官僚のレクチャーを受けた国会議員が描くビジョンは、「小さな政府」と「大きな政府」とか、古典的経済の枠から一歩も抜け出せず、浮世離れしていて、中学生でも首をかしげることばかりです。リストラ、グローバル経済など、数年前の歴史を検証せず、200年前の経済学を必死に追っている様なんぞ、まさしく、お歯黒を塗った中世の公家であり、彼らの蹴鞠のような議論にはもううんざりです。
蹴鞠のような公家言葉の議論から抜け出すことを目的に、以下に、「小さな政府」とか「大きな政府」の従来の経済学用語を批判するとともに、政権の指標となるべき経済のあり方と、税の再配分のあり方、そして、政権交代へのビジョンを提言します。
一 「小さな政府」と「大きな政府」の表現は不適当
政府は道路や橋、警察、消防、国防など、最低限のことをして、市場経済に介入しないとする「小さな政府」と、市場経済が生む、「貧富の差」、「恐慌」、「失業」、「労働問題」と社会問題に対応するのは、公共事業の需要創出政策として、市場経済に公需を作り出すことを「大きな政府」とする概念がよく使われています。
しかし、誰が訳したかは知りませんが、この「小さな政府」と「大きな政府」という表現では、「何を」大きくしたり小さくしたりするのかの、「何」がありません。主語が明記されていない表現を、曖昧というのであり、「小さな政府」とか「大きな政府」という抽象的で曖昧な表現を用いて、政府の経済政策を語ってはいけません。
「小さな政府」とか「大きな政府」という抽象的で曖昧な表現は、根本的な問題ではありますが、そもそも、スミスの「小さな政府」とは市場経済のあり方を求めたものであり、ケインズの「大きな政府」は、税の再配分のあり方を求めたものではないでしょうか。つまり、経済政策として対立軸となるものではないと考えます。
なぜなら、民主主義が進歩することは、国民の社会資本が蓄積されることとなり、社会資本の拡充を求めない民主主義の国家はありえないからです。つまり、民主主義の国家において、市場経済の中では、民需と公需の存在は当然でありべきものであり、公需のない市場経済はありえないからです。ケインズは、この公需を、割引現在価値の定理に従って、市場経済の需要の拡大を提唱するものでありましょう。
現代において、いわゆる「夜警国家」で国家が成立することは不可能であり、社会資本の整備は、市場経済に組み込まれている現実を理解するべきでしょう。従って、「小さな政府」と「大きな政府」の表現は不適当であり、そうではなくて、「税の再配分が大きい政府」か、「税の再配分が小さい政府」かというように、税の再配分を基本に、政権の対立軸を設けるべきと考えます。
二 ベルリンの壁の崩壊から学ぶこと
民主主義の発達は、社会資本の整備を求め、税の再配分による社会資本の投資は必然となり、経済における有効需要は、民需と公需で成立する時代へと進歩しました。その状況下でケインズは、1930年代の恐慌を克服するために、有効需要を公需に求めたのであり、その経済システムは、政府が経済に介入する統制経済でありました。マルクスは、スミスとは意見を異にして、市場経済こそが諸悪の根源として、民間資本を否定し社会資本による経済運動を提唱します。いわゆる社会主義であり、この考えに計画経済を導入したのが共産主義です。
「自由経済を基調とする市場経済主義」と、市場経済を否定し「資本のすべてを社会資本とする社会主義」。そして、経済の有効需要を公需にウェートをおく「統制経済であるケインズ主義」。この基本を再認識することが必要だと考えます。現代は、「小さな政府」や「大きな政府」という誤った表記の経済概念を捨てるべき時代に入っているのです。
ベルリンの壁の崩壊で社会主義は崩壊しました。市場経済を否定した統制経済は、既得権益を制御できず、経済の活力とモラルが失われ経済は失速したのです。また、中央集権の社会システムは民主主義を否定し、経済の崩壊による国民の貧困層を制御することができませんでした。そのころ、資本主義のほうは、市場経済に政府は公需で介入の度合いを強めたり弱めたりして、経済をコントロールしていいきます。
つまり、市場経済の中の公需による政治介入は常識となり、自由経済を基調とする市場経済主義」と、市場経済を否定し「資本のすべてを社会資本とする社会主義」は否定され「統制経済であるケインズ主義」が経済の主流となったのです。
三 反グローバリズムとテロ
ベルリンの壁が崩壊し、社会主義が否定されてから、市場経済において資本の暴走が始まります。寡占化した資本が、国境を越えてその自己増殖をはじめたのです。さらに、アメリカのウォール街を中心とする金融システムはカジノとなり、アメリカを中心とする資本をカードに、世界の資本を吸い上げていきます。資本の寡占化と、カジノ経済による資本の吸い上げは、人々の経済格差を前提に成立するシステムであり、それは、東西冷戦時代における南北問題を越えて、反グローバリズムとして現在に至ります。
グローバル経済の名のもと、経済格差の隔たりは、カースト制度のような階級制度となり、それが、国家間、そして国家の中で衝突するようになります。この経済格差の対立を、アメリカは「テロ」と呼ぶのです。国家の中の政治的対立と、国家間の政治的対立の原因が「経済格差」であることをアメリカは理解しているからです。アメリカにとって、寡占化した資本とカジノとなるウォール街の金融システムを批判し、攻撃するものはすべてテロとなるのです。
四 古典的な経済学の概念を捨てるべし
市場経済主義と市場経済を否定した社会主義は、ともに、資本主義の矛盾を統制経済に求めましたが、統制経済は既得権益層を暴走を制御できず、また既得権益者と非既得権益者の経済格差の広がりは、民主主義を否定します。
私は、公需による統制経済を否定していません。公需は、社会整備を促進し、社会資本の豊かな国家を実現するからです。また、資本主義の矛盾である好景気と不景気の経済の循環の振れを、公需による経済統制をすることで小さくしてきたのも事実であるからです。
しかし、統制経済で生まれる既得権益層、つまり、公需に依存する企業や労働者、そして寡占化した資本は、非既得権益層との経済格差を生みだし、それが世襲制などで、階層間移動がなくなる社会は活力とモラルは硬直し民主主義も硬直させます。権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直し、その既得権益は、民主主義と対立するのです。
我々は、資本主義や社会主義、市場経済主義と統制経済、「小さな政府」と「大きな政府」という古典的な経済学の概念に縛られず、グローバル経済と反グローバリズムとアメリカから押し付けられたイデオロギーを漠然と受け入れるのではなく、ここ10年間の歴史を検証し、経済を見つめなおす必要があるのです。
五 貨幣経済である限り資本主義しか存在しえない
私は、経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりすると考えています。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではないと考えます。
次に、資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段をもっている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしている点です。資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側と分けるべきではないとする意見です。資本主義のなかで、資本家階級と労働者階級は、、階層間移動(資本家階層と労働家階層の行き来)が自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家であると考えます。
経済は資本が寡占していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まる。寡占が成長していく過程に規制や認可に統制経済が生まれるが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要だ。経済は技術を伴い発展するが、それは、資本が寡占していく成長の繰り返しであり、その成長過程で、自由経済と統制経済もまた繰り返すものであると主張しています。
六 税の再配分で決める政府の性格
「小さな政府」と「大きな政府」という表現は、何が大きいのか、何が小さいのか曖昧であり、小さい政府というものが、古典的な「夜警国家」による市場経済主義で国が運営できるとは誰も思わないでしょう。
また、公需を主体とし経済を牽引する「ケインズ主義」は、きわめて社会主義的であり、ベルリンの壁の崩壊の原因である、既得権益の固定化と、既得権益者と非既得権益者との経済格差が、経済運動の活力とモラルを減退させたことと同じ問題を抱えています。
民主主義においては、社会資本の整備や、社会保障制度の拡充を求められることは当然であり、税の再配分が民主主義を支えています。問題は、その税に再配分のバランスの問題であり、市場経済に公需の影響を少なくし、民需の活力とモラルで経済を牽引する政策と、公需による需要創出による経済の牽引を政府が行う政策とに分かれるでしょう。
また、ベルリンの壁の崩壊後、資本主義と社会主義という対立の構図は消えました。社会主義は、中央集権システムで生まれる既得権益を制御できなかったのです。富の分配が階層化され、民主主義は全体主義に埋没され、既得権益で縛られた経済は、活力とモラルをなくした経済は崩壊しました。また、ケインズの政府投資よる経済政策も、社会主義同様に、既得権益が国家を徘徊し、経済格差は階層化しそして固定化します。結果、実体経済の活力とモラルはなく、経済活動は停滞しているのが現実です。
経済は、資本主義の市場原理において、自由経済と統制経済が繰り返す運動体であるといいました。自由経済が進歩すれば、既得権益と資本の寡占化が進むのは必然であるが、反比例して経済運動の活力とモラルが減退する。経済の破綻は、倒産という経済運動で、寡占化した資本が拡散し、既得権益が壊れることを意味します。つまり自由経済に初期の段階に戻ることを意味していて、経済は自由経済と統制経済が繰り返されるものなのです。
この経済の循環の転換期をいかにするかということが、経済学であり経済政策となります。そして、政府は、どちらの経済に軸足を置いているかで、その政府の性格がわかるはずです。税の再配分のスタンスと、自由経済か統制経済のどちらに軸足に置いているかを、縦横軸で表せれば、政府や政党の性格が明確になり、国民が自分たちの権益にとって、どちらの政権を選択すればいいのかの指針となるでしょう。
七 税の再配分できまる経済政策
経済は、統制経済と自由経済を繰り返し成長するものであるとして、経済において、税の再配分による「公需」が、国家の経済に占める割合の大きさで政府の性格がきまると考えます。つまり、従来の 政府は道路や橋、警察、消防、国防など、最低限のことをして、市場経済に介入しないとする「小さな政府」と、市場経済が生む、「貧富の差」、「恐慌」、「失業」、「労働問題」と社会問題に対応するのは、公共事業の需要創出政策として、市場経済に公需を作り出すことを「大きな政府」という分類では現代の経済は説明できないからです。
現代の経済を理論だてて説明するならば、税の再配分が大きい政府か、税の再配分を小さくする政府なのかという分類をするべきです。前者の税の再配分が大きい政府は、公共事業など社会整備にウェイトをおく政策となり、雇用対策は、公需の需要の創出で吸収する政策となります。つまり、従来の失業保険制度を基本に、公需による景気刺激で、有効求人倍率を引き上げることを目的とする政策です。
これに対して、後者の税の再配分を小さくする政府は、規制などを撤廃し、市場原理に準じた経済に委ねる政府です。政府は市場経済のルールを監視して、自由の秩序を保つ努力をしなければなりません。そして、市場経済からはじかれた人々を救済するための、セーフティーネットに税配分のウェートをおく必要がでてくるでしょう。ただし、このセーフティーネットというのは、雇用保険の拡充などではなく、ワークシュエアリングの導入や、退職金制度を年金制度に組み込むとかの社会保険制度の平等化となります。
政府は、統制経済と自由経済のバランスと、税の再配分のバランスの舵取りを求められるわけであり、それは、それぞれの政策で権益を主張する人々の割合で左右される状態が民主主義のあるべき姿です。
八 労働者=市民ではありません
いまの政治のキーワードは市民と既得権益です。かつての資本対労働者という対立構造では、市民という概念を説明できない時代に入っています。
現代の社会構造は、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類を基本とするべきでしょう。(いわゆる肖像権で収入を得ている芸能関係者は、前者の「不労所得者」に分類されます。)その上で、後者の労働所得の階層を市民と定義するべきでしょう。
市民を労働所得者層と定義したとして、今度は、その市民のなかの既得権益者か非既得権益者かに市民は大別されます。なぜなら現代は、公需と民需で成立する経済社会であるからです。
いまの日本の政治は既得権益者寄りの社会であり、公需や寡占化した企業の労働所得者の声を政治に反映する政党が自由民主党です。しかし、民主党の支持団体の労働組合も、公需や寡占化した企業の労働所得者であり、社会的な分類では同じ階層なのです。
市場経済社会では、「不労所得者」と「労働所得者」という階層の対立が基本であり、「労働所得者」のなかに、既得権益層と非既得権益層の対立があります。政治において市民の定義は、後者の「労働所得者」を指しています。鈴木宗男の支持者も市民であり、町のラーメン屋の店主もまた市民なのです。そして、鈴木宗男の支持者は既得権益者であり、町のラーメン屋の店主は非既得権益者なのです。
これを踏まえて今の日本を考えれば、自由民主党と民主党は、それぞれに都合よく国民や市民の声の代弁者になっていて、実際には、ともに既得権益者層に軸足を置いているのではないでしょうか。このことを、国民は感性で感じているからこそ、自由民主党の対立軸の政党として民主党を認めないのです。非既得権益者層の市民は無党派層として存在しています。
公需と民需のバランスで成立する経済社会では、市民は、既得権益層の声と、非既得権益者層の声に分かれるのであり、それぞれの市民の声を政治に反映する政党があってしかるべきです。その意味では、既得権益層の市民の声を政治に反映する政党と、非既得権益者層の声を政治に反映する政党が二大政党は合理的な政治システムといえます。
そして、その政治構造のなかで、基本的な階層対立である、「不労所得者」と「労働所得者」の対立は、税体系を軸にその均衡は保たれるのです。それが税の中立を意味します。そして、その緊張が健全な民主主義を支えるものではないでしょうか。
九 政権交代は、国民の求める権益のバランスの結果だ
政権交代とは、国民の求める権益によって政権が支えられるのであり、そのバランスの変化が政権交代となるのです。政権を支配する政党がかわることではなくて、国民のもとめる権益者のバランスが変化することで決定するものであるといえるでしょう。
つまり、国民全体がもとめる権益を180度変えるのは革命となりますが、選挙という民主主義の中での政権交代は、どの層の国民の権益を政治で実現するかであり、国民全体の権益を実現することを望むものではないのです。経済が、自由経済と統制経済を繰り返すものであるとすれば、どちらの経済政策を国民が望むのかを政治家は国民に訴えればいいのであり、支持する有権者の声を実現するのが政治の役目でしょう。
ただ、これは、あくまで、バランスの問題であり、他方を排除するというものでありません。統制経済から自由経済にシフトするとき、いままでの公需に頼っていた人々は、税の再配分によるセーフティーネットで守られるわけであり、決して他方を排除するものではないことを胸を張っていえる政治家の登場が待ち望まれます。
自由民主党を批判する前に、自由民主党を支持する国民の声を何故、真摯に聞くべきでしょう。彼らを認めることで、自由民主党が守る権益者以外の人々が見えてくるのであり、その人々の声や権益を政治で実現することが政権交代のあるべき姿ではないでしょうか。
税の再配分で分類ですれば、大企業とその労働者、そして公務員を中心とする労働組合は、税の再配分を多くする政府を支持することとなります。逆に、税の再配分を小さくする政府は、経済の活力の源である、中小零細企業やその労働者らが支持する政府となり、その支持層は二極化されるでしょう。政府の支持基盤の違いで、取るべき政策の差異が明確となり、その支持層が、劇的に変化するときが経済政策をめぐる政権交代となるべきです。
政権交代は、自由を求めたり、理念を求めて実現した歴史はありません。すべて、経済的問題が社会不安となり、その不安を解決するほこ先が、自由や理念ではなかったのではないでしょうか。今の日本を救うのは、友愛だのリベラルなどの理念ではありません。理念では国民はついてこないのです。そうではなくて、どのような権益を与えてくれるかで国民は行動を起こすでしょう。
いまは、自由民主党の税の再配分と享受する権益層、また、寡占化した資本を既得権益とする層と、その権益を享受していない層のバランスが崩壊しているのです。だから自由民主党が揺らいでいるのであり、後者の権益を主張する政権を国民は求めています。これは、今の既得権益層で構成される与野党の枠組みから脱却し、国民に向かって、二者択一の選択を訴えるしか日本の再生はできません。政党の枠や、規制の経済概念から脱却し、政治と経済の基本の戻り、日本語の論理が成立する政策で、政治や経済を国民に語るべきです。