2006/10/10(火)
お先真っ暗な安倍内閣の教育改革
安倍政権で就任した伊吹文明文部科学相は、戦後60年の教育を見直して日本
の美徳を復活させる時期に来ているとの認識を表明し、首相直属の「教育再生会
議」と連携し、同会議が示す大枠に基づき、官邸と連携して大胆な改革を進める
姿勢を示したという。
伊吹がいう教育とは、美しい国のためには美しい心根を持った日本人をつくる
ことだそうで、日本が大切にしてきた美徳を持っていれば、社会の秩序は守られ
安全だという。さらに、日本には日本の文化、伝統、社会の規範がある。これを
マスターしていればヒルズ族は事件を起こさなかったという。
しかし、総理大臣が美しい国づくりと言えば、なんでも美しいという言葉をつ
ければいいと考えている伊吹のような馬鹿がいるから日本はこんな国になったの
であり、こんな馬鹿が文部大臣で教育を語るなんぞ、日本は本当にお終いだ。
教育は国力であり文化ではない。美しい心根を求めるというが、美しいという
のは主観的なものであり、そんなものを押し付けるのは、民主制の国家ではな
く、君主制の国家での教育をいうのだ。
だいたい、秩序を回復させるには「家庭教育」の再考が必要であり、学力の低
下は、基礎的学力の底上げという面で「学校教育」の再考が必要なのである。ま
た、経験で得られる知識によって、日本の技術・文化を支え発展させてきたとい
う認識のもとに、経験で得られる知識が賃金に反映されるという前提で「社会教
育」の再考が必要なのだ。
家庭教育、学校教育、社会教育の分類もできない、戦後の与えられた知識を食
べ続けた家畜教育の世代の伊吹文明や安倍晋三などの馬鹿が教育を語るべきでは
ない。
2006/09/17(日)
「教育バウチャー(利用券)制度」について
安部晋三が、人気の高い小・中学校に資金がより多く集めるという「教育バウチャー(利用券)制度」の導入を提唱している。教員数などの予算配分を、生徒数数が多く集まる学校には多く、減った学校には少なく割り当てるようにすることで、公立学校の競争を促進させるというものだ。
しかし、教育を受けるのは子供たちであり、子供たちを競わさないで、学校間を競わせるなど何を考えているのだろうか。試験制度にしても、学力テストではなく内申書などによる推薦入学の比重を高くするなど、それこそ、金太郎飴の国民を再生産するものでしかない。
学校での授業の崩壊は、塾が学校教育の場と摩り替わっているからであり、塾に行けない子供たちは、学校教育を受けられないから教育の格差が生まれている。そして、労働者を正社員と非正社員に階層化したことで、経済格差が教育に影響していくことで、階層化が固定化されていくことが懸念されているのであろう。
教育の機会の平等をいうのであれば、塾などの補完教育を前提とした義務教育を否定するべきであり、試験という客観的な物差しで、子供たちをふるい落とすのが競争主義というものであろう。
その上で、義務教育とは、日本国民としての最低レベルの知識の取得を求めるべきであり、その取得は国民の義務とするべきである。その上で、知識教育である学校教育で得た地位が生涯賃金を決定する社会ではなく、社会教育で得られる経験で得る知識が賃金に反映される社会とするべきであろう。
日本が経済大国として生きていくとしたならば、基礎的な知識教育のレベルの底上げと、経済活動における生産性に関する技術や品質における技術の伝承という社会教育の重要さを広めて、経験で得られる知識が賃金に反映するような社会とすることで、活力とモラルが伴う競争主義を求めるべきであろう。
逆に、アメリカのように経済的領土支配の拡大を求めて、他国を侵略する帝国主義とするのならば、洗脳教育が求められる。ファッシズムはその典型的な国家体制であるが、アメリカのファッシズム体制の中で、経済的にも文化的にも奴隷的な地位にある日本では、アメリカの家畜のような存在でしかない。つまり、家畜としての扱いに、ファッシズムの洗脳は不要なのである。なんとも情けない。
次期総理大臣と言われる安部晋三は、「教育バウチャー(利用券)制度」や、大学の9月入試制度によるボランティア活動の義務化を提唱しているが、国民の階層化を促進させ、ボランティアの名を借りた徴兵制度の導入を図るなど、こいつの頭には、ならず者の国家であるアメリカの後追いである国家ビジョンしか持てない。まさに、戦後の家畜教育世代の典型のような馬鹿である。
あのね、教育は国力であり、家庭教育は治安を、知識教育である学校教育は文化や科学の向上を、そして社会教育は伝統や技術の伝承を担っているのだ。家庭教育、学校教育、社会教育の違いも理解できない、戦後の家畜教育世代の典型である安部晋三などが、教育を軽々しく語るべきではない。