議員活動を支えるのは個人献金という税金で |
- 日時: 2004/01/14 15:31
- 名前: hashimoto
- 1 議員活動はNPO法に準ずるべき
国会議員を政党のコマとする政党助成金や、秘書という既得権益と国会議員の世襲制をささえる政策秘書制度、さらに、年に三回のボーナスから、議員退職金など、霞ヶ関の官僚主義に対峙する国会議員が、自らの既得権益にメスを入れなければ、政治と国民の乖離は離れるばかりでしょう。
そもそも議員は「篤志家」であるべきですが、その行動が、無報酬であればその職業は、特権階級のものになるでしょう。なぜなら、そうであれば、被選挙権が、労働所得で生活する一般市民ではなく、不労所得の人々だけの権利となるからです。法の下の平等の概念からすれば、篤志の行為は、無報酬で行われる奉仕とは区別しなければならず、この違いを明確にしないかぎり、議員のごっつあん体質はなくならず、政治と金の問題はなくならないでしょう。
主権が国民にある民主主義の社会では、篤志の行動に報酬があるべきであると同時に、その行動で利益を求めてはいけません。それは、利益を求めれば、斡旋利得が合法化されて議会制民主主義は崩壊します。利益を求めない活動であり、無報酬ではない活動は、まさしくNPOの概念であり、政治活動はNPOの代表する業種であるはずです
しかし、日本のNPO法は、その対象業種が限定されているのもおかしいのですが、この中に議員活動が入っていないことが決定的におかしいと言わざるを得ません。NPO法の作成の段階で、政治活動を社会事業活動としなかった国会議員の論理力にはあきれるばかりであり、「篤志」と「奉仕」をごちゃ混ぜにするボランティアという概念は間違っています。
政治は経済活動を基本に考えなければならず、無報酬の活動で社会が成立するならば、その国家は共産主義でなくてはならないでしょう。議員活動は法人組織でするべきであり、それはNPO法に準するべきです。
2 選挙という権利と、献金という義務
また、選挙によって選ばれる議員は、その報酬は国民が負担するものですが、その負担率は一定ではありません。こんがらがった糸のような議員の報酬形態は、議員を選ぶのは国民であるのに、その活動を支えるのが人以外に権利能力をもつ法人や国家であるからではないでしょうか。この意味で、現在の政党助成金はナンセンス以外のなにものでもありません。だいたい、本来約款などで権利能力が制限されている法人が、政治に関与できるはずがないのに、企業献金が日本の政治を支えているのはおかしいのです。
私は政党の活動は別として、議員活動の負担は、国民が平等に負担するべきであると思います。なぜなら、国民の権利として選挙権が与えられているのですから、その選挙で選ばれた議員の活動は、国民が負担するのは当然であり、選挙権という「権利」にたいして、議員一人一人の政治活動の資金の負担は国民の「義務」であると考えるのです。この意味で、献金は個人献金でしか成立しえないといえるでしょう。
このような基本概念にしたがい、議員活動のシステムを考えると、まず、議員活動にいくら必要であり、納税者一人当たりいくら負担すればいいのかという話になります。
たとえば、国会議員の場合、議員事務所を統括する事務所責任者と財務責任者、そして、議員の秘書と事務員、そして政策スタッフの人件費と事務所などの諸経費を総経費とします。仮に、スタッフの総数を最低8人として、平均年収700万で人件費が年に5600万円。事務所などの諸経費が、月に200万として年に2400万円。議員の報酬を2000万として計年1億円とします。衆参の議員の総数は726人ですから、総額は726億円。これを、納税者数で割ると、約6500万人(?)として、一人当たりの負担額は約1100円となります。
これは国会議員活動の負担額ですが、これに、県議会議員や市町村議会の議員も分も合わせた額が、政治に参加する権利にともなう国民の負担額となります。この額を単純に税金として徴収すればいいのであり、税金に内訳として明細を国民に告知することで、政治に対する関心も高まるのではないでしょうか。
もちろん選挙などにはお金がかかりますが、これは、個人献金を中心に構成するものであり、選挙活動と議員活動を一緒にしてはならないし、会計上もきちんと区分けするべきでしょう。このように、政治活動の定義をして、自由経済のルールに従い、NPO法人としての議員活動を考えればいいのです。
3 馬鹿が国会議員として大手を振って歩く社会
いまの政治の議論は、このような定義をしないから、議員の世襲制を補完する政策制度や、議員を一つの駒とする政党助成金などの御都合主義の民主主義を踏みにじるような制度や法ができるのであり、このような事しか考えられない今の永田町は、政治哲学や論理力が欠如した、馬鹿の集まりでしかありません。
いきあたりばったりの政策の政治ごっこをするべきではありません。問題解決の基本は、まず現状を把握し、その根本原因を特定して、その対処策を作ることです。松下政経塾をはじめ、いまの政治家は、対処策ばかりを論じていて、政治の基本概念を議論することができません。教科書を覚える事が勉強だと教え込まれた日本の教育には、論理力は不用であり、それは、協調性を妨げるものでしかなかったからです。
論理力をもたないというのは馬鹿であるということなのに、他人の知識をみせびらかすことが知識人とする日本の風潮は、馬鹿が国会議員として大手を振って歩く社会にしてしまいました。アンデルセンではありませんが、市民が彼らの馬鹿さぶりを指摘してあげないと、彼らの馬鹿ぶりは世界に晒されつづけて、日本国民全体が世界から馬鹿にされることになるでしょう。
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