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ナンセンスな日本の労働法
日時: 2006/09/02 22:26
名前: hashimoto masahiro

(1)権利と義務は対義語です

 権利と義務は対義語であると考えると、憲法二十七条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」という条文は矛盾していることがわかると思います。

 そもそも、勤労と労働を区別していないことが根本的に間違っていて、立憲君主国家では勤労は義務であるが、労働を義務とすればそれは全体主義につながるのであり、民主主義国家では、労働を権利としても、間違っても義務とすることはできません。

 資本主義における民主国家としての憲法に労働を定義するならば、「すべて国民は、労働の権利を有し、納税の義務を負ふ」でありましょう。

 原理資本主義では、市民(国民)の定義として、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類しています。

 そして資本主義経済で求める利潤(利益)は、株主と経営者、そして労働者で分配するものであり、賃金はいわゆる搾取ではないと定義しています。

(2)労働者と使用者は対等の立場ではありません

 株主や経営者は労働者側にとっては優越的地位にあることが重要な点であり、株主や経営者側と労働者は対等ではありません。このように考えると、日本国の労働基準法の第二条の「労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」は間違っています。

 さらに、使用者に対して対等の立場に立つのは労働組合の代表者と定めたのが労働組合法ですが、これは個々の労働者の権利を否定するものであり、現実に、三六協定などで、労働時間や休日などの労働者の権利は、なし崩し的に奪われているのが現実です。

 利潤を諸悪の根源とし賃金を搾取とする考えが、いわゆる資本家と労働者という対立構造となり、ストライキ件などの団体交渉で賃上げを求める行為を労働運動としたために、いつのまにか、労働組合自身が残業規制を放棄し、総労働時間は減少から一転上昇し「過労死」なる言葉がグローバル言語になってしまいました。

 資本主義経済を基本とする民主国家では、労働は権利であり、その権利を保障するために、労働時間や休日、賃金、労働環境などの規範となる法が必要となるのですが、日本国の労働基準法は「労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」という前提の元に、労働時間や休日、賃金、労働環境などは、労働強化する傾向ばかりで、実質的に、労働基準法は、法としての機能をしていません。

 経営者側と労働者側は、決して対等な関係ではなく、経営者側は労働者側に対して優越的地位にあるという前提で、労働するという権利を保障しなければなりません。

(3)ストライキ権は労働者個人個人に

 そして、その権利は、労働組合などの団体交渉権によって守られるのではなく、国家が、訴訟手続・執行手続を整備して、裁判という手続きの中で、権利を守りましょうという自力救済を禁じた近代法治国家の原理原則に基づいて、労働者個人個人がその権利を主張しなくてはなりません。ストライキ権なども、労働組合に与えられるものではなく、労働者個人個人に与えられるべきものでありましょう。

 生産性の向上を求めるのであれば、総労働時間の短縮を求めるべきであり、国民の生活レベルを向上させるのであれば、生産性の向上による製品価格に引き下げという享受を受けるべきです。物価と賃金の相関関係である実質賃金を求めるべきです。

 馬鹿のひとつ覚えのように「賃上げ」ばかり主張する日本の労働組合は日本社会の諸悪の根源であり、その形態は霞ヶ関の官僚とまったく同じです