橋本さんの映画評論


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映画「TOUCHING THE VOID」

 映画「TOUCHING THE VOID」、日本語タイトル名で「運命を分けたザイル」という映画を観てきた。きっかけは、ある山岳ガイドのホームページで「”死のクレバス”の映画、見ましたか?。今までの山岳映画と違い、嘘が無いですよね。」というブログを読んだからだ。

 この映画の存在は知っていたが、世界中で大ベストセラーを記録したノンフィクション小説「死のクレバス ・アンデス氷壁の遭難」を映画化したものだと知ったのは、映画鑑賞後だった。

 コンピューターグラフィックを駆使したジェットコースターのようなハリウッド映画に辟易していた私は、ドキュメンタリー映画を観ているような臨場感に圧倒された。「嘘が無いですよね。」という映画批評どうり、実際に、舞台となったシウラ・グランデ峰西壁でのロケの迫力は、自分自身がスクリーンの中に入り込んでしまうかのようだった。氷河の中に深く入り込んで撮影したという遭難現場のクレパスのシーンは、スタジオのセットやコンピューターグラフィックでは絶対に表現できない緊迫感がある。

 しかも、主人公であるジョーとサイモンの回顧を中心に物語を進行させ、しかも、その回顧録には、モデルとなったジョーとサイモン本人を登場させるという展開は、ドキュメンタリー監督ならではの趣向であろう。

 しかし、日本での映画タイトルの「運命を分けたザイル」というのは誰がつけたのだろうか。英文では、「TOUCHING THE VOID」であり、英語は得意ではないが「感動させる空間」というような訳で、日本語タイトルの「運命を分けたザイル」というのは、映画鑑賞後大きな違和感が残った。

 物語は、原作者のジョー・シンプソンが、友人のサイモン・イェーツとペルー・アンデスの難峰シウラ・グランデ(6356メートル)西壁の初登攀の話である。登場人物は、ジョーとサイモン。そして、テントキーパーとしてこの登山に参加した旅人のリチャード・ホーキングの三人だ。

 ジョーとサイモンは、バックアップ体制をとらずに、限られられた食料と時間と少人数による登山であるアルパインスタイルで、シウラ・グランデの西壁に登りだした。迫力のあるクライミングシーンに時間が経つのも忘れてスクリーンに釘漬けとなっている間に、彼らは稜線に飛び出した。

 ここでひき返すか、頂上へいくか。ジョーとサイモンは、当初の予定通り、頂上に抜けてからの下山ルートを選んだ。しかし、このルートは、不安定な雪の稜線で危険なルートだった。ジョーが雪屁を踏み抜くなど、生還への不安がよぎる中、ジョーがクライムダウン中に滑落し右足を骨折してしまう。

 バックアップ体制をとらずに、限られらた食料と時間と少人数による登山であるアルパインスタイルでの登山で、足の骨折は死を意味する。絶望的な状況で、サイモンは、雪面を掘り、自分が支点となってジョーをロープで下ろす単独救出を試みる。しかし、下降中にジョーは氷の絶壁で宙吊りとなり、ジョーとサイモンは身動きが取れなくなる。確保の支点となる雪面が崩れだし、このままでは、二人とも滑落する状況となり、サイモンはナイフでロープを切断する。

 ロープを切断されクレパスに落ちたジョーは氷棚に引っかかって一命を取り留めていた。ロープの切断面をみて、孤独感に苦しむジョー。しかし、強靭的な精神力で単独での生還を試みる。クレパスからの奇跡的な脱出をした後も、激痛が走る骨折した足で、這いつくばってのキャンプ地までの下山は、気の遠くなるような距離と作業が待っていた。しかし、ジョーは強靭的な精神力で、自力でベースキャンプ地に辿り着く。

 一人でキャンプに戻ったサイモンは、パートナーとのロープを切断したことに後悔の責に悩まされ、下山せずにキャンプに居つづける。クライマーがパートナーと結ばれたロープを切断することの決断は重い。悲しみと後悔に苦しむサイモン。精神的に憔悴し、さらに指の凍傷を心配するリチャードはサイモンに下山を説得する。そして、明日、下山と決めたその夜に、キャンプ地に辿り着いたジョーとサイモンは再会する。

 ロープを切断した時点でジョーが死んだことを確信しながら、どこか、ジョーの死を受け入れられずに下山できないサイモン。強靭的な精神力でキャンプ地に近づくジョーは、遭難後五日も経っている状況で、サイモンたちが、キャンプを引き払っているのではないかという新たな不安との葛藤。

 原作を読んでいない私は、足を骨折した絶望的な状況の中で、ジョーが自力で生還することは無理と思っていたが、キャンプ地に近づくに連れ、今度は、サイモンたちがキャンプ地にいるのかどうかとても不安になっていた。ジョーは、ロープを切断したことよりも、自分を待っていてくれたサイモンにどれほど感謝したことだろうか。

 私は、ジョーとサイモンは、ロープを切ったことで運命を分けたのではなく、ロープを切断後も、パートナーとの信頼と友情のロープは繋がっていたのだと思う。結果として、ロープを切断する決断と、キャンプ地に居つづけたサイモンの行動がジョーを救った。ロープの切断したことでサイモンは生還し、サイモンがキャンプ地に居つづけたことでジョーの命は救われた。

 このように考えると、日本語タイトルの「運命を分けたザイル」というのは納得できない。彼らは、ロープを切ったことで運命を分けたのではなく、最後まで生還という運命を共有していた。英文のタイトル「TOUCHING THE VOID」は、ロープは切断されたけれども、ジョーとサイモンのパートナーとしての信頼と友情という、心のロープ(ザイル)は切れていなかったことを指しているのだと思う。

 「”死のクレバス”の映画、見ましたか?」と、この映画を紹介した山岳ガイドも、「運命を分けたザイル」という日本語のタイトルに違和感を感じていたのではないだろうか。

2005/04/06


映画「どん底

 ロシア社会の底辺にある人々の生活の悲惨さを表現し、絶望の中で支えとなる幻想を観察した戯曲「どん底」。書いたのは、ロシア革命の時代を生きたロシアの作家ゴーリキイである。

 この戯曲を原作として黒沢明監督が描いた映画「どん底」は、貧しさと絶望、善と悪、そして生と死。この映画には、黒沢明監督のモチーフが凝縮した映画であると思う。

 谷底にある江戸の場末の棟割長屋。映画は、その荒れ果てたこのアバラ屋で、飴売りをする女お滝と、鋳掛屋の留吉の口喧嘩からはじまる。映画は、ここの住人を丹念に紹介していく。病人である留吉の女房のあさ。役者くずれと御家人くずれの男。そして、遊人の喜三郎に夜鷹のおせん。ここまでは、戯曲「ドン底」の時代劇版だ。

 しかし、大家の六兵衛が登場し、映画は、序破急の「破」へ入る。ここからが黒沢映画の見せ場となる。浮気をしている女房を探して長屋に来た大家の六兵衛は鬼のような形相をした守銭奴だ。そして、女房の浮気相手の泥棒の捨吉。そして、性欲を隠そうとはしない女房のお杉は般若面のような形相をしている。さらに、捨吉が思いを寄せるお杉の妹のかよと、かよが連れてきた年老いたお遍路さんの嘉平。

 このお遍路さんの嘉平の、飄々とした人柄は、貧しさと絶望の長屋生活のなかで、希望という一条の光をさしていく。嘉平に看取られて死んでいく鋳掛屋の女房のあさ。そして、この長屋から逃げ出したいと思うお杉の妹とこの女に惚れている泥棒の捨吉を一緒にさせようとする嘉平。そして、台詞を忘れたことを嘆く役者くずれに、記憶を取り戻せる場所があると吹き込む嘉平。絶望しかなかった長屋に、希望という光が広がるかに思えた。

 しかし、妹に捨吉を取られたお杉は、かよを虐めて長屋は大騒ぎとなる。この騒動の最中に、捨吉は、大家を突き飛ばして殺してしまう。

 嘉平はどさくさにまぎれて姿をくらましてしまい、長屋は絶望と希望が消えて、遊人を中心に酒とバクチに明け暮れる。みぞれ降る一夜、長屋の連中が酒に酔って馬鹿囃子の最中、台詞を取り戻すという希望の役者くずれが首を吊った。「折角の踊りをぶちこわしやがって」と遊人の喜三郎は不興げに云うところで映画は終わる。

 夜鷹の幻想や、御家人くずれや役者くずれの記憶は、絶望的な貧しさを支えていたのであり、この支えをなくした役者くずれは生きることを止めた。こここまでは、原作者のゴーリキイの世界だ。

 黒沢明の世界は、大家の殺した捨吉の動機をめぐる、捨吉とお杉、そしてかよの三者三様の主張する場面で開かれる。このシーンは映画「羅生門」をおもわせるもので迫力は十分であり、謎を残す手法は心憎い。そして、なによりも、私は、このお遍路さんは死神だったのではないかと思うのであり、日本の死神伝説を、ゴーリキイの戯曲「どん底」の背後に忍ばせるところが、この映画のポイントではないかと思うのだ。

 鋳掛屋の女房を看取るときも、嘉平は、死ねば苦から解放されると女房を諭したが、女房は、死に際に、死よりも苦の方がいいと死んでいった。かよとともに、どん底から這い上がろうとした捨吉は島送りとなり、生きる希望である記憶を取り戻せると信じた役者くずれも死んでいく。

 大家が、お遍路さんに長屋から出て行けといったのは、強欲な大家であるからこそ、このお遍路さんが死神であることに気が付いていていたのではないだろうか。その証拠に、大家が死に、捨吉が島送りとなり、かよがいなくなった長屋では、厭世的な雰囲気から。楽天的な雰囲気が漂い、あの般若のようなお杉の顔がやさしくなっていたではないか。

 そんな中での役者くずれの自殺は、死神であるお遍路さんの置き土産であり、だからこそ、遊人の「折角の踊りをぶちこわしやがって」という台詞で映画は終わったのであろう。

監督 黒澤明
原作 ゴーリキイ
脚本 小国英雄/黒澤明
製作年 1957年

出演

大家 六兵衛 中村鴈治郎
大家女房 お杉 山田五十鈴
泥棒 捨吉 三船敏郎
お杉の妹 かよ 香川京子
遊人 喜三郎 三井弘次
夜鷹 おせん 根岸明美
飴売り お滝 清川虹子
鋳掛屋 留吉 東野英治郎
鋳掛屋の女房 あさ 三好栄子
役者くずれ 役者 藤原釜足
御家人くずれ 殿様 千秋実
御遍路 嘉平 左卜全

2004/03/09


映画「ピアノ・レッスン」

1993 年 豪
監督: ジェーン・カンピオン
出演: ホリー・ハンター
ハーヴェイ・カイテル
サム・ニール

 面識もない男と再婚するために、小船でニュージーランドの南端の島にやってきた母子。十三歳ぐらいの少女の母親のアダは、理由はわからないが声を失っている。

 海岸に放り出された家財。中でも大きなピアノが波に洗われる。海、波、風、緑の島、ピアノ。観客は、この母子の生い立ちを推測し、これからの運命に思いを馳せざるを得ない。

 夫となるステュアートは、彼女の持ってきたピアノに目もくれない。捨て置かれたピアノがある海岸への道案内を頼まれる原住民の男ベインズ。彼は、海岸でピアノを弾くアダに心の動揺を隠せない。

 ベインズは、海岸から自宅にピアノを運び入れ、ステュアートに、このピアノと自分の土地と交換することを申し出る。条件は、アダにピアノのレッスンをしてもらうことだった。

 ベインズは、アダにピアノを弾かせるだけで自分で鍵盤に触れようとはしない。彼は、鍵盤のキーを通貨代わりにして、ピアノの所有権を切り売りすることで、彼女に対するセクシャル-ハラスメントを求めた。

 ベインズの欲情的な眼が、ピアノを弾くアダに降り注がれる。キーを取引条件にエスカレートするセクシャル-ハラスメント。

 アダを全裸にして横たわせるなど、アダに対するベインズの性的欲情が限界に達したとき、彼は自虐の念から、契約を放棄してピアノをアダに譲り渡す。

 しかし、ピアノを取り返したアダは、ピアノを弾こうとしない。アダはベインズの元へ。二人は性欲の赴くままに裸体を重ね合わせた。

 映画は、この不倫を知ったステュアートが、嫉妬のあまりアダの指を斧で切断し、ベインズに銃を突きつけ、アダとともにこの島を追い出す。

 ベインズとの不倫以降、アダは、夫の体を求めるが、それを拒否するステュアート。火照ったアダの肉体は、アダをベインズの元に走らせた。声を失ったアダにとってピアノは自己表現の手段であったが、声のかわりとなるのはSEXであり、SEX=愛であったのか。

 性欲の赴くままに愛を表現するベインズと、子宮で愛を感じ取るアダ。そして、動物的な性を否定するステュアート。この映画は、アダという女の「性」と「業」。そして、カトリックに対する強烈なメッセージを感じた。

 僕の人生の中に、アダと同じように、女の「性」を曝け出し、「業」の中に消えた女性がいた。ベインズと重ね合わさる自分に、驚愕する自分がいる。

2004/02/27


映画「半落ち」

監督: 佐々部 清
出演: 寺尾聰/柴田恭兵/原田美枝子/吉岡秀隆/鶴田真由/伊原剛志/國村隼/高島礼子/奈良岡朋子/樹木希林
配給: 東映

 今日、母と、映画「半落ち」を観てきた。「男はなぜ、あと1年だけ、生きる決心をしたのか−?」というキャッチコピーの映画だ。

 アルツハイマー病の妻を殺した後の二日間の行動をめぐり、様々な人間模様が繰り広げられる映画であるが、妻を殺した男が「あと一年生きたい」とするシーンはどこにあったのだろうか。

 むしろ、最愛の妻を殺した理由と、その最愛の妻を失っても生きる道を選んだその理由として、「あなたは誰のために生きていますか」という台詞のほうが、この映画の中で、存在感があったように思う。

 骨髄の移植を受けられずに死んでいった息子と、自分の骨髄を移植して元気に生きている少年に、夫婦の証を追い求めていた妻、という構図がスクリーンに滲み出てくるような映画構成に、この映画のすべてがあるのではないだろうか。

 白血病で息子を失い、アルツハイマー病で息子の記憶を失っていく妻に、2重の苦しみを与えることを不憫に思った男が妻を殺す。そして、自分も死のうとしたときに、夫の骨髄を移植した少年に夫婦の証を追い求めていた妻の日記を見つけてしまう。

 男はその少年に会うことで空白の2日間を作るわけだが、男が51歳で死ぬという理由が、51歳でドナー登録から抹消されるまでこの少年との絆をもちたかたったからなのか、少年に病気が再発したときに再び骨髄を移植するためにあと一年生きようと決心したのか。ただ、検事や弁護士が、この男の自殺願望を見抜いていたという筋書きは少し無理があったのではないかと思う。

 しかし、アルツハイマー病と骨髄移植、そして、息子の死と、妻の殺害、そして、殺害後の空白の2時間というそれぞれの糸が、時間の経過とともに解きほぐれる様は、派手なシーンで観客を繋ぎ止めるアメリカ映画などよりも緊張感があった。

 主演者は、妻を殺した男の寺尾聰は、もちろん、取り調べた刑事役の柴田恭兵、検事役の伊原剛志、そして、映画の”溜め”のシーンでその存在感を見せた、西田敏行や高島礼子など、何回も見たくなるような映画になるのは間違いないだろう。

2004/02/06


映画「壬生義士伝」をみて

監督 : 滝田洋二郎
原作 : 浅田次郎
音楽 : 久石譲
出演 : 中井貴一
佐藤浩市
三宅裕司
中谷美紀
夏川結衣


昨年の1月と12月と、テレビの新世紀ワイド時代劇で渡辺謙主役の「壬生義士伝」をみていて、吉村貫一郎役の渡辺謙はもちろん、大野次郎右衛門役の内藤剛志と土方歳三役の伊原剛志の印象が強く残っている中で、映画「壬生義士伝」を観るにあたり、そのイメージが重ならないか心配だった。

 特に、中井貴一と佐藤浩一の二人に期待していた、映画「壬生義士伝」で佐藤浩市が演じる斎藤一のイメージが、テレビドラマの斎藤一役の癖の強い演技をする竹中直人のイメージが強く残っていて、映画が始まるまで、竹中直人のイメージが離れなかった。

 しかし、映画の構成が、明治時代から入り、維新の動乱期を生き残った斎藤一と大野次郎右衛門の息子(名前が出てこない)の回想を中心の物語を構成するという入りだしから、完全にスクリーンにくぎ付けになった。中井貴一も、佐藤浩市も、スクリーンにおける存在感は素晴らしい。

 映画は、吉村貫一朗が、官軍に刀で突撃していくシーンで終わるのかと思っていたが、大阪の南部藩邸で、大野次郎右衛門に切腹をさせられるシーンや、吉村貫一朗の息子の嘉一郎と、大野次郎右衛門の息子の分かれのシーンと続くのを見ていて、この映画では、当時の身分制度というものが大きなテーマの一つだったのかと感じた

 金をかせぐために、脱藩してまでも家族のために生きた吉村貫一朗が、最後は「義」のために無謀な突撃をする。そして大阪の南部藩邸での最後も、大野次郎右衛門と吉村貫一朗との間には歴然たる身分の違いがあり、吉村貫一郎は、誰もみとられずに切腹をする。そして、その息子の嘉一郎は、親の脱藩の汚名を一身に背負い、南部武士をまっとうする覚悟で、幕府軍に加わり五稜郭で戦死する。

 吉村親子と、大野親子の間に歴然とあるどうしようもない身分の違い。この身分の存在と武士という階級社会のしがらみ。この映画は、与えられた身分や制度という社会から脱却できない日本人を、現代社会にダブらせて描いているのではないでしょうか。


2002/02/01



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