育を受けるための基礎学力を身に付ける権利と、その学力を有する義務があるのです。そしてその監督責任は国にあります。

 家庭教育とは、人間として社会で生活する規範を理解することであり、子供たちにそれを教えるのは、その親権者の義務であります。子供たちは、躾や生活慣習などを親権者から教えてもらう権利を有していて、同時に、親権者は、子供たちに躾や生活慣習を教える義務があるのです。親権者に義務が生じるでのですから、当然その責任は、親権者が負わなければなりません。

 社会教育とは、経済社会で生活するための技術や知識を伝えていくことです。経験を情報として蓄積し活用できるのは人間だけであることを認識し、国家の活力となる経済を支える教育は、国民の責任と義務なのです。

 職業の自由が保障されている日本では、世代間で伝えられてきた技術や知識を伝承する役割は、企業にあります。企業は、経験で得られる知識や技術を、利潤に変えることが主務ですが、同時にその経験で得られる知識や技術を伝承する行動を援助しなければなりません。この知識や技術を伝承するのは、企業ではなく、国民の義務であり、その義務の遂行を企業は援助するのは、経営側の国民の義務といえるでしょう。

(4) 学歴社会は、何故生まれたのか

 初期の資本主義社会では、資本階級と労働者階級と分けられ、日本でも労働者の育成として、教育勅語を柱に、国民教育が始まりました。資本主義が高度に発達し、生産の集積と独占体がつくり出され、資本輸出が盛んになった段階での日本の帝国主義は、この国民教育によって、ファシズムが生まれました。

 第二次世界大戦後、めざましい経済復興を実現する日本は、工業生産国として、資本主義のグローバル化にともない、資本の寡占化と技術開発の必要性にともない、企業の間接部門の労働者の需要が発生します。

 この需要に国民は、GHQに押し付けられた平等主義のもと、子供達を、東京大学を頂点とする学歴社会によって、この間接労働者への振り分けを託したのです。学問の自由と義務教育は、高校や大学と、序列をつくることで、技術者や、企業管理者、そして、国政管理者へと間接労働者を振り分け、学歴や試験というパスポートを得るために、その競争は過熱しました。

<IT革命の波>

 学歴というパスポートは、年功序列の賃金システムと勤勉さで、生産性において、日本は米国を抜きさります。いわゆる高度成長期です。しかし、コンピューターによる、情報処理作業の合理化は、パソコンの登場で、一気に進み、米国においてのリストラは、間接労働者層の合理化をすすめ、生産性において日本を抜き返したのです。

 学歴社会と年功序列による成功の余韻に酔いしれる日本は、リストラの意味を理解できません。米国の経済の復興に、あわてふためく日本の企業と官僚は、リストラを単なる人員削減と解釈し、生産性の向上を人員削減に求めました。

 情報処理技術の導入にともない、間接労働者を合理化して生産性を高めるリストラを理解できないために、導入する情報処理技術は、ランニングコストのかかるオフコンの導入し終始して、合理化による間接労働の生産性は少しの改善しません。しかも、直接労働者の削減に執心したために、日本の誇っていた品質管理は地に落ちました。

 学歴というパスポートと終身雇用に守られ、平穏に暮らしていた国民は、日本版リストラに戸惑い、絶望していきます。企業も国民も、リストラ=事業の再構築を理解できなかったのは悲劇であるし、まだこの間違いに気がつかないのは絶望的いえるでしょう。

 情報処理技術による間接労働者の合理化は、学歴というパスポートを必要としなくなった時代にはいったのだということに、日本人は気がつかなくてはいけません。

(5) 技術と能力の違い

 年功序列というのは、係長、課長、部長などの役職をさす意味ではありません。これは、経験で得られる知識が報酬と連動するという技術を、年数=経験=技術とする客観的な評価制度です。大工でも旋盤工でも、技術というのは、失敗を繰り返し、同じ作業を繰り返すことで身につくものであり、覚えるものではないのです。

 戦後の高度成長にともなって、企業の間接部門は急速に拡大しましたが、間接部門の技術は、IT革命でコンピューターに吸収されました。リストラは、本来間接労働の生産性を向上するものであったのです。

 現代の合理化された間接労働の対象となるのは営業やマネジメントであり、その評価を数値で表すものが能力です。そして、その能力を客観的に評価するのが、いわゆる学歴や資格制度なのです。

 技術は経験で得る知識を基本であり、能力は覚えた知識が基本となります。前者は、社会教育の中で継承される知識であり、後者は、学校教育で育まれる知識です。この意味で、経験で得る知識の技術と、覚える知識で成果を得る能力とは決定的に違うのです。

 戦後の教育は、経験で得る知識を軽んじて、覚える知識を教育の柱にしました。責任を伴わない自由は、家庭教育を放棄し、経験で得る知識の社会教育は学校教育に埋没したのです。

 結果、家庭教育と社会教育は放棄され、学校教育にすべて押し付けてしまいました。日本人の道徳は崩壊し、技術と能力を一食卓としたマニュアルは技術を単なる労働としてしまい、日本経済のモラルと活力は崩壊したのです。

 技術と能力の違い。技術を客観的に評価する制度としての年功序列と、能力を客観的に評価する学歴や資格制度の違い。この違いをまず認識し、そして共有することで、経済も教育もするべきことが見えてくるのではないでしょうか。

(6) 日本の教育への提言

 いま我々は、「ある目的のための修業や経験をすること」を勉強とするならば、管理者組織を目指す教育を、義務教育の場でもとめないことが肝要でしょう。学問をしたければ、その勉強をし、技術を身に付けたいものはその勉強ができるようにするための基礎学力を養うことを義務教育でもとめるべきです。

 そして、戦後の教育基本法は、義務教育と家庭教育そして社会教育を学校という場に責任を押し付けたところに教育の荒廃の根本原因があるいのではないでしょうか。

 まず、義務教育と家庭教育、そして社会教育を受ける権利は国民に等しくあるということ。そして、家庭教育と社会教育は国民の義務であること明確にしなければなりません。そして経済をささえるのは、学校教育の求める学歴ではなく、経験の積重ねによる知識や技術の修練であることを認識するべきでしょう。そして、経験で得られる知識や技術の大切さを、大人たちが理解して、それを子供達に教えていかなければなりません。

 教育の荒廃は、われわれ大人たちに責任があり、それは、戦後に押し付けられた民主主義に、「権利」と「責任」そして「義務」の概念がなかったことが原因でしょう。家庭教育は親権者の責任であり、義務教育は国の責任。社会教育は、有権者の責任であす。なぜなら主権は国民にあるからです。

 義務教育を受ける権利は平等にありますが、家庭教育に不備がある子供は家庭に返せばいい。同じ年齢で義務教育を修了する必要性はないし、義務教育を修了しないものは、国民の権利を制限すればいいのです。例えれば選挙権などです。そして社会のルールを守れないものは、法律で取り締まる。低年齢の犯罪は、隔離し、義務教育の権利の停止で、きちんと罰則を設ける。

 むずかしい理論よりも、単純な社会システムのほうが、国民もわかりやすいし行政もしやすいのではないでしょうか。

(7) 大学の構造改革で、解決を求める問題とは

 国立大に民間的発想の経営手法を取り入れ、再編・統合を積極的に進めて大幅な削減を目指す文部科学省の「大学の構造改革の方針」が明らかになりました。

 日本の大学は、少子化の影響で、定員割れなどの採算悪化が顕著になっています。少子化という社会構造で、大学の再編・統合、そして、国立大学では、民営化による競争原理の導入は止む得ないでしょう。
 
 私立大学は、一部ではレジャーランド化しても学生の獲得するという、競争主義が導入されていますが、国立大学のリストラクチュアリングは、政府の責任ですすめるべきものであり、その意味では、国立大学の独立行政法人化の流れは正しいと思います。中期目標やその評価システムは、国が管理する大学である以上当然でしょう。問題は、国立大学の運営管理に、官僚が深く関与することの弊害ではないでしょうか。
 
  国立大学の独立法人化に反対するだけでは、ただいまの既得権益を離したくないだけと見られるばかりであり、むしろ、高等教育として行われる大学の事業内容において国立大学の方向性を論じるべきではないでしょうか。
 
 例えば、高度の研究と結びつき研究者としての後継者育成をも意味するような教育なのか、それとも、高度の専門職業人の育成なのか、より大衆化された一般教養としての教育なのか、はたまた、百貨店方式(ユニヴァーシテイ)なのか、専門店方式(単科大学)なのか、という論点を出した上で、今後の国立大学のあり方を主張するべきではないでしょうか。国立大学に対して基本的なビジョンを共有して、少子化という社会構造と、産学協同の大学に対応した議論をするべきであり、藤田氏の論の意図は、自身がいわれているように、まさにそこにあると思います。
 
 供給過剰な大学の現状で、国立大学の淘汰は当然であり、他人の論の感想文を論文として、その数を競いあっているばかりで、何一つオリジナルな発想がなく、また、オリジナルな発想を評価することもできない体質の、いまの大学では、日本の経済や文化は、世界から取り残されてしまいます。今回の独立行政法人化による競争主義の導入は、この閉塞的な日本の学会に風穴入れることになるでしょう。
 
 ただし、国立大学の運営主体を、霞ヶ関に取られることは、学会の公家体質を増長することになり、これだけは阻止せねばなりません。国立大学の評価は、霞ヶ関とは独立した機関の創設が必要でしょう。
 
 それよりも、競争原理を導入して、世界に通用する「トップ三十大学」を育成することを目指すというのが引っかかります。

 日本の教育は、官僚を中心とする縦社会構造の中で、学歴と資格で生涯賃金がきまるシステムでの、選別の手段であったことは先にのべました。しかし、パソコンの登場で、情報処理の仕事は、機械化され、学歴と資格で生涯賃金がきまる社会の労働者はリストラされ、年功序列が崩壊して、この大人たちが、混乱している後姿をみて、子供達の心はすさんんでいることと、学校教育が崩壊は無縁ではないでしょう。
 
 少子化の影響で、大学の進学率は高くなっているけれど、学歴を求めて大学にはいる子供達に、学力を求める方に無理があるのではないでしょうか。また、国家試験さえも、お金で買える社会であり、学歴と資格は、お金と世襲制で手に入れられる社会となってはいないでしょうか。
 
 まず、競争原理を導入すべきは、学歴と資格で生涯賃金がきまる、霞が関を頂点とする官僚社会でありましょう。そして、医師会や、学会、法曹界などであります。それをしないで、大学だけに競争原理を導入して、国立大学の再編・統合による「トップ三十大学」の絞り込むという構想は、学歴と資格の寡占化に拍車をかけるだけではないでしょうか。
 
 それよりも、憲法第23条の「学問の自由は,これを保障する」とするならば、医学部などの特定の学部の学費などの経済格差による就学の格差をなくすべきです。また、入学試験の客観性を強めて、入学試験の多様化などはするべきではないでしょう。
 
日本の国力の源は、「勤勉」であることを自覚し、勉強とは、「ある目的のための修業や経験をする」であり、経験で蓄積する知識があることを理解するべきです。そして、学問とは、一定の原理によって説明し体系化した知識を学ぶことであることを理解し、学問で得た知識を競争社会で活用することで、その価値が求められる社会でなくてはいけないのです。

(8) 戦後教育の負の遺産

 勉強とは、学問や技芸を学ぶことであり、ある目的のための修業や経験をすることです。これに対して、訓練とは、「あることについて教え、それがうまくできるように技術的・身体的練習を継続的に行わせること。」でありましょう。

 教育は、国家としての存続や、安定を求めるための重要な施策です。国民が国家にたいして義務が課せられるのは、一般的には、安全保障の関わる義務と、経済活動に参加する義務。そして、子供たちへの教育=躾の義務であります。

 現在の日本憲法は、国家にたいする国民の義務の明記は何一つない。第26条では「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」としていて、国民である子供に対する義務ではなくて、保護する者に対する教育を受けさせる義務を明記するのみで、国民が義務教育をうける義務を明記していません。そもそも義務教育という定義もされていないのが現実であるけれど、国家と教育の関係をきちんと定義していない所に、この根本的な問題があるのではないでしょうか。

 まず、教育の義務は、国家と、その子女を保護する者と、経済社会に参加する国民にあります。つまり、義務教育、家庭教育、社会教育です。これを分けて定義せず、すべて、国家に教育を押し付けている現実に、国民は気が付かなければいけません。

 その認識に立ち、義務教育を考えれば、日本国民として、社会の構成や仕組みを理解して、それを理解するための、言語や計算などの基本的な約束事を習うと定義してもいいでしょう。そして、前者は、「学問や技芸を学ぶこと」であり勉強でありますが、後者は「あることについて教え、それがうまくできるように技術的・身体的練習を継続的に行わせること。」である訓練です。いまの教育は、この勉強と訓練の意味が混在してしまい、そのどちらも教育として機能していないのが現実ではないでしょうか。

 教育は、家庭教育での「躾」と、義務教育としての「勉強」と「勉強するための訓練」があること。そして、社会教育は、「ある目的のための修業や経験をすること」であり、これを受けさせる義務が、、子女を保護する者と国家、そして、経済活動に参加する国民にあります。

 日本の教育は、勉強を捨てて、訓練のみに走りました。戦前は、軍事訓練であり、戦後は、知識の詰め込みの訓練でありました。戦前の軍事訓練が何を目的とし結果、何をもたらしたかはいうまでもありません。そして、戦後の、知識の詰め込みによる国民の割り振りは、中央集権国家の形成に寄与し、社会主義国家を形成しました。しかし、ベルリンの壁で証明されたように、中央集権国家は一党独裁の専制国家を形成し、利権の暴走を止められません。そして、利潤を求めない経済は、既得権益を求め、経済のモラルと活力は減退するのみです。社会主義経済が崩壊して、資本主義経済の国家を立て直すとき、戦後半世紀にわたる、日本の教育の欠陥は、まさに致命的であります。

 学歴と資格で生涯賃金は決まる社会が生み出すのは、既得権益だけであり、技術の進歩も、モラルや活力は、後退するばかりでしょう。霞ヶ関の宦官官僚の売国奴行為は、外務官僚をはじめ、制御不能であり、この状況は、竹中経済相のような猿真似学者が、永田町を闊歩し、菅直人のような権力を夢見るドン・キホーテが、万年野党を牛耳る政治の世界にも反映していて、この状況は、戦後の教育が生み出した、教育の負の遺産であります。
 
 権利ばかりを主張し、義務を明記していない日本国憲法を、今一度検証し、教育でも、家庭教育、義務教育、そして社会教育の定義をして、勉強と訓練を分けた教育を考えなおすことができないのでしょうか。 

(9) 学校教育だけを論じていても仕方がない 

1 日本人の宗教観
 
 先日、お客様との会話でおもしろい話がありました。その人は、大学で物理学を教えている方でした。てっきり、日本人だと思っていたのですが、国籍はアメリカ国籍で、日本には永住権を持っているということでした。
 
 彼との話の中で興味深かったのが、宗教にたいする意見で、アメリカでは、よくどの宗教ですかと聞かれることがあるのだそうです。そして、無宗教と答える人は信用されないというのです。信ずる宗教がないということは、いわゆる慣習法的な生活論理が見えず、何をするのか警戒してしまうとのことでした。
 
 日本では、どちらの宗派ですかと聞かれると、葬祭を思い起こして、さて自分の家系はどの宗派だったろうかと考え込む人も少なくないのではないでしょうか。盆や法事の行事は大事にするけれど、それは、自分のご先祖や家系を重んじる行動であり、キリスト教やイスラム教のように、宗教が日常生活に入り込んでいるといういう状況ではないでしょう。
 
 「わたしはクリスチャン」ですと聞かれると、とても清廉潔白のような印象を持ちます。そしてイスラム教徒と聞かされれば、厳格な戒律を行動の基本とする人だという印象を持ちます。しかし、日本人の間で、仏教徒と聞かされると、どこそこの会派なのだろうかとか、お寺関係の仕事をされているのかと連想してしまうのではないでしょうか。
 
2 日常の慣習法としての規範となる宗教の存在
 
 私は、教育にたいする持論は、「国民は教育を受ける権利を持つが、教育を行う義務がある」としています。そして、教育は、家庭教育、学校教育、社会教育とに大別されて、慣習を教える家庭教育と、経験で得られる知識を教える社会教育の主体は国民であるとしています。
 
 キリスト教やイスラム教のように、生活慣習のうちで意識され守られている人々の法規範を、宗教に求めるのと違い、日本では、江戸時代からその法規反を儒教に求めました。そして儒教は、今日の道徳の概念に引き継がれています。問題なのは、儒教は儒学であり、神仏などを信じて安らぎの拠り所を求める宗教とは一線を引かなければならないことでしょう。
 
 つまり、欧米やイスラム諸国は、宗教は家庭教育に深く関わっているのですが、日本では、宗教ではなく儒学が家庭教育に入り込んでしまったため、それは、学校教育に組み込まれてしまったと考えているのです。本来、国民の義務である家庭教育は国家に義務を押し付け、慣習法の規範とする概念が曖昧なまま、学校や教師らにその全権を任せてしまったのです。家庭教育の放棄は、社会教育にも波及して、経験で得られる知識は疎んじられ、学校教育で選別された階層ごとに生涯賃金が決まる社会が構築されたのです。結果、経験で得られる知識で支えられていた日本の技術は崩壊したのです。
 
 日本人の曖昧な宗教観は、あらゆる文化を受け入る文化の土壌となったのは評価するべきではありますが、教育に関しては、家庭教育と社会教育の国民の義務を放棄し、学校教育にすべての教育を押し込み、その責任を押し付けた責任は大きいし、また、その学校教育の混乱と堕落は、無気力の日本人を作り出しています。
 
 教育を語るときに、この学校教育ばかり目を向けても問題解決はできません。「国民の教育を受ける権利と、教育を行う義務」という国家と国民の関係を確立しなければ、家庭教育と社会教育のあり方が見えず、学校教育に偏向した社会は、無責任がまかり通る社会となり、モラルは荒廃し日本国民は、烏合の衆となるばかりでしょう。
 
3 年功序列は不合理なシステムではない
 
 まず、「国民の教育を受ける権利と、教育を行う義務」という国家と国民の関係を明確に確立し、慣習法は家庭教育で教えるべき知識であることを周知させることが必要です。そして、学校教育での選別で生涯賃金がきまる社会構造の核である官僚主義の存在を理解するべきでしょう。
 
 その上で、経験で得られる知識が、賃金に反映される経済社会の構築が、日本の経済の礎となる技術を支えるものだということを理解しなければなりません。そうすれば、いまの教育の問題点と、何を変えなければならないのかが見えてきます。
 
 経験で得られる知識こそが技術であり、その技術を伝承するのは国民の義務なのです。そして、それが経済活動の営みのなかで継承されるべきものであることを理解するべきなのでしょう。その意味では、年功序列は決して不合理なシステムではありません。
 
 どんなに立派なマニュアルがあっても、マニュアルからは、創造や問題定義の概念は生まれません。創造や問題定義がなければ技術は停滞します。どんなに科学や生産技術が発達しても、それを支える技術はマニュアルではつくれません。経験で得られる知識を土台とし、科学や生産技術の進歩があるのです。
 
 経験で得られる知識を否定したのは学歴主義です。学歴主義は、覚えた知識の量で人間を選別し、選別した階層ごとに生涯賃金を決めていく社会を作り出しました。そして、霞ヶ関の官僚を頂点とする公務員と民間の給与格差は、日本経済の活力とモラルを蝕んでいます。
 
 官僚を頂点とする学歴で生涯賃金がきまる社会を否定することで、経験で得られる知識の復権がなされるのであり、それが、日本経済の活力とモラルを回復させるでしょう。

4 教育基本法の矛盾点

第3条 (教育の機会均等)

 第3条の1では、教育を受ける機会の平等と、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されないと明記されているにも関わらず、その2では、「経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。」と経済的理由による教育の機会の不平等を肯定している。

 教育をうける機会は平等であるべきであり、教育の結果の平等を求めてはいけません。機会の平等と結果の平等は共存できなからです。そして、機会の平等を、国家が約束するのならば、社会的、経済的な理由で、その機会を奪われてはならないはずです。

 このように考えると、現在の競争主義を否定する教育の流れは、教育基本法に反しているのは明らかであり、試験制度は、機会の平等を保つための有効な制度であるといえるでしょう。また、試験制度を否定することは、社会的、経済的に就学が困難な状況を作り出す原因となっています。


第4条 (義務教育)

 第4条では「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。」と明記されていますが、この普通教育という定義が定かではありません。また、権利と義務の相関関係からいえば、親権者に教育を受けさせる義務があるというよりも、子供たちに対して、義務教育を受ける権利と義務があることを明記するべきではないでしょうか。

 また、「9年の普通教育」というのが、義務教育と学校教育などと一緒くたになっているのは、この第4条で、普通教育と義務教育の定義がなされていないのが原因です。

 だいたい、第3条で、教育を受ける機会は、社会的、経済的な理由で差別しないとしているにもかかわらず、なぜ、第4条の2で、「学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。」という必要があるのでしょうか。これは、私学に配慮した結果でしょうが、明らかに、第3条とは矛盾しています。

第7条(社会教育)

 この第7条では、家庭教育と社会教育は「国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。」と明記されていますが、奨励という概念は、規範や制度とななり得ず、基本法に明記する語句ではありません。

 そうではなく、ここでは、権利と義務の相関関係を明確にするべきであり、家庭教育は、子女の保護者に教育を与える義務があり、子女は、その教育を受ける権利があるとするべきです。また、社会教育は、すべての国民が、一般社会のなかで継承される技術や知識などを、受け継がせる義務があり、また、それを受け継ぐ権利とするべきでしょう

 また、図書館、博物館、公民館等の箱物は、社会教育のインフラでありその目的ではありません。このようなことを基本法に明記することはナンセンスです。

(10) 国力の視点から考える教育

1 教育は国力である

 教育は、国力である。国力は、軍事力、経済力と、それを支える教育のレベルの三つの要素で構成されます。そして、国家を支える教育は、社会のモラルを支える家庭教育、経済の発展に欠かせない科学や、社会秩序を支える思想を支える学校教育、そして、国家の財産である技術を伝承し支える社会教育がその基本要件でありましょう。この分類を明確にせず、教育をすべて子供たちに目を向けているから、日本の教育論は迷走するのです。

 授業時間や、教育方針のあり方ばかりを議論して何の意味があるのでしょうか。授業数が増やそうが減らそうが、教育の目的を論じないで、テクニカルな議論をしても仕方がありません。

 サッカーに例えれば、セットプレーや、高度な戦術は、基本であるサイドキックや、基礎体力があって初めて活きるのであり、メキシコオリンピックで、釜本を有する日本チームが、銅メダルをとった時の、デアバル監督の指導は、基本の繰り返しばかりだったといいます。

 日本の議論が、問題点の根本原因を突き止めず、テクニカルな議論ばかりに終始しているのは、経済、政治、教育に限りません。何を求め、何がその実現を阻害しているのか、この基本的な所が曖昧であれば、その議論は軽薄なものとならざるを得ません。

 与えられた知識をつなぎ合わせるのが議論ではありません。論理を組み立てるのが議論ではないでしょうか。教育に関しても、子供たちだけを対象とした議論に、誰も異を唱えないことこそ問題ではないでしょうか。家庭教育を真剣に考えない、今の大人社会は、学校教育に責任転嫁しているだけです。こんな無責任で責任転嫁しかできない大人社会が、いまの子供たちの学力低下を嘆くなど、笑止千万ではないですか。

 また、国家は、政府(権力者)と国民の義務と権利の相関関係に成立するものですが、この義務と権利の相関関係を、教育にあてはめれば、家庭教育は、親権者とその子供との関係であり、学校教育は、国家と子供、そして、社会教育は、大人社会の国民どうしの関係となります。

 つまり、家庭教育は、親権者が子供に与える義務であり、子供は親権者からの教育を受ける権利を持つ。学校教育は、国家が、定められた年齢の子供たちに、与える権利でありで、子供たちは、それを受ける義務がある。そして、社会教育は、国民は等しく労働する権利があるのと同時で税金を納める義務を持つのと同じように、国民は、仕事にたいする教育を等しく受ける権利があり、雇用者は、その教育を与える義務を持たなければなりません。

 しかるに、現行憲法は、この義務と権利の相関関係が定められていません。論理の成立しない憲法を改正するのは当然でありますが、そんな論理の成立しない憲法は、第九条の呪縛にがんじがらめとなっています。しかし、これ以上、米国に押し付けられた憲法で、日本が蝕むのを黙ってみている訳にはいきません。

 家庭教育、学校教育、社会教育が揃って機能することが、国力になるということを前提に、以下の論に入ります


2 家庭教育、学校教育、社会教育
 

(家庭教育)

 教育は、本来国民に強制されるものであり、大人達がその対象でした。その目的は、社会秩序の安定です。国家は、国民である大人を教育し、大人は、それを家庭の中で子供達に伝える。家庭教育は、慣習法を伝承するともに、社会制度を学ぶ場です。故に、家庭教育における宗教との関わり合いが、権力者と衝突し、または、宗教が権力となるのは、過去の世界の歴史が物語っているのです。

(学校教育)

 この家庭教育にたいして、学問を教える学校教育は、科学や思想を育てる場です。科学や思想を論理的に教えるのは専門的であり、家庭教育に押しとどめず、国民に平等にその機会を与えることが、経済や、社会秩序のための思想を支え、そして発展させてきました。産業革命以降、科学の進歩はめざましく、経済や軍事力を発展させました。そして、経済が支配する世界観の研究は、社会主義社会を登場させ、東西問題や南北問題を経て、いま貧富の格差を前提とした、グローバル経済の社会のあり方という問題に直面しています。

 国家が、さらに科学を進歩させ、そして、グローバリズムが生む貧困の問題を解決するには、科学と思想の、きわめて高い理解力と論理力が必要であり、その基礎を培う学校教育の役割は重要です。

(社会教育)

 また、社会の至るところで業とする、先人達が積み上げた技術は、仕事を通して伝承されるものです。この知識は、経験で得られる知識の積み上げであり、決して机上で会得するものではありません。この技術なり知識の奥深さが、国力となることはいうまでもなく、この技術と知識を基礎として、学校教育の知識が生かされるのです。これを社会教育とすれば、この教育は、国民が継続して学ぶべきものであり、学校教育とは切り離して考えなければなりません。

3 いま、子供たちに必要な教育とは

 これを踏まえて、日本の教育の現状を考えると、教育の主眼は子供達だけに向けられ、家庭教育も社会教育も、すべて学校教育に押し付けているのではないでしょうか。学校教育が求める学力は何なのでしょうか。学校の学力や、先生が評価する人物像のありかたが、日本の国力なのでしょうか。

 そうではないはずです。国力である教育は、家庭教育、学校教育、そして社会教育が、それぞれに関連しあって支えているのです。

 そして、教育には、勉強と訓練の両面があります。勉強とは、学問や技芸を学ぶことであり、ある目的のための修業や経験をすることで、訓練とは、「あることについて教え、それがうまくできるように技術的・身体的練習を継続的に行わせること。」です。

 明治以来の日本の教育は、勉強を捨てて、訓練のみの教育でした。戦前は、軍事訓練であり、戦後は、知識の詰め込みの訓練でありました。戦前の軍事訓練が何を目的とし結果、何をもたらしたかはいうまでもありません。そして、戦後の教育では、知識の詰め込みの訓練が学力と称され、日本型社会主義経済において、労働者の階層化に寄与しました。日本の訓練を中心とした教育は、学歴と資格で生涯賃金が決まる社会をつくりだしたのです。

 経験で得られる知識で培われる技術や伝統を支える社会教育は、学歴と資格で生涯賃金が決まる社会の中で、その存在を否定されました。経験で得られる知識が、賃金に反映されない社会には、新しい技術や思想は生まれません。このような社会は、社会のモラルと活力をなくすばかりです。

 教育というと、ゆとり教育とか、学力の低下とか、テクニカルなことばかりに目を向けていますが、国力から教育を考えるという基本に立ち返ってほしい。そして、このような狭い視野での教育論が跋扈する原因は、日本が「学歴と資格で生涯賃金が得られる社会」であることを理解するべきでしょう。教育を語るとき、この「学歴と資格で生涯賃金が得られる社会」を否定しなければ、何をしても無駄であり、この社会の頂点である官僚主義を駆逐せぬ限り、国力である教育は機能しません。

 子供達に必要なのは、社会のルールやモラルを教える家庭教育と、未来の社会のあり方を支える科学と思想を教える学校教育であり、そして、経験で得られる知識を基本とする社会で働く大人たちの背中ではないでしょうか。

 教育を子供たちだけに向け、それを学校教育に押し付けるだけの教育論ではなく、教育は国力であることを前提に、そのあり方から教育を見つめ直すべきです。このような視点から、私は、家庭教育、学校教育、そして社会教育とに分け、子供たちに必要なのは、教育は、家庭教育と学校教育、そして、経験で得られる知識で働く大人社会の価値を認める社会でなくてはいけません。

 教育問題を語るとき、正すべきは、大人社会のあり方であり、問題の根本原因は、子供たちや教育関係者ではなく、社会構造にあります。 

 
2002年2月18日

2003年3月10日 改稿

2004年4月5日 改稿