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日本のブタ社会を批判する
日時: 2004/03/16 16:44
名前: hashimoto

1 帝国主義と覇権主義の違い

「帝国主義」とは、資本の集積と独占体制が整った国家が、植民地政策によって、軍事力で資源と労働力を確保し、戦争による消費をもとめる行動をいう。「覇権主義」とは、経済運動による資本の集積と資本の独占体制によって他国の経済を支配することをいう。

 帝国主義の衝突であった第一次世界大戦後、変動相場制の欧州と、金本位制のアメリカが引き起こした貿易保護主義は、第二次世界大戦を引き起こした。資本主義経済の成長が、帝国主義を超え、貿易保護主義を否定した結果が、この二つの大戦を生み出した。

 第二次世界大戦後の世界は、社会主義と資本主義のイデオロギーの対立となるが、資本主義陣営では、ニクソンショックを契機に、金本位制からドル本位制が確立され、資本が国境を越えるグローバリズム経済となり、資本の集積と資本の独占体制によって他国の経済を支配する覇権主義の時代に入る。

 1889年、統制経済が利権を制御できず、また、既得権益を軸とした階級社会が民主主義を否定したため、社会主義は自己崩壊した。ベルリンの壁の崩壊である。東西の冷戦構造が壊れ、資本主義社会でのアメリカの一人勝ちを恐れる欧州は、ユーロ構想を立ち上げ、アメリカのドル本位制に対抗した。

 一方、アメリカは、1985年のプラザ合意で、日本のドル還流システムを構築していて、これに株を打ち出の小槌としたカジノ経済をアジア各国に押し付けた。これは、アジアの旧社会主義国に資本を投下することで、アメリカ企業の資本の集積と独占を拡大し、アジアの輸出をアメリカが一手に引き受けることで、消費大国としてのアメリカを確立するものである。そして、この消費の原資となったのが、実態経済とは乖離した金融市場経済であり、カジノ経済といわれるものである。

 このカジノ経済によるバブルで、冷戦時代の双子の赤字を一気に解消したが、ゲームの盲点をついたヘッジファンドのカラ売りは、1997年に、東南アジアに金融危機を引き起こし、カジノ経済の危険性を露呈し、金融市場は、政府による統制経済の側面が強くなっていく。

 なんとか金融危機の連鎖を食い止めたアメリカは、グローバル経済の名のもと、電気・水道などの他国の社会資本を経済支配することを目論んだ。いわゆる民営化だ。民営化とは、社会資本の民営化によるアメリカ企業による経済支配を意味するのだ。しかし、幸か不幸か、2001年のエンロンの倒産で、その計画は頓挫する。

 2001年、ユーロが登場し、世界はブロック経済の時代にはいる。これに対して、覇権主義の負の遺産を抱えるアメリカは、圧倒的な軍事力を背景に、石油の支配権をにぎり、ドル本位制を維持しようとしている。この布石がアフガニスタンであり、本命は、イラク・イランである。アメリカは、覇権主義の行き詰まりから、帝国主義に逆戻りしたのである。

 世界は、ユーロと中国の元、そしてドルというブロック経済の時代にはいり、ドル本位制は否定されるだろう。アメリカは、帝国主義で、アジアの経済ブロックを支配することを目論でいて、石油を支配すれば、帝国主義は、御都合主義の民主主義に置き換えられるであろう。

2 喜劇と狂言が支配する日本の政治・経済

 日本が抱える問題は、アメリカ・イギリスの陣営につくのは、かつて、ドイツ・イタリアと手を組んだ第二次世界大戦の時と同じであるということだ。小泉内閣はアメリカにつくことが、世界から孤立しない道だというが、孤立しているのはアメリカである。第二次大戦を教訓にするのならば、ここはあくまで中立であるべきではないのか。ブッシュに頭を下げつつも、イスラム諸国に銃を向けてはならない。

 また経済的には、竹中平蔵を筆頭に、日本のエコノミストが、アメリカ経済の後追いをしているということだ。竹中平蔵は、アメリカが見切りをつけている金融市場経済を軸に、経済の再生を進めているし、政府の「民営化」という言葉が、アメリカが他国の社会資本の支配権を得るためのキーワードであることに、霞ヶ関と永田町の連中は誰も気がつかない。

 問題は、政治家もエコノミストも、帝国主義と覇権主義の違い、資本主義とカジノ資本主義の違いが、欧米の教科書に載らない以上、ずーと現状が見えないということであり、この絶望的な状況は、悲劇を通り越して喜劇として世界が見ているのである。

 さらにこの状況をもたらした根本原因は、戦後のGHQが日本人に押し付けた家畜化教育であり、与えられた餌(知識)以外は受け付けないという偏食をもたらし、知識が脂肪となったブタである日本人の、思考力と論理力が停止していることである。

 このようなブタが支配する大人社会が、歪んだ社会となるのは当然といえば当然であり、歪んだブタ社会の背中をみて育った子供たちの歪んだ行動を、ブタどもが批判するのは狂言の世界である。政治・経済に喜劇や狂言を持ち込んではいけない。ブタのする喜劇や狂言は、芸能の域を飛び越えて「暴力」の世界でしかないからだ。