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司法制度改革の目的は、法曹の責任回避だ
日時: 2003/11/20 10:23
名前: hashimoto

 徳島の元自衛官不審死で再捜査していた徳島県警が改めて事件性なしと判断した事件や、仙台市の筋弛緩剤混入事件では、冤罪を主張する弁護側と真っ向から対立する検察側が、通常は、要約を読み上げる論告を、弁護側が「朗読中に異議を唱えられない」と主張して、3日間にわたる全文読み上げをするなど、検察に対する社会の信頼性は崩壊しているといえます

 司法制度改革では、刑事裁判のうち重大と思われる事件についてのみ、一般市民から選ばれた裁判員が、裁判官とともに評議・評決を行うという「裁判員制度」の導入が検討されています。また、犯罪の被害にあった人や犯罪を告訴・告発した人から、検察官の不起訴処分を不服として検察審査会に申立てがあったときに審査をする「検察審査会制度」の導入も検討されています。

 確かに、冤罪を繰り返す司法と、警察内部の犯罪を隠蔽する検察の姿勢に対する国民の不信感は、修復不能であり、いまの閉塞的な法曹社会に、民間人が参加することは悪くはないでしょう。

 ただ、法廷に多様な経験や価値観が持ち込むという理由で、無作為に選ばれた国民が裁判に参加するのはおかしいのではないでしょうか。なぜなら、価値観が多様化しているのではなく、事件の背景にある社会構造が多様化しているのであり、複雑な社会構造での事件の中の、物的証拠を判断するのは、それぞれの分野の専門家による結論が必要だからです。

 従って、医学的な証拠や科学的な証拠、また、論理的な構成の真偽を判断するのは、無作為の国民からではなくて、その道の専門家による議論が必要であり、その結論が必要なのではないでしょうか。その上で、裁判官は、法律の専門家としてその結果を法律を照らし合わせて、判決や量刑を判断すればいいのです。

 また、検察審査会制度に関しては、司法権力の抑制する立法府(国会議員)に「訴追権」をあたえるべきだと思います。検察審査会に一般市民が参加しても、権力の圧力を受けずにはいられないからです。国民は、検察の起訴処分に不服があるときは、国会議員に陳情して、国会議員が情報公開制度を軸に、事件を検察して、訴追できるようにするのです。司法と立法府との権力の均衡と抑制は、民主主義の基本です。

 裁判は、多様化社会の中での事件の物的証拠の判断は、専門家による技術的な判断をすることで冤罪を防ぎ、裁判官は法律の専門家をとして法律的な判断をする。また、検察の権限を、立法府の国会議員にも与えることで、不正な事件や犯罪を、司法の場での審判ができるというシステムが必要なのではないでしょうか。

 しかし、社会的な司法制度改革の要求は、冤罪や、権力側の犯罪を隠蔽する検察に対する国民の信頼感を取り戻すための改革であるのに、政府の司法制度改革では、司法権力が、判決や起訴などの裁判官の責任を国民に押しつけているのが実態であり、無責任から責任回避への官僚側の行動形態の変化でしかありません。

 このような官僚の行動を、立法府の国会議員は誰も指摘をせず、政党のコマとして、オセロゲームのような政治に耽っている日本の現状は絶望的です。与えられた問題を答えるという教育で育った、いまの永田町の世代の政治家ではどうすることもできないのでしょうか。