織田信長は、戦国時代に諸大名や武将と戦い領地を広げつつ、一向一揆、比叡山、本願寺と仏教徒と戦い続けます。日本の仏教の伝来は景教からきていて、その本質はキリスト教です。
信長は、1569年にポルトガル出身のイエズス会宣教師であるルイス・フロイスと謁見し、キリスト教の布教を許可します。
キリスト教のルイスは、日本の仏教がキリスト教であることを最初から知っていたでしょう。彼は、ユダヤの十二支族の足跡を追って日本に来たからです。
ルイスが驚いたのは、キリスト教もユダヤ教も、日本古来の神道と絶妙に融合して、京都を中心とする公家は、キリスト教の影響が強く、武士社会ではユダヤ教の影響があるということだったでしょう。ルイスが探していたユダヤの十二支族の痕跡は武家にあったのです。
1580年に石山本願寺を押さえ込んだ信長は、周辺諸国の大名を平定しながら、琵琶湖東岸の安土山に城を築き、楽市楽座などの経済政策により城下町を作って、ここを拠点として新しい国づくりを始めます。
1582年、信長は、次男・織田信雄の領地である南伊勢に、ユダヤ教の聖地を作ることを決めて、造営費用3000貫を用立てしました。信長は、イスラム教の聖地であるマッカのカアバ神殿のような神殿を南伊勢に建立することを計画し、神宮と称する社を計画します。後の伊勢外宮(豊受大神宮)です。
また、この時期に、イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた黒人を弥助として家臣に取り立てています。かれはイスラム教徒であり、神宮の建設の際のアドバイス役でもあったでしょう。
伊勢外宮(豊受大神宮)=メッカ カアバ神殿「月の神」月経を司る五穀豊穣の老婆の神
ルイスは、比叡山の焼き討ちや、一向一揆や本願寺との戦いで、信長が反キリスト教であることを見抜いていましたが、信長の神宮の建設計画は考えもつかなかったことでしょう。ルイスはイエズス会本部に信長のイスラム教へ接近と聖地建設を報告します。
これに激怒したイエズス会は、ルイスに信長暗殺を指示します。ルイスは、比叡山や公家と共謀し、1582年、本能寺の変を起こしました。
京都に残っていた明智光秀の軍は、信長の救出に向かいますが間に合わず、家康を護衛しながら江戸に逃げます。光秀は出家して天海となり徳川家の家臣となって徳川幕府の建設の尽力することになります。
本能寺の変で信長と嫡男の信忠の死で神宮建立は頓挫しますが、キリスト教が武家と対立することを信長から学んだ羽柴秀吉と徳川家康は、神宮の建立の遺志を受け継ぎます。
1584年、羽柴秀吉が黄金250枚を神宮の建立資金として寄進1609年、徳川家康から6万石分の兵粮米が造営費用として寄進され、伊勢外宮(豊受大神宮)が建立されます。
江戸時代の伊勢外宮への集団参拝は、まさしく聖地への巡礼です。しかし、この時代の日本人は”お陰参り”が、イスラムやユダヤ教徒の巡礼と同じであることを意識していなかったでしょう。DNAに埋め込まれたユダヤの血が本能的に”お陰参り”=巡礼を受け入れたのでしょう。
また、集団参拝の旅の世話をした御師の存在は、イスラム教徒の巡礼を世話する世襲制の職業ムッタウィフの流れを組んでいると思われます。
江戸時代は、鎖国でキリスト教の影響を排除し、日本の仏教は儒教と切り離され弔事に専念させられます。儒教は武士道を形成し、士農工商の階級社会でありながら、武士道を規範とした戒律社会は日本社会に浸透します。
高い識字率は高い文化を形成し、技術の伝承などにより江戸時代は高い文化と生活を実現しました。
また、江戸時代の天皇家は、歴史の表舞台から消えて、ユダヤ教に根付く祭事に専念していたと思われます。いわゆるシャーマンとしての存在です。徳川幕府との関係は、悪く言えばうまく管理されていたといえますが、将軍家の世代交代と天皇家の世代交代が重なっていて、政治的には対で存在する関係だったのかもしれません。
徳川家 天皇家
家康 後陽成
秀忠 後水尾
家光 明正
家綱 後光明
綱吉 後西
家宣 霊元
家継 東山
吉宗 中御門
家重 桜町
家治 後桜町
家斉 桃園
家慶 後桃園
家定 光格
家茂 仁孝
慶喜 孝明
1866年、長州の謀略で孝明天皇が暗殺されます。1867年、孝明天皇の第二皇子の名をかたり長州の田布施村の藩士大室寅之助が明治天皇として即位します。
1869年に、明治天皇(大室寅之助)が伊勢に赴き、キリストを祭る神殿として伊勢内宮(皇大神宮)建立の儀式を行う。日本の史実では在位の天皇として、はじめて伊勢神宮を参拝したとなっているがこれは嘘です。この時代には、伊勢には豊受大神宮しか存在していません。
そして8年後にキリストの日本名である天照大神を祭る皇大神宮を建立。この天照大神が天皇の祖先とし天皇家の万世一系の論理を展開させて、古事記や日本書紀の記述と重ねあわせました。
この企ては木戸孝光や伊藤博文らの田布施村系譜の者による謀略です。つまり、伊勢外宮(豊受大神宮)はユダヤ教(イスラム教)の聖地、伊勢内宮(皇大神宮)キリスト教の聖地ということになります。
伊勢内宮(皇大神宮)=キリストの生地であるベツレヘム
田布施村系譜が実効支配する明治政府は、万世一系の論理展開と、皇大神宮の社の歴史の辻褄を合わせるために式年遷宮を取り入れます。
20年に一度新しい社に遷宮するとなれば、作ったばかりの伊勢内宮の存在に疑問符がつくことはありません。この論理を守るために、それまであった伊勢外宮(豊受大神宮)も新しく造り替えられます。
式年遷宮とは明治以降に作られた行事ということになります。現実として、明治天皇が参拝?したとなっている1869年以降はあれほどさかんであったお陰参りはパタと行われなくなります。また参拝者をガイドしえちた御師の活動も禁じられます。
参考文献
「明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、明治政府が御師の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年(1890年)の新聞には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された(NHK教育テレビ 『知るを楽しむ 歴史に好奇心』 10月放送分より)。wikipediaより」
田布施村系譜のエセキリスト教徒は、イスラム教に近い豊受大神宮(伊勢外宮)への巡礼を事実上禁止して、キリストの生誕後であるベツヘレムの分社としての皇大神宮(伊勢内宮)を建立して、天皇家の万世一系を正当化しますが、式年遷宮の由来や、明治天皇以前の天皇の伊勢参拝がないなど、彼らのストーリーは矛盾だらけです。