1 ハンセン病判決と政府見解
ハンセン病隔離政策で、「厚生大臣の職務行為に国家賠償法上の違法性及び過失」と「国会議員の立法上の不作為」を認めた熊本地裁の判決にたいして、政府は控訴を断念し、この判決を受け入れました。しかし、国会の責任と、国家賠償に関しては、政府は認めておらず、政府は、本来控訴すべきだが、ハンセン病問題については、できる限り早期に、そして全面的な解決を図ることが、必要なことであると判断し控訴を断念したことを、政治声明として出した。
政府声明のなかで、民法第124条後段は、損害賠償請求権の除斥期間の関しては、判決文の中で、その説明がなされていて、民法の規定に反しているとすれば、この除斥期間の熊本地裁の判決との相違点を明記すべきであり、これは見解の相違であろう。
それよりも、政府は、国会の立法行為(不作為)の責任を認めることができないという根拠に、最高裁判所昭和60年11月21日第一小法廷判決を取り上げていることです。政府は、、立法行為については、国会議員は国民全体に対する政治的責任を負うにとどまり、国会議員が個別の国民の権利に対応した関係での法的責任を負うのものではないとしています。そして、この根拠を、最高裁判所昭和60年11月21日第一小法廷判決に求め、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合」の文言をその規範としています。
しかし、国会の立法行為(不作為)の責任に関しては、憲法第51条の議員の発言・表決の無責任の条項で明記されているのに、国の最高規範である憲法を、判決の根拠根にしないのは納得できません。司法の役目は、紛争解決のために法を適用して一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為であります。そして、その規範となる法に照らし、意見の相違を判断するところです。しかるに、判決の解釈の根拠が、法ではなく、判例としていることに疑問を抱きざるを得ません。
2 最高裁判所昭和60年11月21日第一小法廷判決の判例
そこで、最高裁判所昭和60年11月21日第一小法廷判決のハンセン病判決の政府声明で、国会の不作為にたいして、国会の無責任の論拠となっている「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合」の文言を調べてみた。 <参考資料> 答 弁 書 (平成11年(ワ)第15638号、平成11年11月2日)
1 国会の無責任の論拠となっている判例
「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」
2 この判例の論旨
(1)これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする。
(2)さらにいえば、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解が有り得るのであって、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあるのである。
(3)憲法51条が、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするのにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。
(4)このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ない。(理解不能)
3 結論
結論として、前記(一)(1)及び(2)の判示部分において明確にされているとして、
「 立法に係る憲法解釈については国民の間に多様な見解が存するのが通常であり、全国民を代表する立場にある国会議員としては、その多様な見解を立法過程に反映させるべく、自由に意見を表明し、表決を行うべき職責を負っており、特定の憲法解釈に立脚する立法がされ、又はされないことは、多種多様の違憲の対立の中から多数決原理により決定されるべきものである。」とし、「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」 と結論付けをしている。
私なりの要約すると、下記のようになります
「憲法は解釈によって、多様な見解が存するものであり、全国民を代表する立場にある国会議員は、その多様な見解を立法過程に反映させるべく、自由に意見を表明し、表決を行うべき職責を負っている。そして、それは、多数決原理により決定される。
つまり、全国民を代表する立場にある国会議員が、多数決原理により決定された政治判断の責任は、憲法の一義的(一つの意味にしか解釈できないさま)な文言に違反していないかぎり、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
4 疑問点
(1) まず、疑問に思うのが、この国会の不作為の責任をめぐる法解釈の基準を、憲法に求めていないことです。憲法第51条の議員の発言・表決の無責任の条項は、国家議員への考慮であって、この判決を導く際の考慮する文言でしかないとしています。国家賠償法の上位法として憲法を優先するべきではないでしょうか
(2)「立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解が有り得るのであって」としているが、行動や判断の基準である国家での最高の法規範たる憲法は、国民の間に多様な見解があるとしているが、国民が自分で、行動や判断の基準を持ったら、それは、基準ではなくなり規範として成立しないではないか。
(3) 憲法の一義的(一つの意味にしか解釈できないさま)な文言が例外的な場合としているが、憲法とは、国家としての行動や判断をする基準としての最高規範であろう。その規範が、一義的であることが例外とはどういうことだろう。一義的でなくては、基準とならないではないか。
(4) 日本の国家としての規範は、憲法ではなく、最高裁判所の判例や意見であっていいのだろうか。憲法とは何なのだろうか。これは、言い換えれば、日本の最高規範は、司法官僚の判断次第であることにならないだろうか。論理の成立しない現行憲法は、解釈という行為によって、司法官僚の都合のいいように書き換えられているのではないだろうか。
3 憲法は解釈すべきものか
私は、「憲法は解釈すべきものか」という問題を、「弁護士と話そう」とい掲示板に問題定義しました。弁護士からの回答は下記のようなものでした
1 問題定義
憲法とは、国家の基本的事項を定め、他の法律や命令で変更することのできない、国家最高の法規範であり、法とは社会規範であると考えています。規範とは、行動や判断の基準であり、基準とは、物事の判断の基礎となる標準です。戦後の日本国憲法は、現実問題として、基準となる法規範ではないのではないですか。
憲法=法規範は解釈という行為で、「説明して解き明かす」べきものではありません。解釈するような文言は基準とはなりえないからです。司法は、社会問題を、法に照らし、法律の条文に基づいて判断する仕事であるのに、「行動や判断の基準」を「説明して解き明かす」ような行為に疑問をもたないのでしょうか
2 弁護士からの回答
末川博編の法学辞典によれば、「規範とは、真・善・美などの価値を実現するために、われわれの思惟・意志・感情の評価作用が必ず従うことを要求される法則・規準。」とされいて、憲法も解釈の対象です。
また、「規範は例外を予測してはじめてその意義を発揮する。」とも説明されています。これは、規範が例外を意識することを前提とする概念である以上、検証することも可能であるはずです。別段法曹界が違う言葉を使っているわけでなくても矛盾していないと思います。
3 関連質問
(1) 規範について
「規範とは、法則・基準である」であり、法則の意味は、「守らねばならないきまり。おきて」または、「一定の条件のもとで、必ず成立する事物相互の関係。」となっています。とすれば、法学辞典の意味する規範の中の、「思惟・意志・感情の評価作用」は、法則の意味の、「一定の条件のもとで、必ず成立する事物相互の関係。」と相反するものとなるではないですか。
(2) 解釈について
解釈とは、「語句や物事などの意味・内容を理解し、説明すること。解き明かすこと」ですが、末川博編の法学辞典の規範の意味が、「真・善・美などの価値を実現するために、われわれの思惟・意志・感情の評価作用が必ず従うことを要求される法則・規準」としているとすれば、「思惟・意志・感情の評価作用が必ず従う」過程を、説明して解き明かすといっているのでしょうか。そうであれば、法は、個人個人によってその基準が変わるものであり、基準とはならないのではないでしょうか
(3) すべての規範は検証されることを予定しているものである
検証とは、「真偽を確かめること。事実を確認・証明すること」「裁判官などが推理・推測などによらず、直接にものの形状、現場の状況などを調べて証拠資料を得ること」とです。
とすれば、「規範が例外を意識することを前提」としているから、規範そのものの真偽を確かめるのですか。また、その例外が、思惟・意志・感情の評価作用をともなうものであるから、その基準も変動するものであるとするのでしょうか。
そうではなくて、末川博のいう「規範は例外を予測してはじめてその意義を発揮する」ということは、上位法の限界として下位法の詳細規定の必然性を説いているのではないですか。
掲示板での議論は、この回答を得られずこれで、終わりとなりました
4 法を解釈する行為は、既得権益 司法は、紛争解決のために法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為であるはずです。その判断基準である法に準拠せず、「解釈に多様な見解が有り得る」として、権利関係を確定・宣言する行為を平然としている司法のあり方はあってはならないことでしょう。
憲法とは、国家の基本的事項を定め、他の法律や命令で変更することのできない、国家最高の法規範であり、法とは社会規範であるはずです。規範とは、行動や判断の基準であり、基準とは、物事の判断の基礎となる標準です。繰り返しになりますが、その判断基準である最高規範の憲法が、解釈によって多様な見解を有するとすれば、それは基準とは言えず、規範として成立しません。
司法は、法に準拠して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為なのですから、その基準となる憲法自体を、適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する為に解釈するとなれば、本末転倒であります。司法は、権利関係を確定・宣言する行為において、準拠すべき法に矛盾があれば、審理不可として、立法府へ問題定義するべきです。司法が、基準となる法を解釈という行為で、多様な見解を述べることは、立法への介入です。
このような行為を、平然と繰り返した結果、今回のハンセン病判決でも、最高裁判所の判例が、司法の判断の根拠となるのであり、これでは、司法官僚の「思惟・意志・感情の評価作用」による判断が、日本国の行動や判断の基準となっていることになります。司法は、判例主義にならないで、憲法や、その他の基本法に立ち戻ってほしい。そして、論理の整合性のない条文は、解釈などするべきではありません。
司法は、権利関係を確定・宣言する行為において、準拠すべき法に矛盾があれば、整合性のない条文を明らかにして、その存在を、国民に問うべきでしょう。司法は、法に照らし意見の相違を判断するところで、整合性のない法を、都合よく解釈して、その判例を法規範とすることは民主主義では許されません。そんな国家は、独裁国家で、官僚らが集団で、その権力を行使するのは、崩壊したソビエト共産党と同じです。日本をこのような官僚の好き勝手ができる社会にしていてはいけません。
日本の護憲論者は、平和という言葉と引き換えに、国民の財産と安全を官僚に売り渡しました。彼らに民主主義の概念はありません。こんな論理の成立しない憲法で成立する民主主義はありえません。日本の三権分立は根本から腐っています。法曹界は、霞が関というに伏魔殿に棲息する国税を蝕む官僚を守る憲兵なのでしょうか。現行憲法を隠れ蓑に国税を蝕む官僚は、ゴキブリのごとくその生命力は強い。論理の成立しない憲法を公然と認めて、解釈という行為で、司法官僚が、法規範を自己の都合のいいように書き換えている現状で、、このような国家で、国民の財産と安全が守られるはずがありません。
論理の成立しない現行憲法を隠れ蓑とする官僚は、法を解釈するという既得権益をあたかも当然の権利としています。司法は、紛争解決のために法を適用して、一定の事項の適法性や違法性あるいは権利関係を確定・宣言する行為であるはずなのに、法というルールを、裁判官の解釈という行為で、書き換えれば、その答えは整合性のないものとなるのは必然です。
法曹界は、法を解釈するという行為が既得権益であることを認識するべきです。今、司法改革が叫ばれていますが、このことに気がつかなければ、三権分立などの言葉も空しいものとなるでしょう。 5 三権分立と現行憲法のあり方
私の問題定義する目的は、ハンセン病や、薬害エイズや、薬害ヤコブ病の事件を、二度とおこさないことです。旧厚生省のように、同胞である国民を消費の対象としか扱わない官僚を日本の社会から駆逐することです。
1 その為には、行政の管理職(国会議員も含む)は、民間の管理職と同様、その運営やその判断に、法的な責任を持たせることだと思います。
2 次に、国家の行動や判断の基準となる法規範である憲法が、現実と乖離していて、その矛盾点を解釈という行為で、都合のいい判例をつくり、最高裁判所の判例を法規範とする司法に、立法府は警告を発するべきです。
3 そして、司法は、権利関係を確定・宣言する行為において、準拠すべき法に矛盾があれば、審理不可として、立法府へ、矛盾する法を差し戻すべきです 6 日本の国家像のビジョンと自主憲法制定
我々は、戦後50年を経て、日本が統制経済の成功が、高度成長期をもたらし、その意味では、社会主義国として成功した国家であることを認識するべきです。そして、ベルリンの崩壊と同じように、社会主義国家は、既得権益を制御できず崩壊したプロセスが、日本でも起きている現実を受け入れるべきでしょう。
そして、論理の整合性のない現行憲法は、国家や国民の行動や判断の基準となる基準として成立していない現実を受け止め、自主憲法制定をするべきです。法規範が、憲法ではなく、官僚による法解釈による、多様な見解による最高裁の判例を規範とする国家では、民主主義は成立しません。そして、官僚による独裁国家では、国民は家畜同様に扱われ、国民を消費としか考えません。ハンセン病や、薬害エイズや、薬害ヤコブ病の事件は繰り返されます。
戦前の全体主義と戦争、そして、戦後の社会主義国家の功罪を教訓として、自主憲法を制定して、新しい法規範としての憲法の中に取り入れるべきです。行動や判断の基準である法規範が、憲法ではなく、官僚による、多様な見解による法解釈でつくられた最高裁の判例を規範とする国家では、民主主義は成立せず、国民の基本的人権は守られません。
民主主義が成立しなければ、資本主義経済もまた成立しません。いまの日本の閉塞した社会状況は、官僚による独裁的で独占的、そして統制経済である社会主義国家から生じています。そして、民主主義の皮をかぶった社会主義者は、現行憲法を隠れ蓑に、国税を蝕んでいます。その意味で、現行憲法を否定し、自主憲法制定は必要不可欠と考えざるを得ません。
日本人は。日本の民主主義は成長していることに自信を持つべきです。憲法9条にこだわるのはナンセンスです。正々堂々と自主憲法制定の議論で、安全保障を論じればいいのです。戦前の全体主義と戦争、そして、戦後の社会主義国家の功罪を教訓として、自主憲法を制定して、新しい法規範としての憲法の中に取り入れるべきです。
政治家は、官僚支配の社会主義国家なのか、民主主義の資本主義国家のどちらを選ぶかを国民に問うべきです。そして、民主主義の資本主義国家であれば、国民と国家の行動や判断の基準である法規範=憲法がなくてはいけません。
2001/06/02
<参考資料> 答弁書の抜粋
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の資料から
答 弁 書 (平成11年(ワ)第15638号、平成11年11月2日)
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の資料から
答 弁 書 (平成11年(ワ)第15638号、平成11年11月2日)
(一) 昭和60年最高裁判決について
まず、原告らが引用する昭和60年最高裁判決の意義を明らかにする。
昭和60年最高裁判決歯、立法行為(不作為を含む。)に、国家賠償法の適用があるか、適用があるとして、いかなる要件の下に国家賠償法上の違法性が認められるかについて、在宅投票制度を廃止したこと及びその後同制度を復活させる立法をしない不作為の国家賠償法一条一項の違法が問われた事案において、以下のとおり判示した。
「国家賠償法一条一項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものである。したがって、国会議員の立法行為(立法不作為を含む。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であ(る)」、「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該ァ法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」
そして、昭和60年最高裁判決は、右結論を導くにつき、以下のとおりその論旨を展開している。
(1)「憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする。」
(2) 「さらにいえば、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解が有り得るのであって、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあるのである。」
(3) 「憲法51条が、『両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。』と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするのにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。」
(4) 「このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといって、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。」
(二)昭和60年最高裁判決と立法不作為
(1) 昭和60年最高裁判決が、立法行為(不作為を含む)について国家賠償法上の違法と評価され得る例外的な場合を憲法の一義的な文言に違反する立法行為のような場合と限定した論拠は、前記(一)(1)及び(2)の判示部分において明確にされている。
すなわち、立法に係る憲法解釈については国民の間に多様な見解が存するのが通常であり、全国民を代表する立場にある国会議員としては、その多様な見解を立法過程に反映させるべく、自由に意見を表明し、表決を行うべき職責を負っており、特定の憲法解釈に立脚する立法がされ、又はされないことは、多種多様の違憲の対立の中から多数決原理により決定されるべきものである。
そして、国会議員が、多義的な解釈を容れる余地のある憲法の条項について、違憲立法審査権の行使の結果として、司法の立場からは違憲とされる解釈を採り、これに基づいて意見を表明し、表決に加わった(又は、意見を表明しない、表決に加わらない)としても、議会制民主主義の原理からは、国会議員の右立法過程における行動は、当然に許容されているもので、原則として、国家賠償法上違法とされるものではないとする趣旨を明らかにしたものである。
したがって、前記「例外的な場合」とは、国会議員の立法過程における行動が一義的に確定される場合であるから、かかる事態は、文字どおり「容易に想定し難い場合」なのであって、憲法の一義的文言に反する場合か、あるいは、憲法解釈上争いがなく、憲法に違反することが一見して明白である場合、すなわち誰の目から見ても違憲であることが明らかであるにもかかわらず、あえて立法を行うというような場合にとどまるべきことは明らかである。
(2) ところで、昭和60年最高裁判決は、右「例外的な場合」について、立法不作為の場合に関しては、具体的な言及していない。
しかし、立法不作為が国家賠償法上違法となることを例外的にせよ認めることは、憲法が採用している権力分立制度との関係でより慎重な検討が必要である。
すなわち、憲法は、41条において、「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一な立法機関である。」と規定するのみで、いつ、いかなる内容の立法を行うか又は行わないかを国会の裁量にゆだねているところである。しかるところ、裁判所が国会議員の立法不作為に対する法的責任を問うことは、裁判所が個々の国会議員に対し、特定内容の法律を特定の時期までに立法すべき義務を課することにほかならない。この点で、既に成立した法律についての立法過程における国会議員の行動を問題とする場合に比し、あるべき立法行為の内容とその時期を全国会議員が個々の国民に対して負担する法的義務として措定しなければならない点においてきわめて大きな困難がある。日本国憲法が採用する三権分立の基本理念からすれば、裁判所において、広範な立法裁量権を有する国権の最高機関である国会に対し、たやすく一定の立法義務を課し得るとすることはできないからである。立法行為については、憲法81条が裁判所に違憲立法審査権を付与しているが、立法不作為について同条が触れるところがないのもこの観点から理解できる。学説でも、「立法行為の違憲判断は、具体的な法令の「違憲審査をすることによって行うことができるが、立法の不作為については、立法機関の行動全体を評価することであって、法令の違憲審査とは全く異質の判断構造をもっているため、違憲立法審査権があることは当然にこれをみとめる根拠となるものではない」(遠藤博也・国家補償法上巻179ページ)とされているところである。
このことは、「あるべき立法行為が措定した具体的立法行為の適否を法的に評価するということは原則としてゆるされない。」と前記(一)(4)の判示部分においても明らかにされているところである。
(3) そうすると、立法不作につき、昭和60年最高裁判決のいう「憲法の一義的文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき容易に想定し難い例外的な場合」に即して想定するとすれば、憲法上、具体的な法律を立法すべき作為義務が、その内容のみならず、立法の時期を含めて明文をもって定められているか、又は、憲法解釈上、右作為義務の存在が一義的に明白な場合でなければならないというべきである。しかし、憲法上右作為義務を定めた規定は存在しないし、憲法解釈上も右作為義務を肯定することは困難であるから、昭和60年最高裁判決は、立法不作為が国家賠償法上違法となることは、基本的に予定していないものといわなければならない。
(4) 以上が昭和60年最高裁判決の正確な理解というべきであるが、同判決の示した国会議員の立法行為と国家賠償法一条一項の違法に関する判断基準は、その後の判例もこれを踏襲しており(最高裁昭和62年6月26日第2小法廷判決・裁判集民事151号147ページ、判例時報1262号100ページ、最高裁平成2年2月6日第3小法廷判決・訟務月報36巻112号2242ページ。)、立法行為についての国家賠償法の違法性判断基準に関する判例の枠組みは確立したものといえる。
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