はじめに
19世紀の半ば、マルクスとエンゲルスは「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている。共産主義という妖怪が」と「共産党宣言」の中に書きました。今私たちの前から、共産主義という妖怪は姿を消しつつあります。しかしかわって新たな妖怪が現れました。マルクスにならって言えば、「一つの妖怪が世界を歩き回っている。市場至上主義という妖怪が」というべきでしょう。
私たちは市場経済のなかで生きています。社会主義計画経済は「市場」を否定しましたが、その結果無惨な敗北を味わいました。そして人々は以前にも増して、市場経済に信頼を寄せるようになりました。折からのIT革命の波に乗って、いま世界の市場は一つとなり、強力な力をもちつつあります。
たしかに「市場」は人類が発明したもっとも偉大なシステムかもしれません。しかし、今、このシステムはあまりに巨大になり、個々人の運命ばかりでなく、ときとして国の運命さえ左右するほどになりました。市場の気まぐれで、一国の経済が破綻したり、何百万という失業者や自殺者を生み出すこともあります。
今日の経済学は、おもにこの市場のメカニズムを研究します。そしてどのように我々の生活がその中で営まれているか、企業や国家は市場とどうかかわり、どうした経営戦略を立てたらよいのかということを考えます。
「人間はパンのみに生きるにあらず」という言葉は真実ですが、「パンがなければ生きていけない」ことも事実です。また物質的なゆたかさばかりでなく、精神的な文化や芸術的価値の創造にも、経済活動は密接に結びついています。経済は私たちの生活を根底で支え、ときに人生や国々の運命まで支配します。
私たちは経済の中心にある市場の仕組みを理解し、これに呑み込まれるのではなく、これを私たちの手で、人類の福祉に役立つようにコントロールしていく知恵を身につけなければなりません。私はこうした立場から、経済学を通して自分の人生観を再検討し、人生如何に生きるべきかという問題に迫ってみたいと思います。
第1章 日本経済の現状と未来
一 日本は経済大国と言われますが、本当でしょうか
GDP(国内総生産)が500兆円(4.2兆ドル)の日本は、文句なしに世界で二番目の経済大国です。ちなみに一位のアメリカは8兆ドル(960兆円)です。以下、ドイツが2.4兆ドル、フランスと中国が1.3兆ドル、イギリスとイタリアが1.2兆ドル、ロシアが0.8兆ドル、その他全世界の合計が30兆ドルと見積もられています。
なおGDP(Gross Domestic Product)にはGNPと違って日本企業が外国で稼いだ金は計上されません。おなじく外国企業が日本で稼いだ金も外国のGDPには含まれないことになります。その差は日本の場合5兆円ほどですが、アメリカの場合はほとんどありません。
世界に占めるGDPの割合は、アメリカが26パーセント、欧州26パーセント、日本14パーセントで、この三者で70パーセント近くを占めています。日本が世界経済の中でいかに大きな位置をを占めているかがこれで分かります。
さらに国民一人あたりのGDPでみると、日本は3.23万ドルで3.5万ドルのスイス、3.4万ドルのノルウェーに続いて3番目です。以下デンマークの3.2万ドル、アメリカの2.9万ドルと続きます。スイスやノルウェーは人口が700万人と440万人ですから、個人所得で見る限り日本が世界一に限りなく近いと言うことが出来ます。
以上の統計は経済開発協力機構と世界銀行が公表したもので、日本の大蔵省や経済企画庁が正式なものとして使っていますが、一方アメリカ商務省は別の数字を使っています。それによると、アメリカのGDPは同じ8兆ドルですが、日本は2.8兆ドルしかなく、中国が3.4兆ドルもあることになっています。したがってアメリカ政府の見積もりでは、日本の経済規模は中国に次いで世界第3位ということになります。
数字が食い違っているのは、アメリカが1ドル=180円の為替相場(国際機関や日本政府の統計では1ドル=120円)を用いているためでです。アメリカが円の価値を相場より低く評価するのは、アメリカ政府が自国をことさら優位に見せるために日本を意図的に過小評価しているのだという見方もありますが、むしろ彼らは冷静に円の実力(購買力)がそのくらいだと見抜いているからでしょう。実際こちらの方が実勢に近いと思われます。
それでは1ドル=120円という架空の相場はどうして生まれてくるのでしょうか。それはアメリカ政府とその意向を受けた日本政府が人工的に操作して作り出しているからです。アメリカの統計はそのことを暗に告白しています。その不思議なからくりについてはまた別の機会にゆっくり述べることにしましよう。
このようにいささか統計に幅はありますが、いずれにせよ日本は12億もの人口を擁する中国と同じ規模のGDPがあるわけですから、経済大国には違いありません。問題はこれだけの経済力を持ち、実力もある日本がどうしてその能力を生かせずに、その経済運営に悩み、しかも巨大な財政赤字を抱えて身動きがとれない状態にあるのかと言うことです。私は「経済Q&A」で、この問題に迫ってみたいと思っています。
二 日本の個人金融資産はどのくらいですか
日本人の個人預金の総額は1200兆円あると言われています。その内訳は郵便貯金が250兆、簡易保険の残高が100兆、厚生年金や共済年金のかたちでためた預金が150兆、あわせて500兆、これに銀行預金の250兆や有価証券などが加わり、総額で1200兆円(全世界の金融資産の30パーセント)ということですが、実際は個人事業主が銀行に強制的に預けさせられている預金が400兆円ほどあるので、実質は800兆円ほどだと言われています。
この800兆円を日本の人口12000万人で割ってみると、一人あたり670万円という事になります。4家族だと2700万円。当然ここには家や土地などの固定資産は含まれていません。今すぐにでも現金化できる個人の金融資産です。日本人はとてつもなくお金持ちなんですね。貧しい我が家の現状をみるかぎり、にわかには信じがたい数字です。
じつはこれらの個人資産の8割以上は裕福な老人達が所有しているのです。マル優350万円、特別マル優350万円、郵便貯金350万円の一人頭税優遇限度額を合わせると1000万円、少なくともこのくらいは金融機関に預けているようですね。
ちなみにこれに企業が持っている純資産700兆円と政府がネットで持っている500兆円を含めれば、個人、会社、国がもつ金融資産は総額2000兆円ということになります。もしこのお金に3パーセントの金利が付けば、60兆円という巨額の利息が得られることになります。
残念ながら、日本はこれだけの純資産を持ちながら、そこから十分な利益を引き出すことが出来ないでいます。それは日本政府が前人未踏の「ゼロ金利政策」をとっているからです。それではなぜ「ゼロ金利」なのか。それについてはまた別の機会に詳しく触れたいと思います。
三 個人金融資産はどのように使われていますか
まず、郵便貯金や簡易保険、企業年金などをあわせた500兆円について、説明します。ずばり言って、これらはまるまる政府の財政投融資資金(財投)として運用されています。その内訳は国債に100兆円、特殊法人の融資に400兆円です。たとえば特殊法人の代表である道路住宅公団や住宅金融公庫などはおのおの10兆から20兆ほどの融資残高を抱えています。その他にも日本輸出入銀行、商工組合中央信用金庫など、特殊法人である公社、公団は無数にあり、それぞれに手厚い融資が行われているのです。
これらの融資は超低利でかつ税金コストなしでふんだんに貸しだされ、道路や橋やトンネルが整備されました。あるいは景気対策や福祉事業に使われました。特殊法人は官僚達の天下り先であり、「親方日の丸」の放漫経営ですから、当然赤字になります。その結果、財投で使われたお金が回収される見込みがあまりないのです。
将来郵便貯金のお金が戻ってこないだけでなく、サラリーマン4000万人が積み立てた汗と涙の結晶である150兆円も厚生省経由で大蔵省が吸い上げて、財投で運用されていますから、戻ってこないかも知れません。実に恐るべき事ですが、国民は「お上のやることにまさか間違いはないだろう」と、この問題をあまり真剣に受け止めていないようです。
ところで、残りの700兆円の金融資産ですが、これはそれぞれの金融機関で運用されています。しかし、その実体も実に恐るべきものです。いずれ、詳しく述べたいと思います。
四 日本の累積赤字はどのくらいあるのですか
日本の累積赤字は、地方自治体の分も含めると600兆円を越えています。しかも、この額は毎年ますます膨らんでいます。たとえば99年度予算81兆円のうち、30兆円が赤字国債です。これを年収810万円のサラリーマンの家計にたとえてみると、月収68万円のうち、25万円がサラ金でまかなわれている事になります。そしてこの家庭の借金は6000万円ということになります。つまりすでに借金が6000万円もあるのに、まだこりずに毎月25万円ずつ借金をこしらえているのです。とても正気の沙汰とは思えません。
しかし実はさらにこの話には続きがあります。実は赤字国債の他に国は建設国債を発行しています。99年度予算で言えばその額は41兆円にもなります。これは道路や橋やトンネルを作るための公共事業にあてられるので、赤字国債と違って国会で承認を受けなくても、政府は一般会計とは別枠でいくらでも発行できるのです。家計にたとえて言えば、マイホームや土地を買うためにする借金のようなものです。しかし、これも借金には違いありません。建設国債も赤字国債も実質的にはなにほどの区別がないのです。
これらだけの国債をそれでは誰が買っているのでしょうか。それは主に日本の金融機関です。国民が郵便局や銀行に預けた金、もしくは年金や保険金として納めた金で国の借金(国債費)がまかなわれているのです。ところで国債の金利は1.3パーセントです。なぜ日本の金融資産が利息を産まないか、その理由の一端はここにあります。つまりお金が有効に活用されていないと言うことです。
五 外国と比較しても累積赤字は多いのでしょうか
日本よりも多くの累積赤字(公的債務残高)を抱えている国はアメリカで、1100兆円(9億ドル)もの財政赤字があります。実に日本の2倍です。このアメリカの赤字を日本が米国債を買うことで支えています。その額はアメリカの財務省の発表では40兆円ということですが、実際には300兆円から400兆円にのぼると見られています。
アメリカは最近の好景気で税収が伸びて、一応「財政が黒字転換した」と言われています。しかし、98年度の経常赤字(貿易赤字)は2330億ドルもあります。この赤字体質が改善されないかぎり、まだまだアメリカの経済が健全だとは言えません。
それにもかかわらずアメリカが自国の累積赤字に対して鷹揚なのには、実はそれなりの理由があるのです。それは借金の引き受け手の多くが海外の投資家だということです。米国債の金利は年率6パーセントもあります。1.3パーセントの日本の国債と違って、世界中の投資家が買ってくれます。しかしこのことによる弊害も考えなければなりません。世界中の投資家が自国の産業に投資することをやめて、その資金をアメリカに注いだらどうなるでしょうか。たしかにアメリカは発展するでしょうが、貧しい国々はいつまでも貧しいまま残されます。そしてこれは今現実に世界で生じていることなのです。
さらにもう一つ怖ろしい事実があります。それは米国債はいつ紙屑になるか分からないということです。何しろもともとただ同然の紙屑ですから、アメリカのバブルがはじけ、株が大暴落でもしたら、米国債も紙屑です。日本がこうした紙屑を300兆から400兆も所有しているというのは考えてみれば実に恐るべき事態なのです。したがって、政府はその事実を公表しようとしません。
ところで財政赤字を国内総生産(GDP)で比較すると、日本は600兆円に対して500兆円ということになり、その割合は120パーセントに達します。この値はいまやイタリアを抜いて世界一です。92年の段階ではこの値は60パーセント以下で、イタリアの半分以下、アメリカよりも小さかったのです。それがこの8年間の放漫財政によって見る間に2倍以上に膨れ上がってしまい、しかも今も天井知らずで上昇を続けています。
六 なぜ日本の金利は低いのですか
景気が悪いときには政府は金利(公定歩合)を下げて、企業が金融機関からお金を借りやすくします。政府の行う経済対策には「財政政策」と「金融政策」がありますが、現在政府がとっている低金利政策は後者の代表です。しかも現在、公定歩合0という超低金利。にもかかわらず、景気はなかなか浮上しようとしません。なぜでしょうか。
基本的には日本があまりにもお金持ちになって、しかも国内に有効な投資先がないということです。したがって行き場を失ったお金が、そのままストックとして眠っているのです。GDPは消費と投資から成り立っていますが、この巨大な資産が消費にも投資にも向かわず、ただ大きな氷の固まりのようにじっとしているのです。このためGDPは増えるどころか、今やマイナス成長という事態になっています。
実はこのことの背景には、低金利政策があります。グールマン教授によれば、日本は「流動性の罠」に落ちてしまっているそうです。「流動性の罠」とはケインズによって唱えられた説で、利子率があまりに低くなると、人々は消費や投資への意欲を失ってすべてを貨幣でもつことを欲するようになるといいます。
つまりは「ゼロ金利」がかえって日本の経済を不況の中に釘づけしていると考えられます。金利が低いと、本来得られるはずの利息が少なくなります。たとえば1000万円銀行に預けた人は金利が3パーセントあれば30万円の利息が得られます。統計通り日本の個人金融資産が1200兆円だとすると、36兆円です。ところが現在は銀行に預けても金利はわずか0.05パーセントです。1000万円につきわずかに5000円、1200兆でも0.6兆円です。
差し引き35兆円以上のお金が国民の懐に入らず消えていることになります。そこでたとえば金利が6パーセントもあるアメリカの国債を買いたいわけですが、日本政府はこれを規制しています。低金利政策のもとでもし金融自由化を認めれば、日本の金融資産はほとんどアメリカに逃げていきます。だから、規制によるしかないのです。しかしこれでは国民の消費活動は活性化しません。国民の購買欲がなければ、商品やサービスは売れず、企業も収益をあげることができません。賃金のカットや首切りがはじまります。
本来低金利政策は企業が銀行から資金を調達しやすくするのですが、肝心の銀行が貸し渋りをしています。どこの企業もバブル後遺症で不良債権をかかえ、安易にお金を貸すわけには行かないからです。また借金のない企業もこの不景気では設備投資に金を掛けるこたはしないでしょう。また収益を伸ばしている優良企業は株式市場で資金調達をしたり、すでにこれまでの累積利潤を資金として社内留保してありますから、銀行から金を借りる必要もないのです。
それでは日本の銀行はどこに投資しているのでしょうか。まずあげられるのが国債を買うことです。日本の国債の金利はわずか1.3パーセントしかありません。しかし預金金利が0.05パーセントですから、さしひき1.25パーセント、つまりほとんど利息分丸儲けという訳です。さらにアメリカの国債を買えばうまみは増えます。アメリカには他にもっと率のよい金融商品がたくさんあります。このことからも推測できるように、日本の銀行は実は国内ではほとんど投資していないのではないでしょうか。今人気のデリバティブに一番熱心なのが日本の銀行だといいます。その残高は一節によると1000兆円を超えると言いますから、怖ろしいことです。
政府は金融安定化のためと称して、各金融機関に30兆円もの公的資金を投入しました。政府の発行する赤字国債や、海外でのマネーゲームにうつつを抜かして、国内の産業に投資を怠り、今も多くの不良債権を温存して責任逃ればかりしている日本の銀行に、貴重な国のお金をこんなに気前よく与えてよいのか疑問です。しかし、この公的資金とほぼ匹敵するお金が政府の主導する金利ゼロ政策によって、日本の金融機関に毎年確実に注入されているのだということを国民は忘れてはいけません。
つまり政府の低金利政策は景気浮揚に貢献していないばかりか、その足を引っ張っているのです。迷惑しているのは国民やまともな企業です。銀行ややくざな不良企業だけがこの政策を喜んでいますが、やがてかれらもその愚を悟るに違いありません。なぜなら、本来の使命を忘れ、たんなるパラサイトと化した銀行や不良企業の醜い姿にやがて国民も気がつくからです。
七 アメリカは日本の低金利をどう見ていますか
アメリカは日本のゼロ金利を歓迎しています。その理由はこれによってアメリカとの間に4パーセントもの格差が生まれ、資金が日本から大量に入ってくるからです。水は高いところから低いところに流れますが、お金は金利の低いところから、高いところへ流れます。アメリカの経済が今好景気なのは、実は日本の低金利政策によるところが大きいのです。また、アメリカは多量の国債を売って、累積赤字や貿易赤字の穴埋めをしなければなりません。そのためには米国債の金利が高くなければならないのです。そして国債の金利は公定歩合の金利によって決まってきます。
また日本の超低金利はアメリカの投資家にとって、とっても都合がいいのです。たとえば金利1パーセントに満たない円を大量に買って、この資金をロシアやブラジルのような公定歩合が150パーセントを越える国に投資したらどうでしょうか。そうするとこうした金融取引をするだけだ年利200パーセント以上の荒利益を稼ぎ出すことが出来るのです。そしてこれを実際に行ったのがアメリカのヘッヂファンドでした。日本の円はこうして世界のマネーゲームをいやが上にも加熱させることに荷担しているのです。そしてそれがどんな結果に終わり、世界経済をどんな混乱と恐怖をもたらしたかまだ記憶に新しいのではないでしょうか。
そもそも日本の低金利政策はアメリカの景気浮揚策と連動しています。アメリカが不景気の時、金利を下げたいと思っても、日本より下げるわけにはいかない。そこで、自分の国の金利を下げる前に、日本の金利を下げさせます。日本は自国の景気が悪くないときでも、アメリカに協力してとして、公定歩合を下げざるを得ません。極端な場合、景気が充分加熱していて、むしろ公定歩合を上げなければならないときでさえ、アメリカから圧力があれば反対に下げてしまうのです。ぞの結果が今不況に苦しんでいる日本の姿です。なぜバブルが発生したのか、その根本の原因は実にここにあります。
現在、アメリカは未曾有の好景気だといわれています。しかし、バブルの疑いも持たれています。そこでもし日本が金利を上げたら、それと連動し、アメリカも金利を上げないわけにはいきません。なぜなら日本から潤沢な資金を調達するには金利差は4パーセントほど確保したいからです。しかし、そうするとアメリカ国債の金利も上がることになる。
国債の金利が上がるということは、実はそのための利息の支払いが膨らむということです。アメリカは膨大な国債を発行しています。金利が0.5パーセント上昇しても、総額何兆ドルというお金が逃げていくのですからたまりません。同様な事情は日本の国債にも当てはまります。公定歩合0パーセントというのは、国債の金利を低くしてこれ以上累積赤字を増やさないための苦肉の策とも考えられます。
バブル発生時と、日本経済の状況はまるで違っていますが、じつは共通点も多いのです。いずれも「金利を上げなければならない」状況にありながら、アメリカの意向を受けて、自国独自の政策を実行することが出来ないのです。日本の政治家や官僚にもうすこし国民の利益を優先させる良識と、ほんとうの愛国心を要求したいと思います。
八
不況の今、金利を上げても本当に大丈夫でしょうか
一般に言われているのは、金利を上げれば銀行の収支が悪化し、中小企業への貸し渋りに拍車がかかるばかりではない。企業そのものも負債を抱えているから、その返済額がふくらみ、倒産が続出し、どうにか平衡を保っている日本経済は再び奈落の底に落ちるに違いないというおどろおどろしい予想です
さらに、金利が上がれば借金浸けになっている貧乏人はますます苦しくなり、喜ぶのは銀行や郵便局に巨額な預金をしている金持ちだけだという見方もあります。たしかに私のような貧乏人はあまり恩恵はないように見えます。預金と言えるほとんどなく、住宅ローンが何千万も残っています。ローンの返済を考えれば、低金利はおおいに歓迎でしょう。金利が上がっても、家計が圧迫されるだけで何の得もなさそうですし、おまけにこれ以上不況になって、賃金がカットされたら、ローンの返済さえ滞りかねません。こう考えてくると、金利を上げろなどととんでもないということになります。
たしかに金利の上昇は、個人レベルでは様々な痛みを伴います。しかし、このまま手をこまねいていて、赤字国債を天文学的なものにして行くわけにもいかないのです。それに、日本経済がこのことによって奈落の底に落ちるというのはまずあり得ないと思います。たしかに不良な銀行や企業は潰れるでしょうが、それは本来潰れて当然なものばかりです。いつまでも瀕死の病人を公的資金という注射で延命治療するべきではないのではないでしょうか。こういう不自然で後ろ向きな対応は将来に対してなにも生産的なものを生み出さないだけではなく、実は新しく生まれようとしているものの芽をつみ取っているのです。
と言って金利を無理に上げることはありません。要はアメリカの圧力や、国内の銀行救済のためだけに、社会の全体や将来への展望を考えずに、経済の原則を無視した不自然な対応はすべきでないと言いたいのです。
さて、この事に関して、ひとつ大切なことがあります。それは倒産した企業は助ける必要はありませんが、人間は助けなければならないと言うことです。いま政府に求められているのは失業対策ではなく、失業者対策です。アメリカやヨーロッパに見られるような自由な労働市場が確立していない日本では、失業のもつディメリットが大きく、精神的にも物質的にも援助していく必要があるのです。そのためのシステムをつくるためであれば、公的資金を投入してもよいでしょう。それは未来に活きるお金だからです。政府はまずこのことから、手を着けていく必要があります。
九 今後日本経済は蘇生するのでしょうか
日本経済が蘇生するためには、是非ともクリアしなければならない障害があります。その障害とは、何事によらず日本の政策決定能力がいちじるしく劣っている点です。現在の日本の不況や停滞は大蔵省をはじめとする経済官僚の舵取りミスが主な原因です。なぜそうなったかと言えば、彼らが経済の当事者ではなく、経済活動の経験さえない素人集団だからです。身内だけの出世競争にあけくれ、そうした反省すらない彼らに、今後の日本舵取りを委ねることは出来ません。いっそ大蔵省や日銀の権限はできるかぎり小さくして、民間の活力に任せるべきかもしれません。
「金融システム」を守るなどという建前論を振り回したりしないこと、公的資金をこれ以上銀行救済のためにつかわないことも必要です。アメリカの言いなりになって、国益をそこなうことも避けなければなりません。そして何よりも大切なことは、経済活動に正しい方向性を持っていなければなりません。それは別の言葉で言えば正しい戦略をもつということです。
そしてその正しい戦略とは、日本がこれまで築いてきた2000兆円という莫大な金融資産を最大限有効に活用するという事を置いて他にはありません。現在の不況はこの資産がまるで活用されないばかりか、外国の不良投機家にさえ食い物にされているのです。この貴重な財産を、日本の国のためどう使うべきなのか、そしてもっと大きな視野で、世界のためにどう役立てたらいいのか、そうした本当の意味でグローバルな戦略がいま日本に求められているのだと思います。
国民と直接向かい合うことの出来る、聡明で若く活力のある政治家が出てきて、彼のもとに新しい政策集団が生まれることが必要です。戦略も戦術もなく、保身しか頭になくて、アメリカのいいなりになることしか能のない指導者では、日本はこのまま沈没するしかないでしょう。広く世界に目を向け、はるか遠く、未来をも見据えて、国民に夢と希望と生きる勇気を与えてくれる指導者が望まれます。
そのために必要なことは、私たち一人一人がそうした世界からも尊敬される一流の見識を養うことです。新しい指導者はそうした新しい理想を持った人々の中からしか生まれないからです。同時に私たちは日本の教育システムを変革して、新しいインターネット時代に即応した新しい世界秩序に主体的に立ち向かっていける人材を育てるべきでしょう。2000兆という日本が世界に誇る金融資産を、日本人自身の頭脳と知恵で、世界のために役立てて行けたら、じつにすばらしいことではないでしょうか。
第2章 市場経済のしくみについて
一 市場経済の成り立ちについて教えて下さい。
「市場」では商品やサービスを売りたい人たちと、それを買いたい人たちが出会って、取引をします。そうした「市」は昔からありました。それは物々交換から始まりました。しかしやがて、「市」を通して分業が発達します。さらに貨幣が生まれ、それが広く流通するようになると、自給自足経済は本格的な市場経済へと姿を変えます。
中世には「市」が各地で開かれていて、その名残が「四日市」とか「八日市」とかいう地名に残っています。現代ではもはや人々が限られた日に特定の場所(市)に集まって取引をすることは一般的ではなくなりました。個人商店やデパート、さらにはインターネットを通じていろいろな場所で自由に売買ができ、その全体をマーケット(市場)と呼んでいます。また、自動車とか電化製品とかそれぞれの商品について、別個にマーケットが考えられるようになりました。
マーケットで売り手(生産者)と買い手(消費者)が出会います。マーケットを介して、人々は自分の需要に応じた商品を購入し、また生産者は自分の商品を売ることが出来ます。また商人という両者を仲立ちする階級が生まれました。貨幣が流通し、マーケットが発達したおかげで、人々の経済生活は昔と比べて格段に便利でゆたかになりました。
マーケットのおかげで、我々は欲しい商品を効率よく手に入れることが出来ます。したがって、欲しいものを自分の手で自ら作り出す必要がなくなり、分業が発達します。分業の結果、商品の質は上がり、しかもその量も増大することが出来ます。つまり社会全体の経済効率が上がり、生産性が増大します。
さらにマーケットはものの値段を決める働きを持っています。生産者は成功するために、市場での消費者の動向を見極めてなければなりません。一般に需要が供給を上回れば品不足になり、価格は上昇します。価格が上がれば利潤が増えるので供給側は生産を拡大し、その結果供給が増えて価格が下がることになります。こうして需要と供給の関係から、市場のメカニズムによって、商品の価格が決まります。つまり、マーケットは需要と供給を均衡させるという大切な機能をもっているのです。
マーケットはまた労働者の賃金を決め、労働を適正に配分して、失業をなくす働きもします。これは労働市場における需要と供給の均衡から決まります。また、金融市場によって、資金の適正な配分がはかられます。
マーケットのこの素晴らしい働きに注目したのが、18世紀にイギリスで活躍した経済学者のアダム・スミスでした。彼は古典的名著「国富論」の中で、個人個人が自分の欲望のおもむくままに行動しているのに、全体で調和がとれているのは、「見えざる神の手」の仕業であると書きました。
彼の理論によれば、マーケットメカニズムが機能する限り、需要と供給は均衡し、資金も最大限活用されて、生産活動は順調に行われ、物不足や失業も生まれないはずです。しかし、現実には経済不況や失業はつきものです。19世紀のイギリスは国としては黄金期を迎えましたが、また一方で貧しい労働者の群をつくりだしました。
このことから、マルクスやエンゲルスは自由競争の美名のもとで、資本家の労働者に対する搾取が行われているとして、所得の不平等な分配を産む市場経済の野蛮な無秩序性を批判しました。そして彼らの後継者たちは、社会主義計画経済をおしすすめました。
しかし今や社会主義計画経済も理想通りいかないことがわかり、それらの国々でも自由主義市場経済に移行しつつあります。中国は社会主義的市場経済の立場をとっていますが、市場経済は本来人々の自由な経済活動を前提にした制度ですから、この言葉に違和感を抱く人も多いようです。
二 どうして社会主義計画経済は失敗したのですか
市場経済ではマーケットでものを買う消費者が主役です。マーケットで成功するには消費者が望んでいるものを必要な量だけ供給しなければなりません。生産者はマーケットでの商品の価格によって消費者の需要を読みとり、供給を加減したり、新たな商品の開発にしのぎを削ります。そうすることによって、消費者は自己の欲望を満足させ、生産者は富を築こうとします。
一方社会主義計画経済では、政府の役人が生産をコントロールします。国家が必要と認めるものを、必要なだけ生産するわけです。こうした計画経済によって、貧富の差をなくし、平等で経済的にも安定した社会を作ろうとしたのです。実際この方法は生活水準が劣悪な段階ではそれなりに有効でした。
しかし、やがて社会がある程度安定してくると、生産現場や市民の実際の生活を知らない官僚が何でも決めてしまうシステムは効率的ではないことが明らかになってきました。官僚がかってに人々の欲望を判断し、まちがった資源配分をしてしまえば、社会には無駄が充満し、活気がなくなり、人々の生活水準も低迷します。
労働者も計画経済のもとではただ命令されただけの製品を計画された量だけ生産すればいいわけで、効率的な生産方法を工夫するといった主体性や意欲がなくなります。つまり、計画経済は人々にやる気を起こさせる動機(インセンティブ)の欠如をもたらすのです。
これに対して、市場経済は人々に大きなインセンティブを与えます。自らの成功を夢みて、消費者の喜ぶ商品やサービスを必死になって探り出し、さまざまな新製品をつくったり、効率的な生産方法を考案します。こうして、マーケットでの個人個人の自由な競争が、商品やサービスの多様化を産み、その質をたかめます。そして、これによって、社会が前進します。
社会主義計画経済は、マーケットのもつこの偉大な力を過小評価しました。そして少数のエリートの頭脳に期待したわけですが、結局、経済の複雑な動きをコントロールすることはどんなに優秀な官僚にもむつかしいことなのです。
市場社会ではマーケットが需要と供給を調節し、何がどれだけ生産されるべきかを決めています。またこのようにマーケットメカニズムが働いている社会は基本的に民主主義の社会だということができます。つまり市場と民主主義は相性がいいのです。
歴史的に言うならば、市場における経済的民主主義が、政治的民主制度を作り出したと言えるかも知れません。そうすると、市場経済を否定した共産主義が、独裁政治を生み出したことも納得できます。
三 市場経済は万能なのでしょうか
市場経済も問題がないわけはありません。その不都合は大恐慌や不況というかたちで現れます。アダム・スミスを元祖とする古典派経済学者は、市場による自由競争の価値を最大限に評価し、なるべく政府の市場への介入を避けるべきだと考えます。
しかし、「個々人、個々の企業が私利私欲を追求するに任せておけば、国ないし社会全体の厚生も最大限実現される」というアダム・スミスのテーゼにはいろいろな前提があります。その一つは市場が「自由」、「公正」、「透明」であることです。
市場が一部の企業に独占されたり、価格が不正に操作されたり、また特定の企業に不都合な情報が隠蔽されたりしたら、市場は万人に平等なものではなくなり、正常に機能できません。こうしたことが生じないように、国家や政府はある程度法令などで市場に規制を持ち込んだり、これを管理したりすることが必要になります。その代表的なのは「独占禁止法」でしょう。また、政府は「公正取引委員会」を設けて、市場が公正に運営されているかどうか監視しています。
こうした規制を設けても、市場における勝者が固定して、しだいに社会的富にかたよりが生じる場合があります。これを放置すれば、貧困層が増大し、社会的不満から暴動が生じるかも知れません。したがって、政府は法人税や累進課税によって、市場の勝者から所得の一部を徴収し、これを国家予算として社会運営の費用にあてます。こうして市場の行き過ぎを是正し、貧富の差を是正して社会を安定させるために、政府によって所得の再配分が行われます。
市場はまた、ときとして社会的に望ましくない商品を生み出します。たとえば麻薬や過激なポルノなどがそうです。明らかに社会に有害とおもわれる商品は規制によって市場から追放しなければなりません。しかし、何が有害かを判断することはなかなか難しいことです。資本主義のメッカであるアメリカでも「禁酒法」によって酒類を市場から閉め出したことがあります。しかし、その結果は惨憺たるものでした。酒類は地下経済で取り引きされ、マフィアの懐を肥やすことになりました。
したがってこうした判断を政府まかせにしないで、何が社会にとって有害かについて私たち市民の一人一人が自己責任において判断できるようになることが必要になります。政府による過剰な規制や保護政策は本来あるべき市場の均衡を妨げ、かえって社会的損失を招くことになりかねません。
四 経済不況はどうして生じるのですか
以上に述べたように、マーケットには光と蔭の部分があり、決して万能ではありません。つまりマーケットに任せておけば「みえざる神の手」が働いて、万事順調というわけではないのです。現に1930年代には世界的な恐慌が起こっています。失業が大量に発生すると、人々の所得が減り、所得の減少が景気をさらに悪化させ、さらなる失業を産むという悪循環から、世界の経済がかってない大不況に見舞われました。このようなとき、政府は公共事業などで財政資質を拡大して景気を刺激してやることが必要です。
それではなぜこうした大不況が生じたのか、ひととおりその経過を眺めておきましょう。第一次大戦が終わって、戦場となったヨーロッパ各国が疲弊している中で、ひとりアメリカは繁栄を謳歌していました。しかもアメリカはかってない低金利政策をとっていたため、企業や人々は銀行からおもうがままに金を借りて、株などに投資していました。株価はうなぎのぼりでした。そして多くの人々が巨額の利益を得ていたのです。こうした事態に危惧を抱いたのはほんの一部の経済学者でした。大方の人々はバブルの夢に酔いしれていたのです。
ところが、1929年10月24日、ニューヨーク株式市場が急落しました。このときは銀行業者らが応急手当をして持ち直したのですが、翌週の火曜日の29日、再び暴落し、パニックがアメリカ全土を襲いました。アメリカ人は10月24日を「暗黒の木曜日」、続く29日を「悲劇の火曜日」と呼んでいるそうです。株価はその後も下がり続け、1932年7月までにピーク時の1/8まで下落し、失業率は25パーセントに達したと言います。国民所得も半分になってしまいました。
アメリカから始まった恐慌の嵐は、戦禍から立ち直れていないヨーロッパ、そして1923年の関東大震災あとの不況にあえぐ日本をたちまち襲いました。1930年日本では昭和恐慌が始まり、失業者が街にあふれました。生活苦から自殺者が急増し、年間で1万3492人という統計が残っているそうです。
それではこうした世界的恐慌はどうして生じたのでしょう。またどうしたら、この不況から抜け出すことが出来るのでしょうか。資本主義市場経済始まって以来の危機をまのあたりにして、人々は絶望していました。こうしてマーケットの自己調整能力に基礎を置いていたこれまでの古典派経済学の理論が立ち往生する中で、1936年、ケンブリッジ大学出身の一人の経済学者がそのごの経済学を変える一冊の本を出版しました。彼の名前はジョン・メナード・ケインズ、著書の題は「雇用・利子および貨幣の一般理論」です。不況下のイギリスでわずか5シリングという超廉価本として売り出されたこの本のなかに、その答と処方箋が書かれあったのです。
一口で言うと、それは需要と供給を調整するはずの価格(賃金)が柔軟に動かず、硬直したままで、調整能力を発揮できないでいるということでした。たとえば労働市場で供給が需要を上回っているときは、賃金が下がることによって、供給が減り、需要が増えて、両者が均衡して失業が解消します。しかし、労働組合は賃下げに反対しますし、資本家も実は賃下げには消極的です。なぜなら賃下げをしたら労働者のやる気が鈍るだけではなく、優秀な人材が外に逃げて、よそでやとってくれない人材だけがのこる恐れがあるからです。したがって、資本家は賃下げではなく首切りを選びます。そうすると賃金そのものが硬直して下がらなくなり、マーケットの調整機能が働かず(市場の失敗)、失業は解消されません。
そこでケインズは、「賃金の下方硬直性」があるとき、失業率を減らし、完全雇用を達成するためには政府の手で労働市場を均衡させなければならないと考えたのです。つまり、政府が財政政策や金融政策を行って、公共事業や減税といった形で仕事を作り出せば、雇用(有効需要)が増えます。このことをケインズがはじめて「有効需要の原理」として理論化しました。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、このケインズ理論をさっそく応用して、巨大なダムをつくるなどの公共事業に着手しました。彼の政策は「ニューディール政策」とよばれ、不況を脱出する上でかなり有効だったと評価されました。そしてケインズ理論はその後も勝利を収め、もはや失業率が25パーセントにもなる大恐慌は起こり得ないとさえ考えられるようになりました。
しかし今日、政府の財政政策や金融政策の行き過ぎが問題になっています。景気対策のために安易に赤字国債を発行したため、アメリカや日本は多額の負債を抱えることになりました。このことが、またあらたな経済問題を生じさせているのです。このことと関連して、ケインズ理論そのものの真価が問われるようになってきました。市場が万能でなかったように、ケインズ理論も万能ではなかったのです。アメリカが恐慌から脱出できたのも、ニューディール政策ばかりではなく、第二次世界大戦の勃発によって、軍需景気が生じたことが大きかったと考えられます。
五 日本の平成不況はどうして発生したのですか
1985年9月22日、先進5カ国の蔵相会議(G5)で「プラザ合意」がなされました。これは巨大な貿易赤字を出していたアメリカのドル高を是正して「ドル安/円・マルク高」に導くために、各国が政策協力をすることをとりきめたものです。これによって1ドル=240円から、一気に1ドル=120円まで円高がすすみました。
円高は貿易輸出にとって逆風です。日本が不況になることを怖れた日銀は、金融緩和に踏切ました。1987年2月に公定歩合を2.5パーセントに下げたのです。これは当時としては過去最低の、異常に低い水準でした。その結果、マネーサプライが急激に伸び始め、あまった金が株や土地の投機に向かい、バブルが生じることになりました。
こうした事態を見ながら、日銀は金融緩和を続けました。バブルはいよいよ燃えさかり、株価も土地も鰻登りに最高値を更新しました。1989年12月末の東京証券取引所の日経平均株価は3万9000円をつけて引けましたが、これはプラザ合意のころに比べて2.5倍でした。東京23区の狭い土地の評価総額がアメリカ全土の土地の評価総額を上回るという統計が出たのもこのころです。こうした信じられない事態を後目に、日銀は1989年5月まで金融緩和政策を止めませんでした。
どうして日銀はこんな失態を犯したのでしょう。一つには円高にも関わらず、輸出が好調で、しかも安い輸入品が入ってくるために物価の上昇も抑えられました。つまり、マネーサプライが増えたにもかかわらず、インフレにならなかったのです。したがって国民や政府から「物価の番人」である日銀に対して、金融引き締めの圧力がかからなかったのです。それどころか、日銀に対して、金融緩和を続けるよう、アメリカから圧力がかかっていました。
実は1987年の秋、すでに日銀は金融引き締めを考えていたと言います。しかし、その年の10月19日の月曜日、ニューヨークの証券取引所で株価が暴落しました。その日だけでアメリカ企業全体の株価の25パーセント、5兆ドルが失われたといいます。そこで、アメリカは日本に低金利政策の維持を強く求めてきたのです。
日本が金利を上げると、国際資本は高い金利を求めて、アメリカから日本へますます流れます。そうするとアメリカの株価はますます暴落します。景気が回復してきた日本は本来なら低金利政策を是正すべきでした。しかし国際協調の必要からその後1年半もそのまま低金利状態に据え置かれたのです。
こうして膨らんだバブルはやがて崩壊します。きっかけは銀行に対して不動産関係の融資の拡大を禁止した、大蔵省の「貸出総量規制」でした。さらに、1990年8月のイラクによるクエート侵攻があり、石油危機が懸念されて、株価が暴落しました。土地や株を買えば必ず儲かるという「神話」が崩れると、みんなが売り手に回りだし、暴落に歯止めが利かなくなりました。1999年1月の株価は1万4000円。バブルの頂点の頃と比べると、株と土地の評価額は1200兆円も低下しました。日本のGDPが500兆円ですから、全国民の2.4年分の所得が失われたことになります。
バブル最盛期、不動産会社やゼネコンは銀行から金を借りまくりました。銀行から金を借りて、それを土地や株に投資すれば面白いようにお金が儲かったからです。しかしバブルが崩壊すると、こうした企業や個人は借金の返済が出来なくなりました。こうして銀行には多額の不良債権が残されました。その額はいまだに残っていて、50兆円とも100兆円とも言われています。そしてこれが重石となって、日本経済は長い不況からなかなか浮上できないでいます。
六 アメリカは好景気だそうですが、本当ですか
1980年代のアメリカは「貿易赤字」と「財政赤字」をかかえ、不況にあえいでいました。1987年には株式時価総額で東京市場がニューヨーク市場を追い抜き、1989年末には46.7パーセントも上回っていたのです。しかし1990年代になってバブルがはじけると、日本とアメリカの力関係は逆転しました。バブル後の不良債権の後始末にもたついている日本を後目に、アメリカはすでに7年以上好景気を続け、平均株価は1万ドル大台にのり、さらに上昇を続けています。アメリカのごく平均的な市民までが株式や債券投資に熱を上げています。
アメリカのこの好景気を支えているのは、消費と投資の順調な伸びです。日本人と違ってアメリカ人は所得をほとんど消費にまわします。1998年度のアメリカの消費傾向は100以上で、稼ぐより多く(借金をしてまで)つかっているのです。その結果、生産能力が内需に追いつかず、アメリカは日本を始め全世界から製品を買っています。1988年度の貿易赤字は2330億ドルにものぼっています。財政赤字が解消したと行っても、それは単年度のはなしで、累積赤字はなんと9兆ドルもあります。つまり、アメリカは個人も国もお金を借りまくり、世界中の商品を買って、消費を楽しんでいるのです。
それではどうしてこんなに虫の良いことが可能なのでしょうか。それはアメリカの高金利政策(日本の低金利政策)により、日本をはじめ世界各国からアメリカに資金が集まるからです。たとえば9兆ドルの米国債のうち1/3の3兆ドルは日本の資金がファイナンスしていると言われます。ところでこれらの膨大な借金をどうしてアメリカは返すつもりでしょうか。答えは実に簡単です。ただ輪転機をまわしてドル札を印刷すればいいのです。
現在世界で流通するドルは300兆ドルだと言われています。世界のGDPの合計が30兆ドルですから、その十倍のドルがアメリカによって世界にばらまかれているわけです。そうすると普通は供給過剰になりドル安になります。これを日本政府が必死で買い支えています。さらに日本の低金利政策によって、過剰なドルはアメリカに投資され、環流するのです。さいわい、アメリカは現在IT革命の先端を走っていて、ベンチャービジネスが育っていますから、投資先にこまることはありません。アメリカの異常な株高の背景にはこのようなからくりがあることを知らねばなりません。
なお、為替と金利によって日本が失う資金は年間7兆円だといわれています。日本はこれだけのお金をアメリカの経済を支えるために使っているわけです。これはアメリカに対する貿易黒字の値に相当します。つまり、日本人はあくせく働いて製品を売りつけた利益の分を、金利と為替の差益でまるごととられているわけです。これを一言で言えば、日本人があくせく働けば働くほど、アメリカ人は優雅に消費生活を満喫できるということです。こうしたしくみが健在なあいだ、まだ当分アメリカの繁栄は続くと見られています。
七 グローバル・スタンダードとはどんなものですか
1989年、ベルリンの壁が崩壊して、冷戦構造の中で対立していた東西ドイツは統一をはたしました。旧ソ連やその他の東欧諸国も次々に社会主義体制を放棄して、市場経済体制へと転換をはじめています。こうしてローカルなマーケットはしだいに地球規模のグローバルなマーケットに統合されつつあります。この先頭に立って牽引車となっているのが、アメリカです。
こうした市場のグローバル化はコンピュータやインターネットなどの電子通信技術を中心とする「情報革命」によって支えられています。こうした技術によって今日、以前には考えられなかった大規模な取引が国境を越えて行われています。国境をこえるお金の取引高の総額は一日で1.5兆ドルにも達しています。これは実際の商品の貿易額に比べて数十倍の額です。こうしたとほうもないことが電子商取引によってできるようになりました。
アメリカは市場のグローバル化を押し進める上で、ローカルな市場で通用したいたルールを廃して、アメリカのいう国際基準(グローバル・スタンダード)に合わせるように求めています。たとえば、農産物にかんする輸入制限を撤廃したり、金融取引の自由化などです。こうして今日「規制から自由へ」ということが合い言葉になりました。経済活動への政府介入の廃止、財政・金融の規模縮小、関税障壁の撤廃、国営企業の民営化、規制の撤廃など、一口で言えば「市場原理の重視」ということです。
こうした考え方は、もともとアメリカ国内で発想されたものでした。双子の赤字に悩んでいたアメリカは、1980年ころに登場した共和党のレーガン大統領もとで、「市場の原理」を重視した政策をとりはじめました。このときレーガンが理論的支柱としたのはシカゴ学派のノーベル経済学者、ミルトン・フリードマンです。彼はケインズ的な弱者に手厚い保護政策をとっていては、労働者はモラルハザードを起こしてやる気を失い、経済が活性化しないと考え、徹底的に規制緩和をして競争を促進することを主張していました。そして市場に政府を介入させない「小さな政府」を目指すよう提唱していたのです。
同じ頃イギリスにサッチャーの保守党政権が生まれ、同じような政策を推し進めました。彼らが登場してから、世界的な市場開放への政治活動も活発化しました。その代表的な例が、貿易不均衡をめぐる日米の貿易交渉です。アメリカは日本の市場が閉鎖的だとして、規制撤廃による徹底的な市場開放を求めてきました。さらにアメリカはこうしたアメリカの主張を先進国に認めさせるために貿易調停機関としてGATTを利用してきましたが、1995年にはこれが解消され、あらたに開発途上国まで含む国際機関として世界貿易機構(WTO)が設立されました。
なお、世界貿易を管理する国際組織にIMF(国際通貨基金)や世界銀行があります。これは基本的には経済危機に陥った国を援助する組織ですが、1980年以降は救済条件のなかに市場開放を全面に掲げるようになりました。フリードマンに代表される新古典派経済発展理論の実際的な実行部隊となったのです。IMF方式にしたがって、各国が「市場の障壁なき自由化」を実現すれば、そこで一人勝ちを収めるのはアメリカの金融資本だけだと見られています。したがって、これはアメリカの国益戦略ではないのかという批判が寄せられています。
八 グローバル化で日本はどう変わりますか
アメリカの好景気をよそに、日本は不景気に沈んでいます。バブル崩壊に伴う不良債権がその主な理由ですが、これに加えてこうした危機に機敏に対応できない日本の閉鎖的な政治・経済システムにも問題があるということが言われるようになりました。
そこでアメリカにはじまった「市場原理優先」を日本でも押し進めようという方向性がうちだされました。さまざまな規制を撤廃し、日本の市場を世界に解放して、グローバルスタンダードに近づけようというのです。そうするとこれから日本の企業は否応なく世界の企業と生き残りをかけた戦いを余儀なくされます。
すでにその戦いは始まっていて、日本の企業もここ数年、大規模なリストラを断行し始めました。これまで日本経済を支える三種の神器と言われた、「終身雇用」「企業別組合」「年功序列」も見直され、これらの日本的システムは次第に姿を消しつつあります。
市場主義者は、日本が規制撤廃と自由化を押し進め、日本的なローカルスタンダードをアメリカのいうグローバルスタンダードに変えていけば、一時的には失業が増大するなどさまざなな社会的軋轢が生まれるものの、長期的には市場の原理が復活し、日本の「ヒト、モノ、カネ」が有効に活用されると説きます。
日本版ビッグバンをはじめとする構造改革が実現すれば、はたして彼らが言うように日本の経済は蘇るのでしょうか。不安は尽きませんが、すでに日本の経済はアメリカの主導するグローバル化の波に飲まれて、その方向に動きだしているのです。
第3章 市場経済のあるべき姿
一 日本はアメリカを見習うべきなのでしょうか
不況だと言われていますが、一人あたりの一人あたりの国民所得でみるかぎり、日本は3万2千ドルをこえていて、アメリカの2万8600ドルよりはるかに多く、世界のトップレベルです。失業率は好況のアメリカが4.3パーセントであるのに対して、日本は4.9パーセントと高めですが、しかしアメリカの失業率は額面通り受け取るべきではないと主張する学者もいます。
たとえば、アメリカでは現在190万人も人が刑務所や拘置所に入っていますが、これは失業者600万人の3割近くになります。これを失業者に加えれば失業率は1.3パーセントも上積みされ、5.6パーセントということになります。日本の場合は被拘禁者は5万人で、320万人の失業者に対する上積みは0.1パーセントにも満たないものです。
たしかにアメリカはグローバル化した市場経済で成功しているように見えますが、囚人問題を見ても分かるように、その内実はそれほど誉められたものではありません。現在アメリカでは上位5パーセントの人々が、個人資産の絶対値の1/4を所有し、しかも格差は年々拡大しています。アメリカでは銃による殺人の数が交通事故によるものよりも多いのです。凶悪犯罪が多発するのは、銃規制があまいこともありますが、基本的には貧富の差がはげしく、社会が安定していないからでしょう。
犯罪が多いと、警察官や裁判官、検察、弁護士が多く必要になります。190万人も拘禁者がいれば、その収容施設がたくさん必要ですし、そこで働く公務員や食費などにかかる社会的費用も馬鹿にはなりません。少し皮肉な見方をすれば、アメリカでは犯罪者が膨大な雇用を生み出しているのです。銃規制をして犯罪がなくなったりしたら、失業者はそれこそ街にあふれ、国民所得はみるみる減少するのではないでしょうか。
こう考えてくると、日本は市場競争至上主義者が声高に言うほど、遅れた社会だと言えないのではないでしょうか。むしろ進んでいると言われるアメリカの方がはるかに危機的な様相を見せているように思われます。日本は安易にアメリカの真似ばかりしていないで、独自の道を探るべきだと考えます。そして、何かと日本経済の後進性を言い立てるアメリカに対して、ときには反撃しておく必要もあるのではないかと思います。
二 企業はもっと合理化をすすめるべきですか
カンパニーの語源はコンパニオンだと聴いたことがあります。つまり、同じ釜の飯を食べる仲間です。資本主義経済には経済の循環、つまり好況と不況の波はつきものです。良識的な企業であれば業績が悪くなっても、社員をリストラせずに抱えています。そしてその場をなんとかしのいで、景気が回復するのを待ちます。そうして苦境をともに耐え、支え合うことで社員の仲間意識は強化されます。
長いあいだ日本企業はこうした家族主義をメンタリティとして持ってきました。その結果、企業にたいする帰属意識が過剰になり、家庭や地域の行事をないがしろにして、休日まで会社のつきあいを優先させます。平日は夜おそくまで残業や接待があったりします。こうした日本のサラリーマンを称して、企業戦士とか「社畜」という言葉が使われたことがありました。
こうした会社と個人のあり方は、欧米からみれば異様に見えることでしょう。個人主義を伝統とする西洋の価値観からすれば、会社に心まで奪われて、個人としての独立心や自尊心を失った日本人は、エコノミックアニマルと呼んで軽蔑するのにふさわしかったのです。生活を潤す自由時間を楽しむことをしないで、あくせくと奴隷労働にあけくれて、そのあげくに過労死にまで見舞われる日本人労働者の姿は滑稽でさえあります。
しかし往年の日本企業の強さは、こうした社員の会社に対する高い忠誠心によって支えられていた面があります。「終身雇用」「企業別組合」「年功序列」といったシステムによって、日本人労働者はあつく庇護されていましたが、その見返りとして、労働者は会社に献身的に尽くすことをいとわなかったのです。
これはたとえてみれば、封建時代の藩と武士の関係に似ています。実際サラリーマンを武士に見立てて、その生き方を説く「サラリーマン武士道」などという本が売れています。江戸時代に書かれた「葉隠」という本も人気ですが、そこには「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があります。主君に忠誠を誓い、藩のためなら滅私奉公、死をも厭わぬ武士道精神が、サラリーマンの生き方として共感を呼んだのでしょう。
右肩上がりの高度成長期には、こうした企業風土が日本的経営の強さとして一定の評価を与えられてきました。しかし今日、会社と労働者のこうした前近代的なあり方が見直されようとしています。日本経済の高度成長が見込まれなくなった今、「年功序列」をはじめとする日本的システムの維持がもはや会社の経営上困難になってきたこと、また情報化産業時代を迎え、IT革命が進む中では経験や実績よりも個人のアイデアや創造性が重視されるようになってきたことなどが上げられます。
1980年代には多くの企業が投機に走り、放漫経営から、バブル崩壊後巨大な不良債権を持つようになりました。多くの日本企業がこうして苦境に陥ったのは経営者の責任が大きいのですが、彼らの失敗の尻拭いをさせられて労働者のリストラがなされている現状があります。こうした中で、労働者も企業に対する忠誠心を失いつつあります。今後不況が長引けば、ますます合理化が進み、日本的経営は後退するのではないでしょうか。
たしかに日本人は企業に依存しすぎていました。これを機会に脱会社主義をはかるのが賢明だと思われます。しかし一方で、企業はサラリーマンにとって生活の糧を得る大切な足場です。企業の合理化はなにも従業員の首切りばかりではありません。これからはサラリーマンも自主性や主体性を持って、会社や社会のあり方にもっと目を向け、不正に対しては勇気を持って闘うことも必要になると思います。
我々には今、社畜を脱して、しかも愛社精神を失わず、会社という共同体を足場に、日本と世界になにがしかの貢献を果たしていく前向きの生き方が一番求められているのではないでしょうか。いずれにせよ、企業は目先の利潤確保のために合理化という名の従業員削減を安易に行うべきではありません。もっと長期の展望に立って、従業員の能力を最大限生かせる工夫をすべきでしょう。そのさいに大切なことは、会社が社会の公器であるという自覚をもつことです。また政府もこうした企業の努力に対しては、具体的に援助をすべきだと思います。
三 今後の日本経済のあるべき姿は?
市場のグローバル化は避けられません。特に今後ビッグバンに伴い、アメリカの金融資本が日本に入ってきます。これまで政・官・財の癒着体質の中で、手厚い規制によって守られていた日本の金融機関は、残念ながら国際競争力にかけています。1200兆になる巨大な個人金融資産を活用するには、これらの外国の金融機関の助けを借りることが多くなると思います。
そうした意味で、大切なことは日本の金融機関を単に国際の運用機関や、大蔵省や日銀幹部の天下り機関ではなしに、もっとグローバルな戦略と戦力を持つ国際的な組織に変えていくことが必要になります。政・官・財の持たれあいの体質を変えて行かねばなりません。このためには、とくに政治的なプレゼンスが必要になります。国際的視野を持ち、世界の経済戦略に明るいことが21世紀を担う政治家の必要条件となるのではないでしょうか。
日本の戦略としては、とくにアジアを重視すべきだと思います。これはなにもアメリカとEUに対抗してアジア経済圏を作れということではありません。そうしたブロック経済圏の発想ではなしに、もっと世界に開かれた中でアジア市場というものが一つの地域的な経済圏として形成されていけばよいと思います。
世界市場主義者はこうした経済地域を世界の経済を阻害するものと考えるでしょうが、これは世界が単一の市場に育っていく上で一つのプロセスとして有効だと思います。こうしたプロセスを置くことによって、日本も、他のアジア諸国も、アメリカの金融資本の一元支配を緩和することが出来ます。そして「自由競争至上主義」のアメリカ型経済をある程度牽制しながら、それぞれの国々がそれぞれの国の国情に合った形で、経済のグローバル化を押し進めていくことが出来るのではないかと思います。
日本にとってそのお手本となるのは、EUではないかと思います。とくに同じく第二次世界大戦を同盟国として闘い、ともに敗戦したドイツからは大いに学ぶべきでしょう。アジア諸国がいまだに日本のありかたに不信の目をそそいでいるとしたら、それは日本にとっても、アジアにとっても、また世界の経済にとっても不幸なことです。
四 人は何のために働くのでしょうか
人は何のために働くのかと言えば、経済学の常識で言えば、それはお金をもうけるためだということになります。そして経済学の方程式に従えば、企業もまた最大の利益を得るために活動します。イギリスの経済学者ベンサムはこれを「最大多数の最大幸福」という言葉で表現しました。資本主義市場経済はこうした功利的な人間観、社会観を前提にしています。したがって、資本主義社会における英雄は、お金をいっぱいもうけた人ということになります。
事実現代の英雄と言えば、だれしもビル・ゲイツを思い浮かべるのではないでしょうか。彼はハーバード大学を2年で中退し、コンピューターソフトの会社を起こしました。以来20年間の間に、彼の会社はIT革命の波に乗って成長し、彼の資産は今や6兆円をこえて世界一の金持ちになりました。彼の創立したマイクロソフトという会社の株価の総額は61兆円を越えているそうです。この額はスペイン一国のGDPに相当すると言います。ビル・ゲイツは「アメリカンドリーム」を達成して、世界の英雄となりました。世界中の若者が彼に憧れ、事業を興して彼に続こうとしています。
アメリカでは人を評価するとき、「彼は年収20万ドルの人間だ」と言うふうに、年収が基準になります。日本の場合は会社名や役職、あるいは出身大学などでしょうか。年収で人を評価するのは年俸制のスポーツ選手や芸能人などに一部に限られます。しかしこれから経済のグローバル化がすすめば、日本でも年俸制がスタンダードになり、年収が人物評価の有力な基準になるかも知れません。
人は何のために働くのか。もしこの問いを一般的なアメリカ人に発したら、おそらく彼はお金をもうけるためだと答えるでしょう。そうすると、それではどうしてお金をもうけるのだと、さらに問いを続けることが出来ます。その答えはお金を使い、肉体的かつ精神的な満足を得るためだということになるでしょう。つまり彼らは人間が働くのは、豊かな消費生活を楽しむためだと考えます。その人の人格はお金の稼ぎ方にも現れますが、むしろお金の使い方に特徴的に現れます。アメリカの企業や個人が社会団体などに献金するのは、それによって社会的に評価されることを望むからです。彼らはお金をもうけるために働くことを恥じたりしません。むしろその使い方がスマートでないことを恥じるのです。
ところで以前の日本人はどちらかというと、金銭のためという労働観になじめなかったのではないでしょうか。むしろ労働を協同的なものと考え、共同体を維持する上で大切な義務と考える傾向があったように思われます。つまり、日本人にとって、労働とは金儲けの手段であるよりも、自己の属する共同体の存続に関わる何かしら神聖な奉仕行為だったようです。こうした感性は今の我々には薄れつつあります。といって、お金を社会のために有効に使おうという西洋流の合理的な発想もありません。日本人がお金の使い方が下手なのは、こうしたところにも原因があるのかも知れません。
五 本当の豊かさとは何でしょうか
かって長谷川慶太郎氏は「「投機の時代」1987年、中央公論社)のなかで、「汗水たらして金もうけをする時代は終わった。これからは頭を使って投機でもうける時代がやってくる。いまどき投機をやらない輩は世捨て人だ」と書きました。
実際このあと1988年から1989年にかけて土地と株価の値上がり分(含み益)は535兆円にものぼり、1989年度のGDPの1.35倍にもなったのです。ちなみのこの年のアメリカの地価総額は500兆円です。これでは汗水たらしてお金儲けするのがばからしくなります。しかも公定歩合は2.5パーセントという市場空前の超低金利時代。銀行がいくらでも金を貸してくれる上に、長谷川氏のような偉い経済評論家にたきつけられれば、個人も企業も本業そっちのけで投機に走ることになります。
何しろ投機をしないと「世捨て人」だとさげずまれるような時代ですから無理もありません。銀行からどんどんお金を借りて、土地や株に投資します。このころ暴力団まがいの地上げ屋が全国の主要な都市に現れて、土地の買い占めにはしりました。庶民にとってマイホームはますます高嶺の花になり、マイホームを手に入れるためにも、人々は投機に走らざるを得なくなったのです。朝から晩まで、テレビや巷の話題は株や土地でもうけた話ばかり。書店に行っても金儲けのノウハウを書いた本ばかりならぶようになりました。
その結果、どんな事態が生じたか、ご覧の通り、銀行も企業も個人もとほうもない不良債権をかかえて、頭を抱えています。1999年の自殺者は3万人を越えてしまいました。市場のことは市場に任せるというフリードマン経済学を信奉し、国民を過剰な投機へとたきつけた経済学者、評論家、銀行や証券会社の責任は大きいと思います。しかし公共財であるべき土地を投機の対象として容認した政府の無策も見逃すわけにはいきません。もしこのとき政府に国民生活を優先する考え方があったら、こうした事態は防げたと考えるからです。私たちは、このあたりで政治の在り方を問うべきではないかと思うのです。
たとえば、ドイツの場合の住宅政策を例にあげてみます。ドイツは1949年にアウデナウアー首相が「国民精神の荒廃、社会の緊張対立は住まいの貧しさに起因する」と演説し、自宅の建設には資金の70パーセントを政府が100年の無利息融資をするという法律をつくりました。ドイツの勤労者財産形成制度は100年単位ですから、ローンの返済は親子3,4代にわたります。そのかわり5000万円借りても、返済は月4万円とちょっとしかありません。こうしてドイツ国民は200年はもつという良質な住宅に恵まれました。20年持てばよいと言う日本の住宅とはまるで作りがちがいます。これは日本政府に住宅政策と呼べるものがなかった結果です。
世界の資源は有限です。たとえば石油は今の水準で使い続ければ30年後には枯渇がはじまると言われています。もし、アメリカ人並に使えば、あと7年、日本人並だとあと18年だそうです。いずれにせよ、これ以上の資源の浪費は許されないところまできています。すべてを市場に委ねたりしたら、この先どんな破綻が人類を襲うかあきらかです。
今日企業の利潤を優先させた経済活動によって産業廃棄物が不法に捨てられたり、大気汚染などの環境破壊が平然と行われています。こうしたことはすべて利益優先主義がもたらした弊害です。それも全体の利益ではなく、個々の個人や企業の利益を優先させた結果生じたことです。これからは環境や安全を重視した思想が重視されることになるでしょう。企業が安全対策や公害対策を怠った場合、それは社会にコストを転嫁しているに過ぎません。いずれその代価を、我々全員が支払わなければならくなるのです。企業の合理は社会の不合理であることを入らねばなりません。
仏教では人生には避けることが出来ない4つの苦しみがあるとときます。「生、老、病、死」がこれです。最初の「生」というのは「生きるための苦しみ」です。生きるために人は額に汗して働かねばなりません。しかも、いくら働いても飢えや貧乏は背後から迫ってきます。こうした貧困を逃れるために、人は経済活動を発展させてきました。そして、先人達の努力のかいがあって、我々先進国に住む人間はもはや貧乏を苦にすることはほとんどなくなりました。
しかしこの瞬間にも、まだ多くの国々で、多くの人々が飢えや寒さと闘っているのです。先進国の繁栄はこうした後進国の犠牲の上に成り立っている一面もあるということを正しく認識すべきではないでしょうか。本当の豊かさとは、資源を浪費することではなく、わずかな資源で大きな精神的喜びを得ることの中にあるのではないでしょうか。
日本にはこの伝統があります。「わび」とか「さび」と呼ばれているものがそうです。こうした高度に洗練された省資源型文化を日本から世界に発信していけたらすばらしいと思います。グローバリズムとはアメリカの標準を受け入れることばかりではありません。日本のこうしたすぐれた精神的文化を世界に広げることでもあると思うのです。
あとがき
「直立歩行から人類がはじまった」といわれます。二本足で立つことで両手が自由に使えるようになり、やがて手の使用が脳の発達をうながし、言語や道具の使用がすすんで、高度な文明や文化を創造するようになったらしいのです。
たしかにその通りでしょうが、手の使用が脳の発達をうながし、言語を生み出したというだけでは物足りなく、もう少し具体的で納得の行く説明が欲しいと思っていたところ、さいわいその答を経済学の本の中に見つけることができました。
経済学によれば人類の3大発明は「分業」「市場」「貨幣」ということになります。私はこれに「言語」と「国家(共同社会)」と「宗教」を加えて、6大発明と考えています。とくに「言語」の発明と発達が人類を人類たらしめたと言っていいわけですが、それでは言語の発明・発達のモチベーションは何だったのでしょうか。私はその中心に「市場」を置くとわかりやすいのではないかと思います。
「言語」を基本的な要素に分割すれば、俗に言う「読み」「書き」「そろばん」プラス「弁論」ということになりますが、これらが市場を中心に発達したであろうことは容易に想像でききます。考古学者であれば証拠を揃えることもできるでしょう。たとえば数学の基本はものを数えたりはかったりするということですが、これは貨幣経済と結びついています。
考えてみれば、「貨幣」そのものが一つの高度な抽象です。市場で様々な物が交換されるとき、それぞれの物には値段がつけられます。2個のリンゴが5個のミカンと交換されるとき、これらは値段が等しいとみなされます。個々のものに値段という新しい属性を付与することのよって、この交換は始めて合理的に行われるのです。
市場はこうして、「読み」「書き」「そろばん」プラス「弁論」を発展させます。哲学と数学の祖とされるタレスはギリシアのミトレスの市民で、貿易商人でした。彼は自分の周囲の出来事を観察し、それを論理的に説明し、複雑な現象のなかに原因、法則を求めようとしました。こうした合理的姿勢は彼が自由市場の商人であったことと無関係ではありません。
ギリシアの都市の中心にはアゴラと呼ばれる広場がありました。午前中、そこに市が立ち、市民達が集まってきてにぎわったといいます。プラトンの「ソクラテスの弁明」にも描かれているように、アゴラはまた「弁論術」を育て、裁判も「陪審制度」に則って、民主的に執り行われました。市場における個人と個人による自由な関係が、学問や芸術を生み出し、民主主義という政治的なシステムを育てることになったのです。人類の7番目の発明として、「民主主義」をあげておきたいと思います。
こうして考えてみると、「経済学」もふところが深いようです。最後は人間とは何かという普遍的な問題にまで及んで、スケールが大きいのです。大学時代、教養部の講義で聴いた経済学が面白くなかったのが不思議なくらいです。
今後も経済学の勉強を続けて、「人間とはなにか」という問題に、鋭く迫って行けたらと考えています。