ナンセンスな日本の憲法改正議論 |
- 日時: 2004/02/24 13:23
- 名前: hashimoto
- 今日の朝日新聞の政治欄に「憲法改正の私案、続々と」という見出しの記事があった。私案でほぼ共通しているのは、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という現行憲法を原則とし、前文と9条をターゲットとして、(1)自衛隊の存在の明記(2)集団的自衛権行使の容認(3)積極的な国際貢献(4)日本の歴史・伝統・文化の尊重などを打ち出しているという。
私は、国家と国民の行動や判断の基準である憲法が、憲法9条をはじめ、至るところで日本語の論理が成立していなく、法治国家の体をなしていないと言う立場で、憲法改正というより自主憲法を求める立場である。
そして現行の憲法改正の議論は、現行憲法の論理的に問題のある条文を抜き出し、また、解釈などで捻じ曲げられた条文を整理し、共通する根本原因を特定することだとして、形式ばった憲法調査会の議論を批判してきた。
また、憲法の基本概念を共有化することが必要だとし、「国家と国民の行動の規範」としての憲法を基本概念とし、上位法としての憲法を成文法とし、民法や刑法の下位法を慣習法と位置付けることを主張している。こうすれば、下位法の運用において、憲法との齟齬を解釈で埋めることはあっても、上位法である憲法を解釈するなどと愚かな行為は起こらないからである。
そして、「国家と国民の行動の規範」の基本となるものは、「自由と責任」「義務と権利」の相関関係を明確にすることだとした。基本的人権の自由の範囲を定め、その範囲内で個人の自由を認めると同時に、他人の自由を侵害すれば、刑罰という責任を負うという「自由と責任」。そして、納税と参政権、そして、子供に対する教育や技術の伝承などの教育は、国民の義務であるとともに、国民はその教育を受ける権利があるというように、国民と国家の間の「義務と権利」の相関関係を、基本理論として取り入れることを主張していた。
新聞記事では、シビリアンコントロールとしての憲法9条しか、憲法改正の対象となっていない状況で、原則は謳うけれど、憲法の基本は誰も語っていないし、いまの日本社会の混迷の原因を憲法にあるとは誰もいわない。
しかし、いまの日本の危機的な状況は、日本人が培ってきた社会モラルや、勤勉を軸とした社会の活力が失われていることではないのか。そして、その原因は、GHQが持ち込んだ憲法ではないのだろうか。責任と義務の欠如した自由と権利が日本社会を闊歩しているのが日本社会の混迷の根本原因である。
戦後のGHQの家畜教育の影響をまともに受けた中曽根康弘などは、この日本の危機的状況に際しても、憲法9条にしがみ付いていて、問題の根本を考えようとしない。与えられた餌(知識)の中で育った人間は、飼い主(アメリカ)の与えた環境の中でしか物事を考えられないのだ。ブタは飼い主になれないように、ブタが政治や経済の中枢にいる社会など、まさに「猿の惑星」ならぬ「ブタ社会」でしかない。これは、人間の愚かさを象徴する社会である。
中曽根康弘などの家畜化教育の世代に惑わされてはいけないし、子供たちにその背中を見せてはいけない。ブタをブタと認識することが必要なのであり、欧米の知識をパズルのようにはめ込むのではなく、先代が作り上げた日本語の概念を論理的にそして整合性をもって積み上げることで、日本再生の道は開けてくる。
国家を語るとき、まずその主権は誰なのかを確定して、その上で、その主権者と国民との関係に「権利と義務」として行動の規範を求めなめればならない。国家が国民に与える基本的人権において「自由と責任」の関係を条文化したものが憲法である。
国策の基本は「教育」「経済」「安全保障」の3つが基本である。この基本を、「自由と責任」「権利と義務」という基本概念をもって、論理を整理し組み立てることが必要なのである。自主憲法はその試金石だ。安全保障ばかり論じるのはナンセンス以外なにものでもない。現行憲法の問題点は、「自由と責任」「権利と義務」相関係が欠如していることが問題なのである。
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