国会の仕事を理解していない国会議員たち |
- 日時: 2004/01/15 15:47
- 名前: hashimoto
- 今日、第158回特別国会が開かれました。ギチョーと雄たけびの練習をしていた小渕優子をみるに、また与野党の三文芝居がはじまるのかと思うと、日本の政治に絶望するばかりですが、だいたい国会議員というのは、立法府である国会が、何をするところなのか理解しているのでしょうか。
国会を辞書で引くと「現行憲法の定める国の議会。国権の最高機関で、国の唯一の立法機関。」と書いてあります。たしかに、「国権の最高機関で、国の唯一の立法機関」というのは、中学校の教科書でもそのように教えているでしょう。
しかし現実には、国会は立法作業だけではなく、国の歳入歳出の予算の審査する「予算委員会」や、その予算がどのように使われたのかを監査する「決算行政監視委員会」があり、この予算の配分をめぐる攻防が「政治」といわれているのです。さらに言えば、この予算の配分の規律となる法=既得権益を作成するのが立法作業という事になります。
具体的にいうと、この国の予算で生活する人々を支持者とする自民党は、既得権益者である彼らの権益を守るための政治をするわけす。これに対して、野党の民主党は、自民党の持っている予算の権限を求めて、政権交代を求めています。彼ら野党の政治は、スキャンダルなどで審議を遅らせたりする程度で、その行動は幼稚園児並です。つまる所、与野党ともに、公需をささえる予算の配分を政治としていて、ともに中国共産党のような社会主義者であることがわかります。
私は、自由経済社会陣営の日本が、何故、社会主義経済になったのか誰も理解できないのは、立法府の定義が曖昧であるからだと思います。そして、論理や哲学が日本の教育に欠けていたことが原因であり、今一度、法という基本概念を見つめ直す所からはじめなければならないと思います。 まず、法とは、主権者の行動や判断の基準・手本となる「規範」としての「法」と、国家・社会・団体を運営していく上で制定される制度としての「法」。そして、行為や手続きなどを行う際の標準となるように定められた規則としての「法」があります。つまり、法とは、規範・制度・規則の総称であるのです。
【規範】 主権者の行動や判断の基準・手本となる「規範」としての「法」 【制度】 国家・社会・団体を運営していく上で制定される制度としての「法」 【規則】 行為や手続きなどを行う際の標準となるように定められた規則としての「法」
このことを理解しなければ、国会での立法作業は出来ません。「規範」を上位法として、下位法である「制度」、そして「規則」という序列を守らねば「法」の整合性は得られないのです。 このように考えれば、政治家は、まず、制度としての「法」を作成するべきであり、それが政策であるのです。制度としての「法」を議論して作成したならば、それに順守した規則である「法」の整備を官僚に作成させて、それを国会でチェックするというのが立法作業となります。
問題は、規則である法の整備なのですが、整備というからには、新しい制度にそぐわない法律は、まず破棄するべきであるのに、これを既得権益とする側との折衝を政治としていることです。本来、「制度」としての法を議論するべき国会議員が、「規則」である法整備に時間を割いているのが現実なのです。骨抜きという言葉は、このような過程を指しているのです。 制度としての「法」が議論されれば、それに順守した行政府の予算かどうかを国会で審議するのが予算委員会となります。しかし、現実には、制度としての「法」の概念がありませんから、予算委員会は、政策論とスキャンダルが入り乱れて、ただの与野党の対立の茶番劇しか国民には映りません。
また、民主国家では権力を抑制する機能が最重要であり、国会は、行政府と司法府の権力を抑制しなければなりません。教科書で書かれている国の最高機関としての国会は、それが主権者で構成されているからであり、権力の分立の概念を超えるものではありません。行政府に対する内閣不信任権と、司法に対する弾劾裁判権の行使は、国会の義務なのです。 このような権力の分立や法の基本概念など、基本的な政治哲学がなく、裁判官の下半身のモラルしか問わない弾劾裁判権。そして、党議拘束などの民主集中制を、何の疑問も抱かずに受け入れる日本の国会議員の論理能力は、はっきりいってブタ以下です。
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